イスラム教と言えば、多数派スンニ派と少数派シーア派に分れていますが、わずかながら、両派以外のイスラム宗派もあり、その代表がハワーリッジ派です。今回は、ハワーリッジ派とその継承または分裂宗派についてまとめました。
☆★☆★☆★☆★
- アリー陣営からの離脱
ハワーリジュ派(ハーリジ派)は、イスラム教団において最初に分離した宗派で、当初、第4代カリフ・アリーを支持していましたが、アリーがウマイヤ家と妥協を図ったことに反発してアリーを殺害した過激なグループです。
ムハンマドの従兄弟のアリーが、656年に4代カリフに就任すると、シリア地方の総督でウマイヤ家のムアーウィアが反乱を起こしました。これに対して、アリーは翌年、シリアに出兵し、ユーフラテス川上流域のスィッフィーンの戦いではアリー側が優位に立ちましたが、ムアーウィヤは和議を提案するとアリーもこれに応じ、戦闘は停止されました。
しかし、アリーが兵を引き、ムアーウィアと停戦協定を結んだことに対して、「裁定は神にのみあり(すべての決定は神にのみ帰属する)」と反発したアリーの支持者の一部は、ムアーウィヤへの徹底抗戦を唱えて、アリー陣営を離脱し、ハワーリジュ派を立ち上げました。
ハワーリジュとは「退去した者たち(離脱者たち)」の意で、ハワーリジュ派(単数形でハーリジー派)は、イスラム教における最初の分裂を引き起こし、文字通リ、イスラム教の最も古い一分派となりました。
自分たちのカリフであったアリーが、敵へ示した妥協を認めないハワーリジュ派は、アリーが大きな罪を犯したと激しく非難し、アリーに刺客を送りました。これに対して、アリーはハワーリジュ派の殲滅を試み、658年、ナフラワーンの地でその勢力は四散させましたが、逆に、661年1月、クーファのモスクで祈祷中、毒を塗った刃で襲われ、暗殺されてしまいました。アリーの死後、ムアーウィヤがカリフとなり、ウマイヤ朝を開くと、ハワーリジュ派はウマイヤ朝とも激しく対立しました。
- ハワーリジュ派の教義
ハワーリジュ派の基本的な考えは、信仰と行為の一致と、不正義との峻別、信徒の絶対的平等でした。ハワーリジュ派は、「信仰とは、信仰告白と共に行為である」と主張し、信仰において「行為」を重視しました。信仰は信仰告白のみでは足りず、実践的な要素、正しい行為がなければならないと説きました(この信仰と行為の問題については、イスラム法学の世界では、ムルジア派と対立していく)。
また、血統、出自はカリフの条件ではなく、ウマイヤ家の一員でなくても、またシーア派のいうアリーの子孫でなくても、宗教的で、指導者にふさわしい人であればカリフになる資格があると、主張していました。妻の同意なしの贅沢や多妻は禁じられ、異人種間結婚は強く推奨されませんでした。
しかし、厳格な理想を掲げるがゆえ、「大罪を犯した信者(ムスリム)は、不信者(カーフィル)であり、死に値する」と、イスラム教徒が罪を犯せば、その者を殺害、または聖戦(ジハード)を行わなければならないといった過激な思想に繋がっていきました。
- ハワーリジュ派の衰退
このため、狂信主義とも言えるハワーリジュ派は、ウマイヤ朝期(661~750)を通じて、徹底的な弾圧の対象になりました。それでも、南イラクを中心としてゲリラ活動を行いながら勢力を拡大し、アラビア半島,西南ペルシアにも活動を広げました。
しかし、穏健派のイバード派や過激派のアズラク派などの諸派に分裂し、アッバース朝の時代には、影響力は衰え、イラクから追われました。このため、一部のハワーリジュ派は、北アフリカのマグリブ方面に逃れたと言われています。
このように、ハワーリジュ派は、思想上の影響力は多方面に残しましたが、その中の穏健派でオマーンや北アフリカで存続したイバード派を除き、厳しく弾圧を受け、ほとんど消滅したとされています。
<アズラク派>
アズラク派は、過激なハワーリジュ派の中でも狂信的な一分派とされ、無差別な殺戮で恐れられました。創始者のナーフィウ・イブン・アズラクは、684年、より先鋭化したハワーリジュ派のグループを形成し、ウマイヤ朝とシーア派の両方に対してイラクで蜂起しました。
3万人の強力な軍隊を擁したと言われるアズラク派は、バスラを占領し、イラク南部を席捲しました。一度は、ウマイヤ朝軍によってイランに追放されましたが、アズラク派はその後も蜂起を繰り返しイラク南部に猛威を振るいました。
しかし、「すべての罪人とその家族に死を宣言する」狂信的な方針や、彼らの意見を共有しなかったムスリムを背教者とみなしてジハード (聖戦) を敢行する不寛容な姿勢のため、徐々に社会的な支持基盤を狭め、699年に、ウマイヤ朝の司令官ハッジャージュ・イブン・ユースフに打ち破られて壊滅しました。8〜9世紀の間、イランで存在感を維持したとも言われていますが、現在まで、この宗派には信者がおらず、姿を消したと考えられています。
<イバード派>
- イバード派の興り
イバード派は、7世紀末に、ハワーリジュ派から分かれた穏健な宗派で、ハワーリジュ派(アズラク派を含む)が、ウマイヤ朝から厳しい弾圧を受けて、ほとんど消滅しましたが、現在、ハワーリジュ派の流れを汲む唯一の集団となっています。
イバード派は、 684年頃、イラクのバスラで、同派の開祖であるイブン・イバード(アブド・アッラーフ・ブン・イバード) (生没年不詳)が、当時ハワーリジュ派内の過激派であるアズラク派と対立し、ハワーリジュ派から分離しました。
イバード派は、当初、ウマイヤ朝のムアーウィヤ2世が、683年に第3代カリフに就任したことに反対し、メッカで自らカリフの即位宣言をしたイブン・アッズバイル(アッズバイル)の支配を受け入れました。その後、アッズバイルがウマイヤ朝軍に討たれ、いわゆる第2次内乱が平定(692年)されると、ウマイヤ朝の支配を甘受しました。
- イバード派の教義
イバード派の教義によれば、アズラク派のように、自派と意見を異にするムスリムを背教者とみなしてこれにジハード(聖戦) を敢行することを拒否ながらも、厳格な教義のもとに禁欲主義的・清教主義的な宗派であったと言われています。
また、コーランにハッド(刑罰の一つ)と定められた罪を犯した者に対して、ハワーリジュ派であれば、罪人は信仰者ではなく、不信仰者として死に値するという考え方でしたが、イバード派は、信者ではないが、ムワッヒド(一神教徒)であるとして、同じイスラム教徒としての共通性は維持しました。
さらに、イバード派は、タキーヤ(政治的弾圧や危害を逃れる手段として、自らの信仰を隠すこと)を最初に認めたことでも知られ、以後、シーア派諸派(一部スンナ派も)によって継承されました。こうした穏健な思想やタキーヤなど手段を駆使したことで、イバード派は、北アフリカ(マグリブ)やアラビア半島南部へ自らの存続と布教の活路を見いだしました。
- イバード派の発展と存続
実際、イバード派のイスラムの教えは、ウマイヤ朝後期からアッバース朝の時代にかけて(8世紀頃)、現地のベルベル人の間に広まりました。イバード派のベルベル人は、777年に、アッバース朝から自立したルスタム朝(777‐909年)を、アルジェリア西部に建国し、909年に、同じシーア派(イスマーイール派)のファーティマ朝に滅ぼされるまで、チュニジアからトリポリタニア(リビア西部)周辺を支配しました。
さらに、アラビア半島東端のオマーンでは、18世紀半ばに、イバード派を奉ずる部族が地域の支配権を握り、現在のオマーン国の起源であるブー・サイード朝(1744~1964)が興され、一時、オマーンとザンジバルなど東アフリカ海岸地帯を支配しました。
このため、今日でも、イバード派は、オマーンの主要宗派となっているほか、リビアのトリポリ地方、アルジェリア南部、チュニジア、東アフリカ、ザンジバルにも少数ながら信仰されています。
<関連投稿>
イスラム教1:ムハンマドの教え クルアーンとハディースに
イスラム教2:スンニ派とシーア派 4代アリーをめぐって
イスラム教4:シーア派(十二イマーム派) ガイバ思想とともに
イスラム教5:シーア派(イスマーイール派) ファーティマ朝の誕生
イスラム教6:スーフィズム ガザ―リーからサファビー朝へ
イスラム教7:スンニ派(ワッハーブ派)復古主義とサウジアラビア
イスラム教8:スンニ派(イスラム法学派)ハナフィー学派を筆頭に
イスラム教9:スンニ派(イスラム神学派)自由意志か運命か?
<参照>
ハワーリジュ派とは?(コトバンク)
ハワーリジュ派(世界史の窓)
ハワーリジュ派(Wikipedia)など
(2022年6月25日)