イスラム法学派:ハナフィー学派を筆頭に

 

イスラム社会では、特にスンニ派において、生活の細部に至るまでクルアーンやハディース(ムハンマドの言行録)に基づいた法体系が確立し、イスラム法学者(ウラマー)が重要な役割を果たしています。今回、ウラマーたちが解釈・運用していたイスラム法とその学派についてまとめてみました。

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ウマイヤ朝を滅ぼしたアッバース朝は、中央集権国家を目指し、軍隊や官僚機構などを整備したことで、スンナ派イスラーム国家体制を確立しました。このスンナ派の国家体制の中で、法体系の構築を担ったウラマーと呼ばれるイスラーム法学者・知識人の社会的地位と影響力が強まっていきました。アッバース朝のころから、イスラム法(シャリーア)の解釈が分かれ始めたため、ウラマーが法の解釈・運用をして、カリフを支えることが期待されたのです。

 

また、ウラマーは、イスラムの教義を体系化し、マドラサ(イスラム学院)の教師、イスラム法廷の裁判官(カーディー)、モスクの管理者といった職業に就きながら、一般信徒である民衆に対して、礼拝や断食のやり方などを含めた生活一般についての助言や指導を行いました。

 

 

<イスラム法の法源>

 

ただし、ウラマーも一枚岩ではなく、イスラム法の解釈の仕方によって、いくつかのイスラム法学派(アラビア語では「マズハブ」という)に分れ、イスラム法学(フィクフ)(イスラム法の法解釈学)が盛んになりました。

 

ここで、どうしてイスラム法学者(ウラマー)によってイスラム法の解釈が異なるかという疑問がでてきます。その答えは、イスラーム法(シャリーア)の4つの法源(法を解釈する拠り所)にあります。

 

イスラム法の法源(何を根拠に法を解釈するか)としては、まず、ムハンマドを通して語られた神自身の言葉であるクルアーン(コーラン)、次にムハンマドの言行(スンナ)を編纂したハディースがあげられます。

 

しかし、コーランやハディースに明確な規定がない場合には、第3と第4の法源であるイジュマー(合意)とキヤース(合理的類推)に拠ることになります。イジュマー(合意)とは、ウラマーたちの話し合いによって、意見を一致させることをいい、キヤース(類推)とは、ウラマーがコーランとハディースで判断が示されているこれまでの事例を参考に法判断することをいいます。

 

このイジュマー(合意)とキヤース(類推)は、実質的にウラマーに依拠していることが、イスラム法の解釈に違いがでてくる由縁で、「法学者が法をつくった」とさえ言われます。

 

 

<イスラム四大法学派>

 

イスラム初期の150年間で、ダマスカス、クーファ、バスラ、マディーナ(メディナ)など各地に、多くの学派(マズハブ)が形成され、発展していきました。このうちスンナ派では特に、マーリク法学派、ハナフィー学派、シャーフィイー学派、ハンバル学派の4学派が、四大法学派として公認されています。

 

ただし、これらの法学派は、一般的な意味における宗派ではありません。各派の相違は、信仰の基本にあるのではなく、法解釈の方法が異なっているだけで、結果として、例えば、礼拝の方法が異なったとしても、イスラム信仰そのものに、大きな相違があるわけではありません。実際、イスラム史を通じて、各派は、相互交流や調和が行われてきました。また、全てのスンナ派の信徒がある特定の法学派の考え方を選んでいるわけでもなく、選択する場合も、信徒がそれぞれ独自の判断で、いずれかの学派の方法を選んでいます。

 

ハナフィー法学派

 

ハナフィー学派は、イスラーム法学の諸学派の中で最も寛容で近代的な学派であると見なされています。そのためか、エジプト、地中海東部沿岸地域、トルコ、中央アジア、パキスタン、南アジア、中国で支持され、現在、全ムスリムのおよそ30%を占める最大勢力となっています。

 

ハナフィー派の三大学祖

ハナフィー派の始祖は、法学者のアブー・ハニーファ(699~767年)で、ハナフィー派という学派名も彼の名に由来します。アブー・ハニーファは、クーファ(イラク)の出身なので、ハナフィー派の源流は、イスラム初期のクーファにおける法学派に求めることができます。アブー・ハニーファは特に著作を残していません。教友の一人にマーリク派の祖となるマーリク・イブン・アナスがいます。

 

なお、ハナフィー派は、始祖のアブー・ハニーファだけでなく、彼の弟子アブー・ユースフと孫弟子のシャイバーニーを、同派の三大学祖としています。

 

アブー・ユースフ(731~798)は、アッバース朝第5代カリフのハールーン・アッ=ラシード(在位:786~809)によって大カーディー(裁判官)に任命され、同時にその政治顧問となって以来、ハナフィー派はアッバース朝歴代カリフの保護を受けました。このため、アッバース朝の支配下でチュニジアを治めたアグラブ朝(800~909)や、セルジューク朝(1038~1194)、さらにはムガル帝国(1526~1858)でも採用・重視されました。

 

加えて、オスマン帝国(1299~1922)も、建国当初から歴代スルタンは、ハナフィー派を公認学派として保護しました。さらに、中央から派遣される官吏や法官もみなハナフィー派だったので、オスマン帝国の影響下にあった地域では現在も有力な法学派となっています。

 

このように、アブー・ユースフは、ハナフィー派の拡大に貢献したことから、事実上の創始者とする見方もあります。

 

一方、アブー・ユースフの弟子にあたるシャイバーニー(749~805)は、イスラム国際法(スィヤル)についての理論的考察も行なったことから、「イスラームのグロティウス」とも称されています。またイラン東部のホラーサーン滞在時に多くの弟子を育成し、ハナフィー学派が中央アジア方面へ広まるきっかけをつくりました。

 

加えて、シャイバーニーは、マーリク学派の祖であるマーリク・イブン=アナスに師事していたこともあれば、シャイバーニーの弟子のなかには、シャーフィイー学派の創始者であるシャーフィイーがいるなど、幅広い人脈を持っていました。

 

 

ハナフィー法学派の特徴

ハナフィー派は、他のスンナ派法学派と同じく、クルアーンをもっとも重要な法源とし、その次に、預言者ムハンマドの言行、慣行であるスンナ(その言行録がハディース)を重視しますが、他の学派と異なる点は、事案の解決に、キヤース(類推)を多用することがあげられます。

 

さらに、イスティフサーン(法的裁量)も容認しています。これは、キヤース(類推)の援用による法的帰結が認容しがたいものであった場合、裁判官がラーイ(個人的見解)に基づく判断を下すことを認めるものです。

 

また、ハナフィー派は、ヒヤル(合法的行為の蓄積により、本来不法と見なされうる行為を行なう方法)を行うことにも寛容とされています。ヒヤルは、潜脱(せんだつ)、奸計(かんけい)の意味で、例えば、金融面でイスラム圏では、イスラム法(シャリーア)によって利子を取ることを禁じられていますが、合法的な金融取引を積み重ねることによって、実質的に利子禁止規定を骨抜きにしてきたという歴史があります。シャイバーニーは、ヒヤルについての論著も残しており、このヒヤルを容認していることは、ハナフィー派法学の最大の特色とされています。

 

このように、四大法学派のなかで最大の勢力を保持するハナフィー派は、柔軟なイスラム法の解釈と運用を行っている法学派です。

 

 

マーリク法学派

 

マーリク学派は、ムスリム全体のおよそ25%と、4大法学派のうちで二番目に大きい学派(マズハブ)で、北アフリカと西アフリカを中心に、アラブ首長国連邦、クウェート、サウジアラビアの一部で有力です。かつては、イスラム支配下のヨーロッパ、特に北アフリカ(マグリブ)一帯からイベリア半島のアンダルスの主な政権で有力な法学派として発展していました。

 

始祖は、8世紀に活躍し、当時マディーナ(メディナ)における法学の権威であったマーリク・イブン・アナス(711~795)で、メディナの初期法学派(マズハブ)がメッカの法学派(マズハブ)を吸収しながら発展してマーリク派となりました。

 

マーリクは、ハナフィー派のアブー・ハニーファと、相互の学識に深い敬意を払いあったと伝えられ、後に、ハナフィー派の基礎を固めたアブー・ユースフは、マーリクから学んでいました。

 

 

マーリク派の法的源泉

マーリク法学派は、マーリクの著作、特にハディース集成書「ムワッタア」と「ムダッワナ」を法的見解の源泉としています。

 

「ムワッタア」は、9世紀の著名なハディース学者、ムハンマド・アル=ブハーリーのハディース集成書「真正集」(サヒーフ・アル=ブハーリー)に収録されているハディース(預言者の言行として伝えられる伝承)にマーリクの注釈をつけた選集です。なお、「真正集」は、10世紀頃から、イスラム伝承学の最高権威書の一つとなり,スンニ派イスラム教徒はこれを「クルアーン(コーラン)」に次ぐ重要書としています。

 

「ムダッワナ」は、マーリクの弟子であったイブン・カースィムとその弟子でムジュタヒドのサフヌーン・タヌーヒーの二人による共作で、イブン・カースィムとマーリクの勉強会の記録と、サフヌーンが提起した法に関わる問題に対する解答が収録されました。

 

マーリク法学派が、ほかの三学派と著しく異なる点は、(もちろん、マーリク派の第一の法源は、他の三大学派同様、クルアーンであるが)法の制定の際に使用する根拠として、預言者ムハンマドの言行録である「ハディース」を重視していることです。

 

しかも、同派のウラマーは、地元メディナ(マディーナ)の住民が伝えた伝承に信頼を置いています。何故ならば、メディナ(マディーナ)の人々の慣習は、移住してきたムハンマドが生涯を過ごし頃の「生きたスンナ」であるからです(ムハンマドの言行・慣行であるスンナは、ハディースを通して伝えられる)。

 

さらに、マーリク学派では、「スンナ」にはハディースに収録されているものだけではなく、4人の正統カリフ時代、特にウマルの制定した法や、イジュマー(ウラマーたちの合意)、キヤース(類推)、ウルフ(既に確立されているイスラムの法と直接には矛盾しない地方の風習)といったものも含まれるとされています。

 

 

シャーフィイー法学派

 

シャーフィイー派は、アッバース朝初期に活躍した法学者ムハンマド・ブン・イドリース・シャーフィイー(ムハンマド・イブン・イドリース・アッシャーフィイー)(767~820) を始祖(名祖)として創設され、現在、エジプト,イラク中部、アフリカ大陸東岸、さらに、東南アジアの一部で、有力となっています。

 

創始者のムハンマド・ブン・イドリース・シャーフィイーは、パレスチナのガザで生まれた後に移住したメッカで、イスラム法学を習得しました。その後(13歳の時とも20歳の時とも言われる)、メディナに行き、マーリク派のマーリク・イブン・アナスから学び、バクダットでは、ハナ―フィー派の学祖の一人、シャイバーニーと研鑽を重ねるなどしたとされ、810年までに、シャーフィイーの法学者の名声は、独立して一派を構えることができるまでになっていたと言われています。

 

法源学の完成

シャーフィイーのイスラム法学界における最大の貢献は、メディナの慣行を重視したマーリク学派と論理的なハナフィー学派を統合する形で、法源(ウスール)について厳格な方法論を確立し、法源学を完成させたことです。

 

具体的には、法源(ウスール)(法制定の拠り所)が、重要性の順序に従って、クルアーン(コーラン),スンナ(ムハンマドの言行・慣行),イジュマー(合意),キヤース(類推)の4大法源と定められました。

 

さらに個々の法源についても、第二法源としてのスンナは、ムハンマドのハディース(スンナを書き記した文書)から得られる言行・慣行に限定されました。これは、カリフらの言行や個人的意見を法源から排したことを意味します。

 

また、第三法源としてのイジュマー(合意)を「広く、ある一時代の学者全部の一致した意見」と定義づけ、第四法源としてのキヤース(類推)の運用の範囲は、クルアーン(コーラン)、スンナ、イジュマーのいずれにも該当するものがない問題に限定されました。

 

このように、シャーフィイーが4つの法源を定め、法源学を確立したことは、イスラム教徒にとって、シャーフィイーの法学に従うか従わないは別にして、指針が定められたことで、信仰の目安が定まったと評価されています。

 

シャーフィイー派の影響力

シャーフィイー法学派は、こうしたシャーフィイーの学説を広める目的で、弟子たちによって形成されましたが、ハナフィー学派やマーリク学派と比べた場合、特定の地域との結びつきは薄く,地域の慣習に依拠する割合が低い傾向があり、最初、バグダードとカイロがその中心でした。その後、下エジプト一帯に広まり,10世紀にはシリアとイランの都市部で支配的学派となったとされています。

 

11世紀になると、シャーフィイー学派は、セルジューク朝(1038~1157/1308)の庇護を受けたことから、一時はイラン高原全域から、イラク、アナトリア、シリア、エジプトにまで勢力を拡大させました。

 

特に、セルジューク朝の宰相ニザーム・アルムルクが創設したニザーミーヤ学院では、アシュアリー派神学とともに、シャーフィイー派法学が必須教科であったと言われ、高名な思想家や法学者、ウラマー、知識人を多数輩出したと言われています。その中に、「イスラムの知性」と称されたスーフィズムを大成させたアブー・ハーミド・ガザーリーもいました。ガザ―リーは神学者であると同時にシャーフィイー派の法学者でもあったのです。

 

シャーフィイー法学派は、アイユーブ朝(1169~1250)の時代でも、サラーフ・アッディーン(サラディン)の保護を受けてエジプト、シリアで栄えましたが、15世紀になると、イスラムの世界では、ハナフィー学派を支持したオスマン朝や、シーア派十二イマーム派を奉じるサファヴィー朝の台頭によって、その勢力は退潮していきました。

 

しかし、それでも、イエメンのハドラマウト(南アラビア)、イラク中部やエジプトで勢力を保ち、特に、ハドラマウトでの貿易にともなう人的な繋がりによって、東南アジアや、インド南岸、アフリカ大陸東部では、今もシャーフィイー学派が支配的となっています。

 

 

ハンバル法学派

ハンバル(ハンバリー)法学派は、非常に厳格・保守的、伝統主義的な学派(マズハブ)で、法学者アフマド・イブン・ハンバル(780~855) によって創設されました。ハンバルは、シャーフィイー派のシャーフィイーの弟子だったとも言われていますが、アラビア半島紅海沿岸のヒジャーズの伝承重視の思想に強い影響を受け、若い頃より、諸学の中ではハディース伝承の研究に没頭していたそうです。

 

ハンバル派の特徴

ハンバル法学派の教義のどこが、厳格で保守的なのかと言えば、それは、「クルアーン(コーラン)」と預言者ムハンマドの言行録(スンナについての伝承)であるハディースのみを、原則、有効な法源とする点です。

 

逆に、キヤース(類推)の行使を最小限にとどめ、また、イジュマー(合意)も預言者ムハンマドと直に接したイスラム教徒であるサハーバ(教友)の合意に限定しています。

 

それゆえ、宗教上の問題を解決するにあたって,その答えをすべてクルアーン(コーラン)とハディースのなかに見出そうとし、かつクルアーンやハディースに述べられていることを文字通り解釈することを重視します。

 

加えて、ハンバル法学派は、宗教上の問題を解決するにあたって、ハナフィー学派のように、個人の独自の見解(ラーイ)に依拠する法学的判断は抑制されるべきであると主張します。さらに、思弁神学(カラーム)(神についての論証の学)やイスラム神秘主義に強く反対しました。特に、前者に関しては、コーランやハディースの文字どおりの解釈を重視するハンバル派の学者や信者にとって、神学的思弁や論証は不用とみなされます。

 

ハンバル法学派は、「タウヒード(神の唯一性)」を強調し、コーランは神の啓示であると説きます。また、世の中が一番正しかったのはムハンマド(570~632)が生きていた6~7世紀の頃で、時代を経れば経るほど退化しているので、世界はコーランとハディースの世界に戻るべきだと主張しています。

 

ハンバル派の推移

ハンバル法学派の推移を見ると、ブワイフ朝のバグダード入城(946年)まで、この地で最も勢力を誇る法学派でしたが,ブワイフ朝のシーア派保護政策により,しだいに勢力を失いました。

 

しかし、14世紀に、同派に属する法学者イブン・タイミーヤ(1263~1328)などの活躍で、特にシリアで、一時勢力を回復しました。イブン・タイミーヤ(1263~1328)は、人間の最高の目的をイバーダ(神への奉仕)にあるとして,イスラム法(シャリーア)の絶対性を基盤として、イスラム法を完全に遂行することを説きました。また、スーフィズムのような神秘主義に対して、神と人間の絶対的不同性を強調し、神秘的な神との合一を否定しました。

 

このイブン・タイミーヤの思想の影響から、サラフィー主義(ワッハーブ主義)が興りました。サラフィー主義は、(スンナ派の)厳格派と呼ばれ、現状改革の上で初期イスラムの時代(サラフ)を模範とし、それに回帰すべきであるとするイスラム教スンナ派の思想です。現実的にはシャリーアの厳格な施行を求め、聖者崇拝やスーフィズム、カラーム(思弁神学)、シーア派を否定するなどの特徴を持っています。

 

ただし、イブン・タイミーヤの厳格な立場は、現在もイスラム主義過激派の思想的源泉とも言われているように、あまりにも排他的であったため、ハンバル法学派の勢いも長続きしませんでした。

 

それでも、ハンバル法学派は、18世紀アラビア半島に興ったスンニ派のワッハーブ派に受容されました。これは、ワッハーブ派を興したムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブの一家がイスラム法学者の一家で、代々ハンバル学派を奉じていたという背景があります。

 

現在のハンバル学派

現在のサウジアラビアは、ワッハーブ派を国教とし、同時にハンバル派の法学に依っています。ですから、ハンバル法学派は、イスラムの聖地であるマッカとメディナでも主要な法学派(マズハブ)となっています。

 

現在、ハンバル派に属すものは,その厳格すぎる保守主義のため,このワッハーブ派だけになってしまいましたが、ハンバル法学派は、ワッハーブ派など現代の復古運動の源流として大きな影響を与えています。

 

現代では、この流れを、「ムスリム同胞団」や、国際テロ組織「アルカイダ」、過激派組織「イスラム国(IS)」などが引き継いでいるとされ、イスラム過激派の95%以上はハンバル学派の出身だとする意見もあります。

 

 

以上、スンニ派の公式、イスラム4大法学派について説明しましたが、シーア派にも、ジャファル法学派と呼ばれる独自の法学派(マズハブ)を有しています。

 

 

◆ジャアファル法学派

 

ジャアファル法学派は、シーア派におけるイスラム法学(フィクフ)の学派(マズハブ)の一つで、シーア派6代イマームのジャアファル・サーディク(702年~765年)に、その学派の名が由来します。ジャアファル・アッ=サーディクの法判断は、ジャアファル法学派の基礎となっており、ジャアファルは、シーア派の教義を確立したイマームとされています。

 

スンナ派の4大法学派との違いは、相続、宗教的な税金、商取引の許可などの問題について、クルアーンやハディーズのキヤース(類推)の適用するイジュティハード(学者達による解釈のための努力)を信頼する点があげられます。

 

それでも、ジャアファル・アッ=サーディクの名声は、シーア派内に留まるものではなく、信頼性の非常に高いハディースの伝承者として、また学問全般に対する貢献からスンナ派のあいだにも広がり、ジャアファル・アッ=サーディクは、スンナ派においても高い崇敬を受けてきました。

 

このため、ジャアファル法学派は、1959年に、アズハル大学(スンナ派の最高教育機関)によって、スンナ派の4つの法学派と並び、5番目の学派としての地位を与えられました。

 

ジャアファル法学派の教義

ジャアファルは、知と理性(アクル)を非常に重視し、シーア派学問や神智学的分野だけでなく、法学分野や、シーア派の教義そのもの、さらにその政治思想にも影響を与えました。

 

例えば、法的判断において理性を強調するのであれば、ムスリム全体を導くために判断する者、すなわちウンマ(イスラーム共同)を指導する者にも当然、知あるいは理性が求められます。そこでジャアファルは、「イマームこそ、そしてイマームのみが神の言葉たるシャリーア(イスラーム法)を正しく判断できる者」と考えました。

 

初代イマーム・アリーは、知の完成者として賞賛されました。そこから、その知のあり方はアリー家に受け継がれるとしたことで、シーア派イマーム派の根本教義の一つ、アリー家の無謬のイマームが代々指導する共同体を志向するという教義が成立しました。

 

現在のジャアファル派

ジャアファル法学派は、シーア派最大の十二イマーム派にとって信奉されたことから、現在も、シーア派内で多数派を占めています。ただし、ジャアファル・アッ=サーディクの後継をめぐって、のちに主流派となる12イマーム派と、今日のアーガー・ハーンの家系に連なるイスマーイール派との分裂が起こりました。

 

<関連投稿>

イスラム教1:ムハンマドの教え クルアーンとハディースに

イスラム教2:スンニ派とシーア派 4代アリーをめぐって

イスラム教3:ハワーリジュ派 過激集団、神学論争の草分け

イスラム教4:シーア派(十二イマーム派)  ガイバ思想とともに

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イスラム教6:スーフィズム ガザ―リーからサファビー朝へ

イスラム教7:スンニ派(ワッハーブ派)復古主義とサウジアラビア

イスラム教9:スンニ派(イスラム神学派)自由意志か運命か?

 

 

<参照>

イスラム4大法学(宗教新聞)

シャーフィイー学派とハンバル学派(宗教新聞)

イスラム法学とは(コトバンク)

イスラム法学(Wikipedia)

 

(2022年6月28日)