今回は、中央アジアや西アジアのモンゴル帝国が崩壊する中、チンギスハンの事業を継承し、イスラム帝国の完成をめざしたとされるティムールが建てたティムール帝国についてまとめました。中央アジアにこれだけの統一国家ができたことは、後にも先にもありませんでした。
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ティムール帝国(1370〜1507)は、1370年にティムール(位1370〜1405)が建国したトルコ=モンゴル系のイスラム国家で、中央アジアから西アジアに君臨しました。
首都サマルカンドは、東西貿易の最大中継市場として栄えるだけでなく、後に同じく都となったヘラートとともに、モスクやマドラサの建設、ミアチュール(細密画)の製作、チャガタイ・トルコ語文学、天文学など、トルコ=イスラーム文化(イスラム化したトルコ人の文化)を開花させました。
- ティムール帝国の完成
⒕世紀の前半、モンゴル帝国の解体が進み、中央アジアでもチャガタイ=ハン国がパミール高原を境にして、西チャガタイ=ハン国と東チャガタイ=ハン国の東西に分裂しました。
その結果、トルコ化・イスラム化したモンゴル族(チャガタイ族)の遊牧貴族(アミール)の間で抗争が続く中、同じモンゴル族(チャガタイ族)のティムールが台頭し、西トルキスタンのマー・ワラー・アンナフル(トランスオキシアナ)地方(アム川とシル川の間の地域を指す)を統一して、ティムール朝を創設しました。
ティムールは、帝位につくと都をサマルカンドに置き、西チャガタイ=ハン国、イル=ハン国、キプチャク=ハン国の旧モンゴル帝国のハン国を次々と併合し、1380年までに中央アジア全域の支配圏を握りました。具体的には、直轄領としての西トルキスタン、マー=ワラー=アンナフル(トランスオキシアナ)を中心に、一族を分封したフェルガナ(タジキスタン付近)、アフガニスタン、ホラーサーン、(イラク、イランを含む)アゼルバイジャンの四大直接支配地を治めました。
ティームールは、その後も、西アジア・インド・中国へと征服戦争を行い、北インドに侵入すると、デリー=スルタン朝に圧力を加え、シリアではマムルーク朝を圧倒しました。さらに小アジアでは、1402年に、オスマン帝国をアンカラの戦いで破りました。
その結果、中央アジア(直接支配地)の周辺にティムールの宗主権を認める間接支配地域として、小アジア、エジプト、シリア、南ロシア、アルメニア、グルジア(ジョージア)、北インド、モグーリスタン(旧東チャガタイ=ハン国、天山山脈からタリム盆地)を配下に置きました。こうして、ティムールは、西はアナトリアから東は中国の辺境、北は南ロシア草原から南は北インドにいたる大帝国を、ティムール一代で築いたのでした。
- ティムールの国内統治法
ティムールは、トルコ系遊牧民(モンゴル系トルコ人)とオアシス民(イラン人)の統合を進め、トルコ・モンゴル系遊牧民の軍事力とイラン系定住民の経済力を取り込みました。統治機構の上でも二重の体制がとられ、トルコ化したモンゴル人が、イラン系の遊牧民を統率した一方で、イラン系のウラマー(イスラム法学者・宗教指導者)を保護し、徴税・財務・司法などの分野で官僚として採用しました。さらに、モンゴルの部族法(ヤサ)だけでなく、イスラーム法も採用するなど、モンゴル・イスラム社会の融合が目指されました。
ティムール朝の歴代君主は、伝統的に、一族や配下のアミール(部族長)らを従え、テントとともに移動する遊牧君主でしたが、帝国内のモンゴル系の人々は、トルコ化・イスラーム化し、遊牧生活から定住生活するようになりました(もっとも、いざ戦争となると、騎馬遊牧民の伝統を失わず、家族、家畜ごと移動式テントで遠征軍を組織した)。
また、帝国内では、イラン系のオアシス定住民の経済力を生かすために、都市建設が積極的に行われました。例えば、チンギス・ハンの侵入以降廃墟と化したサマルカンドに新たな外壁が築かれ、内に内城・金曜モスク・墓廟(ぼびょう)、マドラサやハーンカー(修道場)などが建設されました。
ティムール帝国では、ティムールをはじめ歴代君主は、マドラサ(ウラマー養成所)などの宗教施設を建築しました。そうした中、神秘主義教団の聖者を保護したことは特筆されます。これには、民衆だけでなくティムール朝の王族の間にも、ナクシュバンディー教団をはじめとする神秘主義教団が浸透していたことが背景にあるようです。神秘主義教団も、土地をはじめ多大な寄進をえて、帝国内で勢力を拡大させました。
- ティムール帝国の衰退と滅亡
このように、中央アジアに成立した最初で最大のティムール帝国を一代で築き上げたティムールは、1404年、自分の本望でもあった、滅亡したモンゴル帝国の本家「元」の再興をめざし、明への遠征に出発しましたが、その途中、1405年に死亡しました。
ティムールの死後、帝国は一時混乱しましたが、4代君主の時代までには、持ち直すことができました。第3代シャー=ルフ(位1409~47)は、ヘラートに都を移して混乱を抑え、マドラサやハーンカー(修道場)を建設するなど都市計画を実行し、安定した治世を実現させました。また、第4代ウルグ=ベク(位1447~49)の時代には、学芸が保護され、絵師や文人が都市に集い、サマルカンドには大天文台が建設されるなど、トルコ=イスラム文化を背景とした華やかな宮廷文化の花を咲かせることができました。(ウルグ=ベク自身が著名な天文学者でもあった)。
しかし、ティムール朝の統治は、遊牧民の伝統に従い、征服地域を一族の共有財産と考え、一族の間で領土を分封し、分封を受けた者は、その地で小君主として民衆を支配するという統治方法がとられました。また、時の実力者が、クリルタイ(最高意思決定機関)で推挙・承認されるという形で、王朝の君主位が継承されました。このため広大な帝国は常に政治的に分裂するという危険をはらんでいました。
実際、第7代のアブー=サイード(位1451~69)までは統一を保つことができましたが、アブー・サイードの死後、ティムール朝はサマルカンドとヘラートを首都とする2つの政権に分裂し、そのためにいずれも政治的・軍事的に弱体化しました。
この間、カスピ海、アラル海の北にあるカザフ草原では、15世紀以降、キプチャク=ハン国に属していたトルコ人と、トルコ化したモンゴル人の集団がひとつになって、ウズベク族が形成されていました。
この中央アジアに起こったウズベク人(トルコ系民族、スンナ派)のシャイバニが南へ進軍を開始すると、サマルカンドを1500年に、ヘラートを1507年にそれぞれ占領し、ティムール帝国は滅亡しました。ティムールの死後100年のことでした。
- ティムール帝国滅亡後の中央アジア
その後、シャイバニは、サマルカンドを攻略した後、都をブハラとするシャイバニ朝を興し、アラル海に注ぐシル川、アム川流域のオアシス地帯である東トルキスタン地方に南下してきました。
シャイバニは、ティムール朝の一族のフェルガナを拠点としたバーブルと激しい争いを繰り返し、1501年のサリ・ブルの決戦などの戦いでバーブルを破り、結果的にバーブルをアフガニスタンのカーブルに退却させました。しかし、1510年、イランのサファヴィー朝のイスマーイール1世と戦って敗れ、戦死しました。
その後、すぐに復興したシャイバニ朝でしたが、ブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国の三ハン国に分裂してしまい、中央アジアに、ティームル帝国に取って代わるほどの圧倒的勢力とはなりませんでした。
逆に、ティムール朝の圧力が無くなったことにより、その周辺では、小アジアを中心としたオスマン帝国、イランのサファヴィー朝、インドのムガル帝国の台頭をもたらすこととなりました。なお、三ハン国は19世紀後半にロシアに併合されるまで続き、現在、ウズベキスタンになっています。
<関連投稿>
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イスラム史7:オスマン帝国 イスラム王朝最後の輝き
イスラム史8:サファービー朝 イラン全土を支配したシーア派国家
イスラム史9:ムガール帝国 インドへ ティムールの末裔たち
<参照>
ティムール(世界史の窓)
ティムール朝(世界の歴史マップ)
ティムールとは(コトバンク)
ティムール朝(Wikipedia)など
(2022年7月3日)