サファヴィー朝:イラン全土を支配したシーア派国家

 

16~17世紀にかけて、西アジアから南アジアに、オスマン朝、サファビー朝、ムガール朝というイスラム3帝国が君臨しました。今回は、この中のサファビー朝についてまとめました。

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オスマン帝国が勢力を拡大していたほぼ同時期、イランにはサファヴィー朝が勃興しました。サファヴィー朝(1501~1736)は、ティムール帝国が崩壊した後の1501年、アゼルバイジャンの祭司で、イスラム神秘主義教団(スーフィー教団)から起こったサファヴィー教団の教主イスマイール1世によって、タブリーズを都に建国されました。

 

イスマイール1世は、名門の出身で、イスラムの第4代カリフ、アリーの息子フサインと、ササン朝最後の君主ヤズデギルド3世の娘シャハル=バーヌーの血をひくと言われていますが、その真偽は定かではありません。

 

 

  • イスマーイール1世の建国と統治

 

イスマーイール1世(位1501〜1524)は、1500年、トルコマン遊牧民(トルクメン人)の信者7000人を動員して、東部アナトリアのエルジンジャンで挙兵しました。翌1501年、当時、東部アナトリア,イラク,イラン,アゼルバイジャンを支配していたテュルク系(オグズ・トルクメン系)のアク・コユンル(白羊朝)(はくようちょう)(1378‐1508)の都タブリーズに入城し、1510年には、ティムール朝を滅ぼしたウズベク族のシャイバーン朝を破り、全イランを統一しました。

 

サファビー朝は、トルコ系遊牧民(トルクメン人)からなる騎兵集団であるキジルバシュを軍事力として利用して領土を拡張していき、キジルバシュの有力者を地方長官に任じました。また、行政官僚にはアク・コユンル朝以来のイラン人貴族を任じました。

 

また、イスマーイール1世は、古代イラン以来、王を意味する「シャー」という伝統的な称号(王号)を復活させ、サファビー朝がイスラム教の国であると同時にイランの民族国家であることを強調しました。

 

西の大国オスマン朝が同じイスラム教でも多数派のスンニ派であったのに対して、サファビー朝はシーア派を国教として、オスマン帝国に対抗しました(サファヴィー朝の時代までは、スンニ派が多数であったが、サファビー朝下で、最終的にシーア派が多数になり、現在にいたるイランのシーア派化の端緒となった)。

 

この結果、両国は当然対立して、1514年、東部アナトリアのチャルドランで交戦(チャルディランの戦い)し、サファービー朝のキジルバシュ騎兵軍は、オスマン帝国のセリム1世の鉄砲を用いたイェニチェリ軍団の前に大敗し、アゼルバイジャン地方のタブリーズ、デイヤル・ベルクなどをオスマン帝国に奪われてしまいました(アナトリアへの進出を阻まれる)。

 

 

  • アッバース1世の治世

 

しかし、アッバース1世の時代に、サファヴィー朝は最盛期を迎えました。アッバース1世(在位1588~1629)は、オスマン朝から、バクダートなどイラクの一部と、タブリーズなどアゼルバイジャン地方を奪還して領土を拡大しました。また、ポルトガルが16世紀から要塞を築いて支配していたホルムズ島奪回、ポルトガル勢力を駆逐し、ペルシア湾の交易ルートを手中にし、ペルシャ湾地域の盟主としての地位を築きました。

 

内政では、特権的な軍事貴族と化したキジルバシュを抑えるため、新たに常備軍としてゴラーム(奴隷兵)を育成し、また、有力キジルバシュにかえ、王の側近を中央・地方の要職にあてるなどの中央集権的体制の確立が図られました。

 

1597(8)年には、新たに首都イスファハーンが造営され(カスピ海南岸のカズヴィーンから遷都)、周到な計画のもとに都市建設が行われました。アッバース1世は、セルジューク朝以来の旧市街を残したまま、新しい市街を旧市街の西南方に建設しました。イラン式庭園(バーグ)と広大なイマーム広場が中心で、その周囲に王宮とイマーム・モスク(1612開始、1630年完成)が建設されました、旧市街と新しい市街との間にはバザール(常設市場)が始められ、各地から商人や芸人が集まり、国内の道路・橋・隊商宿を整備されました。

 

こうして、首都イスファハーンは「世界の半分」(世界の富の半分が集まっている)と称されるほど繁栄したと言われています。

 

また、前述したように、サファヴィー朝は、イスラム神秘主義教団(スーフィー教団)の流れを汲むサファヴー教団を母体に、シーア派を採用しました。このため、シーア派信仰に魅了されトルコ系遊牧民の部族軍団キジルバシュは、スンナ派の宗教施設や学者らを迫害しました。

 

しかし、当時のイラン人の多くはスンナ派であったことを考慮したアッバース1世は、過激なシーア派信仰を抑え、正統的な十二イマーム派神学を奨励し、浸透させたことから、首都イスファハンでは、独自のシーア派神学・哲学を基盤にイランの民族文化も興隆していきました。

 

 

  • サファビー朝の衰退と滅亡

 

このように、ペルシャ湾の雄となったサファヴィー朝でしたが、アッバース1世の死後、中央の統制が緩むと、いったんは抑制されたキジルバシュの勢力が復活したことや、辺境民族の反乱、財政の悪化などが表面化し、王朝は弱体化していきました。

 

こうした中、辺境民族の反乱が頻発するようになり、スルターン・フサイン時代の1722年に、ペルシャ本土へ進軍してきたマフムードが率いるアフガン族がイスファハーンを占領し、サファヴィー朝は事実上滅亡しました。

 

もっとも、その後、イラン東部のホラーサーンにいたクズルバシュ(トルクメン人)のアフシャール部族を率いるナーディル・クリー・ベグが、フサインの子、タフマースブ2世を庇護し、その摂政となると、サファヴィー朝は一時国力を回復させました。しかし、ナディールは、1736年、傀儡として擁立したタフマースブ2世の子のアッバース3世を退位させ、サファヴィー朝は名実ともに滅亡しました(ナーディルはナーディル・シャーと称してアフシャール朝を建てた)。

 

その後、イランでは、アフシャール朝 (1736‐96年)、ゼンド朝(1750-94年)、カージャール朝 (1794‐1925年)といった王朝の交替があった一方、18世紀後半頃から、イギリス、フランス、ロシアの勢力がペルシャ地域に進出してきました。1907年には、イギリスとロシアが英露協商を締結し、ペルシャ地域は、北部がロシア、南部がイギリスの勢力となるなど反植民地化されました。

 

<関連投稿>

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イスラム史7:オスマン帝国 イスラム王朝最後の輝き

イスラム史9:ムガール帝国 インドへ ティムールの末裔たち

 

 

<参照>

詳説世界史(山川出版)

サファヴィー朝(世界史の窓)

サファヴィー朝(世界の歴史マップ)

サファヴィー朝とは(コトバンク)

サファヴィー朝(Wikipedia)など

 

(2,022年7月4日)