ファーティマ朝:北アフリカを支配したシーア派の雄

 

アッバース朝の統治下にあって、エジプトに誕生し、北アフリカさらにメッカを含むヒジャース地方をも支配したシーア派の地方政権、ファーティマ朝についてまとめました。

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ァーティマ朝(909~1171年)は、チュニジアで興ったイスマーイール派のシーア派国家で、「アリーの妻でありムハンマドの娘であるファーティマの子孫である」と称した初代ウバイドゥッラーは、自分こそが「正しいカリフ」であると主張し、スンニ派のアッバース朝に対抗しました。

 

ファーティマ朝の始祖ウバイドゥッラーは建国以前からイスマーイール派教宣運動を指導するなか、教宣員のアブー=アブドゥッラー(アルハサン・ブン・ザカリヤーとも呼ばれる)は、イスマーイール派に対する迫害の厳しい本拠地シリアから離れた北アフリカで活動していました。

 

アブドゥッラーは、現地のベルベル人の支持を集めて軍事力を組織化することに成功し、チュニジアのイフリーキヤを中心に北アフリカ中部を支配していたスンニ派(マーリク派)のアグラブ朝を、909年に滅ぼすと、ウバイドゥッラーをシリアから北アフリカにカリフとして迎えました。

 

こうして、チュニジアの地に、シーア派国家ファーティマ朝が建国されました。しかし、ウバイドゥッラーは、王朝建設の功労者アブー=アブドゥッラーを粛清して、カリフによる独裁権力を確立し、チュニスの南には、新都マフディーヤ(「マフディーの都」の意)が建設されました。

 

また、アルジェリア西部にベルベル人が建てたルスタム朝(777‐909年)と、モロッコに成立した最初のシーア派イスラム王朝であるイドリース朝(786~926)を滅ぼし、マグリブ(北アフリカ北西部)に勢力を拡大させ、王朝の基盤を強化させました。結果的に、アッバース朝から自立したマグリブ地方の三王朝(アグラブ朝、ルスタム朝、イドリース朝)は、すべてファーティマ朝によって滅ぼされたことになりました。

 

さらに、969年6月、第4代カリフのムイッズ(在位:953~975年)の時代、エジプトを支配するイフシード朝の内部崩壊に乗じ、遠征軍をアレクサンドリアに派遣すると、ほとんど抵抗を受けることなくエジプトを支配下に収めました。エジプトの首府フスタートの北隣に新都カーヒラ(「勝利の都」の意=現カイロ)を建設しました(カイロは、アラビア語のアル=カーヒラが西欧の諸言語で訛った呼び名である)。

 

その後、エジプトにおけるファーティマ朝は、イフシード朝の版図を踏襲し、エルサレムを含む南シリア地方まで支配を広げ、さらにマッカ(メッカ)を含むアラビア半島西部のヒジャーズ地方をも保護下に置きました。また、地中海の覇権をめぐってのビザンティン帝国との戦いも優位に進め、北アフリカ,地中海でファーティマ朝は安定した勢力を確立しています。

 

ファーティマ朝は、エジプトの征服にあたり、イフシード朝以来の支配層の財産を保証し、イスマーイール派の押し付けを避けて、多数派であるスンナ派との融和をはかり内政の安定を実現させるなど、ムイッズ(在位953~975)と、その子アズィーズの治世に最盛期を迎えました。

 

972年には、ムイッズが建設したアズハル・モスクに、(モスク付属のマドラサとして)イスマーイール派の最高教育機関となるアズハル学院が開講され、シーア派(イスマーイール派)のイスラーム神学・法学研究の中心地となりました(アズハル学院はアズハル大学に発展した)。

 

しかし、10世紀末、王朝発祥の地チュニジアで、ファーティマ朝からマグリブ(西アラブ)・トリポリタニア(現リビア)方面の統治を委ねられていたズィール朝が事実上の独立を果たし、ファーティマ朝は、エジプト以西の領土を一時失いました(その後、回復)。

 

第8代ムスタンシル(在位1036‐94)の時代、当初、国力も充実していましたが、後半に入るとシリアをトルコ人のスンナ派政権セルジューク朝に奪われ、後退し始めました。11世紀末にはセルジューク朝の分裂に乗じて、エルサレムを占領しましたが、聖地回復を掲げて侵攻してきた第1回十字軍と戦い、エルサレムの占領を許すなど、シリア地方のほとんどがファーティマ朝の支配下から離れました。

 

メッカやメディナの宗主権も、セルジューク朝に既に奪われてしまっており、12世紀にはファーティマ朝はもはやほとんどエジプトのみを支配するに過ぎなくなっていました。そのエジプトでも、トルコ系奴隷兵のマムルークの勢力と黒人奴隷兵の対立が起こり、カイロのカリフの権威は衰退していました。

 

セルジューク朝から自立してシリアを統一したイスラム政権であるザンギー朝(1127〜1222)のヌール=アッディーンはこれに介入し、1164年、クルド人の部将アイユーブ家のシールクーフをカイロに派遣すると、シールクーフはその実権を奪い、ファーティマ朝の宰相に就任しました。

 

しかし、1169年にシールクーフが急死したため、甥のサラディン(サラーフ=アッディーン)(サラーフッディーン)が、マムルークを主力に取り込み実権を握ると、宰相の地位を引き継ぎ、この年、実質的にアイユーブ朝を樹立しました。ファーティマ朝は、実権を失いつつも、依然としてカリフが存在していましたが、1171年に、その最後のカリフが死去したことで、ファーティマ朝は滅亡しました(この時、アッバース朝のカリフは、正式に、アイユーブ朝を承認した)。

 

<関連投稿>

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イスラム史8:サファービー朝 イラン全土を支配したシーア派国家

イスラム史9:ムガール帝国 インドへ ティムールの末裔たち

 

<参照>

ファーティマ朝(世界史の窓)

ファーティマ朝(世界の歴史マップ)

ファーティマ朝とは(コトバンク)

ファーティマ朝(Wikipedia)など

 

(2022年6月30日)