ムハンマドと正統カリフ時代:メッカを起点に

 

前回までイスラムの教義について学びました。では、これから、イスラム教がどのように進展していったのかを、その創始から第二次世界大戦後までを歴史的に概観していきます。今回はムハンマドによるイスラム教の始まりから、正統カリフの時代までをみていきます。

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<ムハンマドの時代>

 

メッカの大商人の子として生まれたムハンマドマホメット)(570~632)は、610年、神からの啓示を受け、イスラム(教)を興しました。ムハンマドは、預言者として、まず身内のクライシュ族に布教を始めましたが(ムハンマドはクライシュ族のハーシム家の出身)、信者になるものは少数で、大多数のものはムハンマドを拒絶しました。

 

当時のアラブ社会は、伝統的な部族の神がたくさん存在する多神教の世界でしたので、多神教から一神教のイスラム教に改宗することに応じようとしませんでした。当時、メッカのカーバ神殿を管理するほど権力を保持したクライシュ族の多くは、ムハンマドの布教を、自分たちの既得権益を脅かすものと捉えたのです。

 

クライシュ族は、当初、ムハンマドに圧力をかける程度でしたが、提示した妥協案を、ムハンマドが拒否したことから、本格的に迫害を始めました。そこで、ムハンマドらは、622年、やむなく故郷のメッカを脱出し、北方のメディナ(ヤスリブへ移住しました。(これを「ヒジュラ」という)。

 

メディナで信徒を増やし、力を蓄えたムハンマドは、624年3月、クライシュ族の隊商を襲撃し、戦闘的布教(聖戦)(ジハード)を開始しました。メッカから援軍を差し向けてきたクライシュ族に対し、紅海沿岸バドル水場での戦い(バドルの戦い)で、圧倒的勝利を収めるなど、「聖戦」はムハンマド側が有利に展開していきました。その間、クライシュ族からの改宗者も激増したと言われています。

 

630年1月には、メッカを急襲、ほとんど抵抗を受けることなく、メッカを陥落させると、ムハンマドは、カーバ神殿にあった多くの偶像を全て破壊し、メッカをムスリムの地とすることに成功しました。その後も、アラビア半島全体にイスラム教(イスラーム)を拡大させたムハンマドでしたが、632年に、昇天(死去)し、23年間の布教活動に終止符が打たれました。

 

この時、ムハンマドは、天使ガブリエルの導きによって、一日で、メッカのカーバ(カアバ)神殿からエルサレムに旅をして、エルサレム神殿にある岩から天馬に乗って神の御前に至ったという伝説があります。

 

ムハンマドは、教団を指導する後継者を指名せずに亡くなりましたが、ムハンマドに最初に帰依したとされる教友(サハ―バ)でもあり、信者の中でも長老格であったアブー・バクルが、信徒達から推挙されて指導者となりました。

 

ムハンマドの死後、イスラム共同体(ウンマ)の最高指導者は、「アッラーの使徒の代理人」という意味の「カリフ」という称号が使われるようになりました。「カリフ」は直系の子孫と定められていたわけではなく、ウンマ全体の合議によって、教徒の長老の中で、人々の支持を得た者が選ばれました。

 

初期イスラム国家の最高権威者を指すカリフ(ハリーファ・アル=ラスールッラーフ)は、「預言者ムハンマドの代理人(代行者)(ハリーファ)」として共同体全体を統率します(カリフの原義は「代理人・後継者」、アラビア語でハリーファ)。特に、ムハンマドの後、4人のカリフ(アブー・バクル、ウマル一世、ウスマーン、アリー)の時代を「正統カリフ時代」と呼びます。

 

 

<正統カリフ時代>

 

  • 初代カリフ:アブー・バクル

 

アブー・バクル(在位632~634年)は、メッカ時代からのムハンマドの友人(教友)で、ムハンマドが啓示を受けた直後からの最も古い信徒(同志)でした。ムハンマドの妻の一人アーイシャの父であり、ムハンマドの義父にあたりました。

 

また、ムハンマドと先祖を同じくする富裕なクライシュ族の出身であったアブー・バクルは、その財力でムハンマドを支えただけでなく、ムハンマドと行動をともにして、「巡礼の行」(布教)では陣頭指揮をとるなど信頼が篤く、すでにムハンマドの代行者とも言うべき働きをしていました。ムハンマドがメッカ時代に得た信徒の多くはこのアブー・バクルの影響によると言われています。

 

なお、ムハンマドとアブー・バクルは同じクライシュ族でも、ムハンマドがハーシム家、アブー・バクルはタイム家という違いはあります。

 

こうした背景から、ムハンマドの死後、アブー・バクルは、イスラム共同体(ウンマ)全体の合議によって、信徒達から推挙されて「カリフ(預言者ムハンマドの代理人)」に選出され、共同体全体を統率する指導者(イマーム)となりました。

 

初代カリフ、アブー・バクルは、カリフに順わない部族に対して、リッダ(背教)にあたるとして、制圧部隊を派遣し、これらの敵対勢力をうち破りました(この戦争を「リッダ戦争」と呼ばれる)。もっとも、反乱を起こした部族も、改めてイスラムに忠誠を誓った部族は寛大に扱われ、支配地域はまとめられていきました。

 

このように、アブー=バクルによってアラビア半島の統一は完成しましたが、カリフになった時にすでに60歳を超えていたアブー=バクルは、634年、わずか2年の在位で、メディナにおいて死去しました。

 

アラビア半島の統一により、アラビア半島に新たな政治権力が生まれ、隊商貿易の隆盛に伴いメディナを中心に経済的に繁栄してくると、当時、シリア・エジプトを支配する東ローマ帝国と、メソポタミア地方からイランを支配するササン朝ペルシアとの利害対立が深刻になっていました。こうした情勢に対応したのが、アブー=バクルを引き継いだウマル1世でした。

 

 

  • 第2代カリフ:ウマル1世

 

アブー・バクルの死後、生前指名を受けていたウマル1世(在位634~644年)が、第2代目のカリフに選出されました。イスラムの驚異的な拡大はこのウマル一世に負うところが大きいとされ、ウマル1世は、しばしば「イスラム帝国の建設者」とまで言われます。

ウマルは、当初「神の使徒の代理人の代理人」(ハリーファ・ハリーファ・ラスールッラー )を名乗っていました(もともとカリフが「神の使徒の代理人」の意味で、初代のアブー=バクルが使用していた)。しかし、後世、カリフの一般的な称号として定着する「信徒たちの指揮官」(アミール・アル=ムウミニーン)を後に名乗るようになったとされています。

 

また、メッカに住むアラブ人のクライシュ族に属するアディー家の出身のウマルは、若い頃は武勇に優れた勇士として知られ、610年頃、クライシュ族の遠い親族であるムハンマドがイスラム教を開くと、クライシュ族の伝統的信仰を守る立場からその布教活動を迫害する側に回りました。しかし、キリスト教における「パウロ」のように、後に回心して、忠実な信徒となりムハンマドを支える一人となっていったのでした。

 

ウマルの聖戦

そんなウマルが、2代目カリフに任じられると、アブー・バクルの企図を受け継いで、ジハード(聖戦)が積極的に展開されました。

 

まず、635年9月、シリアに進出して、ビザンツ領だったダマスクスを包囲して降伏に追い込み、翌年8月、ヤルムークの戦いで名将ハーリド・イブン・アル=ワリードの指揮の下、ビザンツ帝国のヘラクレイオス1世のビザンツ軍を壊滅させ、シリアをイスラム帝国に併合しました。

 

ウマルのイスラム軍は、636年11月、カーディシーヤの戦いで、ササン朝に勝利し、翌年の7月にはササン朝の首都クテシフォンを占領しました。638年には、再び西に転じて、エルサレムを征服し、エルサレムはイスラム勢力の統治下に置かれることになりました。ウマルもエルサレムに入り、エルサレムがイスラム共同体(ウンマ)の支配下に入ったことを宣言しました。

 

このとき、エルサレムの神殿の丘に立ち入ったウマルは、ローマ時代の建物の遺跡の中から巨岩を見つけ、ここが、ムハンマドが昇天(死去)した際の出発地であると認定し、聖域指定しました。また、ウマルは、その岩の傍らで礼拝を行ったとされ、ムスリム(イスラム教徒)が、エルサレムの神殿の丘で礼拝する慣行をつくったと言われています。

 

なお、ウマイヤ朝時代の691年に、この岩を覆うように「岩のドーム」が建設され、通称「ウマル・モスク」とも呼ばれています。

 

また、ウマル1世は、キリスト教のエルサレム総主教ソフロニオスと会談して、キリスト教徒が、イスラムの支配に従い、ジズヤ(人頭税)を支払う限りにおいて、信仰の自由を含めた一定程度の権利を保障することを約束しました(これをウマル憲章という)。後に、キリスト教徒ならびにユダヤ教徒を「啓典の民」として、保護民(ズィンミー)の地位も与えています(庇護民、ジンミーとも訳される)。

 

このときからエルサレムにおいてイスラム教、キリスト教、ユダヤ教の3つの宗教が共存するようになったとされています。ちなみに、ウマル1世は、エルサレム総主教ソフロニオスから神への祈りを共にするよう誘われましたが、ムスリムとして先例を残す事を好まずそれを断ったとの逸話も残されています。

 

一方、ウマルの聖戦は続き、639年、ビザンツ帝国領のエジプトに侵攻し、641年にアレキサンドリアを陥落させてエジプトを征服すると、再びイラン高原をめざして東進し、642年には、ニハーヴァンドの戦いにおいて、ササン朝ペルシアに大勝しました(次のカリフの時代にササン朝は滅亡)。

この勝利によって、イスラム共同体は、西アジア全域とエジプトを支配する大帝国となり、その後も中央アジアに進出していく一方、小アジア、北アフリカではビザンツ帝国との抗争を続けていくことになるのです。

 

 

ウマルの統治

こうして、部族集団の集まりであったアラブ世界を、「アラブ帝国」と呼ばれる一つの国家体制を確立したウマル1世は、帝国の支配を確固なものにするために、様々な制度を採り入れました。

 

まず、メディナに、財政・行政機構として官庁(ディーワーン)が置かれ、各征服地には、徴税官が派遣される一方、集められた税の中から、俸給(アター)が戦士らに支給されました。

 

また、軍事的な抑えとして、軍営都市(ミスル)を築き、総督(アミール)を指揮官とするアラブ人を駐留させました。ウマル時代には、イラク南部のバスラ(638年)を皮切りに、同じくイラクのクーファ、エジプトのフスタート(現カイロ市南部)などが建設されています。

 

征服した土地では、抵抗した異教徒は武力で制圧されましたが、イスラムの支配を受け容れた異教徒に対しては、ジズヤ(人頭税)の支払いなどの義務を果たすことを条件に、その信仰と一定の自治が与えられました。

 

さらに、ウマルは、イスラム暦を定め、メッカからメディナへのヒジュラ(聖遷)が行われた西暦622年7月を紀元1年(「イスラーム紀元」)としました。また、クルアーン(コーラン)とムハンマドの言行(スンナ)に基づいた法解釈を整備していったのもウマルです。(後のイスラム法(シャリーア)制度の確立につながった)。

 

ウマルの死

このように、イスラム帝国の建設者となったウマル1世でしたが、644年11月、メディナ(マディーナ)のモスクで礼拝をしている最中に、個人的な恨みをもったユダヤ人(またはペルシア人とも)の奴隷によって刺され、3日後に非業の死を遂げました。ウマルが定めたハラージュ税(地租税)がその男の主人にも課税されたことが殺害の動機であったそうです。

 

 

  • 第3代カリフ:ウスマーン

 

ウマル1世は死の直前、次のカリフにウスマーンを指名するとともに、六人からなる長老会議を組織してカリフを選出する遺言を残したことから、ウスマーンが第3代カリフに選出されました

 

ウスマーン(在位644~656年)は、クライシュ族の中の有力氏族ウマイヤ家の出身で、早くからムハンマドに従い、イスラムに改宗しました。ムハンマドとも年齢が近く、ムハンマドの死後は有力な古参信者として教団を指導していたと言われています。

 

ウマルの死が伝わると、メソポタミア北部で、部族勢力の反乱が起きしたが、ウスマーンは、646年にアルメニア、650年にアゼルバイジャンを征服した後、中断されていたペルシア遠征を再開しました。遠征軍は、マクラーンホラーサーンなどイラン高原の東部を征服し、ムハンマドの時代から始まった正統カリフ時代の征服活動は、30年ほどの間に、シリア、エジプト、ペルシャ(イラン)にまで及び、この年(650年)に終息しました。なお、逃亡したペルシアの王ヤズデギルド3世は、651年、現地(メルヴ)の総督に殺害され、ササン朝ペルシアは、名実ともに滅亡しました。

 

また、ウスマーンは、651年、カリフとして初めて中国(唐の長安)に使者を派遣するなどの外交を行う一方、国内では、「クルアーン(コーラン)」の編纂事業を開始しました。ムハンマドの教えとして伝えられたことがらが整理、統一され、現在の「クルアーン」の原型ができたのです。

 

このように、ウスマーンの治世は前半こそ、順調でしたが、後半、ウスマーンの政策への不満が高まっていきました。

 

イラクのクーファやバスラ、エジプトのフスタート(カイロ)など各地に駐屯する戦士は、征服戦争が一段落したため、戦利品が手に入らず、俸給も削減され、苦しい生活を余儀なくされていました。また、ウスマーンは、ウマイヤ家のムアーウィヤを、シリアに引き続き駐屯させ、自分の乳兄弟であるイブン・アビー・サルフをエジプト総督として配属させるなど、一族・縁者への身内びいきの人事を行っていきました。

 

これを一門による権力の独占として受け取った駐屯部隊の戦士たちは、656年6月、メディナのカリフ邸に押しかけ、ウスマーンを襲撃し殺害、新しくハーシム家出身のアリーを担ぎ出したのです。ちなみに、襲撃された際、ウスマーンは、クルアーン(コーラン)を読誦中で、この時のクルアーンは、現在もイスタンブールのトプカプ宮殿に「血染めのコーラン」として陳列されているそうです。

 

 

  • 第4代カリフ:アリー

 

ウスマーンを倒したイスラム戦士たちの推挙によって第4代カリフに選ばれたアリー(在位656~661年)は、始祖ムハンマドの娘ファティーマを妻とし(ムハンマドの義理の息子)、かつ、ムハンマドとは従兄弟(いとこ)同士でした。アリーの父アブー=ターリブは、6歳の時に孤児になったムハンマドを最終的に養い、ムハンマドとアリーは、年は30歳くらい離れていましたが、身近に育った兄弟のような関係でもありました。ムハンマドにも男の子はいたのですが、皆早世してしまいその直系子孫は途絶えていたので、アリーがムハンマドに最も近い人物で、早くからムハンマドの後継者と見なされていました。

 

加えて、アリーは、ムハンマドと同じ、メッカのクライシュ族という部族のハーシム家に生まれました(アブー・バクル、ウマル、ウスマーンはクライシュ族でも別の家系であった)。ムスリムの中には、預言者の後を遠い親戚が継ぐのは誤りで、アリーこそが唯一の正統な後継者だと主張する人たちもおり、アリーはこうした人々から絶大な支持を受けました。

 

さらに、アリーは、イスラムに帰依したのも、初代カリフのアブー・バクルに並びもっとも初期の信徒(人物)と言われ、聖戦においては、勇敢な戦士として「アッラーの獅子(アサドッラーク)」と称されるなど、まさに第4代カリフとして打ってつけの存在でした。

 

第一次内乱(656~661)

しかし、アリーがカリフとなった頃は、イスラム教団の主導権を巡る争いも激しくなっていました。というのも、ムハンマドには敵対していたウマイヤ家の出身であったウスマーンの暗殺は、アリーが黒幕ではないかとの疑いがかけられていたのです。

 

ウスマーンを支持した人々は、ムハンマドの未亡人で、初代カリフ・アブー・バクルの娘であったアーイシャを担ぎ出しました。アーイシャもまた、アリーの妻・ファティーマに対する激しい対抗意識からアリーに敵対していたのです。

 

656年6月、両勢力はバスラ郊外で衝突し、第1次内乱(656~661年)が始まりました。アーイシャは、このとき、「きっとウスマーンの血の復讐をとげてみせよう」と決意を表明し、自らラクダに乗って出陣しました(そこからこの戦闘は「ラクダの戦い」と呼ばれた)。

 

しかし、この戦いは、アリー方の勝利となり、アリーは、第4代カリフの地位を確実にするとともに、クーファを都に定め、帝国を治めようとしました。しかし、それでも、殺された先代のカリフ・ウスマーンが属していたウマイア家は、シリア地方の総督であったムアーウィアが反乱を起こしてきました。

 

第3代カリフ・ウスマーンによって総督の権限を与えられていたムアーウィアは、ウスマーンの暗殺後はウマイヤ家の家長の地位を継承し、ダマスクスを拠点にウマイヤ家の勢力を広げていたのです。

 

これを受け、アリーは657年、シリアに出兵し、ユーフラテス川上流域のスィッフィーンの戦いでムアーウィアと激突しました。この戦いでは、アリー側が優位に立ちましたが、策略をめぐらせたムアーウィヤは、槍先に「コーラン」を掲げ、コーランによる裁定を提案すると、アリーも和議に応じ、戦闘は停止されました。

 

この結果、ムアーウィヤは、敗北を免れたことで、ウンマ(イスラム共同体)においてアリーに匹敵する「実力者」としての地位を確保することに成功しました。

 

ハワーリッジュ派の独立とアリーの死

一方、アリーは兵を引いたことで支持の一部を失い、イスラム教における最初の分裂を引き起こしてしまいます。アリーが謀反を起こした反乱者、ムアーウィアと停戦協定を結ぶことは許されない、「裁定は神にのみあり」と主張するアリーの支持者の一部は、ムアーウィヤへの徹底抗戦を唱えて、アリー陣営を離脱し、ハワーリッジュ派(ハワーリジュとは「退去した者(離脱者たち)」の意)を立ち上げたのです。

 

ハワーリジュ派は、アリーが大きな罪を犯したとみなし、アリーを激しく非難し、アリーとムアーウィヤらに刺客を送りました。アリーはハワーリジュ派の殲滅を試みましたが、逆に、661年1月、クーファのモスクで祈祷中、毒を塗った刃で襲われ、2日後に息を引き取りました(ムアーウィヤは刺客の手から逃れた。)

 

661年、第4代カリフ、アリーの暗殺によって、第1次内乱は終結すると同時に、正統カリフ時代も終わりました(正統カリフ4代のうち実に3代までが暗殺されたことになる)。これにより、正式なカリフとなったムアーウィヤは、ウマイヤ家によるカリフの地位(カリフ位)の世襲を宣言し、ウマイヤ朝を開きました。

 

 

  • スンニ派とシーア派

 

一方、ウマイヤ朝を認めないアリーの支持者らは、アリーの子孫(アリーとムハンマドの娘ファーティマとの子ハサンとフサイン及びその子孫)、すなわちアリーの血統の者(預言者ムハンマドの血を引くアリー、及びその子孫)のみが、イスラムの指導者(イマーム)たりうると主張し、シーア・アリー(「アリーの党派」の意)を形成していきます(シーアとは党派の意味で、シーア・アリーは「アリーの党派」と訳される)。後にこのアリーが省略されて「シーア派」と呼ばれるようになりました。

 

イスラムの歴史の中で、シーア派は多数派であるスンニ派とは異なる世界観、歴史観を形成しました。アリー以前の3人のカリフを認めず、「時の権力者に正統性はなく、その統治は偽りである」と考えています。

 

ただし、ムハンマドの「血統」のものだけを「カリフ」と認めるという教義は、アリー以後の指導者を誰にするかによって、内紛を引き金となり、シーア派はさらに多くのグループに分かれていくことになるのです。

 

これに対して、ウマイヤ朝の権威を認めた多数派(シーア派は少数派)は、4代目のアリーを含めた正統カリフと、それに次ぐウマイヤ家のカリフを認め、スンナ派(スンニ派)と呼ばれるようになります。

 

スンナ派は、「スンナと共同体の民」の意で、「ムスリム共同体がムハンマドの時代から積み重ねてきた慣行(=スンナ)とイスラム共同体に従う人々」を示します。従って、六信と五行など一般的に知られているイスラムの教義は、スンナ派の信仰の内容である場合が多いようです(もちろん、シーア派にも共通する内容は多く含まれる)。また、彼らは、後継者を会議、協議、選挙等によって選びます。

 

こうして、イスラム教は、7世紀半ばに、カリフの正統性をめぐる争いからスンナ派とシーア派に二分され、シーア派はさらに幾つかの派に分かれるという時代に入っていきます。

 

預言者ムハンマドの時代はアラビア半島のみがイスラーム勢力の範囲内でしたが、正統カリフ時代にはシリア・エジプト・ペルシャが、ウマイヤ朝時代には東はトランスオクシアナ、西はモロッコ・イベリア半島を勢力下に治めました。

 

 

<関連投稿>

イスラム史2:ウマイヤ朝 世襲アラブ帝国とカルバラの悲劇

イスラム史3‐1:アッバース朝 権威の象徴としてのイスラム帝国

イスラム史3‐2:ファーティマ朝 北アフリカを支配したシーア派の雄

イスラム史3‐3:サーマン朝とブワイフ朝 イランとイラクを実質支配

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イスラム史5:マムルーク朝 トルコ系奴隷兵が建てた王朝

イスラム史6:ティムール帝国 中央アジアのトルコ・モンゴル帝国

イスラム史7:オスマン帝国 イスラム王朝最後の輝き

イスラム史8:サファービー朝 イラン全土を支配したシーア派国家

イスラム史9:ムガール帝国 インドへ ティムールの末裔たち

 

 

<参照>

正統カリフ時代とは?(コトバンク)

正統カリフ時代(世界史の窓)

正統カリフ(世界の歴史マップ)

正統カリフ(Wikipedia)など

 

(2022年6月28日)