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今回は、サーマーン朝を滅ぼしたカラハン朝やブワイフ朝を滅ぼして、イスラム世界に君臨したセルジューク朝についてまとめました。セルジューク朝と言えば、十字軍のきっかけになったイスラム国家としても知られています。
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セルジューク朝(1038~1157)は、トルコ系遊牧民の一分派が建てたイスラム王朝で、アッバース朝カリフからスルタンの尊号を得て、現在のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心に西アジア一帯を広く支配しました(「セルジューク」は一族の伝説的な始祖の名前からきた)。かつてはセルジューク・トルコとも呼ばれました。
- 建国とスルタンの称号
セルジューク族は、オグズ族(トゥルクマーン族=トルクメン族)と呼ばれたトルコ系民族で、10世紀末に、カスピ海、アラル海北方方面より、アラル海に注ぐシル(シルダリヤ)川の河口へ移住し、遊牧生活を送りながら、イスラム教(スンニ派)に改宗しました。族長セルジュークに率いられた一族は、イスラム化したトルコ人を集めて勢力をなし、その子イスマーイールは、さらに南下してトゥーラーン(現ウズベキスタン・タジキスタン)に入り、サーマーン朝に仕えて勢力を蓄えました。
その後、セルジュークの孫トゥグリル・ベクは、サーマーン朝を滅ぼしてトゥーラーンを支配したカラハン朝を圧迫し、1038年に、イラン北東部にあるニシャーブールに無血入城を果たして、セルジューク朝を建国しました。さらに、1040年、ダンダーンカーンの戦いでガズナ朝軍を破り、イラン東部のホラーサーンの支配権をえると、1055年には、バグダードを陥落させ、シーア派のブワイフ朝を滅ぼしました。
バクダットに入ったトゥグリル・ベク(在位:1038~1063)は、アッバース朝を滅ぼすことはなく、アッバース朝カリフより、1058年に初めて「スルタン」の称号を公式に受け、スンナ派の支配を回復すると同時に、東方イスラム世界の支配者として公認されました。スルタンとは、「カリフから統治権力を任された君主、支配者、代行者」の意で、セルジューク朝以後、イスラム世界における世俗の統治者の称号として定着していきます。
セルジューク朝も、ブワイフ朝同様、アッバース朝領内で新しく興った勢力として、権力を奪ったとの批判を受けるより、形式的には、アッバース朝の支配下にありながら、アッバース朝カリフの権威を利用して、自らの権力と統治を正当化する方法を選択したのです。
セルジューク朝は、トルコ系の遊牧部族が軍事力の中心でしたが、同時に同じトルコ人をマムルークとしても利用していました。また官僚として登用された多くはイラン人で、政治や学問で王朝を支えました。
- セルジューク朝の拡大
第2代スルタン、アルプ=アルスラーン(トゥグリル・ベクの甥)は、ジョージア(グルジア)、アルメニア、小アジア(アナトリア)、シリア、パレスチナに進出するなど積極的に外征を行って領土を広げました。1071年には東アナトリア(小アジア)のマラズギルト(マンジケルト)の戦いで、ビザンツ帝国軍を破り、皇帝ロマノス4世ディオゲネスを捕虜にしました。この結果、小アジアのトルコ化と同時に、イスラム化も進み、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)にとって大きな脅威となり始めました。
第3代スルタンのマリク・シャー(在位1072~1092)(アルプ・アルスラーンの長男)の時代に、セルジューク朝は中央アジアから地中海に及ぶ大帝国へと発展しました。その版図は、西方では、アナトリア(現トルコ)、シリア、ヒジャーズ(アラビア半島の紅海沿岸)から、東では、中央アジア西部のホラズム、(ウズベキスタンの)フェルガナ、トランスオクシアナ(ソグディアナ)まで及び、さらに、イエメンやバフライン(バーレーン)にも遠征軍が派遣されました。中でも、1076年に、ユダヤ教徒とキリスト教の聖地エルサレムを、エジプトを拠点とするファーティマ朝から奪い取ったことは特筆され、後に十字軍の遠征を引き起こす原因となります。
この最盛期となったマリク・シャーの時代は、名宰相ニザーム=アルムルク(1018~1092)の下で、イクター制(軍事・土地制度)を中心に国家体制が整備されました。
また、多くの公共施設の建設に加えて、ニザーミーヤ学院の創設など学問も保護されています。このニザーミーヤ学院の教授で、ペルシア人のイスラム神学者ガザーリー(1058~1111)は、イスラーム教の神秘主義(スーフィズム)を初めて理論化し、その後のイスラム教に大きな影響を与えました。
さらに、イスラムの著名なペルシャ人科学者、数学者、天文学者で、文学者としても知られるウマル=ハイヤーム(1048~1131)が活躍したのもこの時代で、イスラム文化の華が開きました。
- 地方政権の分離
一方、版図を大きく広げたセルジューク朝でしたが、バグダッドのスルタンに対して、一族の分離傾向が強く、初代スルタンのトゥグリル・ベグの時代から、セルジューク家長を宗主(大スルタン)として、イラン南東部のケルマーン、ルーム(アナトリア)、シリア、イラクで、セルジューク一族が、自立した支配を行うようになりました。最終的には、四つの小王朝が形成されていきました。
ルーム・セルジューク朝
ルーム・セルジューク朝(1077~1307)は、セルジューク朝の本家から分かれて小アジアを支配し地方政権。
セルジューク朝が、1071年にマラズギルトの戦いで、ビザンツ帝国軍を破り、アナトリア地方を支配下におくと、トルコ人のオグズ(トゥルクマーン)系遊牧民がアナトリア(現トルコ)へ移動してきました。このため、第3代スルタンのマリク・シャーは、このアナトリアのトゥルクマーン統御のために、アルプ・アルスラーンが第2代スルタンとなった際に争ったクタルムシュの子、スライマーン・イブン・クタルムシュを派遣しました。ところが、スライマーンは、そのまま、ニケーアを都とするルーム=セルジュークを1077年に建国してしまいました。ルームとは「ローマ」の意味で、ビザンツ帝国領であったアナトリア(小アジア)の地を指す言葉です。
シリア・セルジューク朝
シリア・セルジューク朝(1085~1117)は、3代スルタン、マリク・シャーの弟(第2代スルタン、アルプ・アルスラーンの子)、トゥトゥシュがダマスクスに建国した王朝。
ケルマーン・セルジューク朝
ケルマーン・セルジューク朝(1041~1184年)は、セルジューク朝の始祖であるトゥグリル・ベグの死後、後継者争いに敗れたカーヴルト・ベグの子孫が、イランの東南部にあたるケルマーン地方に建てた王朝。
イラク・セルジューク朝
イラク・セルジューク朝(1117~1194)は、大セルジューク朝の第7代スルタンであるムハンマド・タパルの死後、弟のアフマド・サンジャルが次のスルタンになったことを受け、長男のマフムード2世が現在のイラクからイラン西部の支配権を継承しことで、始まった王朝で、アッバース朝カリフを保護下に置きました。
なお、本家のセルジューク朝は、これらのセルジューク朝の地方政権と区別するために、大セルジューク朝、またそのスルタンも大スルタンと呼ばれることがあります。
こうした状況下、大セルジューク朝の三代カリフ、マリク・シャー(在位1072~1092)の死後、(大)セルジューク帝国は、スルタンの座を巡って争いが絶えず、分裂状態となり、また、地方政権においても、ルーム・セルジューク朝とシリア・セルジューク朝の対立が深刻化しました。
- 十字軍との戦い
一方、アナトリアの領土奪回をめざす東ローマ(ビザンツ)皇帝アレクシオス1世コムネノスは、当時、イスラム勢力の影響下にあった聖地エルサレム奪還を、西方のローマ・カトリック教会に対して呼びかけ、援軍を要請しました。カトリック教会はこれに応え、1096年にローマ教皇、ウルバヌス2世の名のもとに、「聖地エルサレムの奪回」を掲げた十字軍が結成されました。
セルジュ―ク朝の分裂状態に乗じた(第1回)十字軍は、小アジアに侵入し、ルーム=セルジューク朝の都、ニケーアを落とした後も、エデッサ、アンティオキアを占拠しながら、翌99年にはエルサレムを占領し、エルサレム王国(1099~1291年)を成立させました(なお、エルサレムは、十字軍が到来する直前にセルジューク朝から再度、ファーティマ朝の支配下に移っていた)。
この時のエルサレム攻囲戦において、多くのムスリムやユダヤ教徒の住民が犠牲となり、占領後、ムスリムやユダヤ人はエルサレムへの居住を禁止され、エルサレムは、約460年ぶりにキリスト教徒の町となりました。
なお、十字軍は、以後、およそ200年間続きますが、常に交戦状態であったわけではなく、休戦期間もありました。キリスト教徒にとっての大義である聖地エルサレム奪回は、当時のイスラム教徒にはあまり理解されておらず、単にフランク人(イスラムから見た西欧人)の襲撃としか考えられていなかったと言われています。
- セルジューク朝、最後の輝き
十字軍国家(エルサレム王国)と並行して、(大)セルジューク朝は存続しましたが、12世紀になると、四つの地方政権の割拠が鮮明となり、一族の分裂はより深刻になっていました。しかし、それでも、大セルジューク朝の第8代スルタン、サンジャル(在位:1118~1157年)の時代、勢力を盛り返した本家のセルジューク朝は、イラク・セルジューク朝に対して大スルタンとして宗主権を行使するようになっただけでなく、断絶したシリアのセルジューク朝の支配地域を取り戻していきました。
サンジャルはまた、アフガニスタンのガズナ朝を支配下に置き、その後(1121年)、カズナ朝を滅ぼしたゴール朝も服属させ、1130年には、中央アジアのカラハン朝に対しても宗主権をとるなど、大セルジューク朝の権威を東方へと拡大することに成功しました。さらに、セルジューク朝の支配下にあって、サンジャルに反抗したホラズム・シャー朝を屈服させており、セルジューク帝国(大セルジューク朝)は復活した感がありました。
- セルジューク朝の滅亡
しかし、1141年頃、カラハン朝を併合した耶律大石率いるカラ=キタイ(西遼)が東方から移動したことを受け、サンジャルは出撃しましたが、カトワーンの戦いで敗れ、カラ・キタイの侵入を許してしまいました。
また、キタイ人に追われて、サンジャルの地盤であったイラン東部のホラーサーンに多数のトゥルクマーン(「テュルクに似たもの」の意で、テュルク系の遊牧民「オグズ」をさす)が流入し、セルジューク朝に対して反乱を起こしました。1153年、このオグズの反乱を鎮圧しようとしたサンジャルは、逆に、捕虜となって3年間、幽閉されてしまいました。
大スルタンとしての権威を失ったサンジャルは、1157年に病死すると、その後、後継のスルタンを立てられなかったことから、セルジューク帝国は事実上、滅亡しました。さらに、ケルマーン・セルジューク朝も、1186年に、トゥルクマーンによってケルマーンを奪われ、滅亡しました。
一方、大セルジューク朝消滅後も、直接の後継として、イラン西部とイラクを支配し、アッバース朝カリフを保護下に置いていたイラク・セルジューク朝が存続しましたが、一族の中で互いに内紛を繰り返す中で、支配は有名無実化していきました。そうした中、イラク・セルジューク朝は、1194年、アラル海付近に興り、イランに進出してきたホラズム・シャー朝(1077〜1231)によって、トゥグリル3世が討たれ滅亡しました。
- ルーム・セルジューク朝の最後
唯一残ったアナトリア(小アジア)のルーム・セルジューク朝は、第1回十字軍(1096~1099年)後、コニヤに都を置いて、その後も存続し繁栄し、13世紀に入り、最盛期を迎えました。その勢力圏は、東のアルメニアから南の地中海、北の黒海両岸に至るまでのアナトリアを征服し、対岸のクリミア半島にまで至り、アナトリアのトルコ化・イスラム化が進みました。
しかし、13世紀後半になると、中央アジア方面からモンゴル帝国のフラグの侵入を受け、1278年に、イル=ハン国の属国となり、その後、後継者を立てられなったため1307年に消滅しました。こうしてセルジューク朝の最後の地方政権、ルーム・セルジューク朝が滅んだことで、セルジューク朝は名実ともに滅亡しました(一般的には、サンジャルの死の1157年をセルジューク朝の終焉の年とされる)。
<関連投稿>
イスラム史1:ムハンマドと正統カリフ時代 メッカを起点に
イスラム史2:ウマイヤ朝 世襲アラブ帝国とカルバラの悲劇
イスラム史3‐1:アッバース朝 権威の象徴としてのイスラム帝国
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イスラム史6:ティムール帝国 中央アジアのトルコ・モンゴル帝国
イスラム史7:オスマン帝国 イスラム王朝最後の輝き
イスラム史8:サファービー朝 イラン全土を支配したシーア派国家
イスラム史9:ムガール帝国 インドへ ティムールの末裔たち
<参照>
セルジューク朝(世界史の窓)
セルジューク朝(世界の歴史マップ)
セルジューク朝とは(コトバンク)
セルジューク朝(Wikipedia)など
(2022年6月30日)