オスマン帝国:イスラム王朝最後の輝き

 

今回、取り上げるオスマン朝は、ウマイヤ朝とともにヨーロッパを最も恐怖に陥れたイスラムの王朝だったかもしれません。東ローマ帝国を滅ぼし、プレヴェザでスペインを破っただけでなく、ウィーンを2回包囲したイスラムの大国の歴史をみてみましょう。

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オスマン朝(オスマン=トルコ)(1299~1922年)は、アナトリア(小アジア)西北部を中心に、オスマン=ベイ(ベイは君侯の意)(オスマン1世)によって建てられたスンニ派のイスラム帝国です。国名の由来は、建国者の一族がトルコ人のオスマン族だったことによります。

 

13世紀末から20世紀初頭まで600年以上続き、アッバース朝(750年~1258年)と並び、長い繁栄を続けたオスマン帝国は、西アジア・バルカン半島・北アフリカ・アラビア半島に領土を拡大し、東ヨーロッパ、西アジア、北アフリカを支配しました。

 

 

  • オスマン朝の隆盛

 

13世紀のアナトリア西部は、セルジューク朝の地方政権ルーム=セルジューク朝が支配していましたが、13世紀半ばにモンゴル人のイル=ハン国によって滅ぼされると、小アジアにはトルコ人のイスラム戦士の集団である「ガーズィー(ガージー)」が無数に生まれ、互いに抗争していました。その中で、東から移動してきた「オスマン」とよばれる集団が勢力をのばし、やがて1299年、小国家(地方政権)を樹立しました(都はアナトリア地方のブルサ)。

 

その後、オスマン1世の後を継いだ子のオルハンの時代、オスマン朝は、ダーダネルス海峡を渡って、ヨーロッパに向かって領土を拡大し、イスラム国家としては、はじめてバルカン半島に領土を獲得しました。

 

3代皇帝ムラト1世(位1359~89)は、バルカン半島のアドリアノープルに遷都し、「イェニチェリ」と呼ばれる精鋭部隊を擁して、ビザンツ帝国(の首都コンスタンテノープル)を囲むように、その領土を次々と侵略・占拠していきました。

 

イェニチェリ」(「新しい兵士」の意)は、新領土となったバルカン半島で、征服地の白人キリスト教徒の少年たちを、奴隷として集めて特殊訓練した歩兵軍団で、ムラト1世によって創設されました。首都に集められた少年たちは、イスラムに改宗させられ、共同生活をしながら軍事訓練を受けました。彼らは、歩兵ですが、鉄砲で武装し、オスマン皇帝直属軍(親衛隊)として帝国の軍事行動の中心となって活動しました(1826年に廃止)。

 

次のバヤジット1世(位1389~1402)の時には、ニコポリスの戦い(1396)で北方のハンガリー王ジギスムントとも戦って勝利しています。

 

 

ティームル帝国に敗北

 

こうして、バルカン半島で足固めをしたオスマン朝は、その後、アナトリア地方の東部で領土を拡大しようとしましたが、ここで立ちはだかったのが、トルコ系蒙古人のティムール帝国(1370~1500)でした。モンゴル帝国の復活を夢見たと言われる創始者のティムールは、1402年、中央アジアやペルシャ地域を統一して、ティムール帝国を建国、イラン・メソポタミアを領土に加えて、アナトリア地方にまで進撃してきました。

 

このティムールを迎え撃ったアンカラの戦い(1402)では、オスマン朝は大敗し、バヤジット1世は捕虜にされ、翌年、病死しました。(これで、オスマン帝国は1413年まで、空位状態となったことから、形式的にいったん滅亡したとする立場もある。)

 

このためオスマン帝国は一時衰えましたが、ティムール帝国は次ぎに矛先を明に向けたことや、、ティムールの死もあり、オスマン帝国は息を吹き返しました。バヤズィトの子メフメト1世(在位: 1413~1421)は、1412年に帝国の再統合に成功し、すぐにアンカラの戦い以前の領土を取り戻すると、オスマン朝は再び西へ領土の拡大に動きました。

 

 

  • ビザンツ帝国の滅亡

 

1453年5月、若き第7代スルタン、メフメト2(メフムット)2世(1432~1481年)が、陸と海からの総攻撃でついに、コンスタンティノープルを陥落させ、ローマ帝国の栄光を誇る都に入城、東ローマ(ビザンツ)帝国を最終的に滅ぼしました。

 

コンスタンチノープルはオスマン朝の首都となり、やがてイスタンブールと改称されました。メフムット2世は、戦争の天才であるとともに開明的な文化人でもあったと言われ、多彩な民族の感性を融合するオスマン文化の基礎を築きました。

 

ビザンツ帝国を滅ぼした後も、メフメト2世の征服活動は継続されました。北イタリアの商人を黒海海域から駆逐して、黒海、地中海東部を押さえると、オスマン帝国は、さらに「クリミア半島」を占拠し、バルカン半島に入ってセルビア・ボスニア・ヘルツェゴビナを侵略しました。

 

また、セリム1世(位1512~20)の時には、戦いの矛先は、シリア・エジプトに向けられました。東部アナトリアを押さえていたイランのサファヴィー朝に、1514年のチャルディランの戦いで勝利し、サファヴィー朝を圧迫しながらシリアに進出しました。

 

さらに、セリム1世はエジプトに入り、1517年には、オスマン・マムルーク戦争で、マムルーク朝を滅ぼし、アラブ地域を併合しました。結果として、それまでマムルーク朝が持っていたイスラム教の二大聖地メッカとメディナの保護権も掌握し、オスマン朝の皇帝、スルタンは、「二聖都の守護者」として宗教的権威を保持するようになり、スンナ派イスラム世界の盟主の地位を獲得しました。

 

 

  • スルタン=カリフ制

 

マムルーク朝は、モンゴルの攻撃で滅亡したアッバース朝のカリフを保護していましたが、セリム1世は、マムルーク朝を滅ぼしたときに、マムルーク朝の庇護下にあったアッバース朝の末裔からカリフの称号を譲リ受けたとされていました。それ以降、オスマン帝国のスルタンは、「カリフ」の後継者を名乗りました。

 

もともと、スルタンは、皇帝など世俗権力者(世俗の王)という意味の称号で、カリフは、宗教的権威者として、全イスラム信者の指導者としての称号でしたので、これによって、オスマン皇帝は、19世紀頃から、両方を兼ね備えた「スルタン=カリフ」と呼ばれるようになりました。

 

これまでのカリフ制では、カリフがスルタンを任命し、世俗の統治権を委ねていましたが、オスマン帝国では、「スルタン・カリフ制」となり、スルタンがカリフを兼任し、カリフを宣言するスルタン自らが、すべての権限を持つ指導者として君臨するようになったのです。

 

もっとも、アッバース朝の末裔からカリフの称号を委譲されたというは、同時代の資料にはスルタン=カリフ制についての記述がないことから、19世紀頃に、オスマン朝の権威づけのために作られた創作で史実ではないとされています(少し前までは事実として語られていた)。18世紀末以降ヨーロッパ列強の進出に対抗し、衰退期に入ったオスマン帝国のスルタンが内外にその影響力を維持するために主張されたものだとの見方が一般的です。

 

 

  • スレイマン1世の時代

 

このように巨大化したオスマン朝は、第10代スルタン、スレイマン1世(1520年~1566年)の時代にも、さらに領土拡大を続け、最盛期を迎えます。スレイマン1世は、南イラクから、チュニジア、アルジェリアなどアフリカ北岸へと領土を広げ、バルカン半島では、1526年、モハーチの戦いでハンガリーを服属させました。

 

1529年には、皇帝カール5世の神聖ローマ帝国に侵入、首都ウィーンを包囲しました。この第一次ウィーン包囲では、陥落寸前に、例年より早い寒気の到来と、兵糧不足のため、オスマン帝国軍は攻撃をあきらめて包囲を解きました。さらに、西にあっては、1538年に、プレヴェザの海戦で、スペイン・ヴェネツィア連合軍を破って、東地中海の制海権を確立しました(地中海を制圧)。(この状況は17世紀末まで存続した)。

 

このように、オスマン帝国は、地中海を取り囲むように、アジア、ヨーロッパ、アフリカの三大陸に領土を持つ大帝国に発展しました。オスマン帝国の領土もこの時に最大となり、これは、ローマ帝国以来の大きさとなりました。

 

 

  • カピチュレーション

 

このころからオスマン朝は、ヨーロッパの国際関係に大きな影響力を持つようになります。実際、この時期、外交や経済の力関係において、イスラムがヨーロッパ諸国よりも上でした。その事例として、オスマン帝国が、外国に「恩恵」として与えたカピチュレーションがあります。

 

カピチュレーションは、外国政府や外国から商売などでやってくる異教徒に、オスマン領内で与える特権のことで、例えば、スレイマン1世は、フランス王フランソワ1世に恩恵として、オスマン領内のフランス人に対して、租税を免除し、治外法権(領事裁判権)、港湾での通商権、エルサレムの守護権などの特権を与えました。こうした不平等条約は、この当時、貧乏で弱小だったフランスを助けてあげる目的の文字通リ「恩典」として与えられました。

 

フランスは、イタリアの支配権をめぐって、ドイツ、スペインのハプスブルク家と対立関係にあり、オスマン朝に接近して友好関係を結んだのです。カピチュレーションは、やがて、1579年にイギリス、1613年にオランダとの間にも結ばれていきました。

 

 

  • オスマン帝国の国内統治

国内においては、バルカン半島と、アナトリア地方、シリアの一部は、オスマン皇帝の直轄地で、それ以外のエジプト、アラビア半島などは、在地の有力者に統治を任せて、税金だけを納めさせるという、比較的緩やかな支配の仕方が採用されました。

 

直轄地では、セルジューク朝やマムルーク朝でおこなわれていたイクター制の発展させた軍事封土制(ティマール制)が行われました。これは、スィパーヒーと呼ばれる騎士に一定の地域の徴税権をあたえるかわりに、軍事奉仕を義務づけるという制度です。

 

オスマン朝は、各地にマドラサと呼ばれるイスラム法学の高等教育機関を設けて、ウラマー(イスラム法学者)を育成しました。ウラマ―には民族に関係なくなることができ、ウラマーたちは有能な官僚として、行政や司法、教育を担当しました。また、イエニチェリなど奴隷出身の者でも、有能であれば高い地位につくことができました。

 

こうした公平な官吏登用政策は、異教徒への宗教政策にも反映され、ギリシア正教やユダヤ教など、イスラム教以外の宗教を信じる者たちに対して、オスマン朝は、ミッレトいう共同体を作らせ、それぞれのミッレトに自治と安全保障を与え、イスラム法にもとづく生活を強制しませんでした。

 

 

  • オスマン帝国の衰退

こうして、内外で盤石の体制を築いたオスマン帝国も、スレイマン1世以後、ゆっくりと衰退していきました。

 

まず、1571年に、レパントの海戦で、スペインの艦隊に敗れました(この戦いの勝利からスペイン艦隊は無敵艦隊と呼ばれるようになった)。オスマン帝国の敗戦は、イスラム勢力が、やがてヨーロッパに従属していくことになる象徴的な出来事となりました。もっとも、この敗北で一気に地中海の支配権を失ったわけではなく、東地中海は引き続きオスマン帝国が支配し、ヨーロッパとの勢力関係に大きな変化はありませんでしたが、この時期くらいから、東西貿易の流れが地中海から大西洋に徐々に移っていくことになります。

 

また、神聖ローマ帝国(オーストリア)との戦争も断続的に行われ、1683年、オスマン軍が再びウィーンを攻め、包囲しました(第二次ウィーン包囲)。しかし、2度の攻撃でもウィーンを陥落させることができずに失敗に終わると、今度は逆にオーストリア側が優位に立ちました。劣勢のオスマン朝は、1699年にカルロヴィッツ条約でハンガリーの支配権を放棄しました。ハンガリーはオーストリアの支配下に入ります。

 

第二次ウィーン包囲の失敗は、オスマン帝国の優位性が逆転していく直接的なきっかけとなり、カルロヴィッツ条約が、オスマン帝国の終わりの始まりとみられています。

 

さらに、黒海北岸にあるオスマン朝の領土も、ロシアによって徐々に奪われ、前述したフランスやイギリスもカピチュレーションを逆手にとって、オスマン朝から利権を獲得していきました。スレイマン大帝が与えたカピトレーションは、オスマン帝国が軍事的、経済的に優位であることを前提とした制度でした。ですから、後にヨーロッパ諸国とオスマンの経済力が逆転すると逆効果となり、経済的利権が奪われる手段にされたのでした。(オスマン帝国は、19世紀以後、20世紀のトルコ革命に至るまで、「不平等条約」による経済的「搾取」によって圧迫される運命に陥った)。

 

加えて、17世紀後半以後は、国内でもスィパーヒーの反乱や、地方総督の自立化傾向が強まり、オスマン朝にも分裂の危機がでてきました。弱体化の拍車がかかりました。

 

このように、オスマン帝国の力の相対的な低下が続く中、20世紀に入って、勢力の挽回を図ろうとしたオスマン帝国は、ロシアに対抗するために、第一次世界大戦において、三国同盟側に立って参戦しましたが敗れ、帝国は分割され事実上解体し、領土はほぼ小アジア半島だけになりました。

・パレスチナ・イラク・トランスヨルダンはイギリスの委任統治
・シリアはフランスの委任統治
・エジプトはエジプト王国として独立
・アラビア半島はヒジャーズ・ネジド王国

 

このとき、トルコの再建をめざした、ケマル・パシャアタチュルク)は、進入したギリシャ軍と戦ってこれを退けると、1922年にスルタン制を、24年にはカリフ制を廃止するなどの政教一体の改革を行い、アナトリアから新しく生まれ出たトルコ民族の国民国家、トルコ共和国を建国したことで、オスマン帝国は滅亡しました。

 

オスマン=トルコの国名

オスマン朝(オスマン帝国)は、「オスマン=トルコ」と呼ばれることが多かったのですが、この言葉は現在ではほとんど使われていません。確かにオスマン朝は、トルコ系民族を出自としていますが、トルコ民族だけで構成された国家ではなく、多様な民族から構成されていて、トルコ人が支配者層を独占していたわけでもありませんでした。

 

 

<関連投稿>

イスラム史1:ムハンマドと正統カリフ時代 メッカを起点に

イスラム史2:ウマイヤ朝 世襲アラブ帝国とカルバラの悲劇

イスラム史3‐1:アッバース朝 権威の象徴としてのイスラム帝国

イスラム史3‐2:ファーティマ朝 北アフリカを支配したシーア派の雄

イスラム史3‐3:サーマン朝とブワイフ朝 イランとイラクを実質支配

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イスラム史3‐6:後ウマイヤ朝からムワッヒド朝 ヨーロッパ最後の砦

イスラム史4:イル=ハン国 アッバース朝を滅ぼしたモンゴル王朝

イスラム史5:マムルーク朝 トルコ系奴隷兵が建てた王朝

イスラム史6:ティムール帝国 中央アジアのトルコ・モンゴル帝国

イスラム史8:サファービー朝 イラン全土を支配したシーア派国家

イスラム史9:ムガール帝国 インドへ ティムールの末裔たち

 

 

<参照>

詳説世界史 (山川出版)

オスマン帝国 (世界史の窓)

オスマン帝国 (世界の歴史マップ)

オスマン帝国とは (コトバンク)

オスマン帝国 (Wikipedia)など

 

(2022年7月3日)