ムガール帝国:インドへ、ティームールの末裔たち

 

16~17世紀にかけて、西アジアから南アジアに、オスマン朝、サファビー朝、ムガール朝というイスラム3帝国が君臨しました。今回は、この中のムガール帝国についてまとめました。

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16世紀、オスマン朝、サファヴィー朝と同じ頃、インドでもティムール帝国崩壊を遠因として、イスラムの大国、スンニ派のムガル帝国(1526~1858) が、ティムールの子孫バーブルによって、勃興しました。

 

この地域へのイスラム化は、アフガニスタンに成立したガズナ朝(962~1186)、ゴール朝(1148~1215年)の時代、ガイバル峠経由で始まりました。1206年に、ゴール朝の武将アイバクがインド内にたてた最初のイスラム王朝である奴隷王朝(1206~1290)とその後のデリー=スルタン朝(1206~1526年)の時代に次第に定着し、ムガール帝国の時代にイスラムの支配が確立した。ただし、民族的には、トルコ化していました。

 

 

  • バーブルの建国

 

ムガール帝国建国者のバーブル(位1526~30)は、ティムールの第5代目の直系子孫でチンギス・ハンの血を引くと言われ、中央アジアの都市サマルカンドを本拠地にして、フェルガナ地方を支配した際には、ティムール帝国を再建、ひいてはモンゴル帝国の復活を夢見ていたと言われています。

 

しかし、ティムール帝国を滅ぼしたウズベク族(ウズベク人のシャイバニ)の南下により、本拠地中央アジアを追われ、一族を率いて各地を転戦して、アフガニスタンのカーブルに移動しました。その後、サマルカンド奪還を目指して、ウズベク人の勢力と何度か戦いましたが、結局失敗しました。

 

そこで、方向転換して南下したバーブルは、1526年、内紛で混乱していたデリー・スルタン朝最後ロディー朝を、パーニパットの戦いで破ると、デリーに入城して、北インドにムガール帝国を建国しました。国名の「ムガール」とはモンゴルが訛まったもので、インドでは中央アジア方面からの侵入者をそう呼んでいたそうです。

 

バーブルの跡を継いだのが、息子のフマーユーンでしたが、ムガール帝国はまだインド全域を支配しているわけではなく、北インドにも敵対勢力がたくさんありました。

 

フマーユーン帝(位1530〜1556)は、アフガン系スール朝(1540〜1555)のシェール・シャーに敗れて、一時イランのサファヴィー朝に逃れましたが、シュール・シャーの死後に、サファヴィー朝の兵力を借りながら勢力を盛り返し、再びデリーの支配権を回復できました。しかし、宮廷の図書館の階段から落ちる事故で死去しました。

 

 

  • アクバルの統治

 

代わって、帝位についた第3代のアクバル(位1556〜1605)は、まだ13歳でしたが、バーブル以来の家臣や乳母の一族などに支えられ脆弱だった権力基盤を強化し、彼らの専横が目立ってくると、権臣や後宮の勢力を徐々に抑えながら、権力を掌中に収めていきました。

 

このアクバル帝のとき最盛期となったムガル帝国は、現在のアフガニスタン・パキスタンから北インドにかけての広大な地を領有しました(ただ、インド全体を支配しているのではなく、インド南部にはヴィジャヤナガル王国が繁栄していた)。また、インド北部のアグラ(アーグラ)に城を建設し、デリーから遷都しました。

 

また、アクバル大帝は、内政面では、州県制を採用して中央集権的な統治(官僚)機構を整え、位階制・旧余地制にもとづく軍隊を編制し、土地測量をおこなって税制を確立するなど、種々の改革を断行して帝国の基礎を固めました。

 

位階制(マンサブタール制):臣下に給与をともなう位階(マンサブ)を与え、それに応じた数の兵馬の維持を義務付けたもの。

 

旧余地制(ジャーギール):ムガル帝国の給与地、知行地のことで、皇族、高官から下級官吏に至るまで禄位(ろくい)(マンサブ)に見合う給与として与えられた土地のことをいう。

 

アクバルらムガル帝国の支配者一族はトルコ系民族で、スンニ派のイスラム教徒であるのに対して、ムガール帝国の大多数はインド人で、宗教はヒンズー教です。そこで、アクバルは、インド人に対して融和的な異教徒懐柔策を巧みに進めました。

 

まず、北部インドの有力部族で、好戦的なラージプート族(ヒンズー教徒)の諸侯と、積極的に婚姻関係を結び、民族の融和を図りました。アクバル自身も、このヒンドゥー教徒の王女を妻に迎え、ラージプート族を懐柔し内側に取り込んでいきました。加えて、アクバルは、ヒンドゥー教徒を高官や将軍に登用しました。

 

また、1564年には、イスラムの慣行に従い、ヒンドゥー教徒など非イスラーム教徒に課せられていたズヤ(人頭税)を廃止しました。

 

さらに、ヒンズー教だけでなく、他の世界の諸宗教(ジャイナ教・イスラム教・ゾロアスター教・キリスト教)を学んだアクバル大帝は、どの宗教も究極は一つの考え方から、その折衷をみずから試み、皇帝を首長とするディーネ・イラーヒー(神の宗教)を創始しました。新しい宗教をつくって、インドを統合しようとしたのです(宗教的対立解消の目的は達成することはできなかった)。

 

なお、16世紀初め、パンジャーブ地方のラホールを拠点として、イスラーム教の影響を受けてヒンドゥー教の改革を掲げたナーナク(1469-1538)が、ヒンドゥー教とイスラム教を融合したシク教を創始しています(一神教信仰、偶像崇拝の否定、カーストの否認などが説かれた)。

 

アクバルによって、イスラム教とインド固有の宗教であるヒンドゥー教徒の融和が図られたことで、イスラム文化とヒンドゥー文化との融合がさらに進み、「混合文化」とでも言うべき特色あるインド・イスラーム文化が宮廷を中心に栄えました。

 

第4代のジャハーン・ギール(位1605〜1627)、第5代のシャー・ジャハーン(位1628〜1658)の治世はインド・イスラーム文化の黄金時代と評され、とりわけ、シャー=ジャハーンが、愛妻ムムターズの死を悼んで建造したタージ=マハルは世界的に有名です。

 

 

  • ムガール帝国、最後の輝き

 

しかし、タージマハルの建造に多額の財政赤字を抱えたシャー=ジャハーンは、帝位を子のアウラングゼーブに奪われて、アグラの宮殿に幽閉されてしまいました。父親を監禁して即位したアウラングゼーブ(位1658~1707)は、繁栄したムガール帝国時代の最後の皇帝となりました(首都は再びデリーに戻る)。アウラングゼーブの治世の後半、自ら南インドのデカン地方へ遠征し、これを平定し、ムガール帝国の版図を最大となり、インド南端を除く全インドが統一されました。

 

一方で、アウラングゼーブは、非常に敬虔なイスラム教徒で、インド人に妥協してイスラムの教えを曲げることを嫌いました。アクバル以来廃止されていたヒンドゥー教徒への人頭税(ジズヤ)を1679年に復活しただけでなく、ヒンドゥー教徒やシク教徒、ならびに同じイスラーム教のシーア派を弾圧しました。

 

このため、当然インド人の反発を招き、非イスラム教徒の離反、反乱があいつぐようになりました。アウラングゼーブは反乱鎮圧のため転戦を繰り返す中、宮廷の浪費、経済政策の失敗などもあり、財政は窮乏していきました。

 

加えて、17世紀後半からヨーロッパ勢力の侵入も始まり、イギリスが、マドラス、ボンベイ、カルカッタに、またほぼ同時期にフランスもシャンデルナゴル、ポンディシェリに、それぞれ商館を開きました。

 

ただし、アウラングゼーブは軍人としては有能だったので、アウラングゼーブが生きていた間は、ムガール帝国の威厳は保たれましたが、アウラングゼーブの死後は凡庸な皇帝が続き、各地の諸侯がムガル帝国から離反・自立していったため、ムガル帝国は急速に衰退に向かっていきました。結果として、ムガール帝国は、デリー周辺を領土に持つだけの一地方政権になってしまったのです。

 

マラータ同盟

かわって、勢力を拡大してきた政権が、パンジャブ地方のシク教国、ラージプート諸侯国、マラータ同盟などです。この中でも特筆されるのが、バラモン出身の宰相を中心とするマラータ族諸侯の連合政権であるマラータ同盟です。

 

マラータ族は、17世紀中ごろからデカン西北部の山岳地帯で急速に台頭してきたヒンドゥー教徒で、これを率いたシヴァージー(1627〜1680)は、1674年にマラーター王国を創始しました。彼の死後にマラーター勢力は一時衰えましたが、18世紀前半に再び強力となり、マラーター同盟をたて、ムガル帝国を圧倒し北インド一帯を支配下に置きました。

 

これに対して、ムガール帝国は1761年、アフガン族のアフマッド・シャー・ドゥッラーニーと協力して、デリー近くのパーニパットで戦い、インド統一を目指したマラーター同盟軍を粉砕しました。この結果、マラーター同盟はほぼ解体し、諸侯は事実上独立しました。

 

 

  • ムガール帝国の滅亡

 

その後、1757年のプラッシーの戦いで、フランスをインドから駆逐し、ベンガル地方に支配権を確立したイギリスは、その後、18世紀後半以降、東インド会社を通じて、インド地域の影響力をますます強めていきました。

 

イギリス東インド会社は、1775年から1819年にかけて前後3回、マラーター同盟から独立した諸侯と戦い(マラーター戦争)勝利し、デカンの支配権を奪取しました。

 

さらに、1858年に、インド最初の民族的反英反乱である「インド大反乱(セポイの乱)」が勃発すると、イギリスは、反乱軍に擁立されたバハードゥール・シャー2世を捕らえてビルマ(現ミャンマー)のラングーンに追放しました。

 

セポイの乱の後、1877年、イギリスはムガール皇帝を廃し、東インド会社を解散させたうえで、イギリス国王がインド皇帝を兼ねるイギリス領インド帝国を成立させました。こうして、ムガール帝国は名実共に滅亡し、インドはイギリスの植民地となったのです。

 

<関連投稿>

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イスラム史7:オスマン帝国 イスラム王朝最後の輝き

イスラム史8:サファービー朝 イラン全土を支配したシーア派国家

 

 

<参照>

詳説世界史(山川出版)

ムガール帝国 (世界史の窓)

ムガール帝国 (世界の歴史マップ)

ムガール帝国とは (コトバンク)

ムガール帝国 (Wikipedia)など

 

 

(2022年7月4日)