サラディンが建国したアイユーブ朝を滅ぼし、アッバース朝を滅亡させたモンゴルの侵攻を止めたのが、エジプトに興ったマムルーク朝でした。今回は、奴隷出身の将校らが建てたマムルーク朝についてまとめました。
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- マムルーク軍団の権力掌握
マムルーク朝(1250~1517年)は、13世紀後半から16世紀初め、マムルーク(奴隷)出身の司令官によってカイロを都に開かれたイスラム政権です。マムルークとは、イスラム世界ではトルコ系奴隷兵のことで、アイユーブ朝でもその軍事力の担い手となっていましたが、1250年にクーデターによってマムルーク出身の青年将校バイバルスら(バフリー・マムルーク)が、アイユーブ朝から権力を掌握しました。
ただし、マムルーク朝が建国さしたと言っても、シリアにはまだアイユーブ家の勢力が残存し、また、エジプトではアラブ遊牧民が大規模な反乱を起こしたことから、成立当初のマムルーク政権は不安定な状態でした。
そこで、マムルークの将軍たちはアイユーブ朝の権威を利用しようとし、アイユーブ朝スルタンの妻シャジャルを担ぎ出し、彼女を女性スルタン(スルタナ)としました。シャジャルは、間もなくマムルークの有力者アイバクと結婚し、アイバクにスルタンの称号を授けました。ただし、それでも、マムルークたちは互いに反目し、政権は安定しませんでした。
- バイバルスの時代とカリフ継承
そんなとき、モンゴル帝国のフラグの西アジア遠征軍が姿を現すと、1258年には、バグダードが占領され、アッバース朝は滅亡し、イル=ハン国が建国されました。このモンゴルの脅威に対して、マムルーク朝はバイバルスを中心に結束し、エジプトへの侵入を企てたモンゴル軍を、1260年のアインジャールートの戦いで打ち破りました。
この勝利をもたらしたバイバルスは、第5代スルタンに就任(在位1260〜1277)し、それ以降、バイバルスの子たちにスルタン位が世襲されました。バイバルスは、1262年に、アッバース朝カリフの後裔(カリフの叔父)を引き取り(保護し)、新しいカリフとしてカイロに擁立しました。形式的には、その子孫が代々カリフとなり、マムルーク朝の支配者はスルタンに任命されるというカリフ制を保持する形となりました。(もっとも、イスラム教スンナ派の正統神学ではこのカリフは認められていない。)
また、十字軍の侵入と戦って撃退し、その後、1291年に、十字軍の建てたエルサレム王国の最後の拠点アッコンを攻略し、キリスト教勢力を西アジアから一掃しました。さらに、マムルーク朝は、イスラムの聖地メッカとメディナも保護下に置いたことで、イスラム世界の盟主として、繁栄しました。
- カイロの発展
マムルーク朝の首都は、ファティーマ朝以来の「カイロ」に置かれ、イスラーム世界の中心地として栄えました。もっとも、アッバース朝の崩壊前から、イスラム世界の中心は、バクダットから実質的にカイロに移っており、マムルーク朝においても、カイロには、多くのモスクなどを建設してイスラム文明は興隆しました。また、地中海・インド洋貿易によって利益を独占し、その首都カイロは、国際的な商業都市として繁栄し、世界文明の中心となりました。
このカイロ商人は、カーリミー商人と言われてアラビア海方面で活躍し、東西交易のルートを抑え、16世紀初頭までインド洋交易圏でのダウ船による海上貿易を支配しました。また農業も向上し、小麦・大麦などの主産物に加えて、サトウキビの栽培とそれを原料とした砂糖の生産が増え、主要な輸出品となりました。
- マムルーク朝の衰退と滅亡
しかし、⒕世紀の半ば以降になると、ヨーロッパでのペスト(黒死病)の流行がマムルーク朝にも及びました。この結果、人口が減少し、凶作による飢饉も重なって次第に国力が衰えてきました。
そうした中、15世紀末に、ポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマが、カリカット到達によってインド航路が開拓され、ポルトガル勢力のインド洋進出が活発となってきました。1509年には、ディウ沖の海戦でマムルーク朝海軍はポルトガル海軍に敗れてアラビア海の制海権を失いました。
さらに、小アジアに起こったオスマン帝国の圧迫を受けるようになっていたマムルーク朝は、1516年に、シリアに侵入したオスマン帝国のセリム1世の率いるイエニチェリとのマルジュ=ダービクの戦いに敗れ、翌1517年には、カイロを占領されて滅亡しました。
なお、マムルーク朝に保護されていたカリフの地位は、オスマン帝国のスルタンが継承し、スルタン=カリフ制が採用されることになります。
<関連投稿>
イスラム史1:ムハンマドと正統カリフ時代 メッカを起点に
イスラム史2:ウマイヤ朝 世襲アラブ帝国とカルバラの悲劇
イスラム史3‐1:アッバース朝 権威の象徴としてのイスラム帝国
イスラム史3‐2:ファーティマ朝 北アフリカを支配したシーア派の雄
イスラム史3‐3:サーマン朝とブワイフ朝 イランとイラクを実質支配
イスラム史3‐4:セルジューク朝 最初のスルタン、十字軍を誘発
イスラム史3‐5:アイユーブ朝 英雄サラディンが建てた王朝
イスラム史3‐6:後ウマイヤ朝からムワッヒド朝 ヨーロッパ最後の砦
イスラム史4:イル=ハン国 アッバース朝を滅ぼしたモンゴル王朝
イスラム史6:ティムール帝国 中央アジアのトルコ・モンゴル帝国
イスラム史7:オスマン帝国 イスラム王朝最後の輝き
イスラム史8:サファービー朝 イラン全土を支配したシーア派国家
イスラム史9:ムガール帝国 インドへ ティムールの末裔たち
<参照>
マムルーク朝(世界史の窓)
マムルーク朝(世界の歴史マップ)
マムルーク朝とは(コトバンク)
マムルーク朝(Wikipedia)など
(2022年7月2日)