アッバース朝に滅ぼされたウマイヤ朝でしたが、一部はイベリア半島に逃れて、「後ウマイヤ朝」として、ウマイヤ朝の再興を期していました。また、西方のアフリカ地方では、すでに1000年代に、北アフリカの原住民の間に、「ベルベル人」を中心にイスラムが浸透していくなか、モロッコ地方に「ムラービト朝(1066~1147年)」と「ムワッヒド朝(1169~1250年)」が建設されました。今日、北アフリカ諸国がほとんどイスラム教国ですが、始まりはこの時代でした。今回は、イベリア半島と北アフリカにおけるイスラムの歴史を概観します。
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<後ウマイヤ朝>
後(こう)ウマイヤ朝( 756〜1031)は、アッバース朝に滅ぼされたウマイヤ朝カリフの子孫がイベリア半島に渡って開いたイスラム王朝です。711年から718年にかけて、ウマイヤ朝は西ゴート王国を滅ぼしてイベリア半島を征服しましたが、750年、ウマイヤ朝が倒れアッバース朝が興ると、カリフとなったアブー・アル=アッバース(サッファーフ)は、ウマイヤ家を徹底的に粛清しました。
しかし、ウマイヤ家の一人アブド・アッラフマーン1世(祖父はウマイヤ朝第10代カリフ,ヒシャーム)は脱出し、母方の先祖であるベルベル人を頼って西方のアフリカへ逃ました。その後、ジブラルタル海峡を越えてアンダルス(ムスリムによるイベリア半島の呼称)に渡ると、756年のムサラの戦いで、ウマイヤ朝滅亡後、アンダルスを支配していた独立勢力に勝利し、コルドバにウマイヤ朝を再興しました(後ウマイヤ朝の誕生)。
- 「アミール」から「カリフ」へ
このアブド・アッラフマーン1世(在位756~788年)以降、170年以上にわたり、その子孫がアミール(「総督」「司令官」)として当地を支配しました。
後ウマイヤ朝は、10世紀、アブド・アッラフマーン3世の時代に、アンダルスや北西アフリカの支配を再確立し、経済的発展を成し遂げ、最盛期を迎えました。名君と称されたアブド・アッラフマーン3世は、929年、自身の権威を高めて国内の抗争を鎮め、また、アッバース朝に対抗するために、自らカリフを名乗りました。
後ウマイヤ朝は、このときコルドバ首長国から昇格し、王朝の支配者は、アミールの称号からカリフの称号を得ることになりました(アブド・アッラフマーン3世は、912年から929年までアミールとして、929年から961年までをカリフとして統治した)。これによって、イスラム世界にはバグダードのアッバース朝、北アフリカのシーア派・ファーティマ朝、イベリア半島の後ウヤ朝という3つのカリフ国が鼎立する時代となったのでした。
- 西方イスラム文化の開花
後ウマイヤ朝は、政治的にはアッバース朝と敵対関係にありましたが、学者たちはバグダードやダマスクスに赴いて東方イスラーム世界の文化を積極的に吸収し、その成果をイベリア半島に持ち帰りました。
アブド・アッラフマーン3世の前のアブド・アッラフマーン2世(在位:822年 – 852年)の治世には、バグダードからコルドバの宮廷によばれた音楽家のズィルヤーブは、フランス料理の原型となった料理コース、衣服を季節ごとに着替える習慣、髪の手入れ、歯磨きの使い方など、バグダードの優雅で洗練された文化をコルドバにもたらしました。
アブド・アッラフマーン3世の治世では、コルドバの小高い丘に、大理石だけでも4000本が使われたとされるザフラー宮殿(花の宮殿の意味)が建造され、宮中には40万巻の書籍が集められたと言われています。
また、アブド・アッラフマーン3世の息子ハカム2世(961~976年)の下では、文化的な発展を経て、アッバース朝に匹敵するほどの繁栄の時代に達しました。首都コルドバは、バグダードには敵わなかったとされていますが、エジプト、シリア、マグリブのどの都市より上回り、人口50万人以上を擁する西欧で最大の都市となったと言われています。
この当時、後ウマイヤ朝の繁栄に大きな貢献をもたらした背景として、さまざまな宗教や民族が共存しえたことがあげられています。イスラム勢力によるスペイン支配で、一部のキリスト教徒は移住しましたが、大部分は、後ウマイヤ朝の支配下で信仰の自由を許されて暮らしたとされています。ユダヤ教徒も、西ゴート王国が支配した時代には冷酷な扱いを受けることが多かったのですが、イスラム支配下では自由と繁栄を享受したそうです。また、イスラム文明が極めて高度な文明であったので、それを土着のイベリア人が進んで受け入れたことも、安定したムスリム社会を形成したと解されています。
- 衰退から滅亡へ
ヒシャーム2世(在位:976年 – 1009年/1010年 – 1013年)の時代には、宰相で、かつ名将であったアル・マンスール・ビッ・ラーヒが、985年に、スペイン東部のカタルーニャまで攻め込み、997年にはガリシアの一部まで占領するなど、後ウマイヤ朝は勢力を拡大させました。
しかし、アル・マンスール・ビッ・ラーヒが1002年に死ぬと、息子たちの宰相位争いが起こり、またヒシャーム2世以降、カリフの地位をめぐり、アラブ系とベルベル系によるカリフ位の擁立合戦が行われた結果、29年の間に10人のカリフが即位するという政治の混乱が起こり、後ウマイヤ朝は衰退していきました。
さらに、レコンキスタ(国土回復運動)によって、アラゴン王国・カスティーリャ王国に圧迫された結果、1031年に最後のカリフ、ヒシャーム3世(1027~1031年)は、大臣たちによる「評議会」によって廃位と追放が決定されて、後ウマイヤ朝は滅亡しました。
- 後ウマイヤ朝後のレコンキスタ
1031年の後ウマイヤ朝の滅亡後、各地の豪族たちが独立し、イスラムのイベリア支配は20余り(26とも30とも)の小王国(タイファ)が分裂割拠する時代となりました。その中でも、レコンキスタへの対抗という意味で、重要な位置を占めたのは、サラゴサ、セビリャ、グラナダの3王国でした。
サラゴサ王国(1018年 – 1110年)は、アラゴン王国の歴代の王の攻撃や、教皇の呼びかけによる連合軍の遠征(1064)を撃退して、持ちこたえました(その占領は12世紀初頭にまでもちこされた)。その後(1085年)も、カスティーリャ=レオン王国が、トレドを占領し、さらに南下してきましたが、セビリャ王国は、ムラービト朝(1056〜1147)の援軍を受け、これを撃退しました。
しかし、13世紀初頭、カスティリャ・アラゴン・ナバラの連合軍がムラービト朝にとって代わったムワッヒド朝(1130〜1269)の軍隊に決定的勝利をおさめたことから、コルドバ王国とセビリャ王国はヨーロッパ勢に奪い返されました。
その結果、13世紀半ばには、イスラーム勢力はグラナダ王国1国を残すのみとなりました。グラナダ王国は、もともと、後ウマイヤ朝が衰えた11世紀始めに、ズィール朝の一族がこの地を征服し、1013年にタイファ諸国の1つであるグラナダ王国として独立しましたが、11世紀にムラービト朝に、12世紀にムワッヒド朝に征服されました。
その後、1232年、アラブ人ナスル族出身のムハンマド1世が、ナスル朝グラナダ王国(1232~1492)を建国しました(一般的にグラナダ王国と言えば、このナスル朝支配のイスラム王国を指す)。
ナスル朝グラナダ王国は、イベリア半島における最後のイスラム王朝として繁栄し、有名なアルハンブラ宮殿も建設されましたが、キリスト教徒の国土回復運動が発展し、 1236年にコルドバを占領されると、グラナダが、レコンキスタに対する最後の砦となりました。
1481年、カスティーリャ王国とアラゴン王国の連合王国(スペイン王国) との グラナダ戦争がはじまり、1492年1月、グラナダはスペイン・キリスト教徒によって陥落させられました。これによって、800年余にわたって続いたイベリア半島におけるイスラムの支配は終焉しました。
では、一時、イベリア半島におけるイスラム勢力を支えた北アフリカのイスラム王朝、ムラービト朝とムワッヒド朝について、みてみます。
<ムラービト朝 >
ムラービト朝(1056〜1147)は、11世紀半ば頃、西サハラのベルベル人修道士(ムラービト)が、イスラム宗教運動をおこし、北アフリカに建てた国です。アッバース朝カリフの権威を承認し、国内の統一を図るとともに、モロッコからガーナ、さらにはイベリア半島まで支配しました。なお、ムラービト朝は、スンナ派の中でも、コーランとスンナ(慣行)に忠実な信仰を行う厳格なマーリク派に属します。
西サハラの遊牧ベルベル人サンハージャ族のヤフヤーは、1036年頃メッカ巡礼を行い、その帰途に、スンナ派マーリク派の学者と知り合い、その一人イブン=ヤースィーンを伴って西サハラに戻ると、セネガル川河口の小島に修道場(ラービタ)を設け、コーランとスンナに基づく厳格なイスラーム信仰を実践しました。彼らは修道士という意味でムラービトゥーン、あるいは彼らはヴェールをつけていたのでムタラッスィーン(ヴェールをつけた人)と呼ばれました。ムラービトゥーンは、自らの信仰に基づく異教徒や堕落したイスラーム教徒など、周辺部族に対する聖戦(ジハード)を唱えて、遠征軍を南下させました。
- ムラービト朝の聖戦
1053年、ムラービト朝は、モロッコ南東部のオアシス都市で、サハラ交易の拠点であったシジルマーサを陥落させ、最終的にモロッコ全土を征服しました(1070年頃には新都マラケシュを建設)。その後、マグリブ(チュニジア以西の北アフリカ)では、東部のシーア派のファーティマ朝と戦い、その領土を侵食していきました。
その一方で、ムラービト朝は南進も続け、サハラ南縁のニジェール川上流域で、サハラの岩塩とアフリカ内陸の金の交易で栄えていたガーナ王国を1076年に占領し、滅ぼしました。
ムラービト朝の侵入以後、西アフリカではイスラム化が進行し、ガーナ王国の後に興ったマリ王国(1240〜1473)もイスラム教を受容し、スーダン方面でもイスラム教の布教が積極的に推し進められました。
- イベリア半島への侵出
さらに、ムラービト朝は、イベリア半島にも進出していきました。当時のイベリア半島では、1031年に、後ウマイヤ朝が滅亡し、イベリア半島南部のアンダルス地方は、20余りの小王国に分裂(ターイファ)する中、キリスト教徒の国土回復運動(レコンキスタ)が優勢となっている状況でした。
実際、1085年には、カスティーリャ=レオン王国のアルフォンソ6世(位1072〜1109)が、イスラムの拠点トレドを占領し、その後さらに南下して、イスラム側の小王国セビリャを攻めてきました。
そのため、アンダルスのイスラーム教諸国は、ムラービト朝に応援を要請すると、ムラービト朝スルタンのユースフは、自ら軍を率いてジブラルタルを渡り、1086年のザグラハス(ザッカーラ)の戦いでアルフォンソ6世軍を破りました。
ムラービト朝の遠征によって、キリスト教勢力の国土回復運動は一時後退するとともに、アンダルス(イベリア半島南部におけるイスラム教徒の支配領域)のイスラム教国内においても、その堕落した都市生活に対して、厳格なスンナ派神学の立場からの聖戦が展開されました。
この結果、ムラービト朝は、11世紀末までに、イベリア半島の南半分(アンダルス)を支配下に収め、その支配地域を大きく拡大させました。その統治下で商工業・文化が栄え、イベリア半島の先進的なイスラームの建築技術や学問を北アフリカにもたらされました。コルドバ生まれ哲学者イブン・ルシュド(1126年~1198年)もこの時代から活躍し始めました。
- ムラービト朝の衰退と滅亡
ただし、王朝の中心は、マグレブからイベリア半島に移り、西サハラやガーナは、実質的に放棄され、首都も、モロッコのアグマ、マラケシュから、スペイン南部のコルドバと変遷しました。
ムラービト朝の強さは、スンナ派(のマーリク派)の忠実な信仰心に基づいたベルベル人遊牧民の部族的結束で、国内が統一されていたことでした。しかし、その支配が、スペイン南部のアンダルス地方に及んで、遊牧民が都市生活を行うようになると、次第に宗教的な情熱や、戦闘意欲は失われていきました。この結果、ムラービト朝は、次第に弱体化し、1147年にムワッヒド朝によって滅ぼされました。
<ムワッヒド朝>
ムワッヒド朝(1130〜1269)は、モロッコのベルベル人のイスラム改革運動を基盤として建設されたイスラム王朝で、ムラービト朝に代わって、北アフリカのマグリブを支配しました(首都はマラケシュ)。ムラービト朝が遊牧ベルベル人であったのに対し、ムワッヒド朝は、同じベルベル人でもアトラス山脈沿いの豊かな農地で定住農場に従事していたという違いがありました。
- 始まりはイスラム宗教改革
ムワッヒド朝の起源は、モロッコ南西部のアトラス山中のベルベル系の定着民マスムーダ族出身のイブン・トゥーマルトが、1106年頃、東方への遊学とメッカ巡礼に出て、コルドバ、アレクサンドリア、メッカ、バグダード、カイロなどを歴訪した後に開始したイスラム改革運動にあります。
宗教と部族の結束が揺らいでいたムラービト朝治下のマグリブのイスラムを改革する必要性を感じたイブン・トゥーマルトは、巡礼の旅から帰郷すると、故郷で自らが救済者(マフディー)であると宣言した後、1124年に、アトラス山中のティンマルに拠点を作り、ムラービト朝に対する反乱を開始しました。
そこからイブン・トゥーマルトに従う勢力は、「タウヒード(「神の唯一性」)の信徒」を意味するムワッヒド(複数形でムワッヒドゥーン)と呼ばれるようになりました。(ムワッヒドの名は、そのまま王朝名として使用された)。
イスラム神秘主義の影響を受けたムワッヒドゥーンは、シーア派に近い信仰を持っていたため、ムラービト朝の公定法学派であるマーリク派に属するイスラム法学者を痛烈に批判し、従来の慣行にとらわれずに神との一体感を求めました。実際、イブン・トゥーマルトは、イスラーム神秘主義のガザーリーの思想の影響を受けてイマーム信仰(イマーム:指導者の意)を説いていました。その一方で同時に、スンナ派的な神の唯一性(タウヒード)を重視する教義も重視しました。
- ムワッヒド朝の建国とマグリブ地方の統一
イブン・トゥーマルトが1130年に没すると、同じ年、その弟子アブド=アルムーミン(アブダッラー=ムーミン)(在1130~1163)は、教団の後継者(カリフ)となり、ムワッヒド朝を創始しました。初代のアブド・アルムーミン以降、ムワッヒド集団はアルムーミンの子孫が「アミール・アルムーミニーン(信徒たちの長)」として後継者の地位を継承する世襲王朝へと変容していきました。
アブド・アルムーミンの時代、モロッコ北部一帯を征服したムワッヒド朝は、1145年にアルジェリアのトレムセンでムラービト軍を破り、1147年に首都マラケシュを占領、ムラービト朝を滅ぼしました。
当時、地中海のシチリアにはノルマン人が進出し、チュニジアやアルジェリア海岸にもその勢力を及ぼしていましたが、そのノルマン人も撃退したムワッヒド朝は、アルジェリアのハンマード朝、チュニジアのズィール朝(いずれもファーティマ朝の後継国家)を滅ぼし、マグリブ地方(チュニジア以西の北アフリカ)を統一しました。
- ムスリム・スペインの統一
加えて、アブド=アルムーミンは、ムラービト朝の時代、ムスリムの領土へと侵攻していたキリスト教徒との戦いに積極的に乗り出しました。ムラービト朝滅亡後のイベリア半島は、再びイスラーム教小国家に分裂して抗争していましたが、1160年、ジブラルタルを渡って、イベリア半島南部のアンダルスの征服に着手しました。
アブド=アルムーミンの子で、同じく厳格なイスラーム信仰を掲げた、ムワッヒド朝の第2代君主アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世(在位:1163~1184)は、1172年にムスリム・スペインを統一し、アンダルスを支配下に置きました。
アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世の子で第3代君主のヤアクーブ・マンスール(1184~1198年)は、キリスト教徒への攻撃を強めようと1195年に大軍を率いてイベリア半島に上陸、コルドバとトレドの中間のアラルコスでカスティーリャ=レオン王国のアルフォンス8世の軍に大勝し(アラコルスの戦い)、キリスト教勢力の南下を防ぎました。
このように、現在のモロッコに興ったムワッヒド朝は、キリスト教徒によるレコンキスタを防ぎ、西は、イベリア半島の南部アンダルスから、東ではリビア西部に及ぶチュニジア以西のマグリブまで支配下に加えて、ムワッヒド朝の最大版図を実現しました。
また、ヤアクーブ・マンスールは、自らをカリフになぞらえて、もともとカリフの称号として使われていた「アミール・アルムウミニーン(信徒たちの長)」を、指導者(君主)の称号とするなど権威の強化にも努めました。
- 西方イスラム文化の開花と反動イスラム主義
ムワッヒド朝の都はマラケシュでしたが、イベリア半島のセビーリャも副都として栄え、哲学・医学・文学などイスラーム文化が発展しました。アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世の治下では、哲学者イブン・トゥファイルや、イブン・ルシュドが活躍し、アンダルスのイスラム文化が頂点を極めたと評されています。
なかでも、スペインのコルドバ生まれの哲学者、医学者のイブン・ルシュド(1126~1198)は、膨大なアリストテレス注釈を書いたことで知られ、ムワッヒド朝のもとで君主の侍医、後にはコルドバのカーディー(裁判官)を務めました。
また、ヤークーブ=アル・マンスールの時には、副都のセビーリャに「ヒラルダの門」として現存する大モスクが、また、今のモロッコの首都ラバトには、現在「ハッサンの塔」といわれている大モスクが、それぞれ建設されました。
一方、ムワッヒド朝は、その発展の初期から、原始イスラム教の立場に立ち、ムスリムでないものはすべて頭にターバンを巻くことを強いられたと言われています。また、従わないものは殺されるか追放されるなど、他の宗派に対して、一切妥協なく厳しい姿勢で臨んだとされ、信仰を守ろうとしたユダヤ教徒などの多くが追放されました。また、宗教に限らず、ヤークーブ=アル・マンスールの時代には、哲学も禁止され、イブン・ルシュドも追放されました。
こうした反動的なイスラム保守のムワッヒド朝も、次第に王朝のイデオロギーともいえたタウヒード主義(神の唯一性の教義を説く宗教運動)が形骸化してくると、宗教的情熱に支えられたベルベル人の軍隊が弱体化に向かっていきました。
- レコンキスタとムワッヒド朝の衰退
同時にこのころ、イベリア半島では、キリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ)が高まり、ローマ教皇インノケンティウス3世は、「十字軍」の宣旨を発し、イベリア半島、イタリア、フランスの全土から軍が召集されました。
マンスールの子で、ムワッヒド朝、第4代カリフのムハンマド・ナースィル(1198~1213)は、1212年、大軍を率いてジブラルタルを渡り、コルドバの北方のナバス=デ=トロサで戦いましたが、カスティーリャ国のアルフォンソ8世らの率いる十字軍に敗れ、マラケシュに逃げ帰ってアンダルスを放棄しました。
このナバス・デ・トロサの戦いを機に、イベリア半島では国土回復運動(レコンキスタ)が勢いを増し、ムワッヒド朝は、セビーリャ(セビリア)も放棄してモロッコに撤退しました。
さらに、本拠地のマグリブでも、ムワッヒド朝に対する反乱が起きるようになり、ムワッヒド朝はますます求心力を失っていきました。1229年には、君主自らがタウヒード思想を放棄し、地方でも、チュニジアのハフス朝をはじめ、各地に反ムワッヒド朝勢力が独立していきました。その結果、ムワッヒド朝の版図は急速に縮小し、現在のモロッコ周辺を支配するのみとなってしまいました。こうして、王朝崩壊の流れはとどまらず、1269年、新興のマリーン朝がマラケシュを征服し、ムワッヒド朝は滅亡しました。
- ムワッヒド朝後の西方イスラム世界
1269年のムワッヒド朝滅亡後の西アフリカは、チュニジアのハフス朝(1228~1574年)、アルジェリアのトレムセンにザイヤーン朝(1236~1550年)、モロッコのフェスにマリーン朝(1248~1468年)が分立しましたが、この後、モロッコ以外のマグリブ地方は、オスマン帝国の支配下に入りました。
イベリア半島では、南部のアンダルスには、最後のナスル朝(1230~1492)が持ちこたえ、わずかにグラナダとその周辺地域を保っていました。1479年、アラゴンとカスティーリャの統合によってスペイン王国が成立すると、イスラーム教徒に対するレコンキスタの圧力はさらに強まり、1492年にスペイン王国がグラナダに入城し、ナスル朝は滅ぼされました。イスラーム教徒の多くは北アフリカに引き揚げ、800年余にわたって続いたイベリア半島のイスラーム時代は終わりを告げることとなりました。
なお、ムスリム(イスラム教徒)が残したアルハンブラ宮殿は、華麗な建築様式と繊細なアラベスク模様によって、イベリア半島における末期イスラーム文化の美しさを今に伝えています。
<関連投稿>
イスラム史1:ムハンマドと正統カリフ時代 メッカを起点に
イスラム史2:ウマイヤ朝 世襲アラブ帝国とカルバラの悲劇
イスラム史3‐1:アッバース朝 権威の象徴としてのイスラム帝国
イスラム史3‐2:ファーティマ朝 北アフリカを支配したシーア派の雄
イスラム史3‐3:サーマン朝とブワイフ朝 イランとイラクを実質支配
イスラム史3‐4:セルジューク朝 最初のスルタン、十字軍を誘発
イスラム史3‐5:アイユーブ朝 英雄サラディンが建てた王朝
イスラム史4:イル=ハン国 アッバース朝を滅ぼしたモンゴル王朝
イスラム史5:マムルーク朝 トルコ系奴隷兵が建てた王朝
イスラム史6:ティムール帝国 中央アジアのトルコ・モンゴル帝国
イスラム史7:オスマン帝国 イスラム王朝最後の輝き
イスラム史8:サファービー朝 イラン全土を支配したシーア派国家
イスラム史9:ムガール帝国 インドへ ティムールの末裔たち
<参照>
後ウマイヤ朝(世界史の窓)
後ウマイヤ朝(世界の歴史マップ)
後ウマイヤ朝とは(コトバンク)
後ウマイヤ朝(Wikipedia)
ムラービト朝(世界史の窓
ムラービト朝(世界の歴史マップ)
ムラービト朝とは(コトバンク)
ムラービト朝(Wikipedia)
ムワッヒド朝(世界史の窓)
ムワッヒド朝(世界の歴史マップ)
ムワッヒド朝とは(コトバンク)
ムワッヒド朝(Wikipedia)
(2022年7月1日)