アイユーブ朝:英雄サラディンが建てた王朝

 

ファーティマ朝に統治下において、十字軍によって奪われたエルサレム王国を奪い返したイスラム王朝が、サラディンのアイユーブ朝です。今回はアイユーブ朝についてまとめました。この時代になっても、アッバース朝の権威は残っていました。

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アイユーブ朝(1169~1250年)は、12世紀後半、サラディン(サラーフ=アッディーン)が建国し、エジプトとシリアを支配したスンニ派のイスラム教国です。

 

 

  • アイユーブ朝の創始

 

アイユーブ朝の前のファーティマ朝は、トルコ系奴隷兵のマムルークの勢力と黒人奴隷兵の対立が起こり、さらに十字軍の侵入を受け、カイロのカリフの権威は衰退していました。これに対して、セルジューク朝から1127年に自立したシリアのイスラム政権、ザンギー朝(1127〜1222)のヌール=アッディーンは、この機を逃さず、クルド人の部将アイユーブ家のシールクーフを、エジプトに派遣しました。

 

シールクーフはカイロに入り、その実権を奪い、ファーティマ朝の宰相に就任しましたが、1169年にシールクーフが急死したため、甥のサラディン(サラーフ=アッディーン)(サラーフッディーン)が宰相の地位を引き継ぎました。ファーティマ朝のカリフはすでに実権を失っており、実質的にサラディンはエジプトの権力を握った形です。

 

マムルークを主力に取り込み、実権を握ったクルド人の将軍サラディンは、この年、実質的にアイユーブ朝を樹立しました(アイユーブ朝のアイユーブという名称は、サラディンの父の名にちなんだもの)。

 

ファーティマ朝には依然としてカリフが存在していましたが、1171年に、その最後のカリフが死去したことで、ファーティマ朝は滅亡し、アッバース朝のカリフは正式にアイユーブ朝を承認しました。

 

 

  • 「アラブの英雄」サラディンの偉業

 

アイユーブ朝、初代スルタンとして完全に自立したサラディンは、1174年、アイユーブ朝を認めなかったシリアのザンギー朝の拠点ダマスクスも攻略し、エジプトからシリアにかけて統一政権を実現しました。

 

また、スンナ派を信奉するアイユーブ朝は、シーア派であったファーティマ朝に代わり、エジプト・シリアにおけるスンナ派のイスラム信仰を回復させました。それと同時に、イスラーム世界の統一を図ろうとしたサラディンは、アッバース朝カリフの宗主権を承認し、ファーティマ朝と異なりカリフを名乗らず、スルタンとして政治的支配に留めました。

 

エジプト統治に当たっては、セルジューク朝の西アジアで広く行われていたイクター制(軍人に対して俸給に見合う金額を農民や都市民から徴税する権利を与える制度)が導入され、軍政が整えられました。

 

このように、エジプトとシリアを統一し、内政も充実させたサラディン(サラーフ=アッディーン)は、その勢いに乗って、十字軍に対する反撃に転じました。1187年に、ティベリアス湖西方のヒッティーンの戦いで、十字軍(エルサレム王国)を破り、約90年ぶりに、聖地エルサレムをキリスト教からイスラム教徒のもとへ奪還しました。

 

これに対して、第3回十字軍(1189~92年)が起こされ、サラディンは、イギリス国王リチャード1世の軍を迎え撃ち、アッコンこそ奪われましたが、エルサレムは死守し、再占領を許しませんでした(リチャード1世は、サラディンと和して帰国)。

 

アラブの英雄」として知られ、その高潔な人物像は敵である筈の十字軍においても有名となったサラディン(サラーフ=アッディーン)でしたが、1192年11月にダマスカスに凱旋した翌1193年3月に没しました。

 

 

  • アイユーブ朝の混乱

 

サラディン死後のアイユーブ朝は、イクター制により、その領土がサラディンの後継者に分割される、事実上分裂した状態に置かれることになっていきました。

 

そうした中、サラディンの弟のアル=アーディルは、サラディンの息子たちの不和に乗じてエジプト・シリアで勢力を拡大し、一族間で優位に立ち、やがてアイユーブ朝の第4代スルタン(在位:1200~ 1218)となりました。

 

アル=アーディルは、第4回十字軍によって1204年にラテン帝国が建国された後も、2度にわたって十字軍勢力の休戦協定を更新するなど、両者の間に特に大きな戦いは起きませんでした。しかし、1217年には、第5回十字軍(1217~1221年)が編成され、エジプトの攻略を目指して進軍してきました。十字軍との戦いは和平に持ち込まれましたが、その戦いの最中、アル=アーディルはカイロで没し、その後、後継者を巡る王位争いが起きると、国家の統一は再び失われ、王朝は衰退に向かっていきした。

 

一方、アイユーブ朝が十字軍勢力との抗争に軍事力を集中している間、イエメンのトルコ系アル=マンスール・ウマルが、アイユーブ朝からの独立を企て、1229年にザビードでラスール朝が創設され、アイユーブ朝の支配体制の一角が崩れました。

 

ラスール朝(1229~1454)は、へジャース地方から、アラビア半島南岸のハドラマウトに至る広大な領域を支配下に置き、一時メッカも支配し、1241~42年にはメッカからアイユーブ家の勢力が一掃されました。

 

それでも、アイユーブ朝第7代スルタンのサーリフ(在位:1240〜1249)が、多数のマムルーク(トルコ系の奴隷身分出身の軍人)を購入し、軍事力を強化することで、王朝の立て直しを図りました(このサーリフ子飼いのマムルーク軍団はバフリー・マムルークと呼ばれた)。

 

1249年には、ルイ9世(フランス王)が率いる第7回十字軍(1248~1254)が、エジプトのダミエッタを占拠し、マンスーラに進軍してきましたが、将軍バイバルスが率いるマムルーク軍団は、1250年、この戦い(マンスーラの戦い)で十字軍を破り、フランスのルイ9世を捕虜にしました。

 

 

  • アイユーブ朝の滅亡

 

しかし、アイユーブ朝、第8代スルタンのトゥーランシャー(在位:1249~1250)は、この戦いの主力となったマムルークを冷遇し、近臣を重用したため、不満を強めたマムルーク軍を率いたトルコ人青年将校バイバルら(バフリー・マムルーク)は、1250年5月、クーデターをおこし、トゥーラーン・シャーを殺害し、アイユーブ朝は滅亡しました。

 

こうして、アイユーブ朝は、サラディンが自ら育成し強化したとされるマムルーク軍団に滅ぼされてしまったのです。その後、バイバルは、前カリフ、サーリフの寡婦シャジャル・アッ=ドゥッルをスルタンに立て、マムルーク朝を成立させました。

 

<関連投稿>

イスラム史1:ムハンマドと正統カリフ時代 メッカを起点に

イスラム史2:ウマイヤ朝 世襲アラブ帝国とカルバラの悲劇

イスラム史3‐1:アッバース朝 権威の象徴としてのイスラム帝国

イスラム史3‐2:ファーティマ朝 北アフリカを支配したシーア派の雄

イスラム史3‐3:サーマン朝とブワイフ朝 イランとイラクを実質支配

イスラム史3‐4:セルジューク朝 最初のスルタン、十字軍を誘発

イスラム史3‐6:後ウマイヤ朝からムワッヒド朝 ヨーロッパ最後の砦

イスラム史4:イル=ハン国 アッバース朝を滅ぼしたモンゴル王朝

イスラム史5:マムルーク朝 トルコ系奴隷兵が建てた王朝

イスラム史6:ティムール帝国 中央アジアのトルコ・モンゴル帝国

イスラム史7:オスマン帝国 イスラム王朝最後の輝き

イスラム史8:サファービー朝 イラン全土を支配したシーア派国家

イスラム史9:ムガール帝国 インドへ ティムールの末裔たち

 

<参照>

アイユーブ朝(世界史の窓)

アイユーブ朝(世界の歴史マップ)

アイユーブ朝とは(コトバンク)

アイユーブ朝(Wikipedia)など

 

(2022年7月2日)