キリスト教史①:イエスの生涯とその教え

 

「キリスト教とは何のか」と問われれば、それはイエス・キリストの教えであると答えることができるでしょう。現在のキリスト教は、大きくローマ・カトリック、プロテスタント、正教会に分かれますが、教義は異なる部分があります。どちらが正しいかではなく、イエスの教えに回帰して考えることが一番だと思います。そこで、今回は一般に伝えられているイエスの生涯とその教えについて、聖書などに書かれていることを中心にまとめてみました。

★☆★☆★☆★☆★☆★☆

 

  • イエスの生れた時代

 

イエスの生まれた時代は、古代ローマ帝国が地中海を支配し、その東に位置するパレスチナもまたその支配下におかれていました。当時、パレスチナはヘロデ王が統治していました。

 

パレスチナには古くからユダヤ人が多く住んでいて、彼らはユダヤ教を信仰していました。イエスの父ヨセフと母マリアもユダヤ人です。イエスも、生涯、ユダヤ教徒として生活したユダヤ人でした。

 

ユダヤ教とはユダヤ人特有の民族宗教で、創造主ヤハエを信仰する一神教、ユダヤ人だけが救われるという選民思想、そのために課される厳しい律法、そして、「やがて、メシア(キリスト)が現れ、この世で神の僕として「新しい王国」を支配する」というメシアを待望することなどを特徴としています。

 

イエスが誕生した年は、紀元前4~7年頃(西暦1年頃だとする説もある)だと言われていますが、正確な年はわかっていません。新約聖書によれば、イエスは、パレスチナのベツレヘムの地で生まれました。父のヨセフは、貧しい大工職人で、マリヤは馬小屋で出産したと伝えられています。

 

ヨセフとマリアは、もともと、パレスチナの北部、ガリラヤ湖の西のナザレの地に住んでいましたが(イエスはナザレで産まれたとする説もある)、マリヤは、イエスをヨセフの実家のベツレヘムで産むために、ガリラヤの町ナザレから150kmも離れたベツレヘムへ移動しました。夫の実家と言っても、身寄りがあるわけでもなく、宿屋を探しても見つからないので、馬小屋に泊まっていたと言われています。

 

では、なぜナザレから遠く離れたベツレヘムまで行って、イエスを出産したかというと、ベツレヘムは、旧約聖書の英雄ダビデ王の出身地であったことが大いに関連していることが推察されます。イエスが誕生した頃、時のローマ帝国の皇帝アウグストゥスは、住民登録の勅令を出していたそうです。ヨセフは、ダビデの家に属し、その血筋であったとされていました。そこで、ヨセフは、ガリラヤの町ナザレから、ダビデの町ベツレヘムへ住民登録に向かったと解されています。

 

 

  • イエス生誕の秘話

 

一方、イエスの生誕に関しては、世界の教会では、クリスマスの時などに、次のような神秘的な逸話として紹介されています。

 

――――

当時、ナザレの町に住んでいたマリヤは、貧しい大工のヨセフと婚約していました。あるとき、このマリアのもとに、主の天使ガブリエルが遣わされ、こう告げました。「あなたは身ごもって男の子を生みます。その子をイエスと名づけなさい。その子は救い主と呼ばれるでしょう。」しかし、マリアは、「わたしにはまだ夫がいません。どうして身ごもることがあるのでしょうか?」と尋ねると、天使は「聖霊があなたにくだり、神さまの力があなたを包むでしょう」と答えたのでした。

――――

 

この聖母マリアは処女のまま懐妊したという逸話は今も教会の立場です。また、当初、メシア(ギリシャ語読みで「キリスト」)であるイエスの誕生を知る人はだれもいませんでしたが、イエスが生まれた夜、一つの星が明るく輝いたのをみて、隣国の学者たちは、ユダヤ人の王が生まれたのだと考えたという話しもあります。その王を一目見ようと、エルサレムにやってきた学者たちは、新しく生まれた王はどこにいるのか、当時のパレスチナの指導者ヘロデ王に尋ねますが、エルサレムの人々はもちろんヘロデ王も知りませんでした。そこで、ヘロデ王は、学者たちにその王のことを調べて知らせるように命じたと言われています(ヘロデ王は、この時、イエスを捕らえるつもりだったとされている)。

 

ここで、もし、イエスの母マリアが、天使が言ったように、生れてくる子がユダヤ教で待ち望まれたメシアになる御子だと知っていたら、聖書にある予言を成就するために、ベツレヘムで出産したということなのかもしれません。その伝承予言とは、「イスラエルの救済者メシアは、古代イスラエルの王ダビデの家系に生まれ、ダビデの町であるベツレヘムで生まれる」というものでした。

 

いずれにしても、住民登録を済ませたヨセフとマリアは、イエスが産まれて8日目には、ユダヤ人男子の儀式である割礼を済ませると、ナザレに戻り、イエスをほかの子供たちと同じように育てたと言われています(イエスは「ナザレのイエス」と呼ばれる)。父のヨハネが大工であったので、イエスも伝道活動をする前の仕事は大工であったそうです。ただし、生誕と同様、聖書には、イエスの幼年期から青年期についても記述は少なく、その実際は不明です。

 

 

  • ユダヤ教の宗派

 

そんなイエスも、およそ30歳頃から、ついに公の伝道活動を開始するのですが、イエスが生きた時代のユダヤ教は、サドカイ派、パリサイ派、エッセネ派などいくつかの宗派に分かれていました。

 

サドカイ派は、祭祀階級で、聖地エルサレムの神殿で祭祀を執り行うだけでなく、ユダヤ社会の統治をローマから任されていました。また、パリサイ派は律法というユダヤ教の決まりごとを重視し、安息日に休んだり、食事の前には手を洗ったりといった細かな規則を民衆に教えていました。

 

一方、紀元前2世紀頃におこったエッセネ派と呼ばれた人々は、世俗から離れ、死海の近くの荒野で、修道院に似た禁欲的な共同生活を送っていたとされています。この団体の本部のような存在としてクムラン宗団がありました。

 

エッセネ派に属するためには、3年間の試験期間の後,厳粛な誓約により初めて加入を許されたそうです。家も家族も、捨てなければならず、財産の共有、独身主義など、共同体のあらゆる規律の遵守を義務づけられていたと伝えられています。日々の生活は、「教師」と呼ばれていた指導者に従い、農業を営みながら、祈禱,律法研究、祭儀的な沐浴などからなる日課をこなす質素な共同生活が営まれていたとされています。

 

西暦30年ごろ、このエッセネ派の一人でクムラン教団の出自とも言われたヨハネという人物が突然、荒野に現れて、「悔い改めよ、神の国は近づいた」と唱えます。ヨハネは洗礼(バプテスマ)という当時としてはめずらしい儀式を行っていたこともあり、ヨハネのもとにはたくさんの弟子が集まっていました(ゆえに、ヨハネは「バプテスマのヨハネ」と呼ばれた)。

 

30歳になったイエスもまた、ヨルダン川でバプテスマ(洗礼)を受けるために,ひとり100キロも南にある荒野へおもむきました。ただ、イエスの偉大さを知ったヨハネは、当初、イエスに洗礼を施すのをためらったと言われていますが、イエスの求めに応じて、ヨハネはイエスの全身を水に沈めてバプテスマを施したとされています。ただし、この経緯については、聖書にもどこにも書かれてはいません。イエスが荒野に赴き、ヨハネの弟子になったということは、イエスもエッセネ派の一員であった可能性もあります(通説では否定的)。

 

バプテスマを受けた後、洗礼者(バプテスマの)ヨハネの教団のなかで、イエスの存在は直ぐに大きくなりました。ある日、イエスはヨハネの元を離れ、故郷近くのガリラヤ湖まで戻り、教えを周囲の住民たちに説き始めたと言われています。イエスの宣教の始まりです。

 

聖書によれば、布教に立ち上がる前に、イエスは、神とともにあるために,40日40夜断食をされると、イエスを試みようとやって来たサタンの誘惑に屈せず、サタンを退かせたという逸話もあります。イエスが新約聖書(福音書)に登場するのは、まさに、30歳になって布教活動を始めた時期からです。

 

 

  • イエスの宣教

 

福音書には、イエスが、重い皮膚病患者を癒し、目の見えない人を見えるようにするなどさまざまな病人の治療をしたり、死者をよみがえらせたりするなど、多数の奇蹟が記されています。そうした奇蹟の業を行いながら、イエスは、悔い改めて神を信じることと神の絶対的な愛を語りました。

 

時は満ち神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。
(マルコによる福音書 1章15節)

 

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。
(マタイによる福音書 22章37節)

 

また、神に対してだけでなく、「心と思いと力を尽くして神を愛し,自分自身を愛するようにほかの人を愛せよ」と「隣人愛」を説き、さらに、「汝の敵を愛せ」とも言いました。

 

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である
(ヨハネによる福音書 12章15節)

 

ユダヤ教では、神の愛は「選ばれた者」のみに向かうものと考えられていましたが、キリスト教の愛は、広く普遍的に、すべての隣人へ、ひいては人類全体へと向けられるもので、「アガペー」と呼ばれます。

 

この時代、貧しく飢えていた多くの民衆、とりわけ、虐げられ、迫害されていた徴税人や娼婦、病人や非ユダヤ教徒たちなどに向けられました。、こうした弱い人たちこそ、神から愛され、そして天国に行くことができるとイエスは説いたのです。

 

イエスが、様々な教えを説き、奇蹟を起こした結果、次第に、イエスのまわりには、漁師のペテロやヤコブ・ヨハネ兄弟、徴税人のマタイや、ユダなどの弟子が増え、弟子の集団が構成されていきました(福音書はペトロを筆頭とする「12使徒」をその代表としている)。彼らは、イエスとともに行動し、イエスが教えを説き、奇蹟を見せるのを間近で見ていました。

 

 

  • 山上の垂訓

 

イエスが山の上で弟子たちと群集に語った山上の垂訓(さんじょうのすいくん)と呼ばれる教えは、弟子たちに語った中で最も有名なイエスの教えです(新約聖書には「マタイによる福音書」の中に書かれている)。

 

「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」(『マタイ伝』5:1-2)

 

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

 

あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、 左の頬をも向けなさい。

 

あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、 正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

 

あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、 既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである

 

見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。

 

あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。

天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。…

だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

 

人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

 

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

 

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい

 

 

  • メシア待望論

 

こうした説教を聞いた弟子をはじめまわりに集まった人たちは、イエスを、ユダヤ教で待望される救世主(キリスト)とみなすようになりました。イエスの言葉は、彼らの律法学者のようにではなく、権威に満ちたものであったからです。ただし、ここでいう救世主とは、悩み苦しむ人たちを救ってくれるという宗教的な役割だけでなく、パレスチナの地からローマを追い払い、ふたたびユダヤの独立を取り戻すという政治的な意味での救世主の役割も期待するようになったのです。

 

これに対して、ユダヤ教の指導者たちは、伝統的なユダヤ教とは異なるイエスの宣教を危険視します。ユダヤ教という民族宗教から一歩ふみだした普遍的なイエスの考え方は、ユダヤの宗教指導者達は理解しようとせず、逆にユダヤ教への冒涜と捉えます。

 

イエスも宣教活動の中で、ユダヤ教の指導的立場であったパリサイ派やサドカイ派を批判していました。ある時、イエスは、神聖なヤハエの神殿の領域で、商人たちが商売を行っているあり様に激怒し、両替商の台をなぎ倒し、商売人たちを追い出したという逸話があります。イエスの目には、これまでのユダヤ教が、形ばかりで内容のともなわない見せかけの信仰と映ったのでしょう。

 

このような過程を経て、イエスとその弟子たちの集団は、イエス自身の意思とはかけ離れて、過激な独立運動と見られるようになりました。パリサイ派やサドカイ派も、ローマ支配下で指導的立場にあったので、もし独立を求める反乱が起きれば、自らの立場が危うくなることを恐れたのです。

 

 

  • イエスの逮捕と処刑

 

こうした危うい状況下、イエスは宣教のために、聖地ルサレムに入りました。この時、イエスは、弟子の裏切りと、自分の逮捕と死を予感していたと解されています。エルサレム入城直後、12使徒を伴った晩餐では「このパンをわたしの肉、このワインをわたしの血と思いなさい」と告げています。また、弟子のユダに対して、「お前のしなければならないことをするがいい」と言い、ペテロに対しては「3度『イエスなど知らない』と言うだろう」と予告します(この時の晩餐は「最後の晩餐」と呼ばれ、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画で有名)。

実際、イエスたちのもとに、ユダヤの警備隊がやってきました。先導者はユダでした。ユダは、「先生」と言ってイエスに駆けより、警備隊にだれがイエスかを示したといいます。イエスは抵抗することなく捕まり、サドカイ派の祭司の「自宅」で裁判にかけられました。弟子たちは、驚きあわてて逃げましたが、ペテロは連行されたイエスの後をつけていきました。すると、祭司宅の女中から、イエスの弟子ではないかと疑われましたが、「そんな人は知らない」とペテロは3回嘘をついたとされています。

 

ペテロは、イエスに呼びかけられて、その弟子となり、イエスが捕えられた時には、弟子であることを否定したが、後に弟子として殉教しました。

 

当時のパレスチナでは、「宗教上の罪」の場合はユダヤの律法による石投げの刑でしたが、政治犯の場合は、ローマの刑法にしたがって十字架刑だったそうです。イエスは、政治犯として大衆を扇動した罪で死刑を宣告されました。

イエスの刑は、ローマ帝国の法に基づいて執行され、からだを鞭打たれたあと、自身で重い十字架を背負ってエルサレム城内を歩かされました。民衆は、イエスが救世主ではなかった思い、罵声を浴びせました。サドカイ派やパリサイ派の人々もイエスを嘲笑しました。ゴルゴタの丘という処刑場所までたどりつくと、イエスは十字架に釘で手足を打ちつけられ、磔(はりつけ)にされました。さらに、イエスはそこで約3時間さらされ、耐えがたい苦痛を味わされた上で、処刑されてしまいました。死後、何人かの友人たちによって葬られたとされています。もし、これが事実なら、イエスは、わずか30年の短い生涯を閉じたことになりますが、話しはここで終わりませんでした。

 

 

  • イエスの復活

 

3日後の日曜日、イエスの宣教の旅に従ったとされるマグダラのマリア(聖母マリアとは別人)など女たちがイエスの墓を訪れると、墓の石が開いていました。「マルコによる福音書」によれば、墓のなかには白衣を着たひとりの少年が座って、「イエスは蘇って、ここにはいない」と言ったとイエスの復活が書かれています。

キリスト教では、イエスの死後、3日目の日曜日に,イエスの霊は体に戻り,再び肉体をまとわれ、復活したと教えられています。「死人のうちからイエスがよみがえる」という預言は成就したのです(ヨハネ20:9)

 

 

<関連投稿>

キリスト教史②:十二使徒とパウロの伝道

キリスト教史③:東西教会はいかに分裂したか?

キリスト教史④:修道院運動の盛衰

キリスト教史➄:異端と魔女狩り

 

 

<参照>

クリスチャンでなくても知っておこう!イエスの生涯とキリスト教の歴史

(Tabiyori)

イエス・キリストはなぜ馬小屋で産まれたか

エッセネ派とは?キリスト教豆知識(女子パウロ会)

Wikipediaなど

 

(2020年7月9日、最終更新日:2022年6月22日)