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2022年09月16日

エリザベス女王崩御:王位継承順位、称号・爵位はどうなる?

英国の女王エリザベス2世(96歳)が、2022年9月8日、滞在先のスコットランドのバルモラル城で逝去(せいきょ)されました。これに伴いチャールズ3世が即位しただけでなく、王位継承順位や称号・爵位の変更などがありました。女王崩御から約1週間経った現在のイギリス王室の状況をまとめました。

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<エリザベス女王の生涯>

 

エリザベス女王は、1926年4月21日にロンドンにて、ヨーク公アルバート王子(のちのジョージ6世・享年56)とエリザベス妃(享年101)の長女として誕生、1947年、21歳のときに、当時26歳で海軍将校だったフィリップ殿下(享年99)と結婚されました。ふたりの出会いは、エリザベス女王が13歳のとき、父の母校である王立海軍大学を訪問した際、フィリップ殿下が、案内役を務められたのが最初でした(出会いから8年もの年月を経て二人は結婚)。

 

エリザベス女王は、1952年2月に父である国王ジョージ6世の急死を受け、25歳の若さで即位しました。戴冠式は翌年行われ、史上初めてテレビ中継がなされたことで話題となりました。

 

以来、70年にわたって英国を統治し、在位70年7カ月は、(ヴィクトリア女王の記録を上回って)歴代の英国君主で最長でした(当時の英国首相はチャーチルで、歴代15人の首相が仕えてきた)。なお、72年以上にわたって君臨したフランス国王ルイ14世に次ぐ、世界史上2番目に在位期間の長い君主でもありました。

 

2021年4月、73年間連れ添われたフィリップ殿下が死去された後、自らも体調を崩され、主要行事を欠席することが多くありました。2022年4月に96歳の誕生日を迎え、6月には、英国で史上最長の在位70年間の祝賀行事「プラチナ・ジュビリー」が英国全土で盛大に開催された(プラチナ・ジュビリーを迎えた英国君主はエリザベス女王が最初となった)。

 

エリザベス女王は、確固たるリーダーとして威厳を放つと同時に、愛される存在で、国民から支持を得ていました。崩御後の世論調査では、国民の75%以上が「女王が好き」と回答しています。女王は、旧植民地諸国を軸とする連合体の英連邦(コモンウェルス)に所属するオーストラリア、ニュージーランド、カナダなど15カ国の元首でもあり、英連邦のほか世界からも「英国の母」と慕われていました。

 

日本の皇室との交流も深く、昭和天皇、上皇さま、天皇陛下の3世代にわたって続き、1975年5月には、英国の君主として初めて、夫の故フィリップ殿下と来日されました。

 

 

  • 開かれた王室

エリザベス女王がその在位期間中、力を入れてこられたことが英王室の近代化であり、大切にしてきた信念のひとつとされているのが、「開かれた王室であること」でした。

 

エリザベス女王が即位後、自ら始めたのがクリスマス当日に国民に向けてスピーチを送るクリスマス放送でした。1957年12月25日に初めてテレビでスピーチを放送して以来、毎年欠かさず続けられ、伝統行事のひとつになっています。

 

バッキンガム宮殿は一般見学用に一部開放され、最近では、国民とコミュニケーションを積極的に取るべく、SNS(交流サイト)で、積極的に情報発信が行われています。さらに、直系男子優先だった王位継承制度を男子優位から男女平等に変更したのもエリザベス女王の時代でした。

 

私生活では、フィリップ殿下との間に、新国王チャールズ皇太子(73)、アン王女(72)、アンドリュー王子(62)、エドワード王子(58)の4人の子どもに恵まれ、8人の孫と12人のひ孫がいます。

 

ただし、子どもたちが成長する一方で、スキャンダルとの縁も少なくありませんでした。なかでもチャールズ皇太子の不倫によるダイアナ元皇太子妃(享年36)との離婚は、世界的にセンセーショナルな話題となりました。さらに、ダイアナ元皇太子妃が不慮の事故で亡くなった際には、英国王室を批判する声が多くあがりました。それでも、エリザベス女王は、国民の前では、毅然とした態度を崩さず、持ち前のユーモアで人々を魅了してきました。

 

 

<エリザベス女王の葬儀>

 

葬儀は、死去から10日後の19日にウエストミンスター寺院で国葬が執り行われます。その後ウィンザー城のセント・ジョージ礼拝堂でも葬儀が執り行われ、女王は最終的に、両親と妹が眠るウィンザー城のキングジョージ6世記念礼拝堂に埋葬されます(キングジョージ6世の記念礼拝堂は教会の別の部分にある)。

 

1952年に亡くなった女王の父国王ジョージ6世は、もともと王室の保管庫に埋葬されていましたが、1969年3月26日に新しく建設された礼拝堂に移されました。2002年には女王の母もこの礼拝堂に埋葬され、さらに同年に亡くなった女王の妹マーガレット王女の遺灰も、ここに納められています。

 

また、2021年4月9日に99歳で亡くなったエリザベス女王の夫フィリップ殿下も、セント・ジョージ礼拝堂のロイヤル・ボールト(王室の墓廟)に埋葬されていますが、女王の埋葬に合わせ、殿下の棺は女王の隣に移されるとみられています。

 

 

<新国王チャールズ3世>

 

エリザベス女王の逝去に伴い、王位継承権第1位のチャールズ皇太子(73)が新国王「チャールズ3世」として即位しました。英フィナンシャル・タイムズ紙は、73歳のチャールズ3世は最も長く待たされた後継者であると同時に、即位時の年齢が最も高い王になると報じました。

 

チャールズ新国王は、母であるエリザベス女王が亡くなった時点で自動的に即位していますが、手続き上、新国王の即位は10日、ロンドンのセント・ジェームズ宮殿で行われた王位継承評議会(数世紀にわたる組織で、王族や政治家、宗教指導者で構成)の会合で正式に宣言されました。会合の模様は初めてテレビ中継されました。チャールズ国王は母方から王位を継承しているので、女系王になります。

 

この後、新国王は戴冠式に臨むことになりますが、現時点で詳細は明らかにされていません。戴冠式は、伝統的にロンドンのウェストミンスター寺院で行われていますので、今回も踏襲されると見られています。

 

チャールズ3世は、ケンブリッジ大卒業後、軍隊を経て、ダイアナ妃との間にウィリアム、ヘンリーの2人の王子をもうけましたが、結婚前から交際していた現カミラ王妃との不倫関係を継続し、離婚の原因となりました。1997年のダイアナ妃の事故死後は、世間の強い風当たりを受けながら、2005年にカミラ妃と再婚しました。

 

かつて皇太子時代、「人生のほぼ全てを準備に費やした」と英メディアに揶揄されたこともあったチャールズ3世ですが、400以上の慈善団を後援し、環境問題や代替医療など、多くの分野の社会活動家としても存在感を示してきたと評されています。

 

<王位継承者>

 

女王の死と新国王の即位を受け、英国の王位継承順位の第1位は、チャールズ3世の長男ウィリアム王子となりました。第2位はウィリアム王子の長男、ジョージ王子(9)。3位と4位は、ジョージ王子の妹シャーロット王女(7)、弟のルイ王子(4)となっています。

 

2013年に施行された王位継承法では、「2011年10月28日以降に誕生した王族は、性別によってその人物またはその子孫が他の王位継承者よりも優先されることはない」と規定されました。従来のイギリスでは、長男子単独相続制に従って、王位は、王の直系の子孫に男子優先で女子にも与えられていましたが。2013 年法はこの原則を性別によらないで王位継承の順序を決定するように改められました。

 

2013年の王位継承法以前は、エリザベス女王の長女であるアン王女や、女王の孫娘レディ・ルイーズのように、女性が王位継承権を持つ男性の弟に順位を逆転されることがありましたが、現在ではそうした事態は起きていません。実際、ウィリアム王子の長女シャーロット王女の王位継承順位は3位で、弟であるルイ王子より先になっています。

 

王位継承順位の第5位はウィリアム王子の弟、新国王と故ダイアナ元妃の次男ヘンリー王子(37)。それに続く第6位と7位は、ヘンリー王子と米国出身の元女優、メーガン・マークルの息子アーチー・マウントバッテン・ウィンザー(3)と、娘のリリベット(1)です。

 

チャールズ新国王の子と孫に次いで継承順位の上位に入るのは、エリザベス女王のほか3人の子どもとその子・孫たちとなり、8位は女王の次男アンドルー王子(62)です。しかし、アンドルー王子は未成年に対する性的虐待などで起訴されました。さらに勾留中に死亡した米国人富豪ジェフリー・エプスタイン(性犯罪で有罪判決を受けた)と交友関係があったことで国民からの批判を受け、2019年以降、公務からから退いています。

 

イギリスの王位継承順位

  1. ウィリアム皇太子(チャールズ新国王の第1子)
  2. ジョージ王子(ウィリアム王子とキャサリン妃の第1子)
  3. シャーロット王女(同第2子)
  4. ルイ王子(同第3子)
  5. ヘンリー王子(ウィリアム王子の弟でチャールズ新国王の第2子)
  6. アーチー・マウントバッテン=ウィンザー(ハリー王子とメーガン妃の第1子)
  7. リリベット・マウントバッテン=ウィンザー(同第2子)
  8. アンドルー王子(新国王の弟で女王の第3子)
  9. ベアトリス王女(アンドルー王子の第1子)
  10. シエナ・エリザベス・マペッリ・モッツィ(ベアトリス王女の第1子)
  11. ユージェニー王女(アンドルー王子の第2子)
  12. オーガスト・フィリップ・ホーク・ブルックスバンク(ユージェニー王女の第1子)
  13. エドワード王子(新国王の末弟で女王の第4子)
  14. セヴァーン子爵ジェームズ(エドワード王子の第2子)
  15. レディ・ルイーズ・マウントバッテン=ウィンザー(エドワード王子の第1子)
  16. アン王女(新国王の妹で女王の第2子)
  17. ピーター・フィリップス(アン王女の第1子)
  18. サバンナ・フィリップス(ピーター・フィリップスの第1子)
  19. アイラ・フィリップス(同第2子)
  20. ザラ・ティンダル(アン王女の第2子)

 

 

<「称号」の変更>

 

  • カミラ夫人の肩書

新国王のチャールズ3世は9月9日、即位後の初の演説を行い、「新国王の妻」カミラ夫人はクイーン・コンソート(王妃)となると発表しました。

 

エリザベス女王は2022年2月、チャールズ3世の2番目の妻カミラ夫人の肩書を「プリンセス・コンソート(王の配偶者)」ではなく、「クイーン・コンソート(王妃)」となることを希望している(カミラ妃が将来「王妃」と呼ばれることを切に望む)と表明し、国民に許しと和解を促しました。

 

 

  • ウィリアム王子とキャサリン妃

 

王位継承順位第一位となったウィリアム王子は、国王から皇太子の称号である「ウェールズ公」も引き継ぐことになりますが、この称号は、父から息子に自動的に継承されるものではないため、新国王(父王)から付与される必要があります(新国王が決める)。

 

そこで、チャールズ新国王は、9月9日、ウィリアム王子夫妻、プリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)とプリンセス・オブ・ウェールズ(皇太子妃)になると発表しました。これは、チャールズ新国王がウィリアム王子をプリンス・オブ・ウェールズの後継者に指名したことを意味します。この結果、ウィリアム王子は、ウィリアム皇太子(ウェールズ公ウィリアム)と敬称されることになります。

 

キャサリン妃は、1997年に36歳で悲劇的な死を遂げたダイアナ元妃以来、初めてプリンセス・オブ・ウェールズ(ウェールズ公妃)(皇太子妃)の称号を継承することになりました。なお、カミラ夫人もプリンセス・オブ・ウェールズの称号を持っていましたが、不倫の後にチャールズ皇太子(当時)と結婚した経緯もあってか、このプリンセス・オブ・ウェールズの称号を公に使用することはなく、コンウォール侯爵夫人と名乗っていました。

 

また、ウィリアム王子とキャサリン妃は、2011年4月に結婚した際、エリザベス女王によってケンブリッジ公爵、公爵夫人の称号をそれぞれ与えられていましたが、父チャールズが新国王に即位したことを受け、新国王と王妃がそれまで名乗っていたコーンウォールの称号も引き継ぎます。ウィリアム皇太子はコーンウォール公爵、キャサリン皇太子妃はコーンウォール公爵夫人ともなります。

 

実際、ウィリアム王子とキャサリン妃のSNS(ツイッターとインスタグラム)のアカウント名が、ケンブリッジ公爵夫妻から「コーンウォールおよびケンブリッジ公爵夫妻」に変更されていました(現在は、ウェ―ルズ公爵夫妻を使用)。

 

なお、チャールズ新国王は、1958年から持っていたコンウォール侯爵という称号を使うことはなく、長らくプリンス・オブ・ウェールズの称号を多く名乗っていました。

 

 

  • ウィリアム皇太子夫妻の3人の子ども達

 

今回の称号の変更に伴い、ウィリアム王子夫妻の子供であるジョージ王子、シャーロット王女、ルイ王子もこれまでの「ケンブリッジ」の名から「コーンウォールおよびケンブリッジ」の名になっています。正式には、次の称号を新しく得ることになりました。

 

プリンス・ジョージ・オブ・コーンウォール・アンド・ケンブリッジ

プリンセス・シャーロット・オブ・コーンウォール・アンド・ケンブリッジ

プリンス・ルイ・オブ・コーンウォール・アンド・ケンブリッジ

 

また、「ウェールズ」の名をウィリアム王子が与えられたので、その称号も名乗ることになります。

 

 

  • ヘンリー王子夫妻の子ども達

 

王子と王女

チャールズ国王の次男ヘンリー王子と妻メーガン妃(サセックス公爵夫妻)の子どもたちで、王位継承順位6位と7位となったアーチーとリリベットは、「王子(プリンス)」・「王女(プリンセス)」の称号(肩書)と、殿下・妃殿下(HisまたはHer Royal Highness、HRH)の敬称を得て、アーチー王子(殿下)とリリベット王女(妃殿下)になれるかが注目されています。

 

イギリス王室における「王子」・「王女」の称号と、殿下・妃殿下(HRH)の敬称の付与には、ヘンリー王子の高祖父にあたるジョージ5世は1917年に、「王国の君主の子供、君主の息子の子供(孫)およびプリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)の長男の長男(曾孫の長男)」に与えられると定めました。

 

エリザベス女王の在位中、チャールズ皇太子の長男であるウィリアム王子の長子ジョージ王子までがこれに該当しました。エリザベス女王は、これを変更し、シャーロット王女とルイ王子まで拡大したことから、ウィリアム王子とキャサリン妃のお子さんたちは、全員、「王子」・「王女」の称号と、(王室高位メンバーを意味する)HRHの敬称を得ています。

 

そして、今回、女王が崩御し、祖父チャールズが即位したことで、現行法に則れば、アーチ―君とリリベットちゃんは、君主の孫という立場になり、希望すれば自動的に、王子と王女の称号とHRHの敬称が与えられ、アーチー王子殿下、リリベット王女殿下になれます(希望しない場合もある)。

 

当初、チャールズ新国王は、シニアメンバーと呼ばれる主要王族の数を減らして、王政のスリム化を検討していることから、これを認めない可能性もあると指摘されていましたが、英紙サンは、アーチー君(3歳)とリリベットちゃん(1歳)は近く、正式に王子および王女となるが、殿下または妃殿下(HRH)の敬称は得られない見込みだと報じました。後者については、ヘンリー王子とメーガン妃が、2020年に王室を離脱した際、王室との合意の一環で、HRHの使用を放棄し、「王室として働いていない」ことが理由にあげられています。

 

 

マスターとレディ

アーチーとリリベットは、親が保持する「サセックス公爵」の称号も持っていません。そうすると、爵位を持たない2人には何かしらの称号はあるのでしょうか?

 

こうしたケースでは、当初、慣例に従い、ヘンリー王子の従属爵位(下位の爵位)であるダンバートン伯爵を儀礼称号(儀礼上の称号)として使用するとみられていましたが、両親の意向により爵位ではなく年少の貴族の子息の呼称であるマスター(Master)とレディ(Lady)を使っています。現在、アーチーはマスター・アーチ―、レディ・リリベットという敬称で呼ばれています。

 

マウントバッテン=ウィンザー

また、アーチーとリリベッドは、マウントバッテン=ウィンザーという姓を名乗っています。実際、2人の正式な名前は

アーチー・ハリソン・マウントバッテン=ウィンザー

リリベット・ダイアナ・マウントバッテン=ウィンザー。

 

この姓は、1960年にエリザベス女王とフィリップ王配が結婚した際、2つの名字(女王のウィンザー家と王配のマウントバッテン家)を組み合わせて誕生しました。エリザベス女王とフィリップ王配は、自分たちの子どもや子孫のために、マウントバッテン=ウィンザーという姓を作ったのです。公式には、エリザベス2世と夫フィリップ・マウントバッテン公の間に生まれる子の姓をマウントバッテン=ウィンザーとする枢密院令が発せられました。

 

もっとも、女王の子ども達は、ケンブリッジ公、サセックス公、ウェールズ公など、それぞれの称号で呼ばれているため、マウントバッテン=ウィンザーという姓は使用していません。

 

なお、ウィンザーは、王室が属する王朝の名前であると同時に、エリザベス女王の祖父ジョージ5世の決定により、王家の家名(ファミリーネーム)ともなりました。

 

 

<王朝名も変更?>

 

チャールズ3世新国王の即位とともに、イギリス王室は、王朝名(家名)をウィンザー朝からマウントバッテン=ウィンザー朝に変える可能性もあると言われています。これは、エリザベス女王の王朝名であるウィンザー朝に、エリザベス女王の夫で、チャールズ3世の父であるエジンバラ公フィリップの家名を加えた名称です。

 

マウントバッテン=ウィンザー朝という折衷名にするのは、チャールズ3世が王位を継承しても、エリザベス女王の直系血筋が絶えるわけではないという考え方で、ウィンザー朝の継続という強調したものと言われています。

 

ただし、前述したように、マウントバッテン=ウィンザーは、1960年にエリザベス2世と夫が創設した姓(苗字)で、このときは、家名(王朝名)が変更されたわけではありませんでした。そのため、チャールズ3世が即位した今もその家名(王朝名)はウィンザーのままで、姓のマントバッテン=ウィンザーとはずれが生じていることを調整する狙いがあるのかもしれません。

 

 

<関連投稿>

イギリス王室:女王陛下とウィンザー家の人々

イギリス貴族の爵位と敬称:公爵から男爵まで

 

 

2022年09月11日

9.11から21年 アメリカのテロとの戦いは今

アメリカの同時多発テロから今年2022年で21周年になる。テロの脅威を忘れなないためにも、あの事件を風化させてはなりません。

 

ハフポスト紙が、「アメリカ同時多発テロはなぜ起きたのか。“史上最悪”のテロ事件を写真で振り返る【9.11から21年】」と題した記事を出してくれました。同時多発テロの発生の背景から、実際の惨事から、その後のアメリカのテロとの戦いについてまとめた記事で、今私たちが知るべき内容がすべて書かれていたので、まずはそのまま引用します。

 

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2977人の命が奪われたアメリカ同時多発テロから21年。史上最悪のテロ事件はなぜ起こったのか。

(2022年09月11日、ハフポスト日本版編集部)

 

民間機4機が国際テロ組織にハイジャックされ、日本人24人を含む2977人が犠牲になった、アメリカ同時多発テロ(9.11事件)から11日で21年を迎える。航空機が世界貿易センタービルに激突する瞬間や、ビルが白煙を巻き上げながら崩れ落ちていく映像がリアルタイムで放送され、その惨劇は世界を震撼させた。多数の民間人の命を奪う「対テロ戦争」の発端にもなった“史上最悪”のテロ事件は、なぜ起こったのか。事件現場はその後、どう変わったのか。写真と資料で振り返る。

 

2977人が犠牲に

2001年9月11日午前8時46分、乗客乗員計92人を乗せたボストン発ロサンゼルス行きのアメリカン航空11便が、ニューヨークの世界貿易センタービル北棟に衝突した。その17分後、乗客乗員計65人を乗せたユナイテッド航空175便が、世界貿易センタービルの南棟に突入。午前9時37分には、バージニア州の国防総省(通称ペンタゴン)に、アメリカン航空77便が激突した。午前10時3分、ペンシルベニア州・シャンクスビルの平野に最後の1機のユナイテッド航空93便が墜落した。2機が衝突した世界貿易センタービルは、11日午前10時〜10時半ごろにかけて相次いで崩れ落ちた。

 

一連のテロ事件の犠牲者数は2977人に上った。その中には、建物内で生存者の救助活動にあたっていた警察官や消防隊員も含まれている。現場で有害物質を吸い込んだり、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症したりと事件による健康被害に今も苦しむ人は多い。

 

ハイジャックした19人の実行犯たちは、国際テロ組織「アルカイダ」のメンバー。航空機4機に4〜5人ずつ乗り込み、全員死亡した。ペンシルベニア州の平原に墜落したユナイテッド航空93便は、乗客と乗員たちがハイジャック犯に抵抗したため、標的であるワシントンD.C.のホワイトハウス(アメリカ合衆国議会議事堂とする説もある)に到達しなかった。

 

国際テロ組織「アルカイダ」とは

9.11事件を引き起こしたアルカイダは、1989年に誕生した国際テロ集団。どんな組織なのか?ソ連軍は1979年、アフガニスタンに侵攻する。ソ連軍の駆逐を目的とした「ジハード」(聖戦)に参加するため、アラブ諸国の若いムスリム(イスラム教徒)を中心とする義勇兵たちが、アフガニスタンや隣国パキスタンに向かった。

 

1989年にソ連軍がアフガンから撤退すると、対ソ連で戦った抵抗勢力の間で内乱が発生した。こうした中、一部のアラブ人義勇兵たちによって次のジハードを戦うための組織アルカイダが結成された。アルカイダの幹部らにとって、戦場を失った義勇兵たちの処遇は喫緊の課題だった。

 

1990年の湾岸危機で、米軍がメッカとメディナというイスラム教の2大聖地があるサウジアラビアに駐留したことは「異教徒の軍隊がイスラムの聖地を占領している」とみなされ、攻撃の対象とされた。アルカイダの論理はエスカレートし、サウジアラビア駐留軍だけでなく、全てのアメリカ人を「標的」とするようになった。

 

アルカイダの最高指導者のオサマ・ビン・ラディンは、2011年5月2日、パキスタンでアメリカ軍特殊部隊に殺害された。

 

泥沼化した「対テロ戦争」

アフガニスタンを支配していたタリバン政権は、アメリカ同時多発テロを計画したアルカイダ指導部の引き渡しを拒んだ。そのため2001年10月、アメリカはイギリスなどとともにアフガニスタン攻撃を開始。タリバン政権を壊滅させた。以降、アメリカや同盟国による「対テロ戦争」が激化していく。

 

1990年代後半から、米共和党内部で活発に活動していた「ネオコン」と呼ばれる新保守主義者たちは、特に9.11事件以降、積極的にイラクのフセイン政権打倒を主張していた。ネオコンの特徴の一つは、自由主義や民主主義といったアメリカの価値観を、軍事力や経済力を行使したとしても他国に広める、という思想だ。アメリカは開戦理由として、イラクが化学兵器や核兵器などの大量破壊兵器の開発を進めて保有していることや、アルカイダとつながっていることを挙げた。イラクはいずれの疑惑も否定し続けた。

 

「大量破壊兵器」は見つからなかった

イギリスや日本など一部の国を除き、イラクへの軍事攻撃に対する慎重論が上がっていた。しかし、アメリカは2003年3月20日、イラクへの武力攻撃を開始(イラク戦争)。アメリカ、イギリス、オーストラリア、ポーランドの4カ国でつくる有志連合軍は、イラク各地で大規模な空爆を行った。

 

当時日本の首相だった小泉純一郎氏は、攻撃開始直後に談話を発表。「我が国の同盟国である米国をはじめとする国々によるこの度のイラクに対する武力行使を支持します」との立場を示した。

 

イラク戦争では空爆や、それに対抗して繰り返された自爆テロにより、イラクの多数の民間人が犠牲になった。2004年10月には、イラクの大量破壊兵器の捜索を担当していたアメリカの調査団による最終報告書が議会に提出された。イラクには大量破壊兵器は存在せず、開発計画もなかったと結論づけるものだった。その後、米兵によるイラク人への虐待や性暴力といった非人道的な行為も次々に暴かれた。

 

イラク戦争と、戦後のイラク国内の治安悪化で、アメリカに対する憎悪はますます膨らんだ。欧米など世界各地でテロ事件を計画・実行する過激派組織「IS」の誕生へとつながっていく。

 

タリバンの復権

タリバン政権は2001年の崩壊後、どうなったのか。その後もタリバン自体は壊滅せず、中央政府の手の届かない地域で力を蓄え、武装勢力として駐留米軍やアフガン政府軍と約20年にわたって戦った。2021年5月、アメリカ政府が米軍のアフガン撤退を本格化させると、タリバンは各地でアフガン政府軍を圧倒し支配地域の拡大を急速に進めた。8月15日に、タリバンは首都カブールを制圧した。

 

アルカイダは2011年のビンラディン殺害後もタリバンに忠誠を誓い、両者の深いつながりが指摘されている。一方、2020年にタリバンは米国と和平合意を結んだが、そのときの条件の一つは、タリバンがアルカイダとの関係を断絶することであった。

 

「グラウンド・ゼロ」はいま

世界貿易センタービル跡地は、「グラウンド・ゼロ」(爆心地)と呼ばれる。グラウンド・ゼロには、事件を伝える「9.11メモリアルミュージアム」が設置されたほか、犠牲者を悼む記念碑も整備された。超高層ビル「ワンワールドトレードセンター」なども建設され、2棟のタワーが崩壊した事件直後とは全く異なる表情を見せている。

 

毎年9月11日には、グラウンド・ゼロなど事件現場で追悼式典が行われている。9月11日夜〜翌朝まで、世界貿易センタービルの2棟に見立てた青い光のツインタワー「追悼の光」(Tribute in Light)が、ニューヨークの空を照らし出す。

 

★☆★☆★☆★☆★☆★☆(引用ここまで)

 

記事にもあるように、2001年9月11日、米同時多発テロ後、実行犯の主犯格のオサマ・ビンラディンらアルカイダの指導者らを匿っているとして、アフガニスタンに軍事介入し、タリバン政権を打倒しました(米アフガニスタン戦争)。しかし、壊滅したかにみえたタリバンでしたが、武装勢力として、駐留米軍やアフガン政府軍に抵抗を続けました。2021年、アメリカ政府が米軍のアフガニスタン撤退を本格化させるのに合わせるかのように、力を再び蓄えてタリバンは各地で支配地域の拡大を急速に進め、同年8月、タリバンは首都カブールを制圧し、再びアフガニスタンを支配しました。アメリカのアフガニスタンにおけるテロとの戦いは、結局、失敗に終わったとしか言えません。

 

では、同時多発テロ後、G.W.ブッシュ大統領が宣言したアフガンも含めた世界中の「テロとの戦い」はどうなったのでしょうか?

 

G.W.ブッシュ大統領は、「テロとの戦いは冷戦より長くなる」と長期戦を示唆しました。実際、アメリカは、アフガニスタンのタリバン政権を崩壊させた後は、イラク、イラン、北朝鮮を「悪の枢軸」と名指し批判し、イラクに対しても戦争を仕掛け、イランとの対立は現在も続いています。また、ブッシュ大統領は、「民主主義を世界に広める」とも宣言し、オバマ政権の2010年から2012年にかけておきた「アラブの春」で一部実現したという見方もできます。

 

1990年台から2000年台初頭まで、まだ冷戦後の世界秩序が模索されていた中、同時多発テロが発生したわけですが、当時から注目されていた理論に、国際政治学者ハンチントンの「文明の衝突」がありました。

 

ハンチントンは、世界の文明圏を、西欧文明(欧米豪)、スラブ・東方正教会文明、中華文明、日本文明、ヒンズー文明、イスラム文明、ラテン・アメリカ文明、アフリカ文明の8つの文明圏に分類し、これからの世界は、イデオロギーの対立から文明の衝突が起きると予測しました(想像に難くないことですが、西欧文明がすべての戦いに勝利することが期待されているでしょう)。

 

論文の発表から8年後の2001年にアメリカ同時多発テロ事件がおき、その後、アフガニスタンやイラクとの戦争というように、冷戦後「テロとの戦いの時代」となったと、ブッシュ大統領が宣言したことから、「文明の衝突」はまさに冷戦後の世界を予見した研究として一躍注目されたのです。

 

さらに、一部の保守派は、「テロとの戦いはイスラム文明との戦い」と強引に解釈し、現代は西欧文明とイスラム文明の戦いに突入したとみなされるようになりました。仮にこの見解が正しいとして、西欧文明の旗手アメリカは、イスラム文明(ここではイスラム原理主義)との戦いに勝利したのかというと、決してそうではないでしょう。むしろ、アメリカはイスラム文明との戦いを拒否しているように思われます。

 

では、ハンチントンの「文明の衝突」は、これからの世界の先行きを占う予言書ではなかったのかというと、これは早急に結論付けできません。

 

「文明の衝突」によれば、イスラム(テロ)との戦いの後には、中華圏、スラブ圏、ヒンズー圏などとの戦いがあると読むこともできます。ハンチントンはすべての文明圏との対立は想定していないようですが、現状では、中華文明、ロシア文明(スラブ・東方正教会文明)との対決は、決して否定できないでしょう。

 

アメリカの外交戦略を歴史的にみれば、理論を現実化するという傾向があるように思えることから、今後もハンチントンの「文明の衝突」からは目を離せません。

 

 

<この記事のさらなる理解のために>

日本人が知らなかったアメリカの謎

 

(2022年9月13日更新)