ロシア史

<古代>

 

🔹スラブ民族の起源は?

東欧北部に定着したノルマン人は、現地のスラブ人と混血してロシア人の祖先となりました。スラブ人は、インド・ヨーロッパ語族の一派で、東ヨーロッパからロシアにかけて居住したスラブ系言語を母語とする民族です。ロシア人・ウクライナ人などの東スラブ、ポーランド人・チェコ人・スロバキア人などの西スラブ、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人・ブルガリア人などの南スラブと、3つのグループに分類されます。

 

民族の大移動に影響されてゲルマン人が去ったあとの地域に広がっていたスラブ人は、7世紀前半に西スラブのなかから最初のスラブ人国家を誕生させ、9世紀前半にはチェック人の大モラビア帝国が建設されました。西スラブは、その後、神聖ローマ帝国の支配を受けた王国が林立し、ベーメン王国、リトアニア・ポーランド王国などが誕生しています。

 

東スラブは、9世紀にキエフ公国が成立し、ウラジミール1世のときにギリシャ正教を国教に定めました。しかし、諸公国の自立や農民の農奴化が進むなかで分裂し、13世紀半ばにモンゴルに服することになります。東スラブが統一されたのは、モスクワ公国のイワン3世のときでした。バルカン半島に進出した南スラブは、ビザンツ帝国に服属してギリシャ正教を受け入れ、12世紀後半に独立を果たします。しかし、オスマン帝国の侵出に敗北し、その支配下に入りました。

 

一口にスラブ民族といっても、実に複雑・多岐ですが、彼らはキリスト教を受け入れたことでヨーロッパ文明の重要な担い手となりました。しかし、多数の民族が一定の地域に住んだり、逆に同じ民族が国境で引き裂かれたりしたため、現在に至るまで民族紛争が問題になっています。

(「手にとるように世界史がわかる本」より抜粋)

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ノルマン人の支配下で建国されたキエフ公国は、ビザンツ帝国と交易して繁栄し、ウラジミール1世のときに最盛期を迎えた(980年即位)。彼は(ビザンツ皇帝バシレイオス2世の妹と結婚)、ギリシャ正教を国教とし(988、9年)、ビザンツ風専制支配を行った。

 

キプチャクーハン国の支配から独立し(1480年)、東北ロシアを統一したモスクワ大公国のイワン3世は、全国の農民の自由を奪い農奴化を進めるなどして専制君主の地位を固めた。

 

モスクワ大公国は、モンゴル人支配下で14世紀に前半に成立し、1480年に独立した。

 

 

<近現代>

 

イワン(イヴァン)3世は、モスクワ大公国の皇帝で、1480年にモンゴルの支配から完全に独立を果たした、彼はビザンツ帝国最後の皇帝の姪と結婚し、ツァーリの名称を継承した。

 

ロシアでは、15世紀に入ると、モスクワ大公国のイワン(イヴァン)3世が出て、モンゴル(キプチャク=ハン国)の支配から完全に独立するとともに、他の諸侯を抑えて強大な権力を握り、ビザンツ皇帝の後継者を意味するツァーリの称号を正式採用した。

 

イワン(イヴァン)4世は、雷帝と呼ばれ、15世紀にツァーと自称した。

 

ステンカ=ラージンの反乱:17世紀後半に起こった(1670~71)、ロシアのドン=コサックを中心とする大農民反乱で、その勢力はカスピ海からヴォルガ川中下流域一帯に及んだ。

 

ロシアは、ピョートル(ピーター)1世の時代に、北方戦争(1700~21)においてデンマーク、ポーランドと結んでスウェーデンを破り、バルト海へ進出した。

 

18世紀ロシアでは、新たに首都ペテルブルグが建設された。ピョートル大帝(1689~1725)は、徹底的な欧化政策をとったが、1700年から始まった北方戦争では、強国スウェーデンを破った(破り、バルト海へへの出口と列強の地位を獲得した)。

 

ロマノフ朝のピョートルは西欧諸国を模範とする国制改革や農業振興によって国力を大いに充実させるとともに、清朝との間にネルチンスク条約を結んで(1689年)、両国の国境を定めた(清に有利な条件で)。

 

ロシアでは、ピョートル1世の死後一時国政が乱れたが、エカチェリーナ2世が啓蒙思想の影響を受けた、法律の整備などの諸種の改革を行って社会体制の近代化を図った。しかし、農奴制の廃止を求めるコサック、農奴らの大規模な反乱事件(コサック出身で農奴制廃止を求めるプガチョフの乱1742?1773~75年)の後は、農奴制を強化し、フランス革命が起こると、その影響を恐れ反動政治を行った。

 

ロシアではエカチェリーナ2世によって富国強兵が図られ、種々の改革が試みられたが、一方で農奴制はむしろ強化された。

 

18世紀後半のロシアは、啓蒙専制君主といわれてエカチェリーナ2世の下で、様々な改革がなされたが、プガチョフによる農民反乱がさかんになり、農奴制が強化された。

 

啓蒙絶対君主として種々の改革を試みた女帝エカチェリーナ2世(1762年に即位、ドイツからピュートル3世に嫁ぐ)は、プガチョフの農民反乱(1773年~75年)後は農奴制を強化し、さらにフランス革命が起こると、これへの対抗から厳しい専制政治をしいた。

 

エカチェリーナ2世はポーランド分割に参加したり、オスマン帝国を圧迫して黒海まで進出する事に成功するなど、その版図を一気に拡げた。

 

ロシアではバルカン半島方面への南下政策を企てたが、クリミア戦争でトルコに敗北した。同戦争で敗れても以後も南下政策を企ていった。

 

ロシアでは、クリミア戦争の敗北により、改革の必要を悟ったアレクサンドル2世が、農奴解放令を出し、農奴に人格的自由と土地の所有を認めた。(ただ、この改革は地主本位に行われただけで不徹底なものであった。)

 

クリミア戦争の敗北後、アレクサンドル2世は農奴解放令を発する(1861年)など近代化を進めようとしたが、後に反動化して、知識人や学生を中心とするナロードニキによって暗殺された(1881年)。

 

ナロードニキ運動:都市の知識人層が農村に入って農民を啓蒙していくことによって社会主義改革を実現しようとした1870年代の運動である。

ナロードニキ:都市の知識人層が農村に入って農民を啓蒙していくことによって社会主義改革を実現しようとした1870年代の運動。

 

ロシアは、19世紀中盤にようやく農奴解放を行い、また、ロシアの産業革命は、露仏同盟締結を契機とするフランス資本の導入で本格化するが、外資導入型の上からの急速な工業化は社会矛盾を激化させ、農業国ロシアに、工業労働者の革命政権ソビエト連邦を成立させることになる。

 

ロシアでは、1917年に三月革命と十一月革命が起こり、ツァーリズムが打倒され、ソビエト政権が樹立された。成立したボリシェビキ政権は、ドイツとブレスト=リトフスク条約を結びドイツと講和した。

 

ロシアでは、第一次世界大戦中に労働者や兵士による三月革命(1917年3月)が起こって、(ニコライ2世が退位し、ロマノフ王朝の)帝政が崩壊)、臨時政府が発足した。臨時政府は戦争を続行したが、ボリシェビキのレーニンが臨時政府の指導者ケレンスキーと対立し、同年11月の十一月革命で、臨時政府を倒し、ソビエト政権を樹立した。ソヴィエト政権はドイツと休戦し、地主の土地を無償没収し、農民に分配した。

 

ロシアでは、第一次世界大戦中、ケレンスキーの指揮するメンシェビキ(少数派)が、皇帝ニコライ2世を退位させた。

 

十一月革命ではレーニン率いるボリシェビキが戦争停止を主張し、ロシアにとっては不利なブレスト=リトフスク条約をドイツとの間で締結し戦線を離脱した。その結果、日・英・米・仏がロシア革命に対する内政干渉を行い、シベリア出兵のきっかけとなった。

 

レーニン率いるソヴィエト革命政権が、単独でドイツとブレスト=リトフスク条約を結んで講和すると、1918年、英、仏、アメリカ、日本の4ヶ国は、革命の波及を防ぐため、チェコ軍救援を名目として、シベリアに出兵して交戦した。(軍隊を派遣して、ロシア国内の反革命軍を助ける対ソ干渉戦争を起こした。)しかし、連合軍の支持した反革命軍が敗北し、1920年に英米仏は撤退し、日本も22年に撤兵した。14カ国が出兵?

 

レーニンは、革命後の戦時共産主義による産業の減速や、数百万人の餓死者まで出した深刻な食糧不足を克服するために、1921年、国有化政策を緩め、中小企業に私的営業を許すとともに、農民には余剰生産物の自由販売を認める新経済政策(ネップ)を行った。この結果、国民経済は回復に向かい、生産は第一次大戦の水準に回復した。

 

ソ連では、レーニンが穀物徴発をやめて、農民に余剰農産物の自由販売を認め、中小企業の私的営業を許すなどの新経済政策(ネップ)を採用した。スターリンはネップを変更し、三度の五カ年計画(1928、1933、1938)を実施した結果、工業生産力が増大した。ソ連は国際連盟設立当初に加盟せず、1934年に加盟した。

 

ソ連では、第一次(1928~32)および第二次五カ年計画(1933~37)が進展し工業生産は飛躍的に増大した。当時は、反体制に対する大量の投獄や処刑によって独裁的権力をふるったスターリン体制の時代であった。

 

社会主義国としてスタートしたソ連は、1928年に5カ年計画を実施し、計画経済を進めていった。このため、ソ連は資本主義的経済破綻である世界恐慌の影響を受けなかった。