神田明神(正式名称「神田神社」)は、西暦730年に創建されたとされる1300年近い歴史ある神社です。現在、神田明神は、大手町、丸の内、神田、日本橋、秋葉原、築地魚市場など都心の108の氏子町の総氏神で、江戸の三大祭りの一つである神田祭は、神田明神の祭事です。今回、東京の神田明神についてまとめました。
- 徳川家とともに
神田明神は江戸時代に徳川家とともに発展しました。1600年、天下分け目の「関ヶ原の戦い」の際、神田明神で、徳川家康の戦勝祈祷が行われ、9月15日の神田祭の日、東軍の勝利となりました。これに気をよくした家康は、江戸幕府を開くと、神田明神を、幕府の尊崇する神社としたと言われています。大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼし、名実ともに天下を統一した後の1616年には、江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に、神田明神を遷座させました。その際、家康は壮大な社殿や神輿を寄進したとされ、こうした支援により、神田明神は、江戸城を守護する神社となったのです。
その後も、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府だけでなく江戸庶民にいたるまで篤い崇敬を受ける神社となりました。神田祭りも、現在のような盛大なものになったとされています。これも、関ヶ原以降、縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう、幕府より命ぜられたからだと言われています。
明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称し、東京の守護神として、より社格の高い「准勅祭社」「東京府社」に定められました。1923年の関東大震災では、社殿が焼失してしまいましたが、その後、再建され、第二次世界大戦時、東京大空襲により、大きな被害を受けましたが、社殿のみわずかな損傷のみで戦災を乗り切りました。
- 平将門と神田明神
こうした江戸(東京)を代表する神田明神ですが、神社の起源と祭神(祭っている神さま)がはっきりしませんでした。神田明神の社伝によれば、天平年間の西暦730年に、出雲族の真神田臣(まかんだおみ)が、祖神である大己貴命(オオナムチノミコト)(大国主命=大黒さまの別名)を、武蔵国豊島郡芝崎村に祀ったことが始まりとされています。
しかし、このとき祭神とされた大黒さま(大己貴命)は、安房神社(千葉県館山市)から分祀されたものだされていましたが、その安房神社では、「今も昔も大黒さまを祭神としていたことがない」らしく、この伝承にはその信憑性が疑われています。
むしろ、神田神社が創建されたという武蔵国豊島郡芝崎村は、現在の東京都千代田区大手町に位置し、しかも、その場所が将門塚周辺に相当することから、神田神社の起源は、平将門に遡るとの見方が根強くあります。ただし、それは、歴史的には検証できない「将門伝説」に基づくものでした。
数ある「将門伝説」の一つが首塚伝説です。940年、天慶の乱(平将門の乱)で敗れた平将門の首は切り取られ、京都で晒されていましたが、その首が「我に躯(からだ)を与えよ。もう一戦せん」と歯軋りして、夜な夜な叫び続けました。そしてある夜、将門の首は突然、舞い上がった後、白光を放って、胴体のある関東(下総国)に向かって飛び去り、武蔵国の江戸で落下したとされています。
また、別の伝説には、逆に、討たれて下総国に残された将門の首のない死体が、「もう一戦せん」と首を求めて、西へ向かって歩き始め、武蔵国の江戸で力尽きて倒れたという話しも残されています。
いずれにしても、飛んできた将門の首が落ちた地点、あるいは首のない将門の躯(体)が倒れた場所は、武蔵国豊島郡(東京都千代田区大手町)で、当時の神田明神だった付近(いまの将門塚)でした。落ちてきた将門の首(または倒れた将門の胴体)を見た土地の人々は、祟りを恐れて、境内に祠を建てたのが神田明神の始まりというのです。
その後、将門を葬った墳墓(将門塚)周辺で、「首無し死体が歩いている、首が浮遊して彷徨っている」といった怪しい噂話しが取りざたされ、また、疫病や天変地異も頻発したことから、人々は将門の祟りであると恐れるようになりました。
そこで、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めし、さらにその2年後の1309年、神田明神でも奉祀いたとされています。この時のことを神田明神の社伝では、「当社の相殿(あいどの)神とされた」とあります。これが正しければ、相殿神になったということは神田明神にはすでに主祭神がいて、そこに合祀されたことを意味するので、すでに大己貴命(オオナムチノミコト)が祀られていたということにはなります。
首無し死体が歩いたり、首が飛来したり、というのはあくまで伝説で、実際は、敗死した平将門の首が京から持ち去られて、武蔵国(東京)で祀られたというのが真相だと思われます。その時、すでにあった神田明神近くで葬られたのか、(今の)将門の首塚の場所に、将門を祀る神田明神が建てられたのかは、正確なところはわからないというのが実情です。
それでも、以後、将門の首塚は東国(関東地方)の平氏武将の崇敬を受け、戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった武将によって手厚く崇敬されたと言われています。
- それでも祭神は不明?
江戸時代になると、家康が戦さの前に必ず家来に神田明神で戦勝を祈らせたと言われているほど、神田明神は徳川家の手厚い保護を受け、「江戸総鎮守」となりましたが、その祭神についてはあいまいでした。
もちろん将軍家は、「将門の結界伝説(将門の怨霊の力を利用して江戸を守護するため北斗七星の形をした結界を張ったという伝説)」のような言い伝えも残されていることから、神田明神の祭神が(かりに相殿神だったとしても)平将門であったことは認識していたと思われます。しかし、江戸中期の町民たちの間では、神田明神の祭神は、牛頭天王、素盞嗚命、熱田大明神、神功皇后…などと主張され諸説が散乱しており、神田明神の祭神は不明であったようです。
当時の代表的な儒学者・新井白石は、神田明神の祭神は誰かということに対して、「昔は平将門、いまは牛頭天王と洲崎明神」、垂加神道の提唱者である山崎闇斎も「素盞嗚命(スサノオノミコト)」と唱えていたと言われています。それが江戸の後期、地域の地名や集落、風俗、名所などの地誌について関心が高まった際に、神田明神の祭神について、「将門でいいのではないか」と言われるようになったそうです。
明治になると、俗習ばかりの神社を認めないとする政府から、由緒を示して祭神を明らかにすることが求められたことから、公式に、「神田明神の祭神は平将門」となり、社名も神田明神から神田神社に改称されました。
- 朝敵・将門の悲運
ところが、明治天皇が、明治7年(1874)に、ご参拝されることになった際、「朝敵である平将門が祭神ではまずい」という声に配慮して、将門を祭神から外し、急遽、恵比寿さまが招来されました。それから、平将門が、再び神田明神の祭神(神さま)に戻るのは、110年後の1984(昭和59)年のことでした。
現在、神田明神では、主祭神として大黒さま、次に恵比寿さま、それから三番目に平将門が祭られており、復活した将門は「最下位」の地位に甘んじています。これを当の将門はどう思っているのでしょうか?
神田明神祭神
一ノ宮:大黒さま(大己貴命=オオナムチノミコト)
二ノ宮:恵比寿さま(少彦名命=スクナヒコナノミコト)
三ノ宮:平将門(将門命=マサカドノミコト)
<参考投稿>
<参照>
神田明神HP
なぜ? 日本三大祭り「神田祭」の知られざる祭神不明の過去
(2019/5/11、現代ビジネス、乃至 政彦)
神田祭とは(MATCHA)(東京観光財団)
日本全国「三大まつり」ガイド
日本史を揺るがした“あの”風雲児を祀る、江戸の総鎮守「神田明神」の知られざる秘密!(tenki.jp)
Wikipediaなど
(2019年5月22日、2022年6月5日更新)