平将門の伝説:将門は怨霊か?守り神か?

 

平安中期に「天慶の乱」を起こした平将門には様々な伝説があります。朝廷に反逆したので「朝敵」「逆賊」なのですが、特に東国では親しまれ、社寺の縁起や軍記物語、民謡などに数多く残されています。今回はその代表的な伝説をいくつか紹介します。

 

なお、平将門や、天慶の乱(平将門の乱)については、「承平天慶の乱:将門と純友に密約はあったか?」にも詳しく解説していますので、関心のある方は参照下さい。

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  • 首塚伝説(首伝説)

 

天慶の乱(平将門の乱)(940年)の後、下総国(千葉県北部から茨城県の一部)で討たれた平将門の首は、京都に運ばれて七条河原で晒されましたが、何ヶ月経っても、腐らずに、生きているかのように眼を見開いているかのようだと評判になりました。

ある時、藤六左近という歌人がそれを見て一首詠むと、突然地面が轟き、将門の首が「我に躯(からだ)を与えよ。もう一戦(いっせん)せん」と歯軋りして、夜な夜な叫び続けたそうです。それから数日後の夜、将門の首は突然、舞い上がり、白光を放って、胴体のある関東(坂東)に向かって飛び去ったと伝えられています。

 

しかし、その途中で力尽き、首は武蔵国の江戸(豊島郡芝崎)(今の千代田区神田)に落ちたと言われています。この時、大地は鳴動し、当たりは暗くなったと言われ、恐怖し祟りを恐れた村人は、将門の首が落ちた場所に、塚を築いて埋葬し、祠(ほこら)を建てて祀ったそうです。その場所が、現在、将門塚(しょうもんづか)=首塚となっており、その場所が、当時の神田明神の由緒(始まり)となりました。

 

しかし、その後も、将門塚の周辺で、「首無し死体が歩いたり、首が飛来したり」といった怪しい噂話しが取りざたされただけでなく、疫病や天変地異も頻発したことから、人々は将門の祟りであると恐れるようになりました。

 

そこで、時宗の二祖・真教上人が、1307年、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って、首塚の前に板石塔婆を建て、将門を日輪寺で供養しました。その2年後には、神田明神でも将門を奉祀した(霊を合せ祀った)ので、ようやく将門の霊魂も鎮まり、この地の守護神になったと言われています。

 

なお、首が落ちたとされる伝承地は複数あり、将門の首塚とされる場所や、将門の首を密かに持ち去って祀ったとする神社は、都内だけでなく全国にいくつかあります。また、現在の神田という地名も、将門の「躯=体(からだ)」が訛って「神田」となったという説もあるそうです。

 

余談ですが、首が飛んでいったという首塚伝説以外に、残された将門の首のない死体が、「もう一戦せん」と首を求めて、西へ向かって歩き始め、武蔵国の江戸で力尽きて倒れたという伝承も残されています。

 

 

  • 怨霊伝説

 

こうした背景から、「将門塚」は古くから江戸における霊地とされてきました。今も、「将門塚」と「神田明神」は、将門を祀る東京の二大霊場で、心霊スポットとして有名になっています。だからこそ、平将門は菅原道真、崇徳上皇と共に日本三大怨霊とされているように、ここで不敬な行為を行えば将門の祟りがあるという怨霊伝承が生まれ、現代も都市伝説として語り継がれています。

 

例えば、関東大震災後の1923年、首塚があった跡地に、首塚を潰して、大蔵省の仮庁舎を建築した際、そのときの工事関係者や省職員、さらには当時の大蔵大臣・早速整爾(はやみせいじ)氏ら⒕名が急死するという、不可解な出来事が続出しました。このため、大蔵省内では、平将門の祟りの噂が広まり、結局、仮庁舎は取り壊しとなってしまいました。

 

また、1945年には、GHQ(連合国軍総司令部)が周辺の区画整理を行い、将門塚一帯を駐車場にする工事を行うと、工事中のブルドーザーが転倒して運転手が死亡するなど、不審な事故が相次いだため計画が取り止めになりました。こうした事例からか、将門塚周辺のオフィスでは将門塚に背を向けないようにデスクが配置されている事務所すらあるそうです。

 

さらに、神田明神の神田祭りにかかわる将門の怨霊伝説があります。現在、平将門は神田明神の祭神の一柱ですが、明治の初め頃、「朝廷に反乱を起こして朝敵だ、逆賊だ」という批判を受けて、神田明神は将門を祭神から外し、神田祭も行われなくなりました。しかし10年ほど経つと、「将門抜きでいいから、祭りを復活させよう」という機運が高まると、1884(明治20)年、神田祭りが再開されることになったのです。しかし、祭りの直前、未曾有の巨大台風が急接近し、関東に大きな被害をもたらしたため、15日の祭りは中止となってしまいました。福沢諭吉は自身の「時事新報」のコラムで、この台風を「将門様の御立腹」によるものだと書いたことをきっかけとして、「将門台風」という造語が独り歩きしていきました。

 

 

  • 結界伝説

 

首塚伝説や怨霊伝説を反映したのでしょうか、東京には、「平将門の結界」が張られているという伝説があります。「結界」とは、ある特定の場所へ不浄や災いを招かないために作られる、宗教的な線引きのことで、神社仏閣によく見られます。

 

「将門の結界」とは、以下の七つの神社によって形成される「北斗七星」を指します。東京都内には、神田明神や首塚以外にも、江戸時代に創建または再建された将門の首を祀る神社が多くあり、その中の七つの神社を線で結ぶと「北斗七星」の形になっているのです。

(「将門、北斗七星、画像」で検索して確認できます。)

 

鳥越神社台東区鳥越

将門の頭部が祀られています。将門の首がこの地を飛び越えたという伝説があり、鳥越(←飛び越え)という地名の由来にもなっています。

 

兜神社(中央区日本橋兜町)

将門の頭部が祀られています。将門を討った藤原秀郷(俵藤太)が将門の兜を埋めたという伝説が残っています。

 

将門塚(首塚)(千代田区大手町)

京都から飛んできた将門の首がここに着地したという伝説があります。

 

神田明神(千代田区外神田)

将門の頭部が祀られています。当初は将門塚のところに建てられましたが、江戸幕府により、現在地に移転させられました。

 

筑土八幡神社(新宿区筑土八幡町)

将門の足を祀ったという風説があります。なお、江戸時代を通じて、築土八幡神社に隣接する地には、将門の頭部を祀っていた築土(津久戸)神社もありました。神社の由緒からいえば、築土神社の方が将門とのつながりは強いようです。

 

水稲荷神社(新宿区西早稲田)

藤原秀郷が勧請した将門調伏のための神社です。

 

鎧神社(新宿区北新宿)

将門の鎧(胴部)が祀られています。

 

この「北斗七星=将門の結界」を作ったのは「江戸幕府」で、考案者は、幕府が開かれた際、徳川家康の側近として仕えた南光坊天海とされています。結界を張ると、聖なる領域とそれ以外の俗なる領域とが区別され、聖なる領域は、より清浄化し、その領域には邪悪なエネルギーが極力排除された空間になります。

 

そこで、天海は、将門の怨霊の力を利用して、江戸を霊的に守護しようとしたという説が有力です。そのために、幕府は様々な工夫を凝らしたふしがあります。

 

まず、将門調伏を目的として平安時代に建てられた「水稲荷神社」を「北斗七星」群に加えることは、将門の怨霊の力を利用するという結界を張った目的と矛盾するようにも思えます。しかし、これは、「首」を祀った場所(築土神社)と「胴」を祀った場所(鎧神社)を、「水稲荷神社」で、敢えて分断することで、将門の怨霊の力を最大限利用しようとしたと解されています。

 

また、「北斗七星」を形作らせるために、「神田明神」と「築土(津久戸)神社」を遷座させたとの見方もあります。もちろん、その背景には、将門の怨霊の力を恐れた幕府(天海)は、江戸条と目と鼻の先に鎮座していた両神社を、江戸条から遠ざけたかったという思惑もあったと解されています。

 

ではなぜ、天海は、「北斗七星」の形をした結界が張られたのかといえば、平将門が、妙見信仰(北極星や北斗七星の信仰)をしていたことと関係があるようです。妙見信仰とは、もともと、北極星を神とした信仰で、道教において、北極星は天界、人界、冥界の三界を総宰するとされました。仏教では、北極星や北斗七星を神格化した妙見菩薩を祀る信仰をいいます。妙見菩薩は、物事の真相を見極める力を持っているとされ、妙見菩薩を信仰することで、国土を守り災厄を防ぐことができると信じられていました。

 

伝説によれば、武勇に長けた将門は、妙見菩薩のご加護を受け、関東八カ国を治めるようになりましたが、将門が「日本将軍平親王(ひのもとしょうぐんたいらしんのう)」を名乗るようになると神をも恐れなくなったとして、妙見菩薩は、将門のもとを離れた…と伝えられています。

 

一方、この将門の「結界伝説」は、さらに話しは続きます。明治政府が、都内に鉄道を敷設することで、「将門の結界」を断ち切ったという新たな都市伝説を生んでいます。

 

 

  • 調伏伝説

 

平安時代に「平将門の乱」が起きた際、朝廷は諸社諸寺に将門調伏の祈祷を命じたとされています。「将門の結界」の「北斗七星」の線上にある「水稲荷神社」もそうですが、最も代表的なのが千葉県成田市の成田山新勝寺です。

 

940年、朱雀天皇は、京都の僧寛明に、平将門を調伏するための密勅を出しました。僧寛明(寛朝大僧正)は、弘法大師(空海)が敬刻開眼した不動明王を捧持して京の都を出発、海路、上総国に上陸した後、下総国公津ヶ原(成田)に不動明王を安置して護摩を焚き21日間、戦乱が鎮まるように祈願しました。

 

戦場では、それまで、北風が強く風上に陣取った将門には有利な状況が続いていましたが、祈願最後の日、風向きが突如反転すると形勢逆転、藤原秀郷が放った1本の矢が将門に命中し、将門は討死、将門の乱は終わりました。その後、寛朝大僧正が都へ帰ろうとしたところ、御尊像が磐石のごとく動かず、この地に留まるよう告げ出たことから、ここに成田山新勝寺が開山されたという伝承があります。

 

これにより1000年以上たった現在でも、将門の子孫や崇敬者が成田山新勝寺に参拝しようとすると、将門の加護を受けられなくなるだけでなく、道中、災いが起こると信じられるようになったそうです。

 

 

  • 鉄身伝説

 

平将門公は戦場において無敵を誇ったとされ、その強さの由縁として、将門の身体が鋼鉄でできていた、あるいは全身を鉄の鎧でおおっていたという伝説が生まれました。

 

現在、平将門が祀られている神田明神では、関東大震災で焼失した社殿を再建する際に、不熱耐震化のために、当時としては画期的な日本初の鉄筋鉄骨コンクリート製のご神殿が、1934(昭和9)年に再建されました。なお、設計に携わり、鉄筋鉄骨コンクリートを使用することを主張した大江新太郎は、途中、病に陥入り、社殿完成後、死亡しています。

 

 

  • 地元の英雄

 

このほかにも、「七人の影武者伝説」、「羽衣伝説」など平将門に関する伝説は事欠きません。では、どうしてこれほどまでに将門伝説はいまだに語り継がれているのでしょうか?

 

天慶の乱(平将門の乱)が起きた平安中期の頃、関東(坂東)では、国司が私欲に走り、民から財をしぼり取るような政治が横行していたことに加えて、洪水や旱魃が相続き、人々の窮状は言語に絶するものがあったとされています。そうした中、地元の人たちが将門の「活躍」に寄せた期待は大きく、死後の同情も絶大なものがあったようです。ですから、今もって関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社があります。平将門の出身地、茨城県岩井市では、毎年「将門祭り」が行われています。将門が歴史上「朝敵」とされましたが、地元民にとっては権力に抵抗した郷土の勇士だったと言えます。

 

それにしても、今も平将門は、怨霊として、東京の霊界に君臨しているか?それとも逆に、守護神となっているのか、はたまた、これほどの将門伝説も根拠のない俗話だとして、将門公は迷惑しているのか?少々気にはなるところです。

 

(2021年2月20日、更新)

 

<参考記事>

神田明神:平将門との浅からぬ因縁…

承平天慶の乱:将門と純友に密約はあったか?

 

 

<参照>

徳川家が作った江戸の結界とは?将門の北斗七星ラインの秘密。

将門塚(平将門の首塚)(人文研究見聞録)

平将門の伝説(人文研究見聞録)

東京都文化財 将門首塚の由来

新美の巨人たち(テレビ東京、2021年2月20日放送)

Wikipediaなど