ウマイヤ朝:世襲アラブ帝国とカルバラの悲劇

 

4代カリフ・アリーが暗殺されたことで、ウマイヤ家のムアーウィアが権力を奪取しました。今回は、メッカを占領したムハンマドの時代から、アラビア半島を超えて支配を拡大した正統カリフ時代を経て誕生したウマイヤ朝についてまとめました。

 

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ウマイヤ朝(661~750年)は、アリーの敵対者であったシリア地方の提督ムアーウィアが、661年のアリー暗殺後、シリアのダマスカスを首都として、開いた王朝です。

 

ムアーウィヤは、父の3代カリフ・ウスマーンと同じクライシュ族ウマイヤ家の出身で、イスラム開教当初、ムハンマドを迫害する勢力の中心だったウスマーンが、ムハンマドによるメッカ占領後の630年、イスラムに改宗したことを受け、自らもイスラムへ入信し、ムハンマドの秘書の一人となりました。

 

 

  • アラブ帝国の完成

 

ウマイヤ朝は、聖戦(ジハード)を続け、8世紀に入ると、アフリカ北部を征服し、イベリア半島(現在のスペイン)に進出し、711年には、西ゴート王国を滅ぼすなど領土を拡大させました。732年には、ピレネー山脈を越え、フランク王国に侵攻しましたが、トゥール・ポワティエの戦いで敗れ、イベリア半島へと撤収しました。

 

それでも、ウマイヤ朝は、アラビア半島から西は、モロッコ・イベリア半島(北スペイン)、東は、サマルカンド(ウズベキスタンの古都)を含むソグディアナ(トランスオクシアナ)へ広がる一大帝国を構築しました。

 

一方、帝国内では、ウマイヤ朝を認めた多数派のスンニ派、ウマイヤ朝を認めずアリーの血統の者だけが指導者の権利があるとする少数派のシーア派に分れて対立していきました。現在では、ムスリムの9割を占める主流派です(「スンナ」というのはもともと、ムハンマド以来の慣行の意)。

 

  • カルバラの悲劇

 

「アリー」を支持する勢力(シーア派)は、アリーの長男ハサン、その死後は弟フサインを指導者に立て、ウマイヤ朝に対抗しようとしました。ムアーウィアの死後、息子のヤジード(在位647~683年)が2代カリフの地位に就くと、アリー派は、680年、ヤジードに対して決起します。

 

フセインは、女性、子どもを含むわずか200人ほどで、アリー派の要請に応じて拠点となるクーファに向かっていたところ、カルバラ(現在のイラク)という地で待ち構えていた4千人を越えるヤジードの軍(ウマイア家)に包囲され、全面降伏を求められました。しかし、フセインは、毅然としてこれを拒絶して、ウマイアの軍勢の中に突撃していって全滅したのでした。全員、首を切られ、遺体は放置されたと言われています。

 

シーアの人々は、この事件を「カルバラの悲劇」と呼び、預言者ムハンマドの孫であるフサイン(フサインの母はムハンマドの娘)を守れなかったことを、現在でも嘆き悲しんでいます。また、「カルバラの悲劇」を機に、フセインはシーア派にとって「英雄」となりました。

 

 

  • 第二次内乱

 

この事件をきっかけに、ウマイヤ朝のイスラム世界では、第二次内乱(Second Fitna)(683年~692年)と呼ばれる国内争乱が繰り広げられていきます。

 

アッズバイルのカリフ宣言

 

ウマイヤ朝の第2代カリフ、ヤジード(ヤズィード)1世の死後、ムアーウィヤ2世が、683年に次のカリフに就任しましたが、クライシュ族の血を引き後継者候補であったイブン・アッズバイル(アッズバイル)は、これを認めず、メッカに亡命して一定の勢力を維持していました。そして、カルバラの戦いでフサインが殺害されたことを知ったアッズバイルは、メッカでカリフ即位を宣言したのです。その後、ウマイヤ家に不満を抱く、シリア、イラク、エジプトなど各地から、アッズバイルのもとに忠誠の誓い(バイア)をするムスリムが集まり、第二次内乱が始まりました。

 

 

ムフタールの乱

第二次内乱の最中にあった685年10月、今度はシーア派内で、ムフタール(アル=ムフタール・ブン・アビー・ウバイド・アッ=サカフィー)((622‐686))が、ウマイヤ朝に対する反乱を起こしました。ムフタールはクーファに戻り、アリーの子で、フサインの異母弟であるムハンマド・ブン・アル=ハナフィーヤ(ムハンマド・イヴン・ハナフィーア)を立て、アリー家のカリフによる政権の樹立とフサイン殺害に対する報復を呼びかました。

 

ムハンマド・イヴン・ハナフィーアは、ハニーファ族の母を持ち、アリーとファティーマとの間にできた子どもではありませんでしたが、ムフタールは、ハナフィーアを「イマーム(指導者)であり、マフディー(救世主)でもあり、自らはそのワジール(代理)」と宣言し、アリーの子フサインの血の復讐を求めたのです。

 

ムフタールは、685年10月,ウマイヤ朝の総督を追放した後、クーファに政権を樹立すると、フサインの殺害に関与した人々を処刑するなど、一時はバスラを除くイラクの大半とペルシア南西部を支配しました。

 

このとき、シリアには、ダマスカスのウマイヤ朝のカリフ、アブド・アルマリクと、メジナ(メッカ)には反ウマイア運動を起こしカリフを宣言したアブドゥッラー・イブヌッ・ズバイル(イブン・アッズバイル)、そしてイラクには、シーア派のムフタールの三大勢力が争い、イスラム世界は分裂している状態が続きました。

 

第二次内乱終息へ

そうした中、ムフタールは、クーファの支配権を握る際に追放したイブン・アッズバイルの弟で総督のムスアブと対立し、687年、ムスアブの率いるバスラ軍に敗れて戦死しました。(クーファ政権は18か月で崩壊)。

 

もう一一人のイブン・アッズバイルは、イラク、エジプトを制覇し、シリアの半分以上を支配するなど、一時はウマイヤ朝を圧倒するほどの勢力を保持しました。しかし、第5代カリフのアブド・アルマリク(在位:685年 – 705年)のもとで攻勢に転じたウマイヤ朝は、692年、最終的にはメッカを包囲して、イブン・アッズバイルを討ちました。

 

これにより、第二次内乱は終結しましたが、この争乱でカーバ神殿も大きな被害を受けるなど、イスラム世界に傷跡を残しました。

 

 

  • カイサーン派のメシア思想

 

ムフタールの死後、その支持者たちは後に「カイサーン派」として知られる急進的なシーア派の一派を形成しました。ムフタールが「イマーム(後継者)でありマフディー(救世主)である」と宣言して擁立したムハンマド・ブン・アル・ハナフィーヤが700年に没すると、カイサーン派の一部の中から、「ムハンマドは死んだのではなく、一時姿を隠しているにすぎず,やがて地上に再臨して正義と公正とを実現する」と説く者が現れました。

 

カイサーン派のこの考え方は、「イマームの隠れと再臨」という、シーア派独特の教義に発展するなど、後のシーア派のイデオロギーに影響を与えました。

 

また、「マフディー(救世主)」という言葉も、アラビア語の語義は,「(神によって)正しく導かれた者」で初期イスラムにおける4人の正統カリフを指す場合もありますが、シーア派の間では特に、世界の終末に現れて正義を実現するメシア(救世主)の意味で使われ、スンニ派に対するシーア派独自のイマーム(指導者)をさすようになりました。

 

 

  • ウマイヤ朝の終焉

 

ウマイヤ朝は、イスラム史上最初のイスラム王朝ですが、信者による選出だったカリフの地位を、ムアーウィアから14代カリフにいたるまで、3代カリフ、ウスマーンと同じウマイヤ家が世襲したので、世襲王朝とも言われます。

 

ウマイヤ朝はイスラムの教えを基礎とした支配というよりも、部族の連帯、血縁関係を利用して統治し、アラブ人を優遇した政策をとったので、「イスラム王朝」ではなく「アラブ帝国」と呼ばれることがあります。

 

例えば、ウマイヤ朝では征服地の先住民(非アラブ人)が、イスラーム教に改宗しても人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)は免除されませんでした。また、征服した異民族にたいして過酷な政策を押しつけたばかりか、「クルアーン」で保証される信者間の平等をはじめとして「クルアーン」の教えを守らないことが多くあったと批判されました。そのため、スンニ派も含めて、ウマイヤ朝に反対するムスリムは、ウマイヤ家がイスラム理念を軽視することに反感と不満を持つようになりました。

 

ウマイヤ朝末期になると、ウマイヤ家によるイスラムの私物化は、コーランに記されたアラーの意思に反しているとする反ウマイヤ運動が拡大してきました。ムハンマドの一族の出身者こそがイスラムの指導者であるべきとする主張が、シーア派だけでなく、ウマイヤ朝の支配に反対するスンニ派の中にも出てきたのです。

 

こうした中、ムハンマドの叔父の子孫である「アッバース家」のアブー=アル=アッバースが、反体制派のアラブ人や、非アラブのムスリム(マワーリー)である改宗ペルシア人などシーア派の協力を得て、ウマイヤ朝に対する革命運動を起こしました。

 

アッバース軍は、749年9月に、クーファに入城し、アブー=アル=アッバースを初代カリフとする新王朝の成立を宣言すると、翌750年、ザーブ河畔の戦いでウマイヤ朝軍を倒しました。この結果、90年に及ぶウマイヤ朝の支配は終焉しました。

 

一方、アッバース家に追われたウマイア家は、イベリア半島の領土(アンダルシア)に逃げ込むと、都をコルドバとする「後ウマイア王朝(756~1031年)」を開いて生き残りを図りました。

 

 

<関連投稿>

イスラム史1:ムハンマドと正統カリフ時代 メッカを起点に

イスラム史3‐1:アッバース朝 権威の象徴としてのイスラム帝国

イスラム史3‐2:ファーティマ朝 北アフリカを支配したシーア派の雄

イスラム史3‐3:サーマン朝とブワイフ朝 イランとイラクを実質支配

イスラム史3‐4:セルジューク朝 最初のスルタン、十字軍を誘発

イスラム史3‐5:アイユーブ朝 英雄サラディンが建てた王朝

イスラム史3‐6:後ウマイヤ朝からムワッヒド朝 ヨーロッパ最後の砦

イスラム史4:イル=ハン国 アッバース朝を滅ぼしたモンゴル王朝

イスラム史5:マムルーク朝 トルコ系奴隷兵が建てた王朝

イスラム史6:ティムール帝国 中央アジアのトルコ・モンゴル帝国

イスラム史7:オスマン帝国 イスラム王朝最後の輝き

イスラム史8:サファービー朝 イラン全土を支配したシーア派国家

イスラム史9:ムガール帝国 インドへ ティムールの末裔たち

 

<参照>

ウマイヤ朝(世界史の窓)

ウマイヤ朝(世界の歴史マップ

ウマイヤ朝とは(コトバンク)

ウマイヤ朝Wikipediaなど

 

(2022年6月28日)