500年近く続いたアッバース朝(750~1258年)も、ついにモンゴルのフラグによって滅ぼされました。アッバース朝後のイスラム世界はどうなっていったのでしょうか?今回は、フラグのイル=ハン国についてまとめました。
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イル=ハン国(1260〜1353)は、モンゴルのフラグ(フレグ)(在位:1260 ~1265年)の西アジア遠征によって、アッバース朝滅亡後の1260年、イラン高原を中心に成立したモンゴル帝国のハン国の一つです。アムダリヤ川からイラク、アナトリア東部までを支配し、都はイラン西部のタブリーズに置かれました。なお、イルとは、トルコ語で人間集団または国、ハンとは、遊牧民の君主(王)の意。
- フラグのイル=ハン国
モンゴル帝国4代のモンケ=ハンから、西アジア遠征を命じられたフラグ(フラグの西征)は、1258年に、バクダードを占領してアッバース朝を滅ぼしました。イラン高原からメソポタミアを制圧したフラグにとって、残りの敵対するこの地域での勢力は、エジプトのマムルーク朝の支配下にあるシリアだけとなりました。
そうした中、1259年にモンケ=ハンの急死の報を受けたフラグは、モンゴルのカラコルムに帰還することにした一方で、部下のキトブカにさらにシリアをめざして南下を命じました。
しかし、カラコルムへの帰路の途上で、兄のフビライと弟アリクブケによる帝位継承戦争が始まったことを知ると、フラグは、帰還をあきらめ、1260年、西アジアに留まって自立王朝としてのイル=ハン国を建設したのでした(なお、両者の争いは1264年にフビライの勝利に終り、フビライが5代ハンとなった)。
一方、南進したキトブカ率いる軍勢は、第6回十字軍とも協力して1260年に、ダマスクスを占領し、さらにエジプトに向かいましたが、マムルーク朝のバイバルスとパレスチナのアインジャールートで戦いましたが敗れ、モンゴル軍の西アジア侵攻はここで止まりました。
エジプトのマムルーク朝とは、その後も対立を続け、また北方のキプチャク=ハン国のベルケとは、アゼルバイジャンやコーカサス地方の領有をめぐり、1262年にベルケ・フレグ戦争を起こすなど緊張関係にありました。
このように、イル=ハン国の初期、王権は脆弱でしたが、フラグの次のアバガ(在位1265~1282)がイル=ハン国の第2代ハンとなると、後継者争いなどで分裂の危機もありましたが、国家(ウルス)として徐々に安定していきました。
1270年にチャガタイ=ハン国のバラクが、イラン東部のホラーサーン地方に侵攻した際には、これを撃退し、また、1278年には小アジアのルーム=セルジューク朝を属国としています。
- イル=ハン国という名のイスラム王朝
ただし、最終的に、国内の反乱諸族を押さえ、イル=ハン国の最盛期を作り出したのは、フラグの曾孫で第7代のガザン・ハン(在位 1295~1304)でした。ガザン=ハンは、イラン人宰相ラシード=アッディーンを登用し、税制改革や行政改革を実施して中央集権的支配体制を確立しただけでなく、イラン化を進め、イスラム国家としての統治方針を打ち出しました。
イル=ハン国は、イラン人が住む地域にモンゴル人が建てた国家ですが、イラン人は高い文化的伝統を持っていたので、モンゴル国家のイル=ハン国も次第にイラン化が進んでいたのでした。結果として、異民族の支配のイル・ハン国の治世において、イラン・イスラム文化が保護,育成されたのです。
ガザン・ハンは、1295年、自らイスラム教(スンナ派)に改宗し、モスクやマドラサの建築を進めました。ガザン=ハン自身、ペルシア語や中国語にも精通しただけでなく、歴史学や医学、文学など学問にも造詣を深くしていました。それは、史家でもあった宰相のラシード・アッディーンに、モンゴル帝国全体の歴史と、イル=ハン国を取り囲む世界の歴史を記述した「集史」を編纂させたことにも表れています。
「集史」は、ペルシア文学最高ともいわれ、この時代の歴史書はそれ以後のペルシア語歴史著述の一つの典型となっています。また、歴史学だけでなく、天文学などの学問や、建築・美術にもみるべきものが多く、ガザン=ハンの時代、首都のダフリーズは、学問の都として発展し、中国人やヨーロッパ人の学者も多く招かれたそうです。こうしてイスラム王朝に転身したイル=ハン国では、高度なイラン=イスラム文化が開花しました。
- イル=ハン国の衰退と滅亡
しかし、ガーザーン・ハンを継いだ弟のウルジャーイートゥー=ハン(在位 1304~1316)は、兄の統治方針を踏襲し、宰相ラシード・アッディーンも引き続き重用されましたが、その没後,再びモンゴル諸族の対立が表面化してきました。
ラシード・アッディーンも、政敵によりウルジャーイートゥー=ハン毒殺の容疑をかけられ処刑されるなど、イル=ハン朝は一種の無政府状態に陥り、以後、急速に衰退していきました。また、1335年には、第9代アブー・ザーイド=ハン(1316年 – 1335年)が宮廷内で皇后に殺害され、フラグ直系の血統が途絶えると、有力集団はそれぞれ継承権を主張して争いが激化しました。
さらに、イラン西部からイラクにかけて支配したイラン系のジャラーイル朝(1336~1432年)や、イランやアゼルバイジャン地方を統治したモンゴル系のチョバン朝(1340~1357)などの地方政権が実権を掌握し、各地に割拠抗争するようになって、イル=ハン朝は実質的に国家としての統合は失われてしまいました。
最後は、1353年、イルハン朝のハンを称した人物の中で、チンギス・ハンの弟ジョチ・カサルの後裔であるトガ・テムルが殺害され、イランからはチンギス・ハーン一門の君主は消滅しました(最後のハンが亡くなったことで、イル=ハン国は事実上、滅亡)。残された地方政権も、1381年に始まるティムールのイラン遠征により、15世紀には、ティムール朝に吸収されました。
もっとも、イスラーム化したモンゴル人の一部は、イラン高原やアフガニスタンの草原地帯で遊牧生活を続け、現在もアフガニスタンではハザラ人と言われ少数派を形成していると言われています。
<関連投稿>
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イスラム史7:オスマン帝国 イスラム王朝最後の輝き
イスラム史8:サファービー朝 イラン全土を支配したシーア派国家
イスラム史9:ムガール帝国 インドへ ティムールの末裔たち
<参照>
イル=ハン国(世界史の窓)
イル=ハン国(世界の歴史マップ)
イル=ハン国とは(コトバンク)
イル=ハン国(Wikipedia)など
(2022年7月2日)