サーマン朝とブワイフ朝:イランとイラクを実質支配

 

アッバース朝の名目的な統治下、10世紀にかけて、イラン高原とバクダットを実質的に支配したサーマン朝とブワイフ朝についてまとめました。前回紹介したファーティマ朝とともに当時、アッバース朝を3分割したと言っても過言ではありません。

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<サーマン朝>

 

サーマン朝(875年 ~999年)は、中央アジアに成立した最初のイラン系イスラーム王朝で、最盛期にはイラン高原全域を支配しました。バルフ地方(アム川の南、アフガニスタン北部)の豪族(イラン系地主/ディフカーン)サーマン家は、サーマーン=フダーの時、イスラム教を受容し、その一族は代々、アッバース朝カリフから重用されていました。

 

9世紀初めには、西トルキスタンの支配権を認められて、イラン東部(アム川・シル川中間地帯)のトランスオクシアナ各地の知事の職に就いていましたが、875年、サーマン家のナスル (在位874~892) が、アッバース朝から自立して、トランスオクシアナに、サーマン朝を建国しました(首都はブハラ)。ただし、形式的にはアッバース朝の権威を認め、アッバース朝を宗主国として、スンニ派イスラム教を信奉していました。

 

トランスオクシアナ

別名マー・ワラー・アンナフル。中央アジア南部のオアシス地域(イスラーム以前のソグディアナ)の歴史的呼称で、アムダリヤ川(アム川)とシルダリヤ川(シル川)に挟まれた地域。今日のウズベキスタンとタジキスタン、それにカザフスタンの南西部の一部に該当します。

 

9世紀末には、イスマーイール・イブン・アフマド(在位 892~907)が、ホラーサーン(イラン東部)に進出すると、900年にサッファール朝(イラン人の建国したイスラーム王朝)を破り、この全域を支配し勢力をイラン高原に及ぼすなど、サーマン朝は最盛期を迎えました。また、サマルカンド、メルヴ(トルクメニスタンのオアシス都市)なども商業都市として繁栄しました。

 

サーマン朝の強さは、マムルーク(トルコ人奴隷出身者の軍人)から成る傭兵軍隊にありました。サーマン朝では、中央アジアからトルコ系遊牧民の子弟を奴隷として購入し、これを精強な軍人(マムルーク)として育成する方式が考案され、これがアッバース朝をはじめイスラム諸王朝に波及していきました。また、トルコ系遊牧民の子弟を、イスラム世界に「輸出」することで、サーマン朝の収入源にもなっていたと言われています。

 

イラン=イスラム文化

加えて、サーマーン朝において、古来のイラン文化とイスラーム文化を融合したイラン=イスラーム文化が創出されました。首都ブハラは、イスラーム神学や法学の中心地として栄え、その宮廷には多数の文人、学者が集って、いわゆる「イラン・ルネサンス」が開花しました。

 

従来のソグド文字などに代わり、アラブ文字を用いた新しいペルシア語も発達しました。ペルシャの哲学者・医学者・科学者として知られるブハラ生まれのイラン人、イブン=シーナー(ペルシャの哲学者・医学者・科学者)や、ハディース(預言者ムハンマドの言行に関する伝承)の編纂で知られるブハーリーらが活躍したのも、サーマン朝の時代です。

 

サマーン朝の下で、中央アジアのイスラーム化は急速に進行し、周辺のトルコ系民族にも、イスラームへの改宗者が急増していきました。マムルーク軍団の普及も含めて、サーマン朝が、その後の内陸アジアに大きな影響を与えたと指摘されています

 

このように、中央アジアに君臨したサーマン朝も、軍事・政治の実権はしだいにトルコ系軍人の手に移り、10世紀中頃から衰えはじめ、999年には東方から移動してきたトルコ系カラ=ハン朝によって滅ぼされました。

 

 

<ブワイフ朝>

 

ブワイフ朝(ブワイ朝、ブーヤ朝)(932~1055年)は、946年、アッバース朝カリフから実権を奪いバグダードを支配したシーア派のイラン系軍事政権です。

 

カスピ海南西の山岳地帯であるダイラム地方出身の軍人アフマドらのブワイフ家の三兄弟が、当初仕えていたズィヤール朝(ジヤール朝)の内紛に乗じて、イラン南部のファールスで独立し、ブワイフ朝を樹立しました。946年には、アフマドが、アッバース朝の弱体化をみて西進し、バグダードに入城しましたが、アッバース朝を滅ぼしてしまったわけではありませんでした。

 

それどころか、アフマドは、アッバース朝のカリフから、大アミール(大総督、大将軍)に任じられるとともに、「ムイッズ=アッダラウ(王朝の強化者)」の称号を受け、事実上、政治と軍事の実権を掌握しました。ブワイフ朝は戦士集団であったので、「カリフ」制度はそのまま残し、自分たちの意のままに統治しようとしたのです。

 

しかも、ブワイフ朝は、シーア派の中の穏健な十二イマーム派を信奉していたので、アッバース朝のスンナ派カリフは、シーア派の大アミールにイスラーム法(シャリーア)の執行権を委ねてその保護下に入り、その一方で、同じシーア派のイスマーイール派を信奉するエジプトのファーティマ朝(909年 – 1171年)と対立するという複雑な関係が成立しました。

 

また、国内統治の手法として、ブワイフ朝では、これまでの官吏や軍人に国家から現金俸給が支払われるアター制に代わり、軍人に、国家から授与される分与地(イクター)の徴税権を与え、直接農民や都市民から徴税させるイクター制が、各地で導入されました。軍人にとっては、直接土地が与えられたのではないものの、実質的に土地を支配できることを意味しました。

 

ブワイフ朝は、その後、約1世紀間、西アジアを支配しました。しかし、アフマドの息子アズド・ウッダウラ(在位949~983)の没後、内紛のために王朝は分裂し、1055年、中央アジアから起こったトルコ人によるスンナ派のセルジューク朝にバグダードを占領されて滅ぼされました。

 

<関連投稿>

イスラム史1:ムハンマドと正統カリフ時代 メッカを起点に

イスラム史2:ウマイヤ朝 世襲アラブ帝国とカルバラの悲劇

イスラム史3‐1:アッバース朝 権威の象徴としてのイスラム帝国

イスラム史3‐2:ファーティマ朝 北アフリカを支配したシーア派の雄

イスラム史3‐4:セルジューク朝 最初のスルタン、十字軍を誘発

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イスラム史3‐6:後ウマイヤ朝からムワッヒド朝 ヨーロッパ最後の砦

イスラム史4:イル=ハン国 アッバース朝を滅ぼしたモンゴル王朝

イスラム史5:マムルーク朝 トルコ系奴隷兵が建てた王朝

イスラム史6:ティムール帝国 中央アジアのトルコ・モンゴル帝国

イスラム史7:オスマン帝国 イスラム王朝最後の輝き

イスラム史8:サファービー朝 イラン全土を支配したシーア派国家

イスラム史9:ムガール帝国 インドへ ティムールの末裔たち

 

<参照>

サーマン朝(世界史の窓)

サーマン朝(世界の歴史マップ)

サーマン朝とは(コトバンク)

サーマン朝(Wikipedia)

ブワイフ朝(世界史の窓)

ブワイフ朝(世界の歴史マップ)

ブワイフ朝とは(コトバンク)

ブワイフ朝(Wikipedia)

 

(2022年6月30日)