ウマイヤ朝を倒したアッバース朝は、500年近く続きましたが、その実態はどうだったのでしょうか?今回はアッバース朝についてまとめました。
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アッバース朝(750~1258年)は、ウマイヤ家よりもムハンマドの家系に近いアッバース家(ハーシム家)のアブー=アル=アッバースが、シーア派の協力も得て、750年にウマイヤ朝を滅ぼして成立した王朝です。当初、首都はクーファに置かれましたが、第2代カリフ・マンスールのとき,バグダードを建設して遷都しました。
- イスラム帝国の完成
アッバース朝は、751年には、唐とタラス河畔の戦いで大勝し、当初帝国の版図を中央アジア方面へ拡大し、第5代カリフであるハ―ルーン=アラッシード(位:786~809年)の時代に、最盛期を迎えました。首都バクダットは、100万人を越える世界最大の国際都市として繁栄し、有名な千夜一夜物語(アラビアンナイト)もこの時代に書かれています。
アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、インド、アラビア、ペルシア、中国、ギリシアなどの諸文明の融合がなされ、学問も著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えたとされています。
東西交易の発展も著しく、751年タラス河畔の戦い以降、中央アジアのオアシス地帯には西方から、イスラム勢力が進出するようになりました。彼らは、当時、中央アジアで東西交易に従事したイラン系民族ソグド人の本拠地たるアム川・シル川中間地帯を含め、パミール以西のオアシス地帯の西半を完全に勢力圏に収めていきました。この結果、ユーラシアの東西を結ぶ通商ネットワークの主役は、ソグド人からムスリム商人へと、しだいに移り変わっていったとされています。
また、イスラム商人は、8世紀頃から東南アジア経由で中国に赴き貿易活動を行うようになりました。イスラム商人が東南アジアに定着するようになると、現地人へのイスラム教への改宗も進み、東南アジアは大乗仏教もしくはヒンズー教が主流でしたが、ジャワ島にはイスラムのマタラム王国(1587~1775)も誕生しました。
アッバース朝は、アラブ人の特権を廃止し、すべてのイスラム教徒を平等に扱おうとしました。もともと、イスラム教は、改宗しない非アラブ人(ズインミー)に対してイスラム教を強制せず、人頭税(シズヤ)・地租(ハラージュ)を納めれば、従来通りの宗教を信仰することを認めています。しかし、ウマイヤ朝では非アラブ人でイスラム教に改宗した人々(マワーリー)にも、ジズヤを課していました。そこで、アッバース朝では、シズヤは免除されハラージュのみが課せられることとなり、イスラム教徒のアラブ人と非アラブ人の平等化が図られました。
というのも、アッバース家は、支配層とはいえ小部族であったので、ウマイヤ朝に対する反乱に協力を得た、大きな勢力を持つ非アラブのムスリム(特にペルシア人)の支持を取り付ける事が必要であったからです。
このアッバース朝の平等化政策によって、多くの異教徒がイスラムに改宗してくると、カリフも、多様なイスラム信者を受け入れ、統括する指導者が求められるようになり、血統にはこだわらず、信者の総意に基づいて選ばれる方法が定着していきました。
以上のような背景から、アッバース朝以降の王朝は、ウマイヤ朝のアラブ帝国に対して、イスラム帝国と呼ばれるようになりました。
- アッバース朝からの分離
しかし、アッバース朝による、イスラム世界の統一ウンマ(イスラム共同体)が実現できたのは、全盛期とされるハールーン=アッラシード(在位:786~809年)の治世までで、9世紀半ば以降は、地方の政権の自立・独立が相次ぎました。
まず、アッバース朝が統治に熱心でなかったイベリア半島やマグレブなどの辺境地域に分裂がみられました。この地域には、アッバース朝のスンニ派から弾圧されたシーア派など、信仰の自由を求めた移住者が増え、また、バグダードのカリフの統制に従わない勢力の台頭も目立ちました。
その最初が、777年建国のアルジェリアのルスタム朝(ハワーリジュ派)( 777‐909年)で、その後もモロッコにシーア派のイドリース朝(786~926)、チュニジアのアグラブ朝(スンナ派) (800~909年)が、アッバース朝の宗主権を認めながら実質的に自立しました。また、エジプトでも、トゥールーン朝(868~905年)やイフシード朝(935年~969年)が、アッバース朝から分離し、地方政権(自立政権)を樹立しています。
加えて、アッバース朝のお膝元のイラク南部のサワード地方でも、869年に、アッバース朝で使役されていた黒人奴隷が反乱を起こし(ザンジュの乱)、878年には、独立政権となる「ザンジュ王国」も建設されました(883年に鎮圧された)。(ザンジュとは、アフリカのナイル上流地域、タンザニア、モザンビークなどからイスラム圏に連れてこられた黒人奴隷のこと)。
さらに、東方のイラン方面でも、ターヒル朝(821~873年)、サッファール朝(861~1003年)、サーマン朝(875年 ~999年)、ジヤール朝(ズィヤール朝)(930~1090頃)などが、アッバース朝の権威を認め、アッバース朝を宗主国としつつも、地方政権を打ち立てました。とくに、アム川シル川中間地帯のトランスオクシアナ地方から出たサーマン朝は、900年に、ターヒル朝を滅ぼしたサッファール朝を破り、イラン高原全域を支配するなど強大な勢力となりました。
- ファーティマ朝の台頭と三カリフ時代
こうしたアッバース朝の分裂と権威の低下の最大要因としては、シーア派との対立があげられます。前述したように、スンニ派のアッバース家は、シーア派の協力で、ウマイヤ朝を倒しましたが、政権をとると両者の溝は急速に深まっていきました。
アッバース家は、ムハンマドの伯父アッバースの子孫で、預言者の血筋ですが、シーア派は、アリーの子孫(アリとファーティマの血脈)だけを「預言者の一族」とみなしています。ウマイヤ朝打倒で連携し、ウマイヤ朝が滅びれば「預言者の一族」が指導者になると信じていたシーア派は結局、アッバース朝の正統性にも異を唱えました。
初代カリフ、アブー=アル=アッバース(在位750~754年)の時代から、アッバース朝は、安定政権を樹立するにはアラブ人の多数派を取り込まなければならないとの立場から、スンニ派を保護し、逆にシーア派を弾圧し始めました。これに対して、「裏切られた」シーア派は強く反発し、一部には過激な思想も現れ、アッバース朝に対して反乱を繰り返すようになりました。
10世紀に入っても、アッバース朝におけるスンニ派とシーア派の対立は収まらず、909年に、シーア派は、北アフリカ・マグリブ地方のチュニジアで挙兵して、エジプトに「ファーティマ朝」を興しました。ファーティマ朝は、ルスタム朝やイドリース朝などアッバース朝から自立した地方王朝を次々と征服して、北アフリカを支配していきました。
初代ウバイドゥッラーは、自分こそが「正しいカリフ」であると主張し、スンニ派のアッバース朝に対抗しました(なお、ファーティマ朝は、シーア派はシーア派でも、その分派であるイスマーイール派を信奉)。
このファーティア朝の出現の結果、イスラム世界は、ウマイヤ朝滅亡後、イベリア半島に生き延びた後ウマイア王朝(スンニ派)を加えると、本家のアッバース朝(スンニ派)とファーティマ朝(シーア派)の「三人のカリフ」が並び立つ分裂状態となりました。
- ブワイフ朝とセルジューク朝の台頭
このように、アッバース朝カリフの権威は著しく低下し、10世紀に入るとカリフの支配領域はイラク1州だけに縮小していました。そうした中、946年、シーア派のイラン系の軍事政権であるブワイフ朝(932~1062年)がアッバース朝の都バクダットを占領し、国家としてのアッバース朝は、実質的に崩壊しました。
ただし、バクダット入城で、アッバース朝を滅ぼしたのではなく、アッバース朝のカリフから大アミール(大総督、大将軍)に任じられ、政治と軍事の実権を掌握しました。この結果、アッバース朝のカリフは、名目的な存在となり、宗教権力としてのみ存続が許されました。
そのブワイフ朝も、1055年には、スンニ派のセルジューク族によって実質的に滅ぼされると、アッバース朝カリフは、新たに出現したセルジューク朝(セルジューク=トルコ)にスルタンの称号を与えて、政治権力を委託し、その庇護下に入りました。スルタンとは、「カリフから統治権力を任された君主、支配者、代行者」の意で、セルジューク朝以後、イスラム世界における世俗の統治者の称号として定着していきます。
実際は、セルジューク朝のもとでスルタンがカリフから政治権力を奪う形となり、カリフは宗教的権威に限定されることになりました。アッバース朝にとっては、カリフ(神の使徒の代理人、後継者)という立場を利用して形式的にせよ、政権を存続させる道を選んだ形です。そもそも「スルタン」は「カリフ」にしかその称号を付与できなかったので、アッバース朝は、イスラムの権威者であり続けることができたのです。しかし、11世紀末には、アッバース朝は、ますます求心力を失い、カリフはバクダードの周辺を治めるだけになっていました。
- アイユーブ朝とホラズム・シャー朝の台頭
そうした中、聖地エルサレムは、十字軍のキリスト教勢力によって奪還され、エルサレム王国(1099~1291)が建設されましたが、エジプトのファーティマ朝を滅ぼしたスンニ派のアイユーブ朝(1169~1250)のサラディン(サラーフ=アッディーン)がエルサレムを奪い返し、その後も戦いを優位に進めました。
サラディンも、アッバース朝カリフに対しては一定の権威を認め、カリフを支持していましたが、1193年のサラディンの死後、アイユーブ朝の方もカリフを保護する力はなくなっていく中で、アッバース朝カリフは完全に形骸化し、スルタンの支配が鮮明になっていました。
一方、セルジューク朝の支配地であった中央アジア西部(アラル海南岸)のホラズム地方から、1077年に、ホラズム・シャー朝(1077〜1231)が自立しました。1157年のセルジューク朝消滅後、アッバース朝カリフは、セルジューク朝の分国として、セルジューク朝の後継のイラク・セルジューク朝の保護下に置かれていました。これに対して、イランへの拡大を開始したホラズム・シャー朝は、1194年、イラク・セルジューク朝を滅ぼすと、1197年には、アッバース朝のカリフから正式にイラクとイラン東部のホラーサーン(「太陽の登るところ」の意)を支配するスルタンとして承認されました。
その後も、1215年にゴール朝を滅ぼし中央アジアからイラン全域に至る最大版図を実現したホラズム・シャー朝は、アッバース朝に対して、バクダットの領有とカリフの地位を求めてきました。
- アッバース朝の最後
こうして、その求心力を失いつつも、750年から500年に及び政権を維持していた本家のアッバース朝も、ついに終焉を迎えることになるのですが、引導を渡したのは、ホラズム・シャー朝ではなく、1258年、モンゴル帝国の西アジア遠征を指揮したフラグでした。
フラグは、イラン高原からメソポタミアを制圧し、バクダードを占領しました。この時の攻撃で、アッバース家のカリフ、ムスターシムも殺害され、アッバース朝は名実ともに滅亡しました。イラン北方にとどまったフラグは、1260年、アッバース朝に代わるイル=ハン国を建国しました。
もっとも、難を逃れたアッバース家のカリフの一族の一人がカイロに逃れ、アイユーブ朝を滅ぼしたマムルーク朝の保護を受けることとなりましたが、この時すでに、カリフは、スンナ派世界の指導的権威を失っていたので、実質的にカリフ制度は終焉したということができます。後にオスマン帝国において、スルタン=カリフ制として復活しますが、それは名目的なものにしか過ぎませんでした。
<関連投稿>
イスラム史1:ムハンマドと正統カリフ時代 メッカを起点に
イスラム史2:ウマイヤ朝 世襲アラブ帝国とカルバラの悲劇
イスラム史3‐2:ファーティマ朝 北アフリカを支配したシーア派の雄
イスラム史3‐3:サーマン朝とブワイフ朝 イランとイラクを実質支配
イスラム史3‐4:セルジューク朝 最初のスルタン、十字軍を誘発
イスラム史3‐5:アイユーブ朝 英雄サラディンが建てた王朝
イスラム史3‐6:後ウマイヤ朝からムワッヒド朝 ヨーロッパ最後の砦
イスラム史4:イル=ハン国 アッバース朝を滅ぼしたモンゴル王朝
イスラム史5:マムルーク朝 トルコ系奴隷兵が建てた王朝
イスラム史6:ティムール帝国 中央アジアのトルコ・モンゴル帝国
イスラム史7:オスマン帝国 イスラム王朝最後の輝き
イスラム史8:サファービー朝 イラン全土を支配したシーア派国家
イスラム史9:ムガール帝国 インドへ ティムールの末裔たち
<参照>
アッバース朝(世界史の窓)
アッバース朝(世界の歴史マップ)
アッバース朝とは(コトバンク)
アッバース朝(Wikipedia)など
(2022年6月29日)