「中国の儒教を学ぶ」と題して、一般的に知られている孔子から始める儒者の教えと、数々の経典を学んだあと、意外と知られていない儒教の宗教性についてみてきました。4回シリーズ最終回の今回は、儒教の理解をさらに深めるために儒教の歴史を概観します。孔子の教えを基盤に、孟子や荀子などの門弟たちが理論・体系化し、中国の各王朝の正統的な教学として保護されて発展していった一連のプロセスを時代ごとに追いました。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
儒教の歴史は、以下の5つ時代に大別され、4番目の国教化以後の儒教は各時代の特色に留意してさらに3分して考えられます。
- 孔子以前(原始儒教)
- 孔子による儒教と儒教教団の創設
- 孔子死後から漢の武帝による国教化以前の儒教(孟子・荀子)
- 儒教国教化以後(前漢から随、唐を経て宋・明・清まで)
4-1 漢の武帝時代から唐末に至る時期(訓詁学)
4-2 宋初から明末に至る時期(性理学=朱子学・陽明学)
4-3 清一代(考証学と公羊学)
- 現代の儒教(中華民国から共産中国)
1 孔子以前の原始儒教
- 殷(商)(前17世紀頃〜前1046年)
宗教的な権威による祭政一致の神権政治が行われていた殷(商)の時代、王は占卜(せんぼく)(=占い)によって政治を行い、歴代の王の霊や神霊に対する祭祀が最も重要な任務とされていました。民間においても、孔子以前から、原始儒教(原儒)とも呼ばれる長い段階があました。それは、主として孝という考え方を背景とした祖先崇拝などのシャーマニズムを基礎とした儀礼的な信仰として続いていました。
- 周(前1046〜前256年)
次の周の時代では、王室と血縁関係にある諸侯を各地に封じ、国を建てて統治させるという封建制の体制が確立されました。その際、重視されたのが儀礼でした。後の孔子ら儒家の思想家は、この周の時代を「礼」の理念で統治された理想的な時代ととらえました。しかし、そんな周王朝も、前8世紀には、その支配力が弱まり、諸侯の反抗や異民族の侵入が始まり、時代は、諸侯が互いに争う春秋・戦国時代(前770〜前221)の混乱期となっていきます。
周王室を中心とする封建制の秩序が崩れ、実力をもった諸侯が覇者となろうとして競い合う政治的、社会的な動揺のなかで、諸侯は自国勢力の保持、拡張をはかって富国強兵策をとり、すぐれた人材(思想家・政治家)を求めました。これに呼応するかのように、諸国をめぐって、どうしたら中国の統一と秩序が形成されるかについて、富国強兵策や、社会や人間のあり方(独自の治世・斉民策)を説く、諸子百家と呼ばれる多くの思想家集団が現れました。こうした諸子百家の中で、最も早くでたのが孔子の儒家でした。
2 孔子による儒教の創設
- 孔子の教え
春秋末期の乱世に小国魯(ろ)に生を受けた孔子(前552〜前479)は、周(西周)を理想的な時代ととらえ、徳に基づいた政治のあり方を求めることで、時代の混乱を克服する道を探りました。
人に接するに人間愛である「仁」をもって、失われた社会秩序を回復するために「礼」を重視し、家族内の「孝悌(こうてい)」の徳を、社会にまで広め、治国平天下をめざそうとしたのです。その言行録「論語」は、後に弟子たちよってまとめられ、人としての生き方、社会のあり方を教えました。
孔子はまた、孔子以前から長くあった、祖先崇拝などのシャーマニズム的、儀礼的な信仰としての「原始儒教」をより、宗教性のある思想(儒教)に作り上げていきました。
孔子の教えについての詳細は、孔子・孟子・荀子・朱子…が教えたことを参照
- 孔子の弟子たち
孔子が諸国を遊説して廻る中で、孔子の思想に共鳴する人士がその門に集まって、弟子として多くが従うようになりました。孔子には、約3000人の弟子がおり、その中で「身の六芸に通じる者」として七十子がいたとされ、さらに、そのうち特に優れた高弟は、次のように「孔門十哲」と呼ばれました(その才能ごとに四科に分け、四科十哲とも言う)。
徳行に顔回(がんかい)、閔子騫(びん(みん)しけん)、冉伯牛(ぜんはくぎゅう)、仲弓(ちゅうきゅう)と評されました。徳行に優れたとは、弟子の中でもとりわけ才知と人徳を備えていたことを意味します。
言語に宰我(さいが)、子貢(しこう)と評され、弁舌に優れた弁論の達人でした。
政事に冉有(ぜんゆう)、子路(しろ)と評され、行政手腕に優れていました。その中で、子路(紀元前543年〜紀元前481年)は、孔子とのやり取りで「論語」に出てくる回数が最も多い人物です。
文学に子游(しゆう)、子夏(しか)と評されました。文学とは学問の才能のことで、六経や古典に長けていたとされています。
その他、曽子(そうし)(曾参とも) (前505年〜没年不詳)は、親孝行の人として知られています。曾子の弟子には孔子の孫で「中庸」の作者とされる子思(しし)(前492年〜前431年)がいます。
中国の経書(儒学の書)の一つに数えられている「孝経」は、孔子と曽子が「孝」について問答するという形式をとりながら、孔子の言動が記録された書物で、曽子の門人によってまとめられたとされています。なお、朱子学では、(聖人(儒学)の教えを伝える系統である)道統の継承者として、顔回・曾子・子思・孟子を四聖(しせい)として崇敬しています。
3 孔子後の儒教の発展①
(孟子・荀子を経て漢の武帝による儒教の国教化まで)
孔子(前552〜前479)の死後、門人たちは、孔子の思想を奉じて教団(孔子教団)を作り、戦国時代(前403〜前221)、儒家となって諸子百家の一家をなしました。儒家は八派に分かれ、各地に分散して、それぞれが孔子の教えに様々な教えを付け足しながら、教勢を拡大していきました。この間に傑出したのは孟子と荀子で、孔子の教え(思想)は、門弟たちによって大成され、儒教として展開していくことになります。
- 孟子と荀子
戦国中期に出た孟子(孟軻)(前372?〜前289?)は、性善説を唱え、徳による君主の政治(王道政治)を説きました。これは、農民の生活を安定させることが大事だとして、孔子が示した徳(徳治政治)の実践を示したもので、「仁義」の心で政治を行うことが求められました。孔子を継承した孟子によって、儒家思想は、支配階級に即した道徳学と政治学の内容を整備していきました。
戦国末の荀子(荀況)(前298〜前238?)は、人は生まれつきのままでは善になりえないとする性悪説を唱えて、君主の定めた「礼」(社会規範)による秩序確立(礼治主義)を主張しました。また、荀子は、客観的な教学の整備に努めたとされています。「書経」や「詩経」をはじめとする経書(儒教の経典)も、荀子の時代を前後する頃に出揃い、また、経書の注釈書や論文集などの整備も始まるなど、経書の学習が教学の柱とされていきました。
このように、孔子の教え(儒教)は、戦国時代になって、孟子と荀子によって儒学として深化し、同時に、経書の解釈を行う学問、または社会規範(道徳)や習俗にまで深められ多様化していくことになります。加えて、孔子の言葉をまとめた「論語」も、孔子の死後300~400年の後、弟子たちによって編纂され、儒教の経典の地位を確立していくことになります。
- 「百家争鳴」の後
一方、儒家の発展に刺激されて、墨家(ぼくか)、道家(どうか)、法家等の諸子百家が、相次いで生まれ発展しました。最有力学派の儒家に対抗して、墨家は、墨子(前480〜前390)が、より積極的な博愛精神による行動を唱え、また、道家は、老子(生没年不詳、前400年前後)や荘子(前300年前後)が出て、人為的・形式的な道徳論を批判して、無為自然などを説きました。
加えて、荀子の性悪説の思想から、法による統治を主張する法家が生まれ、韓非(子)や商鞅(しょうおう)などが大成させました。中国を初めて統一した秦の始皇帝の時代は、宰相に李斯が採用され、君主の権力強化し、富国強兵を図る法家思想による国家統治をめざされました。始皇帝は、儒学は人を惑わすとして焚書・坑儒を行うなど、儒家を厳しく弾圧しました。
しかし、秦(前221〜前206)が短期間で滅んだあとに中国を支配した漢(前漢)(前206年〜後8年)は、秦の法家偏重から転換し、儒学を政治に採り入れるようになりました。この結果、「百家争鳴」の思想活動も、秦・漢の統一帝国の成立とともに思想統制の枠が厳しくはめられるようになり儒教だけが生き残りました。
- 武帝による国教化
漢の武帝(BCl4l~BC87)の時代には、儒教の「国家教学」化を献策した儒者の董仲舒(前176-前104)の意見を容れて、儒教は、中国の国教(儒学は官学)として採用されました。このとき、「詩経」「書経」「易経」「礼記」「春秋」の5つの経書を最も重んじ、「五経」と定められました。
なお、もともと、「詩経」「書経」「礼経(らいけい)(礼記)」「楽経(がくけい)」「易経」「春秋」といった周時代の書物が六経(りっけい/りくけい)として儒家の経典とされていましたが、楽経が秦の始皇帝の焚書で消滅したとされ、残る五種が「五経」と総称されるようになりました。なお、楽経(がくけい)とは、音楽そのもの、または儀礼に付けられた儀式音楽についての書であったなど諸説あります。
また、儒教の国教化(儒学の官学化)と同時に、五経を説く学者またはその官職(国家教学として学官)である五経博士が置かれました(正確には、儒教の国教化は前136年に五経博士の置かれたときをもって始めとする)。以後、時代により度合いの違いはありますが、儒教(儒学)は各王朝に保護され、中国の最も正統的な理念(学派)となっていきます。
4 孔子後の儒教の発展②
(訓詁学から性理学、朱子学から陽明学)
<漢~唐の時代の儒教(訓詁学)>
- 鄭玄の訓詁学(経学)
五経博士を設置し儒教を国教(儒学を官学化)として以来、経書(けいしょ)(=儒家古典)の解釈学である経学(けいがく)が発展していきました。国教化された当時の儒教は、「五経」が定められたこともあって、五経の学習を中心とするものとなっていきましたが、もともと難解である五経を前にして、これ以後の漢唐時代の儒教は、経学は経学でも、五経を中心に古典(経典)の字句の解釈を主とした訓詁学(注釈学)として展開することとなります。
訓詁学は、後漢の鄭玄(じょうげん又はていげん)(127~200)によって大成されました。鄭玄は、戦国時代の古文で書かれた経書と、漢代で使用された今文(きんぶん)で書かれた経書を比較検討し、古文をもとにして折衷させた数多くの経書に注釈を著すことで、儒学の体系化につとめました。実際、先秦時代の漢文古典は、儒家的な解釈学の立場から解釈され、「周礼」「儀礼」「礼記」「春秋左氏伝」(古文学)、「春秋公羊伝」(今文学)、「春秋穀梁伝」といった注釈書や論文集が漢代で完成したとされています。
- 他宗の影響
一方、儒教の国教化が思想統制を目的とした側面もあったため、その思想的発展は留まったと同時に、儒教は、陰陽道や道教など他宗の影響を受けるようにもなりました。
陰陽五行説の影響
さらに、漢では儒学の官学化により、儒家が政界に進出し、官僚として国家の政治に関わるようになると、本来の仁や礼の理念だけでは、皇帝政治を支えるのは不十分であると考えられるようになった結果、儒家の思想に、陰陽五行説の思想などが採り入れられるようになりました。陰陽五行説とは、自然界の全てのものを「陰」と「陽」の相反する二つの要素でとらえ(陰陽論)、自然界のさまざまな変化や関係を木・火・土・金・水 の五つの要素に分類していく(五行説)考え方で、戦国末期の鄒衍 (すうえん) が王朝の変遷を五行にあてて説いたのに始まります。
天人合一説と讖緯説
漢代になって、儒教は、この陰陽五行説とつながったことに加えて,易の天人合一説、さらには讖緯説を形成しました。
天人合一説は、もともと、天と人間とは本来的に合一性をもつととする思想で、とくに漢代の儒教では、自然現象(自然現象の根源としての天)と人間世界の現象との間に、相互の照応や因果関係があると考えられました。
讖緯説(しんいせつ)とは、前漢末から後漢にかけて流行しました一種の未来予知説です。讖(しん)とは、天から下った予言(未来を占って予言した文)のこと、緯(い)とは、孔子の定めた「経」の裏に隠された真理という意味(経書の神秘的解釈の意)で、(天人合一説の)自然現象を人間界の出来事と結びつけ、政策の正否を占うことに加えて、政治社会の未来動向を呪術的に説くものです。
これは、儒学の経書の解釈を経糸(たていと)とし、自然現象から予言される陰陽五行思想を緯糸(よこいと)とすることによって、正しく未来を予測(天の意志を予言する)できると考えるものでした。
本来、儒教は、孔子も云うように「怪力乱神を語らない」合理的な教えでしたが、(儒学が官学となった結果)前漢末には、このような民間の神秘思想と結びつくようになりました。逆に、政治の面では、王莽はこの讖緯説を利用して、前漢を滅ぼし、新を建国するなど、讖緯説は、権力の正当性の論拠とされ、その後も現在に至るまで民間で様々な占いや予言として生き残っています。
一方、この頃の儒教は、後の朱子学などのように、厳格な理念を追求することはなく、むしろ、祖先崇拝などの民族的な風習と結びつき、冠婚葬祭などの共同体儀礼として民衆生活に深く定着していったという側面が指摘されます。
道教と仏教の影響
魏晋南北朝時代になると、儒教の形式化などを批判する道家の思想と結びついた不老不死などの現世利益を求める道教(老荘思想)や、外来の仏教が盛んになりました。結果として、経学にも老荘的、仏教的注釈が入り込むようになり(随から唐にかけて大乗仏教の哲学が思想界の主流をなしていく)、儒教は、道教と仏教と、時に対立し、時に影響し合いつつも、総じて、停滞(衰退)していきました。
- 唐の科挙制
漢代から始まった儒教の「官学」化は、唐の時代においても続き、儒学は官吏登用制度である科挙の試験科目とされました。科挙の試験に備えて、南北朝時代に多様化した経義(経学)を国家的に統一するため、唐の太宗は、儒者の孔穎達(くえいたつ)(574~648)に命じて「五経正義」を編纂させました(その後、「五経正義」は科挙の国定教科書となる)。
このように、国家による儒教の統制は続けられ、儒教は、貴族階級の必須の教養となった半面、経学(儒家古典の解釈学)としても固定されて活力を失い、思想的な発展は見られませんでした。漢の訓詁学を継承した唐の訓詁学も、その形式的な理解にとどまっていたため、次第に枝葉末節にこだわる解釈だけに落ち込んでいったのです。
また、この頃の儒教は、後の朱子学などのように、厳格な理念を追求することはなく、むしろ、祖先崇拝などの民族的な風習と結びつき、冠婚葬祭などの共同体儀礼として民衆生活に深く定着していったという側面が指摘されます。
一方、唐の思想家でもあり文学者の韓愈(かんゆ)(768-824)は、儒教中心主義を強調し、仏教、道教を排撃することに加えて、儒教精神を表現すべき古文の復活を提唱し、古文復興運動に努めました。この運動は、士大夫といわれる科挙に合格して官僚となった人々に支えられ、柳宗元ととも、次の宋学の先駆者となりました。
<宋の時代の儒教(朱子学)>
(訓詁学から性理学へ、朱子学の興り)
唐末五代期の異民族支配による乱世を統一した宋代において、儒教の現状に対する反省から、仏教や道教の教義を取り込み、革新的な気運を生じました(儒学の革新運動)。この宋代(北宋から南宋にかけて)に形成された、新しい儒学・儒教を宋学と言います。
宋学の源流は、唐の韓愈(韓退之)の思想にも見られますが、宋学は一般的に、北宋の周敦頤(しゅうとんい)を宋学の始祖とし、同じく北宋の程顥(ていこう)(1032‐85)・程頤(ていい))(1033‐1107)の二人の兄弟(あわせて二程と呼ばれる)を経て、南宋の朱子(朱熹)で完成されました。
周敦頤(しゅうとんい)(1017〜1073)は、主著の『太極図説』で、陰陽五行説を展開させた宇宙論を提示することによって、聖人の道を示した。これによって、儒教の理念を宇宙観、哲学に高める道は開かれました。
二程(二程子)(にていし)は、老荘思想の影響を受け、天地万物と人間を生成調和させるという考え方に基づき、その二つの原理の統一を説きました。二人の学は「程学」「周張二程の学」とも言われています。程顥(ていこう)は程明道、程頤(ていい)(1033‐1107)は程伊川とも、それぞれ呼ばれます。
周敦頤や二程の理論をさらに深化・大成したのが朱子(朱熹)(1130〜1200)で、理気二元論、性即理、格物致知、華夷の別、大義名分論などの理論を展開し、宋学を体系化(集大成)(完成)させました。これによって宋学は、朱子学とも呼ばれるようになりました。
朱子によれば、天地万物の根元(宇宙の根本原理)は「理」であり、理は純粋至善であって、人は本性としてその理を持ちます(性即理)。同時に、理が形となって現れる物質的原理を「気」ととらえます。物質的な気を交えることで、肉体を形成する(理気二元論)。そして、人は気によってもたらされる自己の欲望(人欲)を抑え、本性(天理)に立ち返らねばならないとされました。
その方法としては、居敬(きょけい)(心を純粋専一の状態に保つ)と窮理(きゅうり)(事物について理を窮める。具体的には読書問学)の両面が必要であると説かれました(居敬窮理(きょけいきゅうり)。
朱子学についての詳細は、孔子・孟子・荀子・朱子…が教えたことへ
また、朱子学では、北宋の司馬光の歴史書「資治通鑑」を重んじ、大義名分論が展開されました。これは、孝と忠を核心として、君臣の別、父子の別など上下の秩序や礼節を重んじる考え方で、とりわけ、朱子学では、朱子の「資治通鑑綱目」において、君臣関係などの国家道徳が強調され、為政者にとって秩序維持に必要な理念として論じられるようになりました。この結果、本来の孔子の説く孝は家族の親和、忠は君臣の信頼関係を重視するものでしたが、朱子学によって、孝と忠は家族道徳から封建道徳へ変質したのです。加えて、この大義名分論から、中華民族と周辺民族を区別し、漢民族を中国の正統とする華夷の別も説かれました。
宋学(朱子学)は、古文の解釈を行う訓詁の学であったそれまでの儒学に対し、真理を哲学的に探求・実践する儒学(これを性理学という)にまで高めました。その点から、宋以前の儒学を訓詁学、宋以降の儒学を性理学と区分されることもあります。朱子学の誕生によって(ここで)初めて儒教(儒学)は、仏教・道教と対抗できる(並ぶ)体系的な世界観を持った宗教(思想)となったと位置づけられています。
一方、宋以前は、漢の武帝の時に定められた五経(「詩経」「書経」「易経」「礼記」「春秋」)が儒教の基本経典として重んじられていました。しかし、宋学が儒教の開祖としての孔子の地位を高めてから,四書(「論語」「孟子」「大学」「中庸」)が尊重され、朱子が、四書の注釈書である「四書集注」を著すに至って五経よりも四書が官学権威の中心となりました。
また、宋代の儒学者(朱子ら)によって、「道統の継承」が唱えられました。道統(どうとう)とは、上古以来、儒教の道を伝えた「聖賢」の系統のことで、まず、孔子から、その門下に伝授された儒教の道(儒学の真髄)を、孔子の孫の子思から孟子に伝えられました。しかし、孟子以後、仏教や道教などが栄え「道統」は廃れましたが、11世紀、北宋の儒学者、周敦頤や二程子(にていし)らが道統を復活させ、さらに朱子がこれを引き継いだとされました。「道統の継承」は、朱子学が儒学の正統であると主張する根拠とするためのものと言われています。
朱子学は初め異端視されましたが、(儒学の素養を積んだ知識人で中国の官僚である)士大夫の支持を得て隆盛に赴き、元代には伝統的儒教にかわって国教となり、以後清末にまで至っています。こうして、朱子学は、日本および朝鮮を含む東アジア圏に影響を与え、東アジアの封建社会に共通する道徳となることよって、儒教文化圏を形成することとなるのです。
一方、朱子と同時代の南宋の儒者(思想家)で、その論争相手として有名な人物が、象山先生と呼ばれ,陸象山の称でも知られている陸九淵(陸象山)です。
陸九淵(1139~1192)は、朱子の「性即理」を批判し、心の内省を重んじて「心即理」の考えを示しました。陸九淵によれば、朱子の「性即理」が心を「性(本性)」と「情(心)」の二面からなり、そのうちの性を重視したのに対し、性と情(心)は分析できず、渾然一体の物として理解すべきであり、それがそのまま理(宇宙の根本原理)となります。
宋学の主流が朱子の学説によって占められていたことから、陸九淵の心即理は注目されませんでしたが、その思想は、後に明代の王陽明に影響を与え(継承され)、陽明学の源流となりました。
<明の時代の儒教(陽明学)>
(朱子学から陽明学)
朱子学で大義名分論や華夷の別が強調されたのは、北方の異民族である遼や金に圧迫されていたという漢民族の危機感が背景にあったとされ、実際、モンゴル人の元による中国支配という形で、その危惧は現実のものとなりました。その元では、儒教(儒学)は一時、国教(官学)ではなくなり(後に復活)、科挙も停止されたため、儒教は一時衰退しましたが、その後、元朝を滅ぼし、漢民族による中国統一を達成した明朝では、再び儒教が盛んとなりました。朱子学は官学となり、皇帝専制政治を支える理念として隆盛を迎えたのです。
明の永楽帝は、1407年に中国最大の類書(一種の百科事典)である「永楽大典」を、また1415年には朱子学の理念をまとめた「性理大全」、科挙の基準となる公定注釈書として「四書大全」・「五経大全」を編纂させました。永楽帝の編纂事業によって(国家が経典の解釈を定めたために)、儒学は形式化し、朱子学も観念的、思弁的なものなるなど、思想の固定化が進みました。科挙の受験者はこれらを暗記するのみであり、知識階級の自由な研究心も阻害されたといわれています。
そこで、国家によるこうした公式的註釈にあきたらず、むしろ朱子学を批判的に乗り越えようと、王陽明(1472-1529)が陽明学を(心学と言われる)を興し、明代に流行しました。例えば、陽明学は、朱子学の性即理(人は心ではなく本性として理を持つ)に対して、「理は外にあるのではなくてわが心が理である」という心即理を説き、観念的な朱子学に対して、「知行合一」を唱えて、行動と実践を重視しました。
しかし、知行合一を唱えるあまり、読書を廃し、経書の権威を否定する風潮すら生じるなど、陽明学の行き過ぎた行動主義によって、次第に人心は離れていきました。また、明王朝(国家)も、陽明学は、官学である朱子学を実質的に否定するものであり、その主観主義的な思想は体制批判につながるとして警戒されました(朱子学はなお官学の位置を保持し続けていた)。
<清の時代の儒教(考証学と公羊学)>
- 考証学
儒学・儒教思想の中で、宋の時代に官学となった朱子学(宋学)に対して、明代に生まれ流行したのが陽明学でしたが、明末に、陽明学の「行き過ぎ」が批判されるようになりました。すると、次の清代には、哲学的・思弁的な朱子学・陽明学に対して、後漢の鄭玄らの実証的な古典文献研究を主とした訓詁学(注釈学)への復帰が叫ばれ、清代には考証学が流行しました。考証学は、漢代の訓詁学の手法を模範としたことから漢学(かんがく)とも呼ばれます。
考証学とは、明末におこり清代に復活した、実証的な古典解釈を主とする儒学の一派で、かつての古文経学(戦国時代の古文で書かれた経書研究)を基礎とし、事実によって真実を求める「実事求是」の学問です。明代に復活した考証学は、後漢時代の訓詁学(考証学)と区別して、明朝考証学と称することもあります。
具体的には、儒教の経書の研究において、古典の解釈を一字一句違わず、実証できることだけを真実として明らかにする(憶測の説を排し、証拠のないものは取り上げない)手法がとられました。ゆえに、その研究においても、中国の古代の書体である古文(秦代の篆書(てんしょ))が重視されました。
また、考証学は、儒学だけでなく、文字(もんじ)学、音韻(おんいん)学から、歴史や地理の研究にまで発展しました。宋学(朱子学)はなお官学の位置を保持し続けましたが、学術の主流は考証学に移っていきました。考証学の代表的な学者には、三大師と呼ばれた顧炎武(こえんぶ)(1613~1682)や、中国のルソーと称された黄宗羲(こうそうぎ)(1610~1695)、王夫之(おうふし)(1619~1692)などがいます。
また、実証研究が中心となった理由はほかにも、清朝が満州人の異民族支配で、王朝の政治への批判を厳しく取り締まったため、清代の儒学者は政治批判となるような議論を避け、朱子学の「華夷の別」などの理念を封印し、もっぱら、考証(古典の字句の解釈)のみにならざるを得なかったという背景もあります。
こうして、考証学は、天下国家よりも、実証的な研究を通して、実社会で有用な学問(経世実用の学)を目指すという形で発展し、儒学に変革をもたらしました。ただし、考証学が社会変革に向かうことはありませんでした。
- 公羊学
公羊(くよう)学は、「春秋」の三つの注釈書のうち「公羊伝」を正統なものとする儒学の一派で、康有為(1858-1927)らが政治改革を主導しました。(以下にもう少し詳細に説明します。)
考証学は、清初こそ、中国古典に対する文献学的研究として発展しましたが、清末になって社会の混乱、外圧の強化と緊迫してくると、それまでの考証学が本来の経世実用の精神から離れ、形式化したと批判されるようになりました。そこで登場したのが公羊学でした。孔子が編纂したとされる「春秋」は、簡単な編年体で魯国の歴史(周王たちの事績)が書かれていますが、その文面から孔子の言外の主張(孔子の隠された思想)を読み取ろうとした三つの重要な解釈本(注釈書)、公羊伝、穀梁伝、左氏伝が出されていました。
公羊学は、三つの注釈書のうち「公羊伝」を正統なものとする学問で、董仲舒(前176年 ~前104年)らによって漢代に成立していて、清代末期に康有為(1858-1927)らが出て盛んとなりました。清代に復活した公羊学は、清を強調して、清朝公羊学とも称されます。
この間、公羊伝は、董仲舒以来、最もよく孔子の真意を伝えているとして重んじられてきました。このため、経学 (儒教の経典である経書を研究する学問)の関心も、考証学時代の古文経学から、今文(きんぶん)経学(漢代で使用された今文で書かれた経書)に移っていきました。今文経学はもともと政治色の強いものであったことから、その学は諸種の改革運動に理論的根拠を提供するものとなったと指摘されています。
実際、公羊(くよう)学は、孔子を「天命を受けた改革家」としてとらえ(孔子の学説は社会改革のためになされたと解釈)、社会改革を肯定、実践することを特徴としており、公羊学派は、孔子の教えを社会改革に結びつけようとしました。特に康有為は、日清戦争の敗北という緊張の危機に当たって、公羊学の立場で、明治維新と同様の立憲君主制による近代化など、積極的な政治改革をすすめようとして、「戊戌(ぼじゅつ)の変法」を行いましたが、1898年、西太后を頂点とする保守派の抵抗で失敗に終わりました(戊戌の政変)。この結果、革新政治の根本理念であった公羊学も衰退していきました。
1900年の義和団事件以降、西太后の下、西欧の技術などは導入され、立憲制も表明され、1905年には科挙が廃止されました。これは、2000年近く続いて儒教の国教化(儒学の官学化)も終焉したことを意味しました。さらに、1911年の辛亥革命をきっかけに、清朝そのものが滅ぶと、政治の指導理念としての儒教(儒学)の実効性、すなわち聖王(天子)を頂点とする儒教の政治学は存在の意義は失われました。逆に、儒教は、中国民衆を束縛する封建的な理念として否定されるようになったのです。
5 現代中国と儒教
<辛亥革命~中華民国>
孫文の辛亥革命の中で推し進められた儒教批判は、中華民国になっても続き、1915年に刊行された雑誌「新青年」を舞台として文学革命が始まりました。文学革命とは、新文化運動とも言われる文化の革新運動のことで、かつての「中体西用」と言われた近代化の過程において、西洋の技術のみを用い、中国の伝統的な儒教思想(儒教的な価値観・道徳観)を保持しようとしたことに限界を感じ、儒教そのものを批判し、克服することが掲げられました。
文化革命は、雑誌「新青年」を舞台として展開され、文学者で思想家の魯迅(1881~1936)や、中国共産党の設立者の一人であった思想家の陳独秀(1879~1942)らによって、儒教は厳しく批判されました。
<中国共産党>
- 毛沢東の中国
マルクス主義的無神論を掲げる中華人民共和国が1949年に成立すると、儒教批判の風潮は一段と強まりました。儒教の教えが共産主義思想にとって脅威ととらえられていたため、「儒教は革命に対する反動である」として弾圧の対象とされ、多くの学者は海外に逃れた一方、代表的な儒教の思想家は激しい迫害を受け自殺に追いやられたと言われています。
とりわけ、1966年から毛沢東によって押し進められた文化大革命(~1976)では、儒教(儒学)を含めて、あらゆる伝統や権威が否定され、孔子廟も破壊されました。その文化大革命においても、毛沢東が1973~74年に展開した政治スローガン、「批林批孔(ひりんひこう)」(文化大革命の裏切者と評された林彪(1908~1971)と孔子とを合わせて批判)運動がもっとも急激であったとされています。
- 現在の中国
しかし、20世紀末まで、儒教を保守反動の封建主義として弾圧してきた中国共産党も、21世紀に入ると、儒教は弾圧の対象から保護の対象となり、孔子は思想家・教育者として、政治的に、再評価されています。孔子廟(びょう)は修復され、多くの寺で孔子を祀り、論語が学校授業に取り入れられています。
加えて、対外的にはも「孔子」は、中国の「ソフトパワー」「ブランド力」の観点から活用されています。例えば、中国語および中国文化に関する教育機関とされる「孔子学院」が世界各国で設置され、また、一時期(2010-2018)、孔子平和賞(中国版ノーベル平和賞)を設立されました。
ただし、中国共産党の儒教(儒学)そのものに対する立場は今も「微妙」で、孔子の名が政治利用されていると見られており、儒教の再評価も、共産党の統治の範囲内にとどまっています。それでも、儒教は、衰退した仏教とは異なり、道教とともに、民衆生活の中根を下ろしていると言えでしょう。
<関連記事>
儒教③ 儒教は宗教か否か?
<参照>
儒教(Wikipedia)
儒学・儒教(世界史の窓)
儒教とは(コトバンク)
儒教の世界・その1(世界史の目)
朱子学と陽明学に学ぶ人生の知恵(BIGLOBE)
そもそも「宗教」とは何か?中国の宗教史から考える
(2021.10.21、クーリエ)
(2024年4月11日)