世界の宗教の中から、今回より、「中国の儒教を学ぶ」と題して、儒教をとりあげます。儒教は、孔子(BC55l~BC479)がはじめた中国固有の宗教ですが、厳密にいえば、儒教と儒学は区別されます。孔子が論語で説いた教えを、政治道徳の思想という立場から捉えると「儒教」で、それを学問的立場から見た場合(教学として学問的体系とした場合は)「儒学」と解されています。
しかし、多くの場合、儒教と儒学は混用されています。と言うのも、「儒教」というからには、儒教は宗教であり、宗教であれば、神(神々)や霊魂が説かれているのが常ですが、儒教には、そういった、神やあの世など形而上学的な側面はないので、宗教ではないとみなされています。そうであれば儒教は儒学と同じ学問形態となるので、儒教も儒学も同じであるとして、混同して使われているのです。
そこで、このシリーズでは、儒教は宗教か?を共通のテーマとして、儒教について解説していきます。まずは、この問いに答えるためにも、今回は、私たちが学校などで習い知る、孔子から始まり、孟子・荀子、さらには朱子学・陽明学へと発展していった儒学(儒家思想)についてまとめてみました。
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<儒教(儒学)とは?>
儒教は、中国固有の宗教であり、春秋時代末期の前6世紀中頃、孔子(BC55l~BC479)によって、確立されました。論語で説かれた孔子の教え(儒教)を奉じる一派が儒家で、諸子百家の中で最もはやく生まれました。
孔子の教えは、孟子や荀子など門弟たちによって、実践倫理と政治哲学が加えられ,教学として体系化されることで、儒学として発展していきました。儒教(儒学)は、中国を支える思想・道徳として中国社会に浸透し、前漢の時代に、国教として採用されました(儒学としては、国家の学問となった)。
その後も、宋代には朱子、明の時代には王陽明がでて、朱子学・陽明学が生まれるなど、儒教(儒学)は進化し、中国だけでなく、日本を含む周辺のアジア諸国にも強い影響を与えました。
<孔子>
孔子(BC55l~BC479)は、春秋末期の乱世に小国・魯(ろ)に生まれた、諸子百家のひとつである儒家の一人で、乱世に処して、人間はどうあるべきか、政治はどうあるべきかについて、自説を諸侯や弟子達に説いていきました。孔子の教えは、彼の言行録「論語」に中に示されています。
孔子の思想の中心は、徳に基づいた政治のあり方でした。周(西周)を理想的な時代ととらえ、周代の「礼」の精神を回復することで、乱世を克服しようとしたのです。そのために、孔子が重視したのは「仁」と「礼」でした。
- 人としての生き方:仁と礼
【仁】
孔子は、人間として、見につけるべき、最も大切な基本的な徳(諸徳を包摂する最高の徳目)を仁と呼びました。もっとも、孔子自身、論語の中で「仁」について明確な定義を行なっておらず、相手によって、または質問に応じて様々に答えていますが、仁とは、「人を愛すること(人間愛)、他者への思いやり」という意味で、孔子は、自分が欲しないことを他人に行ってはならないと説いたとされています。
(儒教の)仁は、近きより(近親)始まり、親子、君臣、兄弟…と広がっていくことが期待されています。孔子も、家族に対する親愛の情こそが社会関係の基本としていたと見られています。仁は、家族の愛を土台にして育つと考え、「孝(親への愛)」と「悌(年長者や兄への愛)」は仁の基であると説いています。そこから、親・兄弟など、家族に対して生まれる親愛の情を、社会関係の様々な局面に広げ、最終的には、あまねく人類全体にまで押し広めて(人々への愛にまで高めた)いくことが、人として生きる道であり、普遍的な人間愛の理想であるとされました。
【礼】
この「仁」を実践する手段として「礼」が求められます。孔子は社会を支える規範として礼を重んじました。礼とは、社会秩序を意味し、仁を具体的な行動として表したものと位置づけられます。他者を愛する心持ち(仁)が、立ち居振る舞いや表情・態度として外に現れ出たものが礼であるとされました。孔子は、相手を愛する仁の心が、相手を尊重するていねいな態度や行動となってあらわれたものと考えたのです。
さらに、礼が仁と一体化するためには、私利私欲を抑えるとともに、自分を欺かず(これを忠と呼ぶ)、他者の身になって、他人を自分のことのように思いやること(恕)(思いやり)が重要とされました。孔子にとって忠恕に基づいた礼の実践こそ道徳の規範となるものでした。これにより、家族が秩序立てられ、さらに家族を超えて社会が安定することとなります。この仁と礼の関係は、己れに克(か)ちて礼に復(かえ)るという克己復礼(こっきふくれい)という表現に集約されます。自己の我意を抑え、これを克服し、礼に従って、相手を人として尊重する態度をとる(仁の精神)ことが求められます。
このように、孔子にとっては、いかに正しく生きるのかという事柄が重要であり、それは、「仁」と「礼」に基づいた徳のある生き方でした。
- 人としての目標:君子、聖人
一方、孔子は、自己の利益のみを求める人間を「小人(しょうじん)」と呼んで批判し、仁と礼の徳を備えた理想的な人間を「君子(くんし)」と呼びました。
君子は、知仁勇礼の徳を備え、六芸(りくげい)(礼楽射御書数)を見につけていることが期待されました。六芸とは、古代中国において士分以上の人に必要とされた教養で、礼儀(道徳教育)・芸術(音楽)・技芸(弓術)・御(馬車を操る技術、スポーツ)、歴史・文学、算術(科学)の6種を指します。
また、「聖人」は、儒教の目指す最高の人格で、孔子は一人に数えられています。「聖人」とは、知識に加えて、徳を持ち、世の模範と仰がれるような人をいい、この世に生きている人間の完璧な存在です。孔子はその晩年に、聖人の境地に達した自らの内的成長の軌跡を語ったことは有名です。
十有五(15歳)にして学を志す。三十にして立つ(精神的にも経済的にも独立する)。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳したがう(何を聞いても抵抗感も驚きもなくなった)。七十にして、心の欲するところに従えども、のりをこえず(心のままに言動しても、決して道徳的規範を外れることはなくなった)。
- 徳治政治
こうした、仁や礼などの徳は、すべての人間にとって必要なことですが、儒教では特に、為政者に求められます。実際、孔子は、「政を為すには徳を以てす」、「民信なくば立たず」と述べ、道徳によって人民を治める徳治主義を主張しています。礼を体得した君子によって、秩序ある社会の実現が可能になると考えたのです。
そのためには、君子がみずから為政者となって、仁と礼を実践して人民を感化し、道徳によって民衆を治める修己治人(しゅうこちじん)を政治の理想としました。為政者に徳があれば(上に立つ者が徳を積み自らを正して、社会的公正を発揮していけば)、好ましい政治が行われ、国民の信を得、礼(道徳)も正され、政治もうまくいく(その徳はおのずから国民を感化して秩序が保たれ、国家は安寧に統治される)。そして、その徳が社会全体に行き渡り、社会、国家、世界もよくなり平和が実現する(政治を通して、人びとの幸福を実現する)とされました。
このように、春秋時代の孔子は、人間の道が、仁と礼の二つからなると考え、人間のあり方として君子であるべきこと、政治のあり方として有徳の君子が政治に当たり、道徳によって統治する「徳治主義」を理想としたのです。
- 死後の世界は語らず
一方、儒教の創設者である孔子は、「鬼神語らず」という言葉にもあるように、生涯に渡って神や鬼(死後の世界)を語ることはなかったと言われています。弟子から「人間は死んだらどうなるのか?」と聞かれた孔子は、「生きることさえよくわからないのに、どうして死がわかるというのか」と答えたという逸話がその根拠とされています。
ここから、儒教は、死や死後のことや来世という概念がなく、「現世をどう生きるか」が問題であるとみなされるようになりました。これが、儒教(儒学)は、現実主義で、合理的な思想とされると同時に、儒教は宗教でないと言われる所以です。孔子の死後は、代々の弟子たちによって、儒教の思想や学説が深められていきました。特に、孟子と荀子は、思想としての儒教、すなわち儒学を発展大成させました。両者の思想をそれぞれみてみましょう。
<孟子>
戦国時代中期の孟子(BC372年? – BC289年?)は、孔子の教えを受け継ぎ、孔子の説いた徳治を発展させながら、性善説、四徳四端、五倫、王道政治、といった思想を展開しながら、儒教を「儒学」として確立させました。
- 性善説
孟子(孟軻もうか)は、性善説を唱え、徳による君主の政治を説きました。性善説は、人の性質は生まれながらにして善であるとする説で、これは、「天」は善であるとする立場を根拠としています。性は善であるなら、道徳の修養によって善は感化され、徳によって統治することが可能となります。
- 四端説
孟子はまた、性善説に基づき、人間は生まれながらに人の心に備わっている、「四端の心」があるとしました(四端説)。四端(したん)とは、4つの徳の芽ばえのことで、他人の悲しみに同情する心(他人の不幸を見すごすことのできない心)、たとえば子供が自分の身に危険を招くようなことをしていたら救い出してやろうとする心(惻隠(そくいん)の心)、不善を恥じ憎む心(羞悪(しゅうお)の心)、へりくだり譲る心(辞譲(じじょう)の心)、善悪を判断する心(是非の心)の4つです。
- 四徳
加えて、孟子は、四端を磨き育てることによって、人間は、先天的に備わっている仁・義・礼・智の四徳(しとく)を身に付けることができると説きました。具体的に、「惻隠の心」は仁、「羞悪の心」は義、「辞譲の心」は礼、「是非の心」は智に対応しています(「是非の心」は智の端としています)。徳のある生き方(正しい生き方)とは、孔子にとっては特に仁と礼でしたが、孟子は仁・義を強調し(孟子の中心思想)、さらに礼・智をあわせた四徳四端を唱え、いずれも人間に生得的と説いています(性善説)。
仁とは、人や物を愛すること、他者への思いやり(博愛の徳)という意味で、後に人間関係における親愛の情であり、人間にとって最も普遍的で包括的、根源的な愛を意味するものとされました。
義とは、「よい」「正しい」とされる行いを守ることで、悪を恥じ、事の理非を区別する徳のことをいい、人間の欲望を追求する「利」と対立する概念です。
礼とは、一般的には礼儀作法の事ですが、もともとは宗教儀礼における伝統的な習慣・制度を意味していました。後に人間の上下関係において守るべき事、特に上のものに対する下のものの振る舞いの定めを意味するようになりました。
智(知)とは、道徳的認識判断力のことを言い、聡明、明智などの意味で用いられます。
孟子は、この四徳を身につけ、どのような困難な場合でも正義を貫き、他の人物の模範となるような人を意味する「大丈夫」になることを理想的な人物像としました。また、大丈夫になった人は、浩然(こうぜん)の気を備えているとされました。浩然の気とは、天地にみなぎる万物の生命力や活力の源となる気であり、心身が充実した物事にとらわれない、おおらか、かつ力強い心持ちのことを言います。
- 五倫
加えて、四徳から、儒教における5つの道徳法則(徳目)、より具体的には社会をつくる基本的な人間関係のあり方として、孟子は、五倫(ごりん)を提唱しました。五倫とは5つの人倫(人たるの道)で、父子・君臣・夫婦・長幼・朋友をさし、父子(親子)は親愛の情をもち、君臣は義を尽くし、夫婦は男女のけじめをつけ、兄弟は順序をわきまえ、友人は信頼し合わなければならないと説かれました。
なお、漢代になると儒学者(政治家)の董仲舒(とうちゆうじよ)は、孟子の四徳に信(言葉を違えない事、真実を告げ約束を守ること)を加え、五徳としました。これは、陰陽五行説(五行(ごぎょう)思想)に基づいたもので、宇宙のあらゆる物を生成させる根本元素である木・火・土・金・水の五行(ごぎょう)に対応させ,五徳は五常とも称されます(王者の修めるべき「五常の道」として唱えられた)。
孔子が説いた、仁と礼に基づく、徳のある生き方は、最終的に儒教においては、恒常不変の道、人の常に行うべき五つの道としての五常(五行(ごこう)ともいう)であると発展的に解釈され、五倫とともに儒教倫理を代表するものとなりました(五倫五常)。儒教において、五常または五徳(仁・義・礼・智・信)の徳性は、五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)の関係に適用され、倫理の根本とされていったのです。
- 王道政治
孟子は、力(軍事力)によって民衆を支配する覇道政治を否定し、「性善説」に立って徳による君主の政治を説きました。これを王道政治と言います。王道政治は、仁義の徳によって民衆の幸福をはかる政治手法で、そのための道徳的教化が目指されました。
また、王道政治による社会変革は、易姓革命を肯定します。易姓革命とは、天命によって天子となった者も、ひとたびその徳を失えば、新たな有徳な者に取って代わられ、その革命には武力も認められる(王朝の交代が起こるのは必然)とする孟子の理論です。
中国では古来、人間関係の最上に位置するのは皇帝であり、皇帝は天子、つまり天の使いと信じられていました。豊作や平和は天帝の徳の力、天災や混乱は天帝の不徳と見なされました。ですから、易姓革命では、民衆の支持を得た新しい指導者が、横暴な王を討って、新しい王朝をうちたてることは、天意にかなうと解されるのです。
<荀子>
戦国時代の末期に生きた荀子(荀況)(前313頃~前238頃)は、孔子の教えを継承しながらも、人間は、そのままにしておくと、利を好み(欲を追い求め)、他人を妬んだり憎んだり、結果、争い傷つけ合うことなるなど、人間の本性(生まれながらの性質)は悪であるとする「性悪説」を唱えました。
そのため、人びとの行為を外部的に規制する社会規範としての礼によって、本来「悪」である人間を教育・礼儀・習慣などの人為的な努力によって矯正することが必要とされ、君主の定めた礼(社会的規範)による政治(礼治主義)を説きました。礼治主義とは、古代の聖王によって定められた「礼」を人々が身につければ、争いを未然に防ぎ、社会秩序は維持されるとして、礼を基準に国家・社会を統治すべきだとする考え方です。教化指導された人間もまた、後天的努力によって聖人を目標に自己を成長させることが説かれるとともに、乱世が続く現実を前にして、争乱を防ぐ世の中を治めるために(礼治主義が)必要とされたのです。
また、理想的な先王が定めた「礼儀」に従えば、秩序ある社会を樹立しうると考えた荀子は、客観的な教学の整備に努めたとされ、周代の書とされる「詩経(しきょう)」「書経(しょきょう)」、「礼記(らいき)」「易経(えききょう)」、「春秋」「「楽経(がくけい)」を六経(りくきょう)として、儒家の経典としたと言われています(楽経は秦の焚書に滅びたとされ、残る五種を「五経」と総称する)。加えて、「易伝」、「春秋左氏伝」「春秋公羊伝」「春秋穀梁伝」などの儒教的な注釈書や、論文集(伝)などが整理されました(完成は漢代)。
このように、孟子と荀子は、人間形成の努力によって自己を成長させることで聖人になることを目指す点で共通していましたが、性善説と性悪説で異なる見解を示しました。ただし、次に紹介する朱子学や陽明学では、性善説が採用され、儒教の主流は性善説となりました。
<朱子学と陽明学>
- 朱子学
12世紀の南宋(1127~79)の時代に、朱子(朱熹)(1130〜1200)が出て、儒教の一派である朱子学(宋学)を成立(完成)させました。
理気二元論
朱子は、人間の本性は、天の理(宇宙の真理)と同じものであるとの前提に立って、儒教の体系を再構築しました。具体的には、道徳の根源を宇宙の原理に結びつけ、万物すべてのものは理と気から生まれるとする理気二元論によって、万物(宇宙、天地)の成り立ちを説明しました。
理とは、天地万物の根元で、万物を支配する秩序や法則(宇宙の真理)とされ、形をもたず、物を存在たらしめる本(元)です。
気は、気体状の粒子のように形あるもの(物質)で、生命力をもった、物(肉体)を形成する物質的原理であるとされた。
万物・人はその理を受けて生(命)をえて、気を受けて形となる。その際、理は共通であるが、気は差があるために人や物に千差万別の相違が生まれると言います。例えば、「人間の理に従って、気は人間を生成し、木の理に従って木を形成する」となります。
性即理
性即理とは、朱子学(宋学)が人間の生き方(倫理)として最も重視したもので、理は人間の本性であり、人は本性として、純粋至善である理をもつという考え方です。
朱子学では、心を性(人間の本性)と情(感情、欲望)とに分けます(人間の心はこの性と情からなる)。性(人間の本性)が理(宇宙の根本)であると考え(ゆえに「性即理」)、人間の本性には仁、義、礼、知、信の五常が備わっており、五常に沿った生き方によって聖人となることが目指されました。それゆえに、性に従って生きることが宇宙の根本原理である理に即することになります(性即理の実践)。
一方、現実の人間は、本性として備わっている理が気によって妨げられているため、私欲が生じる状態にあります。そこで、人は気によってもたらされる自己の欲望(人欲)を抑え、本性(天の理)に立ち返らねばならないとされます。そのための方法として、居敬窮理と格物到知という理念があります。両者は、朱子が真理を認識するための方法論として提唱されたもので、朱子学の認識論としても重視されています。
居敬窮理(きょけいきゅうり)とは、社会の制度や秩序となってあらわれる理(事物についての理)を学んで明らかにし(理を窮める=窮理)、心を純粋な状態に保つことによって、感情や情欲を抑え、言動を慎む(居敬)ことを言います。
格物到知(かくぶつちち)とは、事物の真理を認識するための手法で、文字通りの解釈は、物(もの)(あらゆる物事・外的な事象)に格(=至)(いた)ることによって知に到達する(知を完成する)という意味です。
朱子学では、これを、自己の外にある事物それ自体を探求することによって、物の理を極め尽くし(格物)(=知識を増やすこと)、自分の知識を極限にまで推し広めること(到知)で、真理を得られると解します。その際、居敬(情欲を抑えること)が求められます。
さらに、格物到知は、社会を導く知識人がとりわけ実践すべきであるとされました。儒学では、理想的な政治をするための第一と第二の段階で、「格物」「致知」の後、さらに、「誠意」、「正心」、「修身」、「斉家(せいか)」、「治国」の段階を経て「平天下(へいてんか)」に至ると説かれました。自己を抑制して理を極め、真心をもって正しい心で、自ら修行し(道徳の修養)、家庭を整え(家庭の安泰)、領国を治め、天下を平らかにせよ、と教えられたのです。
また、朱子学の理念として、「修己治人」が説かれます。己を修め人を治む、すなわち自分(自己)を修養して徳を積み、その徳で人々を感化して、世を正しく治める(人々を良く治める)ことを意味します。
加えて、朱子学では、大義名分論や華夷(かい)の別が、重要な理念となっています。
華夷思想(かいしそう)
中華世界(漢文化)とその周辺の異民族世界(夷狄の世界)とを峻別し漢民族を中国の正統とする思想で、北宋の政治家であり歴史家でもある司馬光が、歴史書「資治通鑑」(1084年)において強調した中国古来の中華思想です。華夷の別とも言います。漢民族が自国民を中華と称して、世界のうちでもっとも文化の卓越した中央の地(華夏(かか))であると尊び、周辺の異民族を、文化の遅れれた低劣の地と蔑視し,夷狄(いてき)と称して、差別し斥けました。
大義名分論
司馬光が「資治通鑑」の中で、華夷の別以外にも展開した長幼の別、君臣の別といった歴史論をもとに、朱子が「資治通鑑綱目(しじつうかんこうもく)」において論じたもので、君臣・父子の別をわきまえるなど、上下の秩序を重んじることを強調し、ことに臣下として守るべき本分と節操を明らかにしました。
孔子が家族の親和(孝)、君臣の信頼関係(忠)を説いたのに対して、朱子学(大義名分論)においては、為政者にとって秩序維持に必要な理念(封建道徳)として説かれるようになったのです。
さらに、朱子は、漢民族の中国支配を正当化しました。理気二元論に基づけば、世界が、理によって成り立っているということは、当時の世界(社会)に存在していた、統治体制(君主制)や身分制度は、正しく継承されていることになります。朱子にとって、中国の正統な王朝は、中国最初の統一王朝である漢です。
朱子学は初め異端視されたが、士大夫の支持を得て隆盛に赴き、元代には伝統的儒教にかわって国教となり、明代においても官学の地位を維持し、以後清末にまで及んでいます。
- 陽明学
明代の王陽明(1472~1528)は、1508年、当時、官学であった朱子学を、形式的、観念的な知識主義、主知主義に陥っていると批判し、陽明学(心学と呼ばれる)という実践的な儒学の一派を興し、明代に流行しました。陽明学では、朱子学(宋学)が主張する性即理の理気二元論に対して、心即理の理気一元論を唱え、生まれながらにして人間の心に備わっている良知をきわめること(致良知)をめざすと同時に、知行合一(という行動)を重視しました。
理気一元論
王陽明は、理と気を分離・対立させる(理気二元論の)朱子学を批判し、理と気は、本来相即している、「気の中に理がある」として、理気一元論を説きました。
朱子の「性即理」の場合、心は「性(人間の本性)」と「情(感情、欲望)」の二面からなるとして、そのうち、性がすなわち理(宇宙の根本)である(性即理)と考え、性を重視し、自己の外にある事物それ自体を探求することによって理(真理)を得られると考え(格物致知」ていました。
心即理
これに対して、陽明学では、性と情は分析できず、渾然一体の物として理解すべきであり、それがそのまま理(宇宙の根本原理)であるとする、宋代の陸象山の考えを受け継ぎ、「聖人の道はわが心のうちに完全にそなわっている。理を(外部の)事物に求めていたきたのは間違っている」と朱子学を批判しました。その上で、王陽明は、理は外にあるのではなく、人間の心の中の情と一体となっており、その心こそが宇宙の真理(理)とつながっているして、「心即理」を説きました。
良知
また、理そのものである心の本体は、天地間の理とも一体であるとし、王陽明は、この心の本体を、良知と名付けました。良知は、各人に生まれながら備わっている心であり、自身の心にこそ物(事物)を認識する力(善悪を感得し判断する先天的な能力)(道徳的判断能力)がある(「致良知(ちりょうち)」)として、学問の目的は、まさに「致良知」を実現することにあるとされました。
知行合一(ちこうごういつ)
さらに、良知とは、知(認識)と行(実戦)を統一したものでなければならない(知識と行動を分離させるべきではない)として「知行合一」が説かれました。実際、「知は行の始めであり、行は知の完成である」と、知行合一の立場から実践を重んじられ、良知を活動させれば、だれでも善い生き方ができると考えられました。
王陽明の知行合一は、自己の心(心即理)を原点として、一人ひとりの心から発動される理にしたがって主体的に行動することで、良知を実現しようとするものであります。朱子学の「格物致知」に対しても、違った理解を示しました。朱子学では、物に格(いた)る(物の理を極め尽くす(格物))ことによって、自分の知識を極限にまで推し広め(到知)、知を完成するということでした。
これに対して、王陽明によれば、「格物」の格は「至る」ではなく「正す」と読み、「致知」の知は「良知(宇宙の根源への探求)」であると解釈されます。その結果、「格物致知」は「心をただし、良知を実現すること」ということになります。ここから、知(学ぶこと)は行うことと一体(知行合一)でなければならなくなります。
このように陽明学は朱子学を否定するもので、知行合一の思想は体制批判につながる恐れがあったことからあまり普及しませんでした。むしろ、江戸時代の日本に伝わり、大塩平八郎など社会的な改革や実践を重んじる人々に影響を与えました。
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(TRANS Biz)
儒教の教え「仁・義・礼・智・信」と孔子について解説
(草の実堂編集部)
「儒教」はただの宗教ではなかった!?「宗教」が「政治」に与えた、「大きすぎる影響」
(2023.06.23、現代ビジネス)島田 裕巳
そもそも「宗教」とは何か? 中国の宗教史から考える
(2021.10.21、クーリエ)
儒教の世界・その1(世界史の目)
世界史の窓
コトバンク
Wikipedia等
(2024年4月11日)