富士山はいつ噴火してもおかしくない!
「治に居て乱を忘れず」
今年も肝に銘じておかなければならない格言ですが、新年早々、興味深い記事がでました。そのまま引用します。
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「いつ噴火しても不思議ではない状態」約300年の休止期間を経て…富士山が「次に噴火する日」は予知できるのか
(2023/01/04、文春オンライン)
知られているだけでも富士山は何十回もの噴火をしてきている。たとえば平安時代は400年間あったが10回も噴火したのが目撃されている。歴史に記録されていない有史以前の噴火も、地質学的な調査から分かっている。
しかし不思議なことに、1707年の「宝永噴火」があって以後、富士山は噴火していない。そこから現在に至るまで約300年間も噴火が見られないのは、過去の噴火歴からすると異例の休止期間である。世界的に見ても、長い休止期間のあとの噴火の規模は大きいことが多かった。これは不安要素である。
過去にいろいろなタイプの噴火をしてきた
富士山が、これから永久に噴火しないことはあり得ない。火山学でいえば、富士山は「いつ噴火しても不思議ではない状態にある活火山」なのである。
だが、いつ、どんな形式で噴火するのか、それを予知することはいまの科学では不可能である。噴火の予知や、いまどのくらい噴火に近づいているかを学問的に知ることはとても難しい。じつは、この数年来、富士山には不思議なことがたくさん起きている。河口湖の水位が異常に下がったり、富士宮市の住宅地で水が噴き出したり、林道に深い亀裂が走ったりしている。以前の記録はなく、前兆かどうかは分からない。
富士山は「噴火のデパート」で、過去にいろいろなタイプの噴火をしてきた。今度、どんな噴火が起きるかは分からないのが富士山なのである。噴火口が山頂なのか、東西南北どこかの山腹なのかによって噴火の影響は大幅に違ってしまう。宝永噴火は東南の山腹からだった。いままでの歴史上の噴火で、とくに大きな規模の噴火だった富士山の三大噴火は延暦の噴火(800~802年)と貞観の噴火(864~866年)と宝永噴火(1707年)である。
首都圏に火山灰が降る
文明が進歩するということは、自然災害には弱くなることだ。たとえば過去たびたび首都圏を襲ってきた大地震でも、地震のたびに被害が大きくなり、いままではなかった新しい被害が増えてきている。つまり「対策は、いつも被害を追いかけてきている」のである。火山災害も同じ道をたどるにちがいない。
富士山の噴火は首都圏にも大きな影響が及ぶ。首都圏に住む人間にとって、けして他人事ではない。日本の上空の成層圏には偏西風という強い西風がいつも吹いている。このため噴火で成層圏の高さである8キロ以上まで吹き上がった火山灰は東に飛ぶ。こうして、首都圏に多くの火山灰が降ることになる。富士山から新宿までは95キロしか離れていない。宝永噴火のときと同じく、噴火後わずか2時間足らずで富士山からの火山灰は東京にも達することになる。
人体、交通、電力、精密機械への影響
火山灰はさまざまな影響を及ぼす。大きいのは人体への影響だ。なかでもコンタクトレンズを着用している人だ。前回の噴火時にはなかったことだ。火山灰は顕微鏡で見ると尖った岩の粉でガラス質だ。このためレンズと目との間に火山灰が入りこむと角膜剥離を起こす。このほか火山灰がわずか0.1ミリ降っただけでも喘息患者の43%もが症状が悪化したという報告がある。数ミリ火山灰が降ると、健康な人も、のど、鼻、目に異常を訴える。火山灰の影響は、人体だけではない。交通にも大きな影響を及ぼす。火山灰によって視界が悪くなって交通事故が起きやすくなる。その上道路が火山灰で覆われると事故の危険性はさらに高くなる。
交通への影響も
火山灰がわずか1ミリ積もっただけでも道路の白線が消え、道路標示が見えなくなり、飛行場の滑走路の線が消える。また火山灰が積もった路面は乾いていても非常に滑りやすく、もし雨が降って湿るともっと始末が悪い。道路だけではない。もともと電車は降灰に弱い。次の踏切に異常がないかとか、前に電車が止まっているといった情報を信号としてレールに流している。降灰があると車輪とレールの間に火山灰が挟まり、信号が流れなくなる。そのほか電力への影響もある。降灰によって停電が起きることがあるし、火山灰は電線にくっついて重くなり、電線を切ってしまうこともある。
また湿った火山灰には導電性があるので電気がショートして送電が止まる。停電は暖房などに必要な電気機器が使えなくなってしまう。コンピューター本体やコンピューターのハードディスクなど精密機械に火山灰が入ると動作しなくなる。その上、火山灰が帯びている静電気が部品に吸着するなど、電子機器にさらに悪さをする。
現代では多くのものがコンピューターで制御されているから、たとえば電気やガスの供給や、多くの産業活動、交通システム、通信システム、銀行のシステム、コンビニやスーパーなどの物流、上水道や下水道の施設もコンピューターで動いている。それゆえ火山灰によって動作が出来なくなると、広範囲に影響を受けてしまう。
南海トラフ地震が富士山の噴火を引き起こす可能性は…?
新しいハザードマップでは、噴火の規模によっては麓を通っている新幹線や東名高速道路にまで被害が及ぶ可能性がある。東西日本が分断されてしまうのだ。東京の被害は一国だけの被害に留まらず、国際的にも影響が大きい。いずれ襲って来る首都圏直下型地震だけではなく、富士山の噴火も東京を麻痺させてしまう。宝永噴火なみの大規模降灰に見舞われた近代都市はない。じつは宝永噴火は南海トラフ地震の大きな「先祖」宝永地震の49日後に起きた。地震も噴火もプレートの境で起きる現象だから、今度の南海トラフ地震がマグマ溜まりを刺激して富士山の噴火が続いて起きる可能性がないわけではない。
――――引用終わり
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以下に、富士宮市HPから富士山の噴火の歴史を引用します。
富士山の噴火史について
◆小御岳火山(約70万年前~20万年前)
富士山の周辺一帯は数百万年前から火山活動が活発であったことが知られています。その中で約70万年前、現在の富士山の位置に小御岳火山が活動を始めました。その頃は南東にある愛鷹山の活動も活発で、ふたつの大きな活火山が並んでいました。現在この火山の頭部が、富士山北斜面5合目(標高2300メートル)の小御岳付近に出ています。
◆古富士火山(約10万年前~)
小御岳火山がしばらく休止した後、約10万年前から富士山は新たな活動時期に入りました。この時期を古富士火山といいます。古富士火山は爆発的な噴火が特徴で、大量のスコリア、火山灰や溶岩を噴出し、標高3,000メートルに達する大きな山体を形成していきました。古富士火山の山体は宝永山周辺など富士山中腹にかなり認めることができます。
◆氷河期と泥流
富士山周辺の調査では、古富士火山の時代には火山泥流が頻発したことが判明しています。当時は氷河期で、もっとも寒冷化した時期には、富士山における雪線(夏季にも雪が消えない地帯の境界)は標高2,500メートル付近にあり、それより高所には万年雪または氷河が存在したと推定されています。山頂周辺の噴火による火山噴出物が雪や氷を溶かして大量の泥流を発生させたと推定されています。
◆溶岩主体に移行
約11,000年前になると、富士山の噴火の形態が大きく変わり、その後約2,000年間は断続的に大量の溶岩を流出させました。富士山の溶岩は玄武岩質で流動性が良く遠くまで流れる傾向があります。この時期に噴火した溶岩は最大40キロメートルも流れており、南側に流下した溶岩は駿河湾に達しています。
◆新富士火山(約5千年前~)
富士山は、古富士火山の溶岩流のあと約4,000年間平穏でしたが、約5,000年前から新しい活動時期に入りました。現在に至るこの火山活動を新富士火山と呼んでいます。新富士火山の噴火では、溶岩流、火砕流、スコリア、火山灰、山体崩壊、側火山の噴火などの諸現象が発生しており、噴火のデパートと呼ばれています。また、新富士火山の火山灰は黒色であることが多く、新富士火山の噴火は、地層的にも新しく、また8世紀以後には日本の古文書に富士山の活動が記載されており、噴火について貴重なデータを提供しています。
◆3,000年前の爆発的噴火
縄文時代後期に4回の爆発的噴火が起こりました。これらは仙石スコリア、大沢スコリア、大室スコリア、砂沢スコリアとして知られています。富士山周辺は、通常西風が吹いており噴出物は東側に多く積もりますが、大沢スコリアのみは、東風に乗って浜松付近まで飛んでいます。
※ スコリアとは、鉄分の多い黒っぽいマグマが発泡しながら固まったもの
◆御殿場泥流
約2,300年前、富士山の東斜面で大規模な山体崩壊が発生し、泥流が御殿場市から東へは足柄平野へ、南へは三島市を通って駿河湾へ流下しました。これは御殿場泥流と呼ばれており、この泥流が堆積した範囲は現在の三島市の広い地域に相当します。山体崩壊が発生した原因は、現在のところ特定されていませんが、崩壊当時、顕著な噴火活動が見られないこともあって、富士川河口断層帯ないし国府津松田断層帯を震源とする大規模な地震によるのではないかという説が出されています。
◆延暦大噴火(800年)
「日本紀略」の記事によりますと、800年(延暦19年)、(旧暦)3月14日から4月18日にかけて大規模な噴火が起こったとされます。また、2年後の802年(延暦21年)1月8日にも噴火の記録があります。これに伴って相模国足柄路が一次閉鎖され、5月19日から翌年の1年間は、箱根路が代わりに用いられることになりました。
◆貞観大噴火(864~866年)
864年(貞観6年)富士山の北西斜面(現在の長尾山)から大量の溶岩を流す噴火が起こりました。流れ出た溶岩の一部は当時あった大きな湖(せの海)を埋めて西湖と精進湖に分断し、大部分は斜面を幅広く流れました。これは青木が原溶岩と呼ばれ、現在そこには樹海が広がっています。
◆宝永大噴火(1707年)
1707年(宝永4年)大量のスコリアと火山灰を噴出した宝永大噴火が起こりました。この噴火は日本最大級の地震である宝永地震の49日後に始まり、江戸市中まで大量の火山灰を降下させるなど特徴的な噴火でした。噴火の1~2か月前から山中のみで有感となる地震活動が発生し、十数日前から地震活動が活発化、前日には山麓でも有感となる地震が増加しました(最大規模はマグニチュード5程度)。
12月16日朝に南東山腹(今の宝永山)で大爆発を起こし、黒煙、噴石、降灰があり、激しい火山雷があったとのことです。また、その日のうちに江戸にも多量の降灰があり、川崎で5センチメートル積もっています。噴火は月末まで断続的に起きましたが、次第に弱まっていきました。山麓で家屋や耕地に大きな被害があり、噴火後は、洪水等の土砂災害が継続しました。
◆山頂周辺での噴気活動(江戸時代晩期~昭和中期)
宝永の大噴火後、富士山では大規模な火山活動はありませんでしたが、江戸時代晩期から、昭和中期にかけて、山頂火口南東縁の荒巻と呼ばれる場所を中心に噴気活動がありました。 この活動は1854年の安政東海地震をきっかけに始まったと言われており、明治、大正、昭和中期に掛けての期間、荒巻を中心とした一帯で明白な噴気活動が存在したことが、測候所の記録や登山客の証言として残されています。
この噴気活動は明治中期から大正にかけて、荒巻を中心に場所を変えつつ活発に活動していたとされています。活動は昭和に入って低下し始めましたが、1957年の気象庁の調査においても50度の温度を記録していました。その後1960年代には活動は終息し、現在、山頂付近には噴気活動は認められていません。 しかしながら、噴気活動終了後も山頂火口や宝永火口付近で地熱が観測されたとの記録もありました。
◆山頂で有感地震(1987年8月20日~27日)
富士山で一時的に火山性地震が活発化し、山頂で有感地震を4回記録しました。(最大震度3) やや深部での低周波地震の多発(2000年10月~12月及び2001年4月~5月)富士山のやや深部で、低周波地震が一時的に多発しました。
◆古文書などでの富士山の噴火記録
古記録によれば新富士火山の噴火は781年以後17回記録されています。噴火は平安時代に多く、800年から1083年までの間に12回の噴火記録があります。また噴火の合間には平穏な期間が数百年続くこともあり、例えば1083年から1511年までは400年以上も噴火の記録がありません。また1707年の宝永大噴火以後も約300年間噴火しておらず、平穏な状態が続いています。