教育勅語はかく批判された!

 

「若者を戦争に駆り立てた軍国主義の根源」と徹底的に批判され続けてきた教育勅語に光を当てる「神話が教えるホントの教育勅語」を連載でお届けします。初回は「教育勅語はかく批判された」と題し、これまで、教育勅語はいかに解釈され、問題視されてきたかをみていきます。

 

「教育の憲法」と謳われた教育勅語が、今なおその存在意義すら否定されているわけは、教育勅語が、発布からほどなく、起草者の井上毅 (いのうえこわし) と元田永孚 (もとだながざね)が意図した趣旨とは大きく異なる解釈をされ、政治的に利用されていったからではないかと推察されます。

 

帝国憲法(明治憲法)とともに、ありとあらゆる批判を現在も受けているのが、教育勅語です。教育勅語は、日本の軍国主義の根源とみなされ、ある意味、帝国憲法以上にタブー視、危険視されており、教育勅語について触れることもできない空気が今なおある、というのが現状です。

 

私たちは、教育勅語に関して、学校教育の場などで大方、次のように教えられました。

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皇国史観に立ち、天皇の名において道徳の実践を命じた教育勅語は、戦前の教育全般における基本理念になるとともに、天皇制国家イデオロギー(軍国主義)の支柱となった。教育勅語のもとに天皇と国家に尽くす皇民化教育が徹底され、日本のナショナリズムの象徴ともなった。実際、国民は天皇への忠誠を誓い、戦争末期には学徒出陣、学徒動員など、多く若者が戦争に駆り立てられ、命を奪われた。

――――――

 

制定当時、「教育の憲法」と謳われた教育勅語は、戦後、どうしてこのような批判を受けるようになってしまったのでしょうか?教育勅語の文言がどう解釈されていったのか中心に検証してみたいと思います。

 

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◆ 教育勅語とは?

 

「教育ニ関スル勅語」(以下「教育勅語」と略す)は、1899(明治23)年10月に、明治天皇直々の言葉として発布されました。

(原字体の教育勅語は、文語体で句読点も何もなく読みにくいので、漢字には振り仮名と、文章の切れ目にスペースを入れました)

 

<教育勅語原文>

朕(ちん)惟(おも)フニ 我(わ)カ皇祖皇宗國(くに)ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニ 徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ 我カ臣民 克(よ)ク忠ニ克ク孝ニ 億兆心ヲ一(いつ)ニシテ 世世(よよ)厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ 此(こ)レ我カ國體(こくたい)ノ精華ニシテ 教育ノ淵源(えんげん)亦(また)實(じつ)ニ此(ここ)ニ存(そん)ス 爾(なんじ)臣民 父母ニ孝ニ 兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ 夫婦相和(あいわ)シ 朋友(ほうゆう)相信((あいしん)シ 恭儉(きょうけん)己レヲ持(じ)シ 博愛衆ニ及ホシ 學ヲ修メ業(ぎょう)ヲ習ヒ 以(もっ)テ智能ヲ啓發(けいはつ)シ徳器(とくき)ヲ成就シ 進(すすん)テ公益ヲ廣(ひろ)メ 世務((せいむ)ヲ開キ 常ニ國憲((こっけん)ヲ重(おもん)シ國法(こくほう)ニ遵(したがい)ヒ 一旦緩急アレハ義勇公(こう)ニ奉(ほう)シ 以(もっ)テ天壤無窮((てんじょうむきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スヘシ 是(かく)ノ如(ごと)キハ獨(ひと)リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス 又(また)以(もっ)テ爾(なんじ)祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足(た)ラン

斯(こ)ノ道ハ 實(じつ)ニ我(わ)カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ 子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守スヘキ所(ところ) 之(これ)ヲ古今(ここん)ニ通(つう)シテ謬(あやま)ラス 之ヲ中外(ちゅうがい)ニ施シテ悖(もと)ラス 朕爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ 拳々服膺((けんけんふくよう)シテ咸(みな)其(その)徳ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶(こい)幾(ねが)フ

 

 

<読み下し文>

朕(ちん)思うに わが皇祖皇宗 国を肇(はじ)むること宏遠に 徳を樹(た)つること深厚なり わが臣民 よく忠によく孝に 億兆こころを一(いつ)にして 世世(よよ)その美を濟(な)せるは これわが国体の精華にして 教育の淵源(えんげん)また実にここに存(そん)す

汝(なんじ) 臣民 父母に孝に 兄弟(けいてい)に友(ゆう)に 夫婦相和(あいわ)し 朋友(ほうゆう)相信(あいしん)じ 恭儉(きょうけん)己れを持(じ)し 博愛衆に及ぼし 学を修め業(ぎょう)を習い、もって智能を啓発し徳器(とっき)を成就し 進んで公益を広め 世務((せいむ)を開き 常に国憲を重(おもん)じ国法に遵(したがい)い 一旦緩急あれば義勇公(こう)に奉(ほう)じ もって天壤無窮((てんじょうむきゅう)の皇運を扶翼(ふよく)すべし かくのごときは、独(ひと)り朕が忠良の臣民たるのみならず、またもって汝祖先の遺風を顯彰するに足(た)らん

この道は実にわが皇祖皇宗の遺訓にして 子孫臣民の共に遵守すべきところ これを古今(ここん)に通じて誤らず これを中外に施して悖(もと)らず 朕 汝臣民と共に 拳々服膺(けんけんふくよう)して皆その徳を一(いつ)にせんことを乞い願う

 

<現代語訳>

教育勅語の口語文訳としては、国民道徳協会(明治神宮)による訳文や、文部省図書局が1940年に出した「聖訓ノ述義ニ関スル協議会報告書」による訳文が知られています。前者は現在広く引用され、後者は正式な現代語訳とされています。以下に文部省訳を紹介します(国民道徳協会訳を後述)。

 

文部省図書局「聖訓ノ述義ニ関スル協議会報告書』」

朕が思うに、我が御祖先の方々が国をお肇めになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にここにある。

 

汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以って交わり、へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。かようにすることは、ただに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなおさず、汝らの祖先ののこした美風をはっきりあらわすことになる。

 

ここに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者及び臣民たる者が共々にしたがい守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違いがなく、又我が国はもとより外国でとり用いても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む

 

 

◆ 教育勅語への批判的解釈

 

では、ここから、文部省による正式な現代語訳とされる同省図書局が1940年に出した「聖訓ノ述義ニ関スル協議会報告書』による訳文とともに、一文一文確認しながら、教育勅語がいかに批判的に解釈されてきたかをみてみましょう。

 

教育勅語はわずかに5文(4文)からなり、内容によって3段落に分けられると一般的に理解されています。第1段落(第1文と第2文)に教育勅語の概略が、第2段落(第3文と第4文)で徳目が、第3段落(第5文)でその順守がそれぞれ述べられています。(もっとも、原文では、上の1段落と2段落は一つの段落にまとめられ、全体としては二つの段落に分けられていますが、本稿では説明の関係上、3段落構成として解説する。)

 

 

第1段落

<教育勅語 第1文>

 

朕惟(おも)フニ 我(わ)カ皇祖皇宗國(くに)ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニ 徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ

朕(ちん)思うに わが皇祖皇宗 国を肇(はじ)むること宏遠に 徳を樹(た)つること深厚なり

 

文部省訳

朕が思うに、我が御祖先の方々が国をお肇めになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられる。

 

*旧文部省の現代語訳では、読点(とうてん)で結んで、次の第2文と連続させていますが、ここでは説明の関係で句点をつけました。

 

朕(ちん):天皇の自称。ここでは明治天皇自身のこと。

皇祖皇宗((こうそこうそう):皇室の祖先

肇(はじ)ムル:創り開く

宏遠(こうえん):広くて遠大なこと

徳:身についた品性。社会的に価値ある性質。善や正義に従う人格的能力。

深厚(しんこう):情け、気持ちなどが心の底から発したものであること。

徳ヲ樹(た)ツルコト:徳をもって国を治めること。

 

既存の批判的解釈

この第1文は、皇国史観=神話的国体観を醸成したとして、大方以下のように批判されています。

 

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天皇による統治が、神代から続いている(これを万世一系という)と権威づけることで、天皇による統治を正当化している。こうした歴史の見方を皇国史観と呼ぶ。

 

皇国史観に立てば、歴史書ながら神話や伝承をふんだんに盛り込んだ古事記や日本書記をそのまま史実ととらえ、天皇を神の子孫とし、日本の歴史を万世一系の天皇を中心にみる。それゆえ、皇国史観は、その根拠が記紀(古事記・日本書記)であることから、神話的国体観とも呼ばれる。国体とは、辞書の意味では、国家体制のことだが、実際は天皇を中心とする体制(天皇制国家)を意味する。

 

さらに、第1文の「皇祖皇宗、国を肇むること宏遠に……」によって生まれた皇国史観は、「日本は特別な国だ」という、外国に対する特権意識や排他的な思考を招いたと言える。

―――――――――

 

皇国史観

では、この皇国史観(神話的国体観)を生んだ日本の神話は、どのように取り込まれていったのでしょうか?

 

記紀の神話によれば、初代天皇とされる神武天皇は、天上界から人間界に降りてきたニニギノミコト(瓊瓊杵尊)という神さまの曽孫(ひ孫のこと)にあたります。そのニニギノミコトは天照大神の孫とされています。天照大神は天上の神々の中で最高の位にあるとされ、ニニギノミコトは天照大神の神勅(ご命令)を受けて、地上の人間界で国造りを行いました。

 

その際、天照大神が、孫のニニギノミコト(瓊瓊杵尊)を高天原(たかまのはら)(神々が住む天界)から、葦原中国(あしはらなかつくに)(地の国)へ降臨させる際に、後に、「天壌無窮の神勅」「宝鏡奉殿の神勅」「由庭稲穂の神勅」と呼ばれる3つの神勅(命令)が出されたとされました。これが「三大神勅」といって神聖化されることになったのです。

 

*高天原は通常、「たかまがはら」と読まれますが、本稿では日本書記の仮名表記である「たかまのはら」を使用します。

 

第一の神勅:天壌無窮の神勅

豊葦原((とよあしはら)の千五百(ちいほ)秋(あき)の瑞穂(みずほ)の國(国)は、是(こ)れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)也(なり)。宜(よろ)しく爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)、寶祚(あまつひつぎ)(宝祚)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壤(あめつち)と窮(きわま)り無かるべし。

 

日本という国は、私の子孫が天皇(王)となるべき国である。なんじ皇孫、ニニギノミコトよ、これから天降りて、地上の国を治めなさい。お行きなさい。天地のある限り皇位(皇室)は永遠に栄えるであろう。

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「天壌無窮の神勅」は、神代の昔から連綿と続く皇室と日本国の限りない繁栄を示した日本の原点を象徴するものとして尊重されてきました。そして、「吾(あ)が子孫(うみのこ)」とは、ニニギノミコトをはじめ神武天皇そして、今上天皇(在位中の天皇)に至るまでの御歴代の天皇のことをさすと解されました。つまり、今上天皇を含めた御歴代の天皇は、天照大神の「生みの子」である(難しい表現をすれば、天照大神の御神霊と一体であり、同一神格である)とされたのです。

 

そこから、戦前、「天皇は現人神であらせられる」と主張されました。神は私たちの目には見えませんが、現人神(あらひとがみ)とは姿を持って現れた神のことで、それが天皇であるというのです。

 

さらに、「第一の神勅」の最後の部分から、「日本国は天皇が永遠に統治する国である」と解釈されました。これが、日本の国体(国家体制)を端的に表現しているとして、太平洋戦争敗戦まで日本の国是となりました。加えて、日本は特別な国であるというある種の「選民思想的」または「排外的」な思想が生まれ、国際協調主義に欠けるものとなったと批判されています。

 

第二の神勅神鏡(しんきょう)奉斎の神勅(宝鏡奉(ほうきょうほう)斎(さい)の神勅)

吾が児(みこ)、此(こ)の宝(たからの)鏡(かがみ)を視(まさむ)こと、当(まさ)に吾(あれ)を視るがごとくすべし。ともに床(みゆか)を同じくし、殿(みあらか)を共(ひとつ)にして、斎(いはひの)鏡(かがみ)と為すべし

 

我が子よ、この宝鏡を見るとき、まさに私を見るのと同じようにしなさい(我が御魂として、吾が前(みまえ)を拝(いつ)くが如く、斎(いつ)きまつりなさい。)。床を共にし、同じ殿にいて神聖なる鏡としなさい。
―――――

 

鏡は、天照大神の御真影そのものの象徴であり、天照大神そのもののお姿です。「私を見るのと同じようにしなさい」というのは、「御鏡(ごかがみ)を自分の御霊として、日々、斎き祀りなさい」、すなわちその鏡を天照大神の御霊代(みたましろ)(神霊にかえてまつる御神体)として、常に祀りなさいという趣旨です。

 

こうして、御鏡は、皇孫に授けられ、歴代天皇はこれを承け継ぎ、お祀りされてこられました。天皇は御鏡を御祀りされることで、大神と御一体となられ、天照大神の御心をもって国を治められます。天照大神は、御鏡とともに今にまします(いらっしゃる)のです。これが日本の敬神(けいしん)崇(すう)祖(そ)(神を敬い祖先を崇拝する)の伝統として、今も引き継がれています。

 

しかし、戦前は、そうした皇室が祖先神、天照大神を祭祀し続ける限り、日本民族は滅びることはないと教えられたのでした。

 

 

第三の神勅:斎庭(ゆにわ)の稲穂(いなほ)の神勅

吾が高天原に所御(きこしめ)す斎庭(ゆにわ)の穂(いなのほ)を以て、また吾が児(みこ)に御(まか)せまつるべし
高天原の聖地に植えた神聖な稲の種をわがみ子にもたせましょう

 

天照大神は、高天原(天上界)で育った神聖な斎庭の稲穂を、ニニギノミコトに与え、これを地上で育て、主食とし、稔り豊かで安定した国を造りなさいと命じられました。

 

このように、「皇祖ニニギノミコトが天照大神から3つのご神勅を受けられ、日本という国が肇(始)まり、そしてそのお陰をもって今の我々がある、天皇のご神徳はかくも深くて厚い」と教育勅語の第1文で述べられていると教えられました。

 

この「朕(ちん)思うに わが皇祖皇宗 国を肇(はじ)むること宏遠に…」の部分は、帝国憲法第1条の「大日本帝国は万世一系の天皇 之を統治す」と密接につながり、天皇の統治権が絶対視されました。これが、昭和初期の(個人よりも国を第一に考える)超国家主義の国体論(国家論)にまで発展し、軍部の暴走につながっていったと批判されています。

 

 

<教育勅語 第2文>

 

我(わ)カ臣民 克(よ)ク忠ニ克ク孝ニ 億兆心ヲ一(いつ)ニシテ 世世(よよ)厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ 此(こ)レ我カ國體(こくたい)ノ精華ニシテ 教育ノ淵源(えんげん)亦(また)實(じつ)ニ此(ここ)ニ存(そん)ス

わが臣民 よく忠によく孝に 億兆こころを一(いつ)にして 世世(よよ)その美を濟(な)せるは これわが国体の精華にして 教育の淵源(えんげん)また実にここに存(そん)ス

 

文部省訳

また、わが臣民はよく忠に励み、よく孝をつくし、国中のすべての者が、皆心を一つにして、代々美風をつくりあげてきた。これはわが国体の真髄であり、教育の基づくところもまたここにある。

 

臣民(しんみん):君主国(明治憲法下の日本)の国民

克(よ)ク:能力を発揮して成し遂げることで、 「能く」と同じ。
億兆(おくちょう):万民。全ての国民。限りなく大きな数。
國體(国体):国家としての固有の体制(性格)、天皇を中心とした政体
精華(せいか):そのものの真価をなす、立派な点、真髄
淵源(えんげん):物事の拠(よ)って立つ根源

 

 

既存の批判的解釈

この第2文は、以下のように、忠孝を介在した天皇を宗主とする家族国家のイメージが創出されたと解釈されました。

 

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国民は君主に支配される家来のような「臣民」と位置づけられた。その上で、「わが臣民 克く忠に克く孝に 億兆心を一にして」と、当時、臣民としての道徳の中心であった「孝」と「忠」を皆が一致団結して実践してきたと述べている。

 

「孝」とは親孝行の「孝」で、家の秩序、すなわち親子間の倫理をいう。

「忠」とは忠臣の「忠」で、国家の秩序、すなわち君臣間(天皇と臣民)の倫理のことである。この「忠」と「孝」が一致した姿(忠孝一致)こそ国体(国柄)の根本であり、これを教育の基本に据えるとしている。

 

こうして、日本の伝統的な思想により正当化された、天皇を宗主とする家族国家のイメージが創出され、親である天皇自ら政治を行う天皇親政という国家観までも植えつけられていった。

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国体

国体とは、国家の体制と言い換えられますが、統治の正当性の根拠として使われます。日本の場合、天皇が国を統治するのは皇室が天照大神を祖とする万世一系の皇統(血筋)でつながっているからだという考え方が、天皇が国を治める正当性の根拠とされています。「国体の護持」といえば「天皇制を維持すること」で、現在でも「国体」という用語を用いることすら危険視されている状態です。

 

 

第2段落

<教育勅語 第3文>

 

爾(なんじ)臣民 父母ニ孝ニ 兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ 夫婦相和(あいわ)シ 朋友(ほうゆう)相信((あいしん)シ 恭儉(きょうけん)己レヲ持(じ)シ 博愛衆ニ及ホシ 學ヲ修メ業(ぎょう)ヲ習ヒ 以(もっ)テ智能ヲ啓發(けいはつ)シ徳器(とくき)ヲ成就シ 進(すすん)テ公益ヲ廣(ひろ)メ 世(せい)務(む)ヲ開キ 常ニ國(こく)憲(けん)ヲ重(おもん)シ國法(こくほう)ニ遵(したがい)ヒ 一旦緩急アレハ義勇公(こう)ニ奉(ほう)シ 以(もっ)テ天壤無窮((てんじょうむきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スヘシ

汝(なんじ)臣民 父母に孝に 兄弟(けいてい)に友(ゆう)に 夫婦相和(あいわ)し 朋友(ほうゆう)相(あい)信(しん)じ 恭儉(きょうけん)己れを持(じ)し 博愛衆に及ぼし 学を修め業(ぎょう)を習い、もって智能を啓発し徳器(とくき)を成就し 進んで公益を広め 世(せい)務(む)を開き 常に国憲を重(おもん)じ国法に遵(したがい)い 一旦緩急あれば義勇公(こう)に奉(ほう)じ もって天壤(てんじょう)無窮(むきゅう)の皇運を扶翼(ふよく)すべし

 

文部省訳

汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦(むつ)び合い、朋友互に信義を以って交わり、へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。

 

恭劍(きょうけん):人にうやうやしく、自分は慎み深くすること。
徳器(とくき):善良有為(立派な人格)の人物。
世(せい)務(む):世の中に役立仕事。
國(こっ)憲(けん):国の根本法、すなわち憲法。

義勇(ぎゆう):正義にかなった勇気
天壌(てんじょう)無窮(むきゅう):天地と同じように永久に続くこと。
皇(こう)運(うん):天皇を戴(いただ)く日本国の命運、皇室の運、勢威

扶翼(ふよく):たすけること。

 

 

既存の批判的解釈

この第3文に対しては、その最後の「一旦緩急あれば義勇公(こう)に奉(ほう)じ~」以下の部分が最大批判の対象となっています。

 

――――――――――

最初に、親に孝行し、兄弟、友人と和し、夫婦は仲睦まじく…、と臣民の徳目が語られている。この部分こそ、教育勅語を肯定する人々が主張する「良いことも書かれている」箇所で、儒教の五倫五常の教えを反映した一般的な道徳を表している。

 

しかし、徳目の最後の「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」では、国に万一危急な大事(戦争)があれば、天皇の治める皇国のために、勇気をふるい一身を捧げることで、皇室国家のために尽くせ(天皇に命を捧げよ)と述べられている。

 

さらに、こうした「父母に孝に」から「義勇公に奉じ」まで、徳目が並ぶ一文は、最後の「もって天壤無窮の皇運を扶翼すべし」、すなわち、「神代から現在まで天地とともに限りない皇室の発展を支えよ」と命じて結ばれている。

 

親孝行をし、夫婦仲良くと列挙された一般的な「良いこと」のように並ぶ徳目も、その核心は、戦争になれば、国民は命を懸けて戦い、皇国を繁栄させるために全力を捧げさせることにある(すべて天皇と国家への忠義のために臣民に課されたものである)。

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義勇公に奉じ…

 

このように、教育勅語を批判する向きは、教育勅語の結論を、この第3文最後の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ 以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(いざという時には、「皇室国家に命を捧げよ、神代から続く皇室に尽くせ」にほかならないと主張します。

 

実際、戦前の小学校では、この部分が教育勅語の核と教えられたと言われ、天皇と国家に尽くす皇民化教育と、いざ戦争となれば命を懸けて戦えとする軍国主義的な教育が、教育現場で徹底的に教え込まれたとされています。

 

また、戦前、小学校に、天皇・皇后の写真と教育勅語の謄本(写し)を納めた奉安殿が設置され、登校する際には、子ども達は必ず最敬礼するよう指導されました。文部省学校防空指針では人命より重視され、空襲時に持ち出そうとして焼け死ぬ校長も相次ぎ、その行動が賞賛されました。戦争末期になれば、勅語で「皇室国家に命をささげよ」と教えられ子ども達は、学徒出陣、学徒動員など兵士としても駆り出され、戦場では降伏せずに「玉砕」すら助長されたのです。

 

勅語衍義(えんぎ)によるとりかえしのつかない解釈

 

こうした解釈を助長したのが、勅語の読み方を詳述した解説書、「勅語衍(えん)義(ぎ)」の存在でした。「勅語衍義」は、明治天皇の命で時の文相・芳川顕正が哲学者・井上哲次郎に書かせたもので、教育勅語が出た翌年の1891年に私著として出版されましたが、明治天皇も「天覧」されました。そのため、事実上の「公式解釈書(公定注釈書)」として扱われ、教育勅語が国民に何を求めているかを説明した評されるようになりました。戦前に発行された300にものぼった注釈書は、この「勅語衍義」を踏襲したものと言われています。

 

その「勅語衍(えん)義(ぎ)」では、第3文の「汝(なんじ)臣民 父母に孝に~」で始まる項について、「一国は一家を広げたもので、君主が臣民に命じることは一家の父母が子らに言いつけることと同じだ」と解説されました。

 

また、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」は、「(臣民は)ただ徴兵の発令に従いて己の義務を尽くすを要す……真正の男子にありては、国家のために死するより愉快なることなかるべきなり」と解説され、これに続く「もって天壌無窮の皇運を扶翼すべし」の部分では、「臣民は君主の意を体し、逆らってはならない。服従は臣民の美徳である」などと説明しています。

 

 

<教育勅語 第4文>

 

是(かく)ノ如(ごと)キハ獨(ひと)リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス 又(また)以(もっ)テ爾(なんじ)祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足(た)ラン

かくのごときは、独(ひと)り朕が忠良の臣民たるのみならず、またもって汝祖先の遺風を顯彰するに足(た)らん

 

文部省訳

かようにすることは、ただ朕に対して、忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなおさず、汝らの祖先の残した美風をはっきり表わすことになる。

 

遺風(いふう):祖先が残した美風。

顕彰(けんしょう):(隠れているよいことを)明らかにあらわす(あらわれる)こと。

 

 

第3段落

<教育勅語 第5文>

 

斯(こ)ノ道ハ 實(じつ)ニ我(わ)カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ 子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守スヘキ所(ところ) 之(これ)ヲ古今(ここん)ニ通(つう)シテ謬(あやま)ラス 之ヲ中外(ちゅうがい)ニ施シテ悖(もと)ラス 朕爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ 拳々服膺((けんけんふくよう)シテ咸(みな)其(その)徳ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶(こい)幾(ねが)フ

この道は実にわが皇祖皇宗の遺訓にして 子孫臣民の共に遵守すべきところ これを古今(ここん)に通じて誤らず これを中外に施して悖(もと)らず 朕 汝臣民と共に 拳々(けんけん)服膺(ふくよう)して皆その徳を一(いつ)にせんことを乞い願う

 

文部省訳

ここに示した道は、実に我が祖先がお残しになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者および臣民たる者が共々に、従い守るべきところである。この道は古今を貫いて永久に間違いがなく、また我が国はもとより外国でとり用いても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。

 

遺訓(いくん):故人の残した教え。父祖から子孫への教訓

拳(けん)拳(けん)服膺(ふくよう):謹んで捧げ持つようによく守ること。心に銘記し、常に忘れないでいること。

庶(こい)幾(ねが)う:願い望むこと。

 

 

既存の批判的解釈

教育勅語最後の文では、以下のように、「この道=皇道」と「中外に施して悖(もと)らず」が批判の対象となりました。

 

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「斯(こ)の道は…」の「この道」は、「父母に孝に」から「議勇公に奉じ」までの徳目の実践することによって、「天壤無窮の皇運(神代から現在まで天地とともに限りない皇室の発展)を支えることで、これを皇国の道(皇道)と呼ばれた。

 

皇道という言葉は、日本書記に由来している。神武天皇が宮崎の日向から大和の地に上る際に、「天業恢弘(てんぎょうかいこう)東征(とうせい)の詔(みことのり)」が出された。このとき、東征に向けた意義や理想が語られ、「正を養い(養(よう)正(せい))」、「慶(よろこび)を積み(積慶(せきけい))」、「暉(かがやき)を重ねる(重暉(ちょうき))」、すなわち、正しい道を養い、(祝い事などの)慶びを積み、(尊敬されるような)暉を重ねるという皇祖の取り組みが、後に皇道三綱(三大綱)とされた。

 

つまり、皇孫ニニギノミコトから神武天皇までの御統治された宏遠な時代は、民にとって安寧と安心の日々を重ねることができた時代であった。このような政(まつりごと)を全国に宣布していくことが、皇国の道(皇道)とされていったのである。。

 

また、「この道(皇道)」は、「中外に施して悖(もと)らざる」、つまり「世界へ広めても間違いない」と解釈されていた。さらに、外国、特に近隣諸国に広めることが皇国日本の世界的使命であるとなり、「八紘一宇」という軍国主義のスローガンとなった。

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八紘一宇

八紘一宇(はっこういちう)という造語は、日本書記の中で、神武天皇が宣じられた「八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いえ)と為(せ)む(天下をおおいて一つの家とする)」から取られています。「人類同善世界一家」という言葉も生まれ、教育勅語の内容は、日本が世界を一つにして、皇国を支える「この道」を宣布していこうという哲学的な思想に変わっていきました。戦前の第二次近衛文麿内閣は、「八紘一宇」を基本国策として、東亜新秩序建設、大東亜共栄圏の建設という政治的軍事的スローガンを打ち出したため、「八紘一宇」が海外への侵略戦争と結び付けられてしまいました。

 

 

◆ 排除・失効された教育勅語

 

このように、いつしか哲学的思想になっていった教育勅語は、近代日本の国家主義的教育体制の基軸となり、近隣諸国への侵略戦争と結びついていきました。

 

しかし、戦後の1948年、国会が「主権在君並びに、神話的国体観に基づいている」ことから、「基本的人権を損なう」などとして、国会は、教育勅語の排除・失効の確認を決議し、教育勅語は完全に否定されました。

 

この結果、教育勅語は、戦後、問答無用で学校現場から排除され、その内容についてほとんど検証されることはありませんでした。むしろ、教育勅語が、皇国史観に立ち、天皇の名において道徳の実践を命じたもので、天皇と国家に尽くす皇民化教育の支柱になったという見方が定着しました。この結果、「軍国主義教育の象徴」というイメージが独り歩きをしていきました現在では、教育勅語について言及することさえもタブーとされています。この副作用は大きく、神話を教えることや道徳教育そのものも敬遠されるようになっていったのです。

 

 

<国民道徳協会訳文>

 

戦後、教育勅語の口語文訳としては、国民道徳会による訳文が広く引用されています。細心の注意を払いながら、言葉を選び、戦前の教育勅語の負のイメージをできるだけ和らげようとしている(道義国家という新しい言葉も作られた)ことがよくわかる訳文となっています。

 

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私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
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しかし、この苦肉の表現も、誤解を解くには至っていないといません。それは、戦前から連なる教育勅語の解釈に基づいた口語文訳になっているからです。

 

教育勅語に対する「冤罪」を解くことができるとしたら、戦前からの解釈が間違っていることを示す以外に方法はなさそうです。そのためには、教育勅語を実際に書いた井上毅 (いのうえこわし) と元田永孚 (もとだながざね) の立場から解釈していくことが必要となるでしょう。

 

<参照>

神話が教えるホントの教育勅語」の続き

教育勅語①:記紀から学ぶ「徳」の意味

教育勅語②:近代史からわかる義勇公の精神

教育勅語③:日本書記が明かす八紘一宇の真実

 

他の「タブーに挑む」シリーズ

知られざる日本国憲法の成り立ち

明治憲法の冤罪をほどく

 

 

<参考>

憲法(伊藤真、弘文社)

教育ニ関スル勅語(Wikipedia)

教育勅語とは(コトバンク)

など

 

(2022年12月7日)