教育勅語③:これを中外に施して悖らず…

 

「若者を戦争に駆り立てた軍国主義の根源」と徹底的に批判され続けてきた教育勅語に光を当てる「神話が教えるホントの教育勅語」を連載でお届けしています。

 

もし、教育勅語に対する断罪が「冤罪」であったとすれば、それは、教育勅語が発布からほどなく、起草者の井上毅 (いのうえこわし) と元田永孚 (もとだながざね)が意図した趣旨とは大きく異なる解釈をされ、政治的に利用されていったからではないかと想像できます。

 

そこで、そのことを明らかにした上で、当時出された教育勅語を、井上毅や元田永孚の意図に近い形で善意に解釈をすることによって、その言われなき批判に一石を投じることができれば…と思います。

 

今回は、内容によって分けられるとしたら、最後の第3段落に当たる第5文です(以下の太字部分)。

 

教育勅語(読み下し文)

朕(ちん)思うに わが皇祖皇宗 国を肇(はじ)むること宏遠に 徳を樹(た)つること深厚なり わが臣民 よく忠によく孝に 億兆こころを一(いつ)にして 世世(よよ)その美を濟(な)せるは これわが国体の精華にして 教育の淵源(えんげん)また実にここに存(そん)す

汝(なんじ) 臣民 父母に孝に 兄弟(けいてい)に友(ゆう)に 夫婦相和(あいわ)し 朋友(ほうゆう)相信((あいしん)じ 恭儉(きょうけん)己れを持(じ)し 博愛衆に及ぼし 学を修め業(ぎょう)を習い、もって智能を啓発し徳器(とっき)を成就し 進んで公益を広め 世務((せいむ)を開き 常に国憲を重(おもん)じ国法に遵(したがい)い 一旦緩急あれば義勇公(こう)に奉(ほう)じ もって天壤無窮(てんじょうむきゅう)の皇運を扶翼(ふよく)すべし かくのごときは、独(ひと)り朕が忠良の臣民たるのみならず、またもって汝祖先の遺風を顯彰するに足(た)らん

この道は実にわが皇祖皇宗の遺訓にして 子孫臣民の共に遵守すべきところ これを古今(ここん)に通じて誤らず これを中外に施して悖(もと)らず 朕 汝臣民と共に 拳々服膺((けんけんふくよう)して皆その徳を一(いつ)にせんことを乞い願う

 

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<教育勅語 最終第5文>

 

斯(こ)ノ道ハ 實(じつ)ニ我(わ)カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ 子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守スヘキ所(ところ) 之(これ)ヲ古今(ここん)ニ通(つう)シテ謬(あやま)ラス 之ヲ中外(ちゅうがい)ニ施シテ悖(もと)ラス 朕爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ 拳々服膺((けんけんふくよう)シテ咸(みな)其(その)徳ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶(こい)幾(ねが)フ

この道は実にわが皇祖皇宗の遺訓にして 子孫臣民の共に遵守すべきところ これを古今(ここん)に通じて誤らず これを中外に施して悖(もと)らず 朕 汝臣民と共に 拳々服膺((けんけんふくよう)して皆その徳を一(いつ)にせんことを乞い願う

 

(文部省訳)

ここに示した道は、実に我が祖先がお残しになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者および臣民たる者が共々に、従い守るべきところである。この道は古今(ここん)を貫いて永久に間違いがなく、また我が国はもとより外国でとり用いても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。

 

 

◆ 既存の批判的解釈

この最後の一文は、教育勅語全体の理解を一変させる可能性もあるので、文言を拾いながら解説をします。

 

斯(こ)ノ道ハ實(じつ)ニ我(わ)カ皇祖皇宗ノ遺訓(いくん)ニシテ子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守スヘキ所…

この道は 実にわが皇祖皇宗の遺訓にして 子孫臣民の共に遵守すべきところ…

 

遺訓(いくん):故人の残した教え。父祖から子孫への教訓

 

(文部省の現代語訳)

ここに示した道は、実に我が祖先がお残しになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者および臣民たる者が共々に、従い守るべきところである

 

「斯ノ道ハ」の「この道」が何を指すかの解釈で、この第5文どころか教育勅語全体の主旨が変わってしまいます。君徳(天皇の徳)と臣民の徳を説いた教育勅語の全体の文脈から判断すれば、「この道」は、前段の「父母に孝に」から「義勇公に奉じ」までの12の徳目を指すと考えられます(以下の下線)。

 

(教育勅語第2段・第3文)

汝(なんじ) 臣民 父母に孝に 兄弟(けいてい)に友(ゆう)に 夫婦相和(あいわ)し 朋友(ほうゆう)相(あい)信(しん)じ 恭儉(きょうけん)己れを持(じ)し 博愛衆に及ぼし 学を修め業(ぎょう)を習い、もって智能を啓発し徳器(とくき)を成就し 進んで公益を広め 世(せい)務(む)を開き 常に国憲を重(おもん)じ国法に遵(したがい)い 一旦緩急あれば義勇公(こう)に奉(ほう)じ もって天壤(てんじょう)無窮(むきゅう)の皇運を扶翼(ふよく)すべし

 

しかし、戦前、「この道」は、「父母ニ孝ニから義勇公ニ奉シ」までの徳目ではなく、「もって天壤無窮の皇運を扶翼すべし」(永遠である皇国日本を支える)ことまでを含めると解釈されました。その結果、「斯(こ)の道」は、「皇国の道(皇道)」、さらには宇宙根本原理とさえ、拡大解釈されるようになったのです。

 

そうすると、次の「…之(これ)ヲ中外(ちゅうがい)ニ施(ほどこ)シテ悖(もと)ラス」以下の解釈も大きく変わってくることになります。

 

ヲ古今ニ通(つう)シテ謬(あやま)ラス 之ヲ中外(ちゅうがい)ニ施シテ悖(もと)ラス

これを古今(ここん)に通じて誤らず これを中外に施して悖(もと)らず

 

悖(もと)らず:道理にそむく、反する

 

(旧文部省訳)

この道は古今(ここん)を貫いて永久に間違いがなく、また我が国はもとより外国でとり用いても正しい道である。

 

当時の政府の正式見解と言える旧文部省の現代語訳は、「これを中外に施して悖(もと)らず」の「中外」を国内と国外(国の内外)として、この道(=皇道)(天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼/永遠である皇国日本を支える)は、時代を超えて通用し、日本だけでなく世界に広めても間違いないとされました。

 

さらに、天皇がこの道を臣民とともに実践したいと述べられたこととして、皇道を、外国、特に近隣諸国に広めることが皇国日本の世界的使命であると飛躍的に解釈されたのです。

 

朕爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ 拳々服膺シテ咸(みな)其(そ)の徳ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶(こい)幾(ねが)フ

朕 汝臣民と共に 拳々服膺((けんけんふくよう)して皆その徳を一(いつ)にせんことを乞い願う

 

拳々服膺((けんけんふくよう):心に銘記し常に忘れないで守ること

庶(こい)幾(ねが)う:願い望むこと

 

(文部省訳)

朕は汝臣民と一緒に、この道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。

 

 

これが、「八紘(はっこう)一宇(いちう)(世界を一つの家にする)」という軍国主義のスローガンとなり(戦前の第二次近衛文麿内閣は、「八紘一宇」を基本国策とした)、他国への侵略戦争と結びついていき、戦後、批判の対象となり、GHQ(連合国総司令部)もそう解釈しました。

 

「斯(こ)ノ道ハ」の「この道」を、皇道(永遠に続く皇国日本を支える)と解釈したことで、徳を説いた教育勅語が、軍国主義の精神的支柱に変貌してしまったのです。

 

 

◆ 善意の解釈

 

しかし、本シリーズで教育勅語を善意に解釈してきた流れに基づけは、「この道」は、「もって天壤(てんじょう)無窮(むきゅう)の皇運を扶翼(ふよく)すべし(永遠に続く皇国日本を支える)」は含まれず、文言から直接指しているのは、「父母に孝に」から「義勇公に奉じ」までです。

 

また、さらに深読みすれば、「斯(こ)の道(みち)」とは、臣民の遵守すべき12の徳目のことだけではなく、教育勅語冒頭からの流れで、「しろしめす(治(しら)す)天皇の徳(君徳)」も含むとも解釈できます。すなわち、天皇が徳に基づく政治を行い、臣民は日々の生活生業のなかで行う「父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し…義勇公に奉じ」の徳目を実践することを意味します。

 

そうすれば、「斯(こ)ノ道ハ~」以下もスムーズな理解が可能となります。

 

ノ道ハ 實(じつ)ニ我(わ)カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ 子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守スヘキ所…

この道は 実にわが皇祖皇宗の遺訓にして 子孫臣民の共に遵守すべきところ…

 

遺訓(いくん):故人の残した教え。父祖から子孫への教訓

 

(私訳)

斯(こ)の道(天皇の徳治政治と臣民の徳目の実践)は、皇室の祖先(皇祖皇宗)から代々引き継がれた遺訓であって、天皇の子孫と臣民が共に遵守すべきもので…

 

また、次の「~中外(ちゅうがい)ニ施シテ悖(もと)ラスの解釈も大きく変化してきます。

 

…之(これ)ヲ古今ニ通(つう)シテ謬(あやま)ラス 之ヲ中外(ちゅうがい)ニ施シテ悖(もと)ラス

…これを古今(ここん)に通じて誤らず これを中外に施して悖(もと)らず

 

旧文部省の現代語訳では、前述したように「この道は古今(ここん)を貫いて永久に間違いがなく、また我が国はもとより外国でとり用いても正しい道である」とされました。

 

この時、「中外」を国の内外としたことから、この道(皇道)(永遠である皇国日本を支える)は、日本だけでなく世界に広めても間違いないと解されましたが、「中外」を国内外とするのは誤りであるとの見方があります。

 

「中外」は、文字通りの意味ではうちとそとで、現代では辞書でも「中外」を「日本(国内)と外国のこと」と確かに説明されています。しかし、古典などでは、「宮廷の内と外」、「朝廷と国民」「中央と地方」という意味で使われています。例えば、清朝の皇帝が「中外に事の次第を明示するとの勅諭を下した」は、これは、皇帝の勅諭が中国国内の各地に出されたもので外国ではありません。

 

そうすると、「之(これ)を中外(ちゅうがい)に施して悖(もと)らず」の「中外」は、宮中の内と外、つまり、皇室皇族と臣民に広めても誤りはないという意味になります。「之を中外に」の「之」は「斯(こ)の道」(=君主の君徳と臣民の徳目の実践)をさし、「之(これ)」を、中外に、即ち皇室皇族と臣民に広めることと解釈するのが自然の流れのようでしっくりきます。そうしたら、この部分の意味も次のように現代語訳できます。

 

之(これ)ヲ古今(ここん)ニ通(つう)シテ謬(あやま)ラス之(これ)ヲ中外(ちゅうがい)ニ施(ほどこ)シテ悖(もと)ラス

これを古今(ここん)に通じて誤らず これを中外に施して悖(もと)らず

 

(私訳)

これ(斯(こ)の道)をいつの時代に実践しても間違いなく、宮中の内外(皇室皇族と臣民)に広めても道理に反していない。

 

そうすれば、この文最後の「その徳を一にせん」は「徳を一つにする」、即ち「君徳と徳目を君臣と臣民が一体となって実践すること」と解釈できるでしょう。

 

朕爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ 拳々服膺シテ咸(みな)其(その)徳ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶(こい)幾(ねが)フ

朕 汝臣民と共に 拳々服膺((けんけんふくよう)して皆その徳を一(いつ)にせんことを乞い願う

 

拳々服膺((けんけんふくよう):心に銘記し常に忘れないで守ること

庶(こい)幾(ねが)う:願い望むこと

 

(私訳)

朕(私)は、汝、臣民と共にこの生き方(天皇も臣民も徳を実践する生き方)を忘れることなく、一体となってその徳を実践することを切に願うものである。

 

このように解釈すれば、教育勅語全体が首尾一貫して、徳を説いていることが理解でき、しかも、明治天皇はこれを自ら実践したいと明言(宣言)されているのです。

 

勿論、これまでの一般的な解釈のように、仮に、中外が国内と国外の意味だとして、「日本だけでなく世界に広げても道理に反しない」としても、「この道」が「君主と臣民が徳を実践する」ということであれば、何の問題もありません。むしろ、教育勅語の普遍性が高まり、「八紘(はっこう)一宇(いちう)(世界を一つの家にする)の思想もそれなりに意味を持ちます。

 

では、そもそも、教育勅語から戦前生まれた「八紘一宇」というスローガンは、現在、軍国主義のスローガンとなり、他国への侵略戦争と結びついていったとして危険視されていますが、「八紘一宇」に対する解釈に誤解はなかったのでしょうか?

 

 

◆ 八紘一宇の本当の意味

 

八紘一宇という言葉は、明治30年代に田中智学(ちがく)という宗教家による造語とされていますが、八紘一宇の語源そのものは日本書記からきています。そこで、その語源である日本書記に遡って、その真意を明らかにしてみたいと思います。それでは、記紀の中の神武天皇の時代の記述を読んでみましょう。

 

 

神武天皇の東征(神武のご東遷)

 

「古事記」の神武東征神話によると、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコノミコト)(神武天皇)は、御年15歳の時、皇太子となり、初めは、日向(ひむか)の国(今の宮崎県)の高千穂宮(たかちほのみや)にいて、政(まつりごと)を取られました。

 

しかし、当時は未だ国土は荒れて平定されておらず、皇威が全国に轟くというわけではありませんでした。そこで、伊波礼毘古は、兄の五瀬命(イツセノミコト)と相談して、「どの地を都とすれば安らかに天下を治められようか、東の方に青山に囲まれた美しい国があるという、東方を目指そう」と、都を奈良の大和に還すために、大軍を率いて日向を発ちました。これが神武東征の始まりでした。伊波礼毘古、45歳の時でした。

 

皇軍は、先ず宮崎から陸路北へ進んだのち、海路、宇佐(大分)や安芸(広島)、吉備(岡山)などに立ち寄り滞在したあと、難波(大阪)に到着しました。そこから、生駒山を越えて大和(やま)に入ろうとしましたが、河内国の土豪の長髄彦(ながすねひこ)激しい抵抗によって大和入りを果たすことはできませんでした。

 

この戦いで兄の五瀬命が、長髄彦の矢を受け重傷を負ったことから、道を改め、海路紀伊国(和歌山)へと迂回し(ここで五瀬命は薨去(こうきょ))、熊野から上陸に成功しました。しかし、資源をめぐって地元部族との戦いで、伊波礼毘古(イワレビコ)の軍勢は、熊野の神の攻撃で、毒気(あしきいき)に当たり、全軍が倒れてしまいました。

 

熊野での伊波礼毘古(イワレビコ)の危難を救ったのが、霊剣・韴霊(ふつのみたま)でした。韴霊(ふつのみたま)は地元の高倉下(たかくらした)という人物が霊夢で天照大神から授けられた剣とされ、神武天皇に奉じられました。すると、倒れていた全軍は突然目を覚まし敵を倒したという伝承が残されています(なお、霊剣、韴霊は、天理(奈良)の石上神宮(いそのかみじんぐう)の祭神となっている)。

 

また、皇軍は大和(奈良)を目指しますが、険しい山のなかには道もなく、一行は進むことも退くこともできず迷ってしまいました。すると、その夜、今度はカムヤマトイワレビコ(神武天皇)が霊夢を見て、天照大神から道案内のための八咫烏(やたがらす)を与えられました。八咫烏の導きで無事大和の宇陀(うだ)に出ることができたと語り継がれています。

 

その後、最後に強敵の河内国の土豪の長髄彦(ながすねひこ)と激戦を交わしましたが、この時も、一羽の金色の鵄(とび)が飛来し、天皇の矢の先に止まりました。鵄は光り輝き、その威力によって皇軍は、長髄彦の軍勢を打ち破ることができたと言い伝えられています。

 

こうして、神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレビコミコト)(神武天皇)は、いくつもの危難を乗り越えてついに大和(やまと)を平定することができました。これが、神武の東征の話しです。

 

太平洋戦争の末期、当時の芳しくない戦局となっても、日本書記に記されているように、神武天皇が難局を打破して東征を実現したように、やがて活路を見い出せるとして、戦争を拡大していったと批判されています。

 

さて、日向を出発して7年目の正月元旦、神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレビコ)は、奈良の畝傍(うねび)山麓の橿原に宮殿(橿原宮(かしはらのみや))を建てられ、初代神武天皇として、即位しました。「日本書記」によると、天皇が即位した年は辛酉(かのとのとり)の年の1月1日で、紀元前660年とされています。日本書紀の紀年に従って、明治以降、この年を紀元元年としました。

 

ここに、天照大神が天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に告げた「豊葦原の瑞穂の国はわが子孫の君たるべき国なり」の言葉通り、神武天皇が国内を統一し、現在の日本の建国が成就しました。

 

その神武天皇が東征によって、大和地方を平定、橿原の地に都を定められるに当たって下された御詔勅の中の一節にあった「八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(な)さむ(天下をおおいて一つの家とする)」から、戦前「八紘一宇」という造語が生まれたのです。

 

 

「即位建都の大詔」(神武天皇即位前紀己末)

 

…且(また) 当(まさ)に山林(やまはやし)を披払(ひらきはら)ひ、宮室(おほみや)を経営(をさめつく)りて、恭(つゝしく)みて宝位(たかみくら)に臨み、以て、元元(おほみたから)を鎮(しづ)むべし。上(かみ)は即ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまふ徳(うつくしび)に答へ、下(しも)は則(すなは)ち皇孫(すめみま)の正(たゞしき)を養ひたまひし心(みこころ)を弘(ひろ)めむ。然して後に六合(くにのうち)を兼ねて以て都を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(せ)むこと、亦(また)可(よ)からずや。観(觀)れば,夫(か)の畝傍山の東南(たつみのすみ)の橿原の地は,蓋し国の墺區(もなか)か.治(みやこつく)るべし.

 

元元(おほみたから):万民、国民

六合(くにのうち):東西南北上下の六合で、天地四方を表す

八紘(あめのした):(地上)世界、国の八方の果て、国の隅々。

墺區(もなか):中枢の地区

 

(現代語訳)

…そこで、山林を伐り払ひ、宮殿を造営し、慎んで皇位に就いて、万民を治めたいと思う。上は、天祖からこの国を授けられた(御)徳に報い、下は、皇孫がこの国に天降り、正義の精神を養われたみ心を広めて行こう。その後、天地(あめつち)四方を統一して都を開き、天下を覆いて家としよう(八紘一宇)と思う。これもよいことではないか。観れば、この畝傍山(うねびやま)の南東に位置する橿原の地は、まさしく国の中心ではないか、都をつくり治めようと思う。

 

この日本書記の話しから、教育勅語の最終文(第5文)の「斯ノ道」は、君主と臣民の徳の実践(天皇はシラス(治す)の政治、臣民は教育勅語の「父母に孝に」から「義勇公に奉じ」まで徳目)という趣旨が、戦前、「天壌無窮の皇運を扶翼する(永遠に栄える皇室を支える)」ことを含めた皇国の道(=皇道)と解釈されました。

 

さらに、前述したように、「それは、決して一国一民族のためのものではなく、「中外(ちゅうがい)ニ施(ほどこ)シテ悖(もと)ラス」、すなわち外国にも広めて間違いない」と解釈されました。ここから、「八紘一宇」(人類同善世界一家)」という言葉も生まれ、日本が世界を一つにして「斯の道」(=皇道)を宣布していこうという哲学的な思想に変わっていきました。

 

しかし、神武天皇のみ言葉とされる「天下を覆いて家としよう(八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(せ)む)」の天下は、「即位建都の大詔」を読めばわかるように、世界ではなく「日本」であることは明らかです。確かに、「八紘(はっこう)」の辞書の意味は通常「(地上)世界」となっていますが、同時に「国の隅々」という意味もあります。

 

 

◆ 皇道三綱の誤解

 

では、八紘一宇とともに批判の対象となっている「皇道(皇国の道)」(=天壌無窮の皇運を扶翼する」ための道)ということばはどこから来たのかというと、これも日本書記に由来します。

 

歴史的には前後しますが、神武天皇が宮崎の日向から大和の地に上る際に、神武御東征に向けた意義や理想を語った「天業恢弘東征の詔」が出されていました。その中の、「養正」(ようせい)(正を養い)、「積慶」(せきけい)(慶を積み)、「重暉」(ちょうき)(暉(かがやき)を重ねる)という皇祖の取り組みが、後に三大綱(皇道三綱)として、八紘一宇とともに建国の基準や国体の原則と解されていきました。そして、その三大綱を追求することが「皇道」となっていったのでした。

 

「天業恢弘東幸の詔」(神武天皇即位前紀甲寅)

昔,わが天神(あまつかみ),高皇産(たかみむすと)霊(び)尊(のみこと)・大日孁尊(おおひるめむちのみこと),この豊葦原瑞穂国を挙(のたまひあ)げて,わが天祖(あまつみおや),彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)に授けたまへり.ここにおいて彦火瓊瓊杵尊,天關(あまのいはくら)を闢(ひきひら)き雲路を披(おしわ)け,仙蹕(みさきはらひ) 駈(お)ひて戻止(いた)ります.

 

是(こ)の時(とき)、運(よ)は鴻荒(あらき)に屬(あ)ひ、時(とき)は草昧(くらき)に鍾(あた)れり。故(か)れ蒙(くら)くして以(も)て 正(ただしき)を養(やしな)ひ此(こ)の西(にし)の偏(ほとり)を治(しら)せり。皇祖皇考(みおや)、乃神乃聖(かみひじり)にまして、慶(よろこび)を積(つ)み  暉(かがやき)を重(かさ)ね 多(さは)に年所(としのついで)を歴(へ)たまへり。天祖の降(あま)跡(くだ)りましてより以逮(このかた),今に一百七十九万二千四百七十余歳(ももあまりななそあまりここのよろずとせふたちとせよももななそとせあまり).

 

(現代語訳)

昔、わが天つ神々であらせられる高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)と大日孁尊(オオヒルメムチノミコト)(天照大神の御名)は、この豊葦原瑞穗国(トヨアシハラミズホノクニ)をおとりあげになられ、わが天祖(祖先)(アマツオヤ)の彦火瓊々杵尊(ヒコホノニニギノミコト)に授けられた。ここに至り、皇祖火瓊々杵尊(ホノニニギノミコト)は天(あま)の磐座(いわくら)(高天原の天祖の御座所(みくらどころ))を発(た)たれ、雲路(クモヂ)をかき分け、行幸の行列を率いて、厳かに降臨された(地上に降りられた)。

 

そのときは、この世はまだ開かれたばかりの曖昧模糊な状態であった。民もまた知識が不十分で道理に暗い状態であったので、正しい道を養い(正しいことを身につけさせ)(正を養う)、この西の偏(ほとり)の地を治められた。皇祖皇考(ニニギノミコトから神武天皇の先代の天皇まで)は、神や聖人のように、喜びを重ね(慶を積み)、この地と民が徳の光で輝き(暉を重ねる悠遠年月を経られた。天祖(アマツミオヤ)が降臨してから、今で、一百七十九萬二千四百七十餘年(モモヨロズトセアマリ・ナナソヨロズトセアマリ・ココノヨロズトセアマリ・フタチトセアマリ・ヨホトセアマリ・ナナソトセアマリ)である。

 

このご神勅から明らかになったことは、皇孫ニニギノミコトから神武天皇までのご統治された宏遠な時代は、民に正しいことを教えながら(正を養う)、民とともに喜びを重ね(慶を積み)、民が輝いていた(重ねる)、民にとって安寧と安心の日々を積み重ねることができた御代であったことです。これは、まさに民とともにあられた「シラス」によるご統治のことを述べられていることがわかります。

 

このように、本来、「天業恢弘東幸の詔」は、日本書記のシラス政治の極意が示されている美しい話しです。しかし、この徳による政治が、戦前、「養(よう)正(せい)(正を養う)」、「積(せき)慶(けい)(慶を積み)」、「重暉(ちょうき)(暉かがやきを重ねる)」の「皇道三綱」という政治的哲学的なスローガンに変質してしまいました。

 

そして、教育勅語第5文における「斯(この)の道(みち)」は、「天地の公道(世界の正義)」で、決して、日本一国のためでなく、広く人類全体の平和を築くためのものであると主張されるようになました。加えて、「斯(この)の道(みち)」を全国だけでなく世界に宣布していくことが、皇国の道(皇道)とされ、その政治の基準として、三大綱(皇道三綱)があったのです。

 

「八紘一宇」も「三皇道」の考え方も、本来の神話と歴史に基づいて解釈をすれば、現在のように嫌悪感を持って否定されることはなかったのではないでしょうか?

 

しかし、現実には、前述したように、教育勅語の「これを中外(ちゅうがい)に施して悖(もと)らず」の「中外」は国外と解釈され、「八紘一宇」は、皇道(皇国の道)を中外に施そう(世界に広げよう)とするに思想につながり、政治的軍事的には、東亜新秩序建設、大東亜共栄圏の建設というスローガンの下にアジア諸国への戦争へと向けられていってしまいました。

 

わが国の「世界史的使命」が語られたのは、日露戦争に勝利した後のことで、神武天皇のご主張である「八紘一宇」の精神も、いつの間にか、「人類同善世界一家」の建設を目指す世界的大宣言となってしまったのです。実際、戦後、GHQ(連合国総司令部)は、教育勅語の「之を中外に施して悖らず」を世界征服の思想だと断言しました。教育勅語の最後の締めの部分で、「斯(この)ノ道(みち)」と「中外」の解釈の仕方が、今も根強く残る教育勅語に対する言われのない批判につながっているのです。

 

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以上、教育勅語について善意の解釈をしてみました。ここで改めて、教育勅語全体を読み返して頂きたいと思います。

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教育勅語(読み下し文)

朕(ちん)思うに わが皇祖皇宗 国を肇(はじ)むること宏遠に 徳を樹(た)つること深厚なり わが臣民 よく忠によく孝に 億兆こころを一(いつ)にして 世世(よよ)その美を濟(な)せるは これわが国体の精華にして 教育の淵源(えんげん)また実にここに存(そん)す

 

汝(なんじ) 臣民 父母に孝に 兄弟(けいてい)に友(ゆう)に 夫婦相和(あいわ)し 朋友(ほうゆう)相信(あいしん)じ 恭儉(きょうけん)己れを持(じ)し 博愛衆に及ぼし 学を修め業(ぎょう)を習い、もって智能を啓発し徳器(とっき)を成就し 進んで公益を広め 世務((せいむ)を開き 常に国憲を重(おもん)じ国法に遵(したがい)い 一旦緩急あれば義勇公(こう)に奉(ほう)じ もって天壤無窮((てんじょうむきゅう)の皇運を扶翼(ふよく)すべし かくのごときは、独(ひと)り朕が忠良の臣民たるのみならず、またもって汝祖先の遺風を顯彰するに足(た)らん

 

この道は実にわが皇祖皇宗の遺訓にして 子孫臣民の共に遵守すべきところ これを古今(ここん)に通じて誤らず これを中外に施して悖(もと)らず 朕 汝臣民と共に 拳々服膺(けんけんふくよう)して皆その徳を一(いつ)にせんことを乞い願う

 

(私訳)

天皇である私が思うに、神武天皇から始まる歴代の天皇が、国を開かれ、発展させてこられたことは、遥か昔に遡り、その間、祖神と民の心を知ろうとされる徳による政治が永きにわたり行われてきた。また、(歴代の天皇が臣民に徳を積んでこられたように)わが民も、よく忠に励み、よく孝を尽くし、皆が心を一つにして、代々その(忠孝の)美風を作り上げてきた。これ(天皇は臣民に対して徳を積み、民もまた忠孝に励んできたこと)は、わが国体の精華(国柄のすばらしさ)であり、教育の根本もこの点にある。

 

汝(なんじ)臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦仲睦(むつ)ましく、友人とは互に信じ合い、人には恭しく(うやうやしく)、自分は慎ましくして、広く人々に慈愛を与え、学問を修め、技能を身につけることで、知識才能を養い、徳を修めて人格を完成し、進んで公共の利益を広め、世の中のために進んで尽くし、常に憲法を重んじ、法令を尊重遵守し、万一国に危急の大事が起ったならば、忠義と勇気をもって国(公(おおやけ))のために力を尽くし、天地と共に栄え続ける天皇(皇室)を戴く日本という国を共に支えるべし(守ろうではないか)かようにする(臣民として、平時には孝行、友愛、夫婦の和、朋友の信、謙遜、博愛、修学習業、智能啓発、徳器成就、公益世務、遵法に努め、非常時には「義勇公に奉じ」て、連綿と続く日本という国を共に支える」)ことは、汝らがただ朕(天皇)に対する忠義のある善良な臣民であることを世に明らかにするばかりでなく、汝らの祖先が実践し、継承されてこられた美風(生き方)を世にあらわすことになる。

 

この道(=君主の君徳と臣民の12徳目の実践))は、実にわが皇祖皇宗(天皇の祖先)から受け継いできた教訓であって、わが子孫と臣民が共に遵(したが)い守るべきもので、いつの時代に実践しても間違いなく、宮中の内外(皇室皇族と臣民)の誰に広めても道理に反していない。私(朕)は、汝、臣民と共にこの生き方を忘れることなく(皇祖皇宗の遺訓を忘れず)、皆同じ心で(一体となって)その徳を実践することを切に願うものである。

 

(文部省訳)

朕が思うに、我が御祖先の方々が国をお肇めになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にここにある。

 

汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以って交わり、へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。かようにすることは、ただに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなおさず、汝らの祖先ののこした美風をはっきりあらわすことになる。

 

ここに示した道(皇道)は、実に我が祖先がお残しになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者および臣民たる者が共々に、従い守るべきところである。この道は古今(ここん)を貫いて永久に間違いがなく、また我が国はもとより外国でとり用いても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。

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このように、教育勅語は、これほど豊かな内容を、わずか315文字の簡潔明快な名文にまとめられた立派な古典文献です。かつて、世界の王や皇帝が民に命令を下した数多の例はありますが、修身・道徳の規範を示して、これを自ら実践した帝王は、天皇以外にいないと指摘されています。

 

ただし、教育勅語は、言外にさまざまな含蓄のある意味が含まれているので、自己流の解釈がなされるようになった結果、起草者の井上毅(こわし)と元田永孚(ながざね)の理念とは離れて独り歩きをし、やがて、「勅語衍義」などの影響を受け、絶対的な政治スローガンに変貌してしまいました。徹底的に批判される教育勅語はこのような変質した教育勅語です。

 

結果的に、君主と臣民の徳について書かれた、世界に胸を張れる教育勅語も、帝国憲法と同様、その運用に失敗したのです。いつの日か、井上毅(こわし)と元田永孚(ながざね)の思いが現代の人々にも届くことを願ってやみません。

 

<参照>

連載「神話が教えるホントの教育勅語

教育勅語はかく批判された!

教育勅語①:記紀から学ぶ「徳」の意味

教育勅語②:近代史からわかる義勇公の精神

 

他の「タブーに挑む」シリーズ

知られざる日本国憲法の成り立ち

明治憲法の冤罪をほどく

 

 

<参考>

「明治期における政治・宗教・教育」(福島清紀)

「教育勅語の成立と展開」(所功 京産大法学44巻4号)

「近現代教育史のなかの教育勅語 ─研究成果の検討と課題─」(貝塚茂樹)

「近代以降日本道徳教育史の研究」(千葉昌弘)

「戦後教育はこうして始まった」(日本政策教育センター)

「明治後期における公教育体制の動揺と再編」(窪田祥宏)

「教育勅語の真実」(致知出版社/伊藤哲夫氏著)

 

(2022年12月7日)