教育勅語②:義勇公に奉じ 天壤無窮の皇運を扶翼すべし~

 

「若者を戦争に駆り立てた軍国主義の根源」と徹底的に批判され続けてきた教育勅語に光を当てる「神話が教えるホントの教育勅語」を連載でお届けしています。

 

もし、教育勅語に対する断罪が「冤罪」であったとすれば、それは、教育勅語が発布からほどなく、起草者の井上毅 (いのうえこわし) と元田永孚 (もとだながざね)が意図した趣旨とは大きく異なる解釈をされ、政治的に利用されていったからではないかと想像できます。

 

そこで、そのことを明らかにした上で、当時出された教育勅語を、井上毅や元田永孚の意図に近い形で善意に解釈をすることによって、その言われなき批判に一石を投じることができれば…と思います。

 

今回の善意の解説は、内容によって分けられるとしたら第2段落に当たる第3文と第4文です(以下の太字部分)。

 

教育勅語(読み下し文)

朕(ちん)思うに わが皇祖皇宗 国を肇(はじ)むること宏遠に 徳を樹(た)つること深厚なり わが臣民 よく忠によく孝に 億兆こころを一(いつ)にして 世世(よよ)その美を濟(な)せるは これわが国体の精華にして 教育の淵源(えんげん)また実にここに存(そん)す

汝(なんじ) 臣民 父母に孝に 兄弟(けいてい)に友(ゆう)に 夫婦相和(あいわ)し 朋友(ほうゆう)相信((あいしん)じ 恭儉(きょうけん)己れを持(じ)し 博愛衆に及ぼし 学を修め業(ぎょう)を習い、もって智能を啓発し徳器(とっき)を成就し 進んで公益を広め 世務((せいむ)を開き 常に国憲を重(おもん)じ国法に遵(したがい)い 一旦緩急あれば義勇公(こう)に奉(ほう)じ もって天壤無窮(てんじょうむきゅう)の皇運を扶翼(ふよく)すべし かくのごときは、独(ひと)り朕が忠良の臣民たるのみならず、またもって汝祖先の遺風を顯彰するに足(た)らん

この道は実にわが皇祖皇宗の遺訓にして 子孫臣民の共に遵守すべきところ これを古今(ここん)に通じて誤らず これを中外に施して悖(もと)らず 朕 汝臣民と共に 拳々服膺((けんけんふくよう)して皆その徳を一(いつ)にせんことを乞い願う

 

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<教育勅語 第3文>

 

(読み下し文)

汝(なんじ) 臣民 父母に孝に 兄弟(けいてい)に友(ゆう)に 夫婦相和(あいわ)し 朋友(ほうゆう)相(あい)信(しん)じ 恭儉(きょうけん)己れを持(じ)し 博愛衆に及ぼし 学を修め業(ぎょう)を習い、もって智能を啓発し 徳器(とくき)を成就し 進んで公益を広め 世務((せいむ)を開き 常に国憲を重(おもん)じ国法に遵(したがい)い 一旦緩急あれば義勇公(こう)に奉(ほう)じ もって天壤無窮((てんじょうむきゅう)の皇運を扶翼(ふよく)すべし

 

教育勅語の長い第3文(第2段落)には、第1段落で示された君徳に対する臣民の忠孝を、さらに具体的に以下の12の徳目として示されています。

 

1.(父母への)孝行⇒親を大切にする。

2.(兄弟姉妹の)友愛⇒兄弟姉妹は仲良くする

3.夫婦の和⇒夫婦はいつも仲睦まじくする

4.朋友の信(友達の信)⇒友達は互いに信じ合う

5.謙遜⇒慎み深く奢(驕)らない。

6.博愛⇒人々に慈愛の念を持つ。

7.修学習業⇒勉学に励み職業(生業)につとめる。職業を習って身につける。

8.智能啓発⇒知識を養い才能を伸ばす。

9.徳器成就⇒徳を養い人格を磨く。

10.公益世務⇒世の人々や社会の為に務める(仕事に励む)。

11.遵法⇒法令規則を守り社会の秩序に従う。

12.義勇公⇒国難に際し、正義と勇気の心をもって公の為に尽くす(国のために尽くす)。

 

では、教育勅語の12徳を第3文に沿って深読み解説します(原文にはそれぞれ読む下し文と文部省訳をつけた)。

 

◆ 孝行・友愛・夫婦の和・朋友の信・謙虚・博愛

 

爾(なんじ)臣民 父母ニ孝ニ 兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ 夫婦相和(あいわ)シ 朋友(ほうゆう)相信((あいしん)シ 恭儉(きょうけん)己レヲ持(じ)シ 博愛衆ニ及ホシ…

汝(なんじ) 臣民 父母に孝に 兄弟(けいてい)に友(ゆう)に 夫婦相和(あいわ)し 朋友(ほうゆう)相(あい)信(しん)じ 恭儉(きょうけん)己れを持(じ)し 博愛衆に及ぼし…

(文部省訳)

汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以って交わり へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、

 

恭劍(きょうけん):人にうやうやしく、自分は慎み深くすること

 

ここでは、「孝行」、「友愛」、「夫婦の和」、「朋友の信」、「謙遜」、「博愛」という具体的な徳目が掲げられ、家庭と社会における人間としての基本的な道徳を説いています。これは、儒教の説く「五倫(五つの徳目)」の教えで、父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信に該当するとの見方が一般的です。編者とされる元田永孚は当時、日本有数の儒学者でした。元田の意見を参考にしつつ、日本が長らく受け継いできた孔孟の教えを採り入れたとの指摘は頷(うなず)ける話しです。

 

ただし、ここで教育勅語に掲げられた徳目は、儒教の五倫(「孟子」)の丸写しではありません。男性中心の「縦」の関係を重んじる儒学の教えに忠実であれば、「子は親に従い、嫁は夫に従い、弟は兄に従い…」となると思われます。特に、儒教において夫婦の関係は「夫婦の別」が強調され、夫と嫁はそれぞれ役割が違う、夫は夫らしく、妻は妻らしくという意味に使われます。

 

これに対し、この勅語では、父と母への孝養、兄弟(姉妹)の友愛、夫婦の愛和など、男女の生存協力による「横」の関係の大切さを謳っています。さらに、「博愛衆に及ぼし」と、家庭の枠を超えた衆人への慈愛にまで高め、宗教宗派の枠を超えて、人として常に踏み守るべき道徳が示されています。

 

 

◆ 修学習業智能啓発徳器成就公益世務

 

學ヲ修メ業(ぎょう)ヲ習ヒ 以(もっ)テ智能ヲ啓發(けいはつ)シ徳器(とくき)ヲ成就シ 進(すすん)テ公益ヲ廣(ひろ)メ 世務(せいむ)ヲ開キ…

学を修め業(ぎょう)を習い、もって智能を啓発し徳器(とくき)を成就し 進んで公益を広め 世(せい)務(む)を開き…

 

徳器(とっき):善良有為(立派な人格)の人物
世務(せいむ):世の中に役立仕事

 

(文部省訳)

学問を修め業務を習って(修学習業)、知識才能を養い(智能啓発)、善良有為の人物となり(徳器成就)、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし(公益世務)…

 

ここは、当時、問題視されていた学問の実利主義を批判し、学問の目的は、人格の完成と社会への貢献であることを強調したものと解されます。

 

 

◆遵法

常ニ國(こく)憲(けん)ヲ重(おもん)シ 國法(こくほう)ニ遵(したがい)ヒ

常に国憲を重(おもん)じ国法に遵(したがい)い

 

國憲(こっけん):国の根本法、すなわち憲法。

 

(文部省訳)

常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し

 

遵法を謳ったこの部分は、「道徳教育を述べた勅語に必ずしも必要がない」、また「天皇の統治大権を制限するもので好ましくない」として、いったん削られました。しかし、天皇の内閲(内々で閲覧すること)を仰いだところ、「それは必要だから残すように」とのご意向により、再び加えられたと言われています。

 

天皇も臣民とともに、憲法や法律を尊重するという意思表示をされたのです。帝国憲法4条に「天皇は…統治権を総攬しこの憲法の条規により、これを行う」とあることも天皇はよく認識されていた証です。

 

義勇公

一旦緩急アレハ義勇公(こう)ニ奉(ほう)シ…

一旦緩急あれば義勇公(こう)に奉(ほう)じ…

 

義勇(ぎゆう):正義にかなった勇気

 

(文部省訳)

万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げ(る)…

 

12の徳目の最後の「義勇(公)」の部分こそ、「戦争に駆り立てている」と批判の絶えない箇所です。12の徳目のうち、孝行や友愛など11の徳目について納得する向きも、「義勇(公)」については批判します。

 

いずれにしても、第3文では、「なんじ臣民、父母に孝に…」から「いったん緩急あれば、義勇公に奉じ」までの12の徳目の実践を促し、「もって天壤無窮((てんじょうむきゅう)の皇運を扶翼(ふよく)すべし」と訓じています。

 

…以(もっ)テ天壤無窮((てんじょうむきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スヘシ

もって天壤無窮の皇運を扶翼すべし

 

天壌無窮(てんじょうむきゅう):天地と同じように永久に続くこと
皇運(こううん):天皇を戴(いただ)く日本国の命運、皇室の運、勢威

扶翼(ふよく):たすけること

 

(文部省訳)

かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。

 

宝祚(あまつひつぎ):皇位、皇室

 

原文では、12の徳目を実践することで、「天壤無窮の皇運」を支えようと述べているにもかかわらず、教育勅語を批判的にみる向きは、最後の義勇公だけをことさらにとりあげて、

 

一旦緩急アレハ義勇公ニ奉(ほう)シ 以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スヘシ

一旦緩急あれば義勇公に奉じ もって天壤無窮の皇運を扶翼すべし

 

を、「国の非常時には、天皇のために命を懸けよ」「戦争が起きたら天皇のために戦って死ね」という意味だと主張します。実際、学校教育を含めて広くそのように解釈され、教育勅語が「軍国主義教育の象徴」といわれる根拠となっています。

 

そう解釈された原因の一つは、前回の投稿でも紹介したように、事実上の「公式解釈書(公定注釈書)」とされた「勅語衍義(えんぎ)」にあると言って間違いないでしょう。

 

執筆者の哲学者・井上哲次郎は、この第3文の「汝(なんじ)臣民 父母に孝に~」で始まる項について、「一国は一家を広げたもので、君主が臣民に命じることは一家の父母が子らに言いつけることと同じだ」と解説しました。

 

また、問題の「一旦緩急あれば義勇公(こう)に奉(ほう)じ、もって天壌無窮の皇運を扶翼すべし」の部分は、「(臣民は)ただ徴兵の発令に従いて己の義務を尽くすを要す……真正の男子にありては、国家のために死するより愉快なることなかるべきなり」、「臣民は君主の意を体し、逆らってはならない。服従は臣民の美徳である」などと説明しています。

 

1891年刊行の「勅語衍(えん)義(ぎ)」は、明治天皇の「天覧」(ご覧になること)があったこともあって、その後に発行された300にものぼった注釈書は、この「勅語衍義」を踏襲したものと言われています。そのため、正式な現代語訳とされ、文部省図書局により1940年に出された「聖訓ノ述義ニ関スル協議会報告書」の訳文も、勅語衍(えん)義(ぎ)の影響を受けたものと思われます。

 

旧文部省訳

万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて、皇室国家の為につくせ かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。

 

このため、親孝行をし、夫婦仲良くと列挙された一般的な「良いこと」のように並ぶ徳目も、その核心は、戦争になれば、国民は命を懸けて戦い、皇国を繁栄させるために全力を捧げさせていると批判されました。結果として、人としての徳目全体さえも霞んでしまった感があります。

 

では、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ もって天壤無窮の皇運を扶翼すべし…」の部分は、本当に戦争が起きたときに、「一身を捧げよ」と戦争に駆り立て(「義勇公に奉じ」の既存の解釈)、また、「天皇のために命を賭けよ(天皇のために命を捧げよ)」(「皇運を扶翼すべし」の既存の解釈)と言っていたのでしょうか?この疑問に答えるためには、当時の日本を取り巻く国際情勢からみていく必要があります。

 

 

<教育勅語 第3文終わりを再考すると…>

 

◆ 帝国主義の時代

 

この時期、世界は19世紀後半以降に顕著となった帝国主義と呼ばれる時代に入っていました。具体的には、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、アメリカなどの欧米列強が、海外領土・植民地の獲得で、勢力圏の拡大を競い合った時代です。アジアは、アフリカとともに、列強の標的となり、欧米諸国は各地に植民地を築いていきました。その第1歩となった帝国主義戦争が、1840年のアヘン戦争とその後のアロー戦争です。

 

アヘン戦争(1840~42

18世紀末、紅茶を飲む習慣が庶民に広まったイギリスでは、茶の需要が増大したため、中国から大量の茶を輸入したため、イギリスは、清に対して大幅な貿易赤字を抱えてしまいます。貿易赤字とは、輸入による支払いが輸出による受取りを上回ることですが、当時、支払い手段が銀であったことから、大量の銀がイギリスから清に流出していきました。

 

一方、当時、清の人々の間では、ケシの実から作られる麻薬の一種であるアヘンを吸飲する習慣がありました。そこで、自国から銀の流出を嫌ったイギリスは、清から銀を回収するために、イギリス政府と東インド会社が、インドで栽培していたアヘンを中国に密輸出したのです。この結果、清ではアヘンの吸飲が一層広がって、アヘン密貿易が急増、結果的に、今度は逆に、アヘンの輸入によって清から大量の銀が流出するようになっていきました。

 

こうした状況下、清はアヘンの取り締まりのために広州でアヘンを没収して破棄させ、アヘン貿易を厳禁したのでした。この清の対応に反発して、イギリスによって仕掛けられた戦争がアヘン戦争です。イギリス国内でも、アヘンが中毒性のある有害なものであるという認識があったにも拘わらず黙認されました。

 

アヘン(麻薬)の輸出を拒否されたから戦争を起こすなど、現代の感覚では、国際法的にも、人道的にも許される戦争ではありませんが、当時であれば、こうした戦争は、当たり前のように行われていました。しかも、敗れた清は、香港を割譲、上海などの5港を開港させられるなど、清にとっては不利な不平等条約である南京条約を結ばされたのです。

 

アロー戦争(1856~1860

当時のイギリスは、自由貿易主義の拡大を目指す外交政策を推進していました。アヘン戦争後の南京条約の締結で、清との「自由」貿易が始まりましたが、取引が上海などの5港だけに限定されていたため、イギリスは、思うような貿易ができないとして、不満が強まっていました。

 

そんな時起きたのが、アロー号事件です。1856年10月、広州港に停泊中だったアヘン密輸船のアロー号に対して、清朝官憲が立ち入り検査を行い、掲げていたイギリス国旗が引きずり下ろし、船員を逮捕しました。これに対して、イギリスは、国旗ひいては国家の名誉が傷つけられたとして、賠償金や謝罪、責任者の処罰を要求、これが拒否されたことから、再び清との戦争に踏み切りました。しかも今回は、同年に広西省で起こったフランス人宣教師殺害事件を口実として清への侵出を狙っていたフランスと共同で出兵する形をとったのでした。

 

第二次アヘン戦争とも呼ばれたアロー戦争で、英仏両軍が北京を占領し、1860年にロシアの仲介もあって北京条約を結びます。この条約で、清朝は両国に対して賠償金を支払い、新たに天津を開港、イギリスには九龍半島を割譲しました。

 

また、中国への領土的野心を持つロシアも、この戦いに乗じて、1858年、黒竜江に軍を進め、黒竜江(アムール川)左岸の割譲、松花江(ウスリー川)以東を両国の共同管理地区とすることなどを認めさせる愛琿(あいぐん)条約を結びました。さらに、北京条約を斡旋してやった代償として、ウスリー川以東の沿海州も割譲させました。

 

アロー戦争は、現代の感覚ではアヘン戦争と同じくらい無茶苦茶な戦争です。イギリスは国旗が侮辱されたという理由で戦争を起こしたのです。中国(清)に対するこの2つの戦争は、口実を与えてしまえば戦争を仕掛けられ、休戦(停戦)のために条約を斡旋してもらったら領土を取られるという時代だったということを教えてくれています。

 

アヘン戦争とそれに続くアロー戦争は、イギリスの中国侵略とそれに続く、アジア植民地支配の大きな契機となり、フランスやロシアもイギリスに便乗する形で、中国への領土的野心をさらに強めました。この後、中国(清)は、租借権(租借地)や、鉄道敷設権・鉱山採掘権などの利権の供与という形態で、国土を分割され、半植民地状態になってしまうのです。

 

 

 戦争が違法でなかった時代

 

私はここで、無茶苦茶な戦争を仕掛けたイギリスやフランスなど欧米列強を批判するつもりはありません。というのも、この時代、戦争は違法ではありませんでした。侵略戦争という定義もありません。戦争がよくないものだという認識が広まるのが、第一次世界大戦後のことで、戦争が違法とされるのが1928年に不戦条約が締結されてからです。

 

それまでは、「戦争に訴えるのは国家の自由である」という立場がとられ(国際法では無差別戦争観という)、国際法も最初から戦争を禁止するものではありませんでした。戦争は禁止されていないから、いかに行うかというルールがあっただけだったのです。

 

具体的には、要求を突き付けて、応じなければ戦う旨を相手に通告して、要求を拒否されれば、相手が戦うことに同意したと見なされ、戦争が開始されます。戦争はよく一種の「決闘」と言われます。決闘というのは、同じ社会階級の者同士でしか行われませんでした(農民と貴族は決闘できなかった)。戦争も主権国家対等の原則に従い、主権国家である限り、国家は争いが生じた場合、その争いがどういう性質のものであろうと、戦争に訴える権利や自由を有すると考えられていました。ですから、戦争は、国家にとって「政策」の一環だったのです。

 

この当時、明治の日本は、「維新」(1868年)を成し遂げたばかりで、主権国家として独立を維持しなければならない立場にありました。しかし、1890年頃の日本は、欧米列強から不平等条約を課せられ、彼ら並みの国家とは見なされていません(日本が欧米並みの主権国家と見なされるのは、日清戦争や日露戦争に勝利してから)。いつでも欧米から攻撃を受け、領土を奪われるリスクにさらされていました。

 

相手は、「ウシハクの国」、井上毅の言葉を借りれば、シラスという概念がそもそもない国です。戦いを挑まれれば受けるしかなく、負ければ、そこの国民は勝者の家来であり、生命だけでなく、家族も財産も、故郷も国土も奪われる時代で、かつそれが当然のことと考えられていた時代です。実際、隣国中国は半植民地状態となり、ロシアは極東へ触手を伸ばそうとしていました。

 

また、現在の国連の安全保障体制のように、自国が攻撃されれば、他の加盟国が共同でこれに対抗することを認めることで、国際の平和と安全を維持しようという集団的自衛権の概念もありません。

 

アヘンを買わない、国旗を侮辱したなど、言いがかりに近いような理由でも、外交目標の実現のために戦争を仕掛けることができる時代において、自国の独立を守り、安全を保障し、国民の生活と財産を守るためには何ができるでしょうか?攻撃を受けたらそれに対する防衛は、原則、自衛しかありませんでした。

 

教育勅語も、大日本帝国憲法も、こんな時代に制定されたということを私たちは知っていなければなりません。明治政府は、1873年に徴兵制を採用し、1889年の帝国憲法では、国民に兵役に関する義務を課しました。武士階級が消滅し、徴兵制による国民兵で国を守るしかない時代です。そのため徴兵制度も大改正され、1889年には法制度上、男子に対して国民皆兵が義務付けられました。この当時の男子には、文字通り、自国を守る気概を教える必要がありました。それが教育勅語の義勇公の精神です。

 

ですから、明治憲法に兵役の義務を規定し、また教育勅語に国難に際して「正義と勇気を持って公(国)の為に尽くす」という義勇公の精神を徳目にあげるのは、当時の状況を考えれば、主権国家としてはある意味、自然です。

 

「義勇公に奉じ」を、「戦争に駆り立てた」とする制定当時の教育勅語に対する批判は、全く当たっていません。「一旦緩急あれば義勇公(こう)に奉(ほう)じる」ことが、当時の至極当然の徳目であったことは理解できると思います。実際、近代国家において、国民には当然に国防の義務があるので、「戦争に駆り立てる…」式の批判は的外れという海外からの現実的なコメントもあります。

 

◆「一旦緩急あれば…」の「緩急」は起きた!

 

教育勅語が発布された後(1890年以降)、実際に発生した「緩急(国の一大事)」は起きました。その時、私たちの先祖は「義勇公に奉じ」、文字通り国を守ったのです。

 

この当時、危急の事態とは大国ロシアの南下です。最終的には、日露戦争となってしまうのですが、明治維新からわずか30年あまりの日本は、なぜ大国ロシアと戦わなければならなかったのでしょうか?この経緯を見ることで、「義勇公に奉じ」た理由と意義を理解することができるでしょう。

 

明治維新以降、初めて外国との戦いとなった日清戦争(1894~95年)で勝利した日本は、アジアに近代国家・日本の存在感を示すことにもなり、欧米諸国との不平等条約の一つの治外法権の撤廃に成功します。

 

しかし、講和条約調印からわずか6日後、中国東北部への進出を狙うロシアは、日本の伸張を恐れ、ドイツ、フランスと共同で、遼東半島の返還を日本に要求してきました(三国干渉)。

 

三国の圧力に対し、日本の国力などを考えた政府は、泣く泣くこの要求を受け入れました。遼東半島の返還を強いられたことを屈辱と受け止めた日本は、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を合言葉に、以後、ロシアへの対抗心を高め、国力(軍事力)の増強に努めていくことになります。

 

一方、清朝は、対外的にはそれまで“眠れる獅子”と言われていましたが、同じアジアの新興国で小国とみられていた日本に敗れたことによって、その弱体をさらすことになりました。三国干渉で清朝を助けたロシア・フランス・ドイツは、その「見返り」を要求します。具体的には、租借地を獲得するという手法などを使って、勢力圏を設定、中国分割に乗り出します。イギリスもこれに同調し、勢力圏を確保していきました。

 

1898年にはドイツは膠州湾、イギリスは威海衛、ロシアは旅順・大連、フランスは広州湾というように、戦略上、重要な地域が列強の手中に陥り、中国は事実上の半植民地状態に陥ってしまいました。

 

外国支配に対する民衆の怒りは、1900年に、義和団の反乱となって現れます。宗教結社“義和団”が「扶清滅洋(ふしんめつよう)(清朝を助け、西洋を打ち滅ぼせという意味)」をスローガンに、外国人の排斥を訴えて蜂起し、北京の各国大使館を包囲しました。

 

これに対して、日本を主力とする8カ国の連合軍が北京を占領して、義和団を鎮圧します。しかし、連合軍の一つであったロシアは撤退することなく、16万を超える兵を中国東北部・満州に残し、満州を事実上占領します。そのため日本は、ロシアが、朝鮮半島まで支配してしまうのではないかと、危機感を強め、ロシアとの緊張関係が高まりました。

 

1904年、日本はロシアに宣戦布告し、日露戦争が始まります。ロシアの重要拠点である旅順をめぐる戦いでは、乃木希典(のぎまれすけ)や児玉源太郎などが軍を指揮し、多大な犠牲者を出しながらも勝利します。また、南満州の要地・奉天でも、日本軍がロシア軍を破りました。

 

これを受け、ロシアは、主力のバルチック艦隊をヨーロッパから日本へ展開させますが、日本は東郷平八郎を司令長官とする連合艦隊が、対馬海峡で待ち受け、バルチック艦隊に壊滅的な被害を与えました。こうして、ロシアとの戦争は、日本の圧倒的な勝利に終わり、1905年9月、日本はロシアによる朝鮮への南下を退け、自国の安全を確保することができました。

 

日露戦争は、まさに「一旦緩急アレバ」と勅語が仮定した実際の事件です。このときは、日本人と帝国陸海軍は、「義勇公ニ奉ジ」、日本を守ったといえるでしょう。実際、イギリスの「スタンダード」という新聞は、1904年から05年の日露戦争における日本の勝利について、教育勅語に、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」と示されたことで、義勇奉公の熱情に鼓舞されて一つにまとまった軍隊を組織することができたと論評しました。

 

「一旦緩急アレバ」の「緩急」とは、もちろん戦争に限ったことではありません。東日本大震災のおり、福島第一原発に赴いた自衛隊や消防レスキュー隊、さらには津波が来る瞬間まで住民に避難を呼びかけ続けた宮城県南三陸町の女性職員の行動など、自制や自己犠牲の精神で震災に対応したことにみられる「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」の精神は今も生きています。

 

 

◆「以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」の本当の意味

 

「天壤無窮の皇運」の「天壤無窮」は、日本書記の「天壤無窮の神勅」にでてきた言葉で、「連綿と続く、永遠に続く」の意で用いられています。「天壤無窮の神勅」は、原文の読み下しでは、次のように書かれています。

 

宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壤(あめつち)と窮(きわま)り無かるべし

 

「宝祚(あまつひつぎ)」は、辞書の意味は「皇位、皇室」であり、文字通り現代文訳すれば「天皇・皇室の繁栄は、天地とともに窮まりない(永遠である)」となります。

 

教育勅語の「皇運」も、その意味は「皇室の命運」です。したがって、「天壤無窮の皇運を扶翼すべし」は、「永遠に続く天皇・皇室を支えよ」と解釈され、昭和40年の文部省訳では、「勅語衍(えん)義(ぎ)」の影響もあってか、「かくして、神勅のまにまに天地と共に窮まりなき、宝祚(あまつひつぎ)の御栄(皇室のご盛運)を助け奉れ」と現代語訳されました。そこから、「天皇のために命を捧げよ」と拡大解釈されていったのです。

 

しかし、教育勅語の第1文と第2文の解説で学んでように、日本という国体の精華(国柄のすばらしさ)とは、天皇の徳と臣民の忠孝が一体となって努めたことでした(詳細⇒○○)。

 

この文脈で「もって天壤無窮の皇運を扶翼すべし」を解釈すれば、「天地と同じように栄え続ける皇室を戴く日本国を共に支えよ」となります。私たちに犠牲を求めているのではなく、国難に直面したときには、連綿と続いてきた日本という国を、心を一つにして共に守ろうではないか、という天皇の謙虚な呼びかけです。

 

このように理解すれば、「義勇公に奉じ」は「一身を捧げよ」と戦争に駆り立てているのでもなければ、「皇運を扶翼すべし」もまた、「天皇のために命を賭けよ」と言っているのではないことは理解できると思います。そこで。この部分の現代語訳を試みれば以下のようになります。

 

一旦緩急あれば義勇公に奉じ もって天壤無窮の皇運を扶翼すべし

 

(私訳)

万一国に危急の大事が起ったならば、忠義と勇気をもって国(公(おおやけ))のために力を尽くし、天地と共に栄え続ける天皇(皇室)を戴く日本という国を共に支えるべし(守ろうではないか)

 

こう解釈すれば、次の第4文もスムーズに理解できるようになります。

 

 

<教育勅語 第4文)>

 

是(かく)ノ如(ごと)キハ獨(ひと)リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス 又(また)以(もっ)テ爾(なんじ)祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足(た)ラン

かくのごときは、独(ひと)り朕が忠良の臣民たるのみならず、またもって汝祖先の遺風を顕彰に足(た)らん

 

遺風(いふう):祖先が残した美風。

顕彰(けんしょう):(隠れているよいことを)明らかにあらわす(あらわれる)こと。

 

(文部省訳)

かようにすることは、ただに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなおさず、汝らの祖先の残した美風をはっきりあらわすことになる。

 

この当時の国(文部省)の現代語訳に、第3文の善意の解釈に基づいて、上の文部省訳に言葉を補いながら、以下のように現代語訳できるのではないでしょうか

 

(私訳)

かようにする(臣民として、平時には孝行、友愛、夫婦の和、朋友の信、謙遜、博愛、修学習業、智能啓発、徳器成就、公益世務、遵法に努め、非常時には「義勇公に奉じ」て、連綿と続く日本という国を共に支える」)ことは、汝らがただ朕(天皇)に対する忠義のある善良な臣民であることを世に明らかにするばかりでなく、汝らの祖先が実践し、継承されてこられた美風(生き方)を世にあらわすことになる。

 

 

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教育勅語の第3文と第4文(第2段落に相当)の善意に解釈に基づく現代語訳

 

汝(なんじ) 臣民 父母に孝に 兄弟(けいてい)に友(ゆう)に 夫婦相和(あいわ)し 朋友(ほうゆう)相信((あいしん)じ 恭儉(きょうけん)己れを持(じ)し 博愛衆に及ぼし 学を修め業(ぎょう)を習い、もって智能を啓発し徳器(とっき)を成就し 進んで公益を広め 世務((せいむ)を開き 常に国憲を重(おもん)じ国法に遵(したがい)い 一旦緩急あれば義勇公(こう)に奉(ほう)じ もって天壤無窮(てんじょうむきゅう)の皇運を扶翼(ふよく)すべし

 

かくのごときは、独(ひと)り朕が忠良の臣民たるのみならず、またもって汝祖先の遺風を顯彰するに足(た)らん

 

(私訳)

汝(なんじ)臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦仲睦(むつ)ましく、友人とは互に信じ合い、人には恭しく(うやうやしく)、自分は慎ましくして、広く人々に慈愛を与え、学問を修め、技能を身につけることで、知識才能を養い、徳を修めて人格を完成し、進んで公共の利益を広め、世の中のために進んで尽くし、常に憲法を重んじ、法令を尊重遵守し、万一国に危急の大事が起ったならば、忠義と勇気をもって国(公(おおやけ))のために力を尽くし、天地と共に栄え続ける天皇(皇室)を戴く日本という国を共に支えるべし(守ろうではないか)

 

かようにすることは(臣民として、平時には孝行、友愛、夫婦の和、朋友の信、謙遜、博愛、修学習業、智能啓発、徳器成就、公益世務、遵法に努め、非常時には「義勇公に奉じ」て、連綿と続く日本という国を共に支える」ことは)、汝らがただ朕(天皇)に対する忠義のある善良な臣民であることを世に明らかにするばかりでなく、汝らの祖先が実践し、継承されてこられた美風(生き方)を世にあらわすことになる。

 

(参考・文部省訳)

汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以って交わり、へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。

 

かようにすることは、ただに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなおさず、汝らの祖先ののこした美風をはっきりあらわすことになる。

 

<参照>

連載「神話が教えるホントの教育勅語」

教育勅語はかく批判された!

教育勅語①:記紀から学ぶ「徳」の意味

教育勅語③:日本書記が明かす八紘一宇の真実

 

他の「タブーに挑む」シリーズ

知られざる日本国憲法の成り立ち

明治憲法の冤罪をほどく

 

 

<参考>

「明治期における政治・宗教・教育」(福島清紀)

「教育勅語の成立と展開」(所功 京産大法学44巻4号)

「近現代教育史のなかの教育勅語 ─研究成果の検討と課題─」(貝塚茂樹)

「近代以降日本道徳教育史の研究」(千葉昌弘)

「戦後教育はこうして始まった」(日本政策教育センター)

「明治後期における公教育体制の動揺と再編」(窪田祥宏)

「教育勅語の真実」(致知出版社/伊藤哲夫氏著)

 

(2022年12月7日)