シリーズ「記紀(古事記・日本書記)を読もう」の第7回「神武天皇の東征」の物語です。
高天原(たかまのはら)の主宰神、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)の天地開闢に始まり、以下の神々に連なる記紀神話のストーリーもいよいよ初代・神武天皇の登場です。
伊邪那岐命(イザナギノミコト)
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天照大神(アマテラスオオカミ)
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天之忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)
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瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)
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彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)(別名:山幸彦)
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鵜草葺不合尊(ウガヤフキアヘズノミコト)
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神武天皇
これまでの第1回~第6回の記事
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◆ 神武天皇の誕生
神武天皇(生没年未詳)は、ご幼名を狭野命(サノノミコト)、初代天皇にご即位するまでは、神倭伊波礼毘古命(神日本磐余彦天皇)(カムヤマトイハレビコノミコト/スメラミコト)、死後に贈る諱(いみな)は、彦火火出見(ヒコホホデミ)と申されました。
鵜草葺不合尊(ウガヤフキアヘズノミコト)の第四皇子で、母は玉依姫命(タマヨリヒメ)と言いました。記紀では、天照大御神から五代目の御孫で、ニニギノミコトの曾孫(そうそん)(ひまご)にあたるとされています。
神武天皇は九州の日向(ひゅうが、ひむか)に生まれ、五瀬命(イツセノミコト)、三毛入野命(ミケイリヌノミコト)と稲飯命(イナヒノミコト)の3人の兄とともに育ちました。生まれながらにしてご聡明で、武に富み、ご気性もしっかりされ、御年15歳で皇太子に即(つ)かれ、政治(まつりごと)を取られたと伝えられています。
- 天業恢弘東幸の詔
(てんぎょうかいこう とうこうのみことのり)
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)(神武天皇)は、45歳のとき、兄の五瀬命(イツセノミコト)と、日向の高千穂宮(たかちほのみや)に居て相談し、別の皇兄や子ども達に言いました。
(神武天皇は即位後の名称なので、即位まではイワレビコ(神武天皇)と表記)。
はるか昔、天津神(あまつかみ)と高皇産靈尊(タカミムスヒノミコト)と大日孁尊(オオヒルメムチノミコト)(=天照大神のこと)は、この豊葦原瑞穗国(とよあしはらみずほのくに)(=日本のこと)を、天祖(あまつみおや)の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に授けられた。ただし、ニニギノミコトが地上に降りられた当時の世は、まだ未開であった。
そうした暗い世の中にあって、民たちに一つ一つ教えながら正しい道を養い(養正)、この西方の地を治められた。わが皇祖は、神であり聖なる存在でした。結婚や出産などの祝い事の慶(よろこび)を積み(積慶)、皇威(こうい)は輝き、徳の暉(ひかり)を重ね(重暉)、悠遠の年月が経った。
天祖(あまつみおや)が降臨されてから、百七十九万二千四百七十余年(179万2470年程)の長い年月が経ち、その間、神代三代(瓊瓊杵尊ニニギノミコト、その子の彦火火出見尊ヒコホホデミノミコト、その子の鵜葺草葺不合尊ウガヤフキアヘズノミコト)は、日向地方をご統治なされ、民にとって安寧と幸福が積み重なる御代であった。
ただし、遠くの土地では、まだ皇威が及んでいなかった。その地の邑(ゆう)(大きい集落)や村(小さい集落)には、それぞれ長(おさ)がいて、互いに争っている。どこの地を都とすれば、平安に天下を治められようか?
(海の神で、知恵を授け、製塩の神さまでもある)塩土老翁(シオツチノオジ)のいうには、東の方に、美しい国がある。青山を四方に囲まれて、そこに、高天原から天磐船(あまのいわふね)に乗って飛んで、降りてきたが者があるという。
思うに、その地こそが、天下に威光を輝かせ、高天原の理想を実現(=天業恢弘)する地にふさわしい場所で、六合(クニ)(東西南北上下)の中心となるだろう。その飛んで、降りてきた者とは、高天原の饒速日(ニギハヤヒ)に違いあるまい。東へ向かい、美き地(よきくに)である大和(やまと)(奈良)へと行って、都にしようではないか。
皇子たちは答えていいました。
「もっともなことです。わたしたちもそう思っていました。早く参りましょう」
- 神武天皇の東征
こうして、東方を目指すことを決意したイワレビコ(神武天皇)達は、日向を出発します。先ず陸路北へ進み、美々津の港から船出されました。皇軍の向かうところ「風雲自ら静謐(せいひつ)」となり、速吸之門(はやすいなと)(豊予海峡)から、菟狭(うさ)(宇佐)、筑紫(つくし)(福岡)、安芸(あき)(広島)、吉備(きび)(岡山)などに立ち寄ったあと、浪早(なみはや)の渡り(大阪難波なにわ)に到着しました。そこから、淀川を溯上、河内国草香邑(かわちのくにくさかのむら)に上陸し、生駒山(いこまやま)を越えて大和(やまと、奈良)に向かおうとしました。
しかし、河内国で、生駒山の要害に拠る土豪の長髄彦(ナガスネヒコ)の抵抗にあい、大和入りを果たすことはできませんでした。この戦いで、皇兄の五瀬命(イツセノミコト)が長髄彦から矢を受けて負傷してしまいました。
この時、イワレビコ(神武天皇)は、「私は日神(ひのかみ)の御子なのに、太陽に向かって戦ったために敗れてしまった。この後は、太陽を背中にして戦うために、紀伊国に迂回しよう」と言われました。
そこで、皇軍は再び海に出て、紀伊半島を南に迂回し、熊野(和歌山・三重の南部)から北上、大和に入ることを目指し、男之水門(おのみなと)(和歌山市小野町または大阪府泉南市)に上陸しましたが、ここで、五瀬命が薨去(こうきょ)され、竈山(かまやま)の地(和歌山市和田の竈山神社)に葬られました。また、熊野灘では、海上暴風のために、皇兄三毛入野命(ミケイリヌノミコト)と稲飯命(イナヒノミコト)が遭難され、幾多の将兵とともに、相次いで亡くなりました。
苦戦艱難(かんなん)は続きます。熊野に上陸を果たした皇軍でしたが、丹敷戸畔(ニシキトベ)との戦いでは、熊野の神の攻撃で、毒気(あしきいき)に当たり、イワレビコ(神武天皇)をはじめ全軍が気を失って倒れてしまったのです。大きな熊が草木の中から見え隠れした直後のことでした。
この危難を救ったのが霊剣、韴霊(ふつのみたま)でした。この剣は、地元の高倉下(タカクラジ)という人物が霊夢で天照大神(アマテラスオオカミ)から授けられ、神武天皇に奉じたとされる剣です。
そのとき、高倉下が一振りの横刀(たち)を持って、天つ神の御子(イワレビのこと)の倒れている所に来て、その横刀を献上したところ、天つ神の御子はたちまち目覚められました。そして、神武天皇がその横刀を受け取られたときに、その熊野の山の荒ぶる神々は、自然とみな切り倒されました。すると、気を失って倒れていた軍隊もことごとく目覚めました。そうして、皇軍は丹敷戸畔(にしきとべ)を打ち破ったのでした。
神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレビコミコト)(神武天皇)は、その横刀を得た仔細をお問いになられたので、高倉下は、自分の夢の内容を話しました。
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天照大御神と高木神(たかぎのかみ)(高皇産霊神)の二柱の神が、建御雷神(タケミカヅチノカミ)を召して、「葦原の中つ国はたいそう騒がしい。我が御子たちは困っているようだ。その葦原の中つ国は、もっぱら汝が平定した国である。そこで、汝が降りて再び平定せよ」とのご命令をお下しになった。すると、建御雷神は「私が降らずとも、もっぱらその国を平定した横刀があります。この刀を降しましょう」と答えました。
そして、建御雷神は、今度は高倉下に向かって、次のように命じたと言います。
「私が、高倉下の倉の屋根に穴を開けて、そこからこの刀を落とし入れよう。そこで、朝、目が覚めたら、この刀を持って、天つ神の御子に献上するのだ」
高倉下は、朝目覚めて自分の倉を見に行ったところ、ほんとうに横刀を見つけたので、「この横刀を持って献上しました」と答えました。なお、霊剣・韴霊(ふつのみたま)は、天理(奈良)の石上神宮(いそのかみじんぐう)の祭神となっています。
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さて、丹敷戸畔(にしきとべ)を倒した後、皇軍は、大和(奈良)を目指そうにも険しい山のなかには道もなく、一行は進むことも退くこともできず迷ってしまいました。すると、その夜、今度は神武天皇が霊夢を見ました。
高木大神(たかぎのおおかみ)(=高皇産霊神)が「天つ神の御子、ここより奥の方には入りなさるな。荒ぶる神がたいそう多くいる。いま、天より八咫烏(やたがらす)を遣わそう。その八咫烏がお前を導くだろう。その案内する後から行け」と命じました。イワレビコ(神武天皇)は、道案内のための八咫烏を与えられたのでした。
そこで、その教えのままに、八咫烏の後からお行きなさったところ、吉野川の上流に着くことができました。こうして皇軍は、八咫烏(やたがらす)の導きで無事大和(奈良)の宇陀(うだ)に出ることができ、その後、大和の土豪を平定し、生駒山の麓の石切の日下で、最後に強敵の長髄彦(ナガスネヒコ)と激戦を交わしました。
- 長髄彦との戦いとニギハヤヒの帰順
長髄彦(ナガスネヒコ)との戦いが長引き、皇軍が苦戦していると、空が突然暗くなり、雹が降ってきました。そこへ、一羽の金色の鵄(とび)が飛来し、神武天皇の弓の先に止まりました。すると、鵄は光り輝き、ナガスネヒコの軍は、目がくらみ、戦えなくなってしまいました。
そこで、長髄彦は、イワレビコ(神武天皇)に使者を送り、「わが主は天つ神の子だが、どうしてそなたは、天つ神の子と名乗って、この地を奪おうとするのか?」と問いました。ナガスネヒコ(長髄彦)は、大和の支配者だった「饒速日命(ニギハヤヒノミコト)」に仕えていました。ニギハヤヒノミコトは天つ神の子で、天の磐船(あまのいわふね)に乗って、天から大阪の地に降り立ちました。ナガスネヒコ(長髄彦)の妹、「登美夜毘売(トミヤヒメ)はニギハヤヒと結婚し、ナガスネヒコは、ニギハヤヒノミコトについたのでした。
イワレビコ(神武天皇)は「天つ神(あまつかみ)の子はたくさんいる。饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が天つ神の子なら、証拠を示せ」と答えると、ナガスネヒコは、ニギハヤヒの「天羽羽矢(あめのはばや)」と「歩靭(かちゆき)」(=弓矢とそれを収める筒)見せ、ニギハヤヒが天神の子であることを証明しました。これに対して、イワレビコ(神武天皇)も「天羽羽矢」と「歩靫」をナガスネヒコに見せて、自分が天つ神の子であることを示しました。
ナガスネヒコは、イワレビコ(神武天皇)が天つ神の子であることを知って畏れ、ニギハヤヒも、イワレビコ(神武天皇)を天孫(天照大神の子孫)と認めて国を譲ろうとし、ナガスネヒコに降伏するよう勧めました。しかし、長髄彦(ナガスネヒコ)は、それでも従おうとしませんでした。そこで、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)はナガスネヒコを討ち、皇軍に降伏し、イワレビコ(神武天皇)のもとに仕えました。神武天皇も、ニギハヤヒの忠誠を喜び、ニギハヤヒが天つ神の子であることを知っていたため尊重しました。
こうして神武天皇は、いくつもの危難を乗り越えてついに大和(やまと、奈良)を平定しまし、畝傍山(うねびやま)の麓の橿原(かしはら)に宮殿(橿原宮)を建て、初代天皇として即位するのです。
- 神武天皇の御即位
「即位建都の大詔(おおみことのり)」は、神武天皇即位前2年、天業恢弘東幸の詔から6年の後、神武天皇が橿原の地に都を定め、即位されるに当たって下された御詔勅です(意訳)。
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われが東征に出発して、6年になる。天津神の霊威によって、中洲之地(うちつくにのところ=大和の国)は平穏となり、皇都(みやこ)を広く定め、大きな宮殿を造ることにしよう。国はまだ出来たばかりで若く、民(おほみたから)は純朴で天真な心を持っている。今もし民の福利なることを行うことは、聖君の政治の在りようというものだ。
そこで山林を開き、宮殿を造り、慎んで皇位に就き、民を安らかにしよう。上には、乾靈(あまつかみ=天津神)によりこの国を授けられた徳に報い、下には、皇孫がこの国に降り、民の心を養われようとされた御心を弘めて行くつもりである。その後に、六合(くにのうち=天地四方)を一つにして都を開き、八紘(あめのした)(=四方八方)をあまねく一つの家としよう。これもまたよいことでないか。見渡せば畝傍山(うねびやま)の東南の橿原(かしはら)の地は、国の墺(もなか=真ん中)であるから、ここを治めようと思う。
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ここに、辛酉(かのとのとり)の年の1月1日(旧暦)、紀元前660年2月11日(新暦)、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコノミコト)が、畝傍(うねび)の橿原(かしはら)の地に都を定められ、初代の神武天皇として即位されました。古代以来、これが日本の建国とみなされ、この日が建国記念の日(旧紀元節)とされています。
<その後のシリーズ記事>
<参照>
日本神話、神社まとめ
日本の神話(神社本庁)
古事記の神々 饒速日尊
古事記の現代語・口語訳の全文
日本書紀の現代語・口語訳の全文
日本書紀・現代日本語訳(完全訳) | 古代日本まとめ
古事記・現代日本語訳(完全訳) | 古代日本まとめ
古事記 神々と神社(別冊宝島)
Wikipediaなど