日本の思想

 

江戸時代の思想家

 

朱子学は、中国の宋代に興った学問で、理気二元論や封建道徳の肯定を行った。わが国では、林羅山、新井白石などが有名になり、寛政の改革では朱子学以外は禁止されるまでに至った。

 

朱子学は、林羅山が幕府に登用されて以来、江戸時代を通して官学に位置づけられたが、それはその学風が、理気二元論と格物致知(物の理を究めて知を尽くすこと)を説く実践より理性を重んじ封建的身分制を肯定するなど、幕藩体制維持にふさわしい内容であったからである。

 

朱子学はその大義名分論の立場から天皇を尊ぶ思想を持っており、(徳川光圀により)「大日本史」を編纂した水戸藩では尊王思想を軸とする水戸学形成されて、幕末の尊王攘夷論に影響を与えた。

 

 

陽明学は、中国の明代の王陽明が説いた学問であり、真の「良知」を行うのに拙速であってはならず、知行合一をモットーとし社会的実践も重視した。わが国では、中江藤樹や大塩平八郎が代表的な人物である。

 

(日本で)中江藤樹によって確立された陽明学は、現実の矛盾に目を向けようとする革新性を内包しており(現実を批判して矛盾を改めようとする革新性のために体制批判とみなされ)、幕府から警戒された。

陽明学は、知と行を一体として実践を重んじる(知行一致)。

 

中江藤樹は、孝を単なる父母への孝行にとどまらず、すべての人間関係の普遍的真理としてとらえ、陽明学の考え方を取り入れ、すべての人間に生まれつき備わっている道徳能力としての「良知」を発揮することが大切だと説いた。

 

 

伊藤仁斎に代表される古学派は、中国の学派の解釈に頼らず、直接に孔子・孟子の教えに触れるべきだと考えた。また、同じく古学派の荻生徂徠は、学問は「世を経(おさ)め民を救う」ためのものであると説いた。

伊藤仁斎は京都で堀川学派と呼ばれ町人に儒教における孔子、孟子の学問を教えた。

 

山鹿素行や伊藤仁斎を中心とする古学派は、朱子学・陽明学を批判して直接、孔子・孟子の古典に基づくことを主張するもので、古典の研究を重視するその学問方法は後の国学の勃興に刺激を与えた。

元禄時代に始まった古典の研究は、「古事記」「日本書紀」を研究する国学へと発展した。

 

古学派の荻生徂徠やその弟子の太宰春台は、政治・経済にも関心が深かった。

荻生徂徠は5代将軍綱吉の侍医の子で、政治顧問として幕府に仕えた。弟子の太宰春台は、徂徠の武士の土着を説いた経世論を発展させた。

 

 

 

国学は、賀茂真淵によって、儒学を基本にしながらわが国の古代の考え方や感じ方が体系的な思想にまとめ上げられ、さらに、本居宣長が「古事記伝」や「国意考」を著したことによって完成した。

 

佐久間象山らの朱子学者は、西洋の実証的科学知識(西洋の科学技術)を取り入れて、国力の充実を図ろうと考えたが、佐久間象山は、京都で暗殺された。

 

 

 

二宮尊徳は、「報徳思想」に基づき、自己の経済力に応じて一定限度内で生活する「分度」と、分度によって生じた余裕を将来のために備えたり、窮乏に苦しむ他者に譲ったりする「推譲」をすすめた。

二宮尊徳は、農村の指導者として農村の復興に活躍した。

 

 

安藤昌益は、武士など自分で農耕に従事せず、耕作する農民に寄食しているものを不耕貧食の徒として非難し、すべての人がみな直接田を耕して生活するという平等な「自然(しぜん)世(せい)」への復帰を主張した。

 

本居宣長は、古今集などに見られる女性的で優美な歌風である「たをやめぶり」を重んじ、「もののあはれ」を知り、「漢(から)意(ごころ)」を捨てて、人間が生まれつき持っている自然の情けである「真心」に立ち戻ることを説いた。

 

荻生徂徠は、儒学の本来の教えをくみ取るには中国古代の言葉から理解すべきだと主張して、「古文辞学」を大成し、儒学における道とは道徳の道ではなく、いかに安定した社会秩序を実現するかという「安天下の道」であると説いた。

 

 

 

明治時代以降

 

福沢諭吉は、米国から帰国した森有礼の発議で創設された明六社の一員として、文明開化を推進した。

 

明治の代表的啓蒙思想家である福沢諭吉は、西洋の科学技術を発展させ実学の必要性を強調した。福沢の思想は何よりも、個人の自立・独立心を大事にすることであり、独立自尊の個人となるためには、天賦人権論に基づく個人の自覚と、合理的・実用的な学問が不可欠であると力説した。

 

中江兆民は、「東洋のルソー」と呼ばれ、自由民権運動の理論的指導者として活躍した。著書「民約訳解」において、民衆は「恢複(回復)的民権」をめざすべきことを説いた。

 

中江兆民は、フランスの啓蒙思想の影響を受けて、ルソーの「社会契約論」を翻訳し、これを「民約論」と名づけた。

 

明治の思想家、自由民権論者である中江兆民は、「仏学塾」を開き、また、活発な言論活動を展開して急進的民主主義理論の鼓吹と普及に努めたが、特に、ルソーの「社会契約論」を翻訳し、自由民権運動に深い影響を与えた。中江は、自由・平等・友愛の三大原則に基づく民主共和制を理想として求めた。

 

 

内村鑑三は、著書「武士道」において、理想的な自己のあり方を追求した。

内村鑑三は、信仰が「実験」すなわち実体験であることを強調し、キリスト教の神の前に立つ一人の人間として内面的独立と平等を説くとともに、教会や儀礼を排した聖書のことばによる信仰を重んじて無教会主義の立場をとった。

 

内村鑑三は、無教会主義を提唱したわが国の代表的なキリスト者であり、2つのJ(Jesus Japan)に従うという信念を抱いており、キリスト教の立場に立った愛国者でもあった。また、日露戦争に際して、主戦論を説く世論に抗して非戦論を唱えた。

 

夏目漱石は、どこまでも個性を尊重する?「自己本位」の立場を説いた。

 

森鴎外は、自らは「永遠の不平家」と評し、日々のささいな仕事に全力で取り組む「諦念(レジクナチオン)」の境地で生きることを理想とした。

 

吉野作造は、天皇主権の大日本帝国憲法の下では、主権在民を主張することはできないが、憲法の運用を工夫することによって民衆の意向を尊重し、デモクラシーに近づくことは可能であると考えた。民本主義を主醸した。

 

柳田国男は、一般庶民(常民)の生活・風習、受け継がれてきた民間の伝承の調査・研究を通して、日本の伝統文化を明らかにしようとした。日本の民俗学の創始者とも言われた。

 

 

和辻哲郎は、個人としての自己の主張と当時の日本の在り方の両者の現状を同時に容認するとももに、著作「古寺巡礼」の中で自らの心境を「大きな自然」のなかに自己を溶け込ませていく過程に中に安定をなぞらえた。

 

日本の代表的な倫理学者である和辻哲郎は、西洋思想を批判的に受容した独創的な倫理学の体系を築き、また、日本の文化や精神あるいは世界的視野での風土と精神のあり方など、幅広い学問活動を行った。和辻は、西洋近代思想が社会や人間関係をもっぱら個人や自我の独立を中心にして考察していく点を批判した。

 

 

岡倉天心は、西洋崇拝の風潮に対抗して、日本固有の物質的、精神的伝統のよいところを重んじる国粋主義を唱え、日本美術院を創立するなどして、日本美術の復興と海外に対する紹介に力を尽くした。

 

折口信夫は、釈超空の筆名で歌人として活躍するとともに、わが国の神の原型は豊穣の世界である「とこよのくに(常世国)」から定期的に村落に訪れる「まれびと(客人)」であるとし、地球規模で習俗の比較を試みた。

 

西田幾多郎は、著書「禅の研究」において、独立した自己(主観)が、自己の外にある対象(客観)を認識するといった、主観と客観との対立を前提とした西洋近代のものの見方を批判した。そして、哲学の出発点を、主観と客観とに分かれる前の「純粋経験」に求めた。

 

西田幾多郎は、ヘーゲル的な科学観など西洋哲学の移入に努め、これに禅などの東洋や日本の伝統思想を加味して、自己を純粋経験と呼ばれる「真の自己」と一致させることが人格の実現であると説いた。

 

西田幾多郎は、近代日本の代表的な哲学者で、いわゆる「西田哲学」の創始者である。西田は、主観(認識する自己)と客観(認識される対象)を対立的にとらえる考え方を否定し、西洋哲学に特徴的な人間経験の最も根本的なものは、主客未分の純粋経験であるとする考え方を主張した。

 

森有礼は、江戸時代の封建的な制度や思想を批判するとともに、西洋の社会科学や自然科学を導入することの重要性を強調し、西洋の新しい文明思想を紹介するために明六社と呼ばれる団体を結成した。

明六社は、明治初期の啓蒙思想団体で、1873(明治6)年に森有礼が発起人となり、西村茂樹、西周、加藤弘之、福沢諭吉らが参加して、欧米思想の普及に努めた。

 

西村茂樹は、「日本道徳論」を著し、文明開化以来、西洋思想の急激な流入に対して慎重論を唱えるとともに、日本独自の伝統である忠と孝を徳目の中心としてとらえ、所属する組織の年長者への忠誠を説いた。

 

大正・昭和期の哲学者である和辻哲郎は、ヒューマニズムの立場からマルクス主義に接近した。日本における歴史哲学の開拓者としての三木は、ディルタイ、ハイデッカー、マルクスの思想を摂取しつつ、この世界が主体と客体、ロゴスとパトスの弁証法的統一の過程であることを明らかにしようとした。