東京の神田祭は、京都の祇園祭、大阪の天神祭とともに「日本三大祭り」の一つであり、また、山王祭りと深川八幡祭りとともに「江戸の三大祭り」の一つでもあります。今回は、神田祭りを中心に江戸の三大祭りについてまとめてみました。
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<神田祭>
- 神田祭りとは?
神田祭は、江戸総鎮守「神田明神」(神田神社)の祭礼で、江戸時代から続く祭事として2年に一度、5月に執り行われます。実際、神田祭には、奇数の年に行われる「本祭(ほんまつり)」と、偶数の年に行われる「蔭祭(かげまつり)」の2つがありますが、一般に神田祭というと賑やかな本祭を指します。本祭りと蔭祭りとの違いは神輿がでるかどうかです。ですから、神田明神の大祭は、下町、現在の神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸ノ内など108氏子町の江戸っ子たちが神輿を競い合う祭りとも言えます。この神輿の出る本祭りは、山王祭と隔年で行われます(これが、神田祭が「2年に一度」行われる理由)。
また、もともとは9月15日に斎行されていた秋の祭りでしたが、嵐による被害が発生し、明治になって比較的天候の安定している5月に行われるようになったとされています。
- 神幸祭
神田祭の見どころは、平安装束(平安時代の皇族が来ていた衣服)をまとった500人ほどの行列「神幸祭(しんこうさい)」。神幸祭は神田明神を出発し、秋葉原の電気街や丸の内・大手町のオフィス街を通って、また神田明神へと戻ります。
神幸祭では、神田明神の周辺地域を守る神々が3つの神輿、すなわち、祭神である大黒さまを乗せた「一の宮鳳輦(いちのみやほうれん)」、恵比須さまを乗せた「二の宮神輿(にのみやみこし)」、平将門を乗せた「三の宮鳳輦(さんのみやほうれん)」をはじめ、諫鼓山車(かんこだし)や獅子頭山車(ししがしらだし)などからなる1000人規模の大行列が、氏子の108町会を巡ります。
また、祭りに繰り出される大きな曳き物も、神幸祭の見どころの1つです。曳き物(ひきもの)とは、「日本の祭りでおもに男性たちが担いだり、引いたりする大きな車のようなもの」です。曳き物をひく人々の一団は、附け祭(つけまつり)と呼ばれています。登場する曳き物と附け祭は年によって異なります。
- 神輿宮入と例大祭
神幸祭の翌日には、氏子町が町神輿を競い合う祭りの華、「神輿渡御」(渡御とは「おでまし」のこと)があります。神田神社周辺の町から、大小100基以上の町神輿が町に操り出され、神田明神に向かいます(これを「(神輿宮入みこしみやいり)」と呼ぶ)。
5月15日、祭りの締めくくりとして最も重要な神事である例大祭が執り行われ、平和と繁栄が祈願されます。「巫女舞」の奉納もあります。
- 神田祭の由縁
神田祭は、将軍が上覧する「天下祭」とも呼ばれます。かつて、例大祭が行われた9月15日は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康が神田明神に戦勝を祈願して勝利した日でした。
これに気をよくした家康は、1603年に江戸幕府を開くと、神田明神を、幕府の尊崇する神社とし、大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼした後の1616年には、江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に、神田明神を遷座させました。その際、家康は壮大な社殿や神輿を寄進しています。こうした支援により、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府だけでなく江戸庶民にいたるまで篤い崇敬を受ける神社となりました。神田明神で行われる神田祭りが現在のような盛大なものになったのも、関ヶ原以降、縁起の良い祭礼として、絶やすことなく執り行うよう、幕府より命ぜられたからだとされています。
こうした背景から、神田祭の起源は、1600年に家康が関ヶ原合戦に勝利した日に因むという見方もありますが、神田祭は関ヶ原より前から行われていたので、この説は厳密には正確でありません。
では神田祭りはいつから始まったのでしょうか?ある江戸初期の記録には、神田祭りの起源は「平将門伝説」にあると書かれているそうで、江戸庶民の間で浸透していきました。
数ある「将門伝説」の一つに首塚伝説があります。940年、天慶の乱(平将門の乱)で敗れた平将門の首は切り取られ、京都で晒されていましたが、その首が「我に躯(からだ)を与えよ。もう一戦せん」と歯軋りして、夜な夜な叫び続けました。そしてある夜、将門の首は突然、舞い上がった後、白光を放って、胴体のある関東(下総国)に向かって飛び去り、武蔵国の江戸で落下したとされています。
その飛んできた将門の首が落ちた地点は、武蔵国豊島郡(東京都千代田区大手町)で、当時の神田明神だった付近(いまの将門塚)でした。落ちてきた将門の首を見た土地の人々は、祟りを恐れて、境内に祠を建てたのが神田明神の始まりというのです。
<参考>
神田明神:平将門との浅からぬ因縁…
平将門の伝説:将門は怨霊か?守り神か?
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では、神田祭以外の江戸三大祭りとされる山王祭、深川八幡祭についても、簡単に解説します。
<山王祭>
山王祭(さんのうまつり)は、日枝神社(東京都千代田区永田町)の祭礼です。山王祭の氏子域は、現在千代田区、新宿区(四谷)、港区(新橋)、中央区などを含む江戸一番の広さで知られていました。そのため、祭りの列が江戸城まで入ることを許され、将軍の上覧も賜りました。日枝神社が徳川将軍家の産土神(うぶすながみ)として信仰されてきたこともあり、山王祭は、神田祭同様、天下祭とされています。
山王祭は「例大祭」を中心に夏越の祓(なごしのはらえ)や稚児祭なども含み、6月中旬に行われます。山王祭でも、最大の見どころは「神幸祭」で、御鳳輦(ごほうれん)2基、宮神輿1基が、王朝装束をまとった神職・氏子ら500名を伴い、東京一広い氏子町会を巡幸します。王朝絵巻のような宮神輿や装束の巡行は、山王祭を代表す行事です。また、日本橋、京橋、八丁堀、茅場町が連携し、神輿12基を繰り出し、約3000人が結集して下町を練り歩く、「下町連合渡御(したまちれんごうとぎょ)」も、祭りの見どころの一つです。
こうした大規模な祭りを毎年行うのは大変ということで、1681年、山王祭と神田祭の本祭りが1年おきに交互に斎行されることになり、その慣習は現在も続いています。
<深川祭(深川八幡祭)>
深川八幡祭(ふかがわはちまんまつり)は、富岡八幡宮(東京都江東区深川)の例大祭で、江戸幕府の命により始められた約370年の歴史を誇る伝統の祭りです。1642年に、徳川家光が長男である家綱の誕生を祝う世継ぎ祝賀が江戸庶民とともに行われたことが契機となりました。祭りのルーツが幕府の命であることから、天皇陛下に関連がある年には、皇居の前まで神輿を担ぐということもあるそうです。
深川祭りは、毎年8月15日前後に開催されます。沿道では、暑さ対策のために担ぎ手に水をかけて冷やす習慣があるため、「水かけ祭」とも呼ばれています。祭りの中でも見どころなのは、「神輿深川、山車神田」といわれたように、三年に一度行われる本祭の神輿渡御(神輿振り)だとされています。神輿の数は120数基を超え、中でも54基の大神輿が勢揃いし、深川の町を練り歩く「連合渡御」が圧巻だそうです。
なお、神田祭りと山王祭りに、深川祭りではなく、三社祭りを加えて、江戸の三大祭りとする場合もあるようです。
<三社祭>
三社祭(さんじゃまつり)は、浅草神社(東京都台東区浅草)の祭で、1312年に初めて開催された古い歴史を持っている祭りです。正式名称は浅草神社例大祭と言われます。祭りは、通常5月に3日間行われます。
三社祭の神輿は「喧嘩神輿」といわれるほど激しく神輿を上下左右に動かしますが、これを「魂振り(たまふり)」と言います。わざと荒々しく揺さぶることで、神輿に坐す神様の霊威を高め、豊作・豊漁や、疫病が蔓延しないことを祈願するそうです。
深川八幡祭りと三社祭りは、山王祭と神田祭が将軍家ゆかりの「天下祭り」に対して、町民の祭りと位置づけられています。ただ、深川祭りが、江戸幕府の命で始まったという経緯から、一般的には、江戸の三大祭りの中に加えられています。
(2021年3月19日更新)
<参照>
「江戸三大祭 日本全国『三大まつり』ガイド」、「暮らし歳時記」、「どこいく」、東京観光財団、各神社の祭りサイト、ウィキペディア、新聞報道記事をまとめました。