諏訪大社「御頭祭」について知れば知るほど、旧約聖書に登場するイサクは、ミシャクジ神のことではないだろうか、という疑問がでてきます。御頭祭についての概略は、すでに「諏訪 御柱祭:感じる記紀以前の土着性」の中でも説明しましたが、今回は、御頭祭に焦点を絞って解説してみたいと思います。
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数ある諏訪大社の祭りの中で、一般的には、「御柱祭(おんばしらさい)」が最も知られていると思われます。しかし、かつては、「御柱祭」とともに、「御頭祭(おんとうさい)」も盛大に行われ、むしろ、「御頭祭」の方が、諏訪大社で最も重んじられていた時代もあったと言われています。ただし、御頭祭では、鹿が生贄(いけにえ)として供えられていますが、基本的に、日本にはない生贄という風習が、なぜ御頭祭では行われているのか疑問が残ります。
旧約聖書の創世記に、アブラハムが神の命令を受けて、ひとり子「イサク」を生贄に捧げようとしたという物語があるのをご存知の方もいるでしょう。実は、このイサク伝承が、諏訪大社に伝わり、「御頭祭(おんとうさい)」で再現されているとの見方があるのです。ではまず、旧約聖書に創世記(22章)に書かれたイサクの話しをもう少し詳しくみてみましょう。
◆イサク奉献の伝承
神はアブラハムに、愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、そこでイサクを「全焼のいけにえ」として捧げよ、と命じられました。アブラハムは、苦悩しましたが、結局その命令に従い、モリヤの地に向かいました。そこに着くと、アブラハムはイサクを縛り、たきぎの上に横たえ、小刀を振り下ろそうとした時、主の使いが、彼の手を止めました。神はイサクの信仰の深さを試さたのでした。
また、神はアブラハムに、近くの「やぶに角をひっかけている一頭の雄羊」を示されました。アブラハムはその雄羊を、イサクの代わりに、全焼のいけにえとして捧げました。こののち、神はアブラハムを祝福し、ひとり子イサクを通してその子孫は繁栄しまた・・・。
では、諏訪大社の「御頭祭(おんとうさい)」とはどういうお祭り(神事)であったのか復習してみましょう。
◆かつての御頭祭
御頭祭は、かつて、諏訪大明神(諏訪大社の祭神タケミナカタノカミの別称)の子孫(生き神)とされる「大祝(おおほおり)」が神事を行い、大祝の代理として、「神の使い」としての役割を持った「神使(おこう)」と呼ばれる選ばれし童子が、信濃国中を巡って豊作祈願するために大社を出立するという形式で行われたとされています。
しかし、御頭祭(おんとうさい)の様式は時代とともに変遷を遂げており、さらに古い時代の儀式は、次のような形式をとっていました。
「神使(おこう)(御神とも書く)」は、「生け贄」のために、鹿肉を大量に串刺しにした「御贄柱(おにえばしら)」と呼ばれる柱に縛りつけられます。その後、人々が「神使(おこう)」を柱ごと、竹のむしろの上に押し上げると、ここで小刀が現れ、神官が御子(神使(おこう)をその小刀で刺そうとした瞬間、馬に乗った諏訪の国司の使者が登場して、御子は救われ、解放されます。
この「神使(おこう)」の風習は、今日の御頭祭ではもう見られなくなりましたが、江戸時代頃まではあったそうです。
そうすると、童子(神使)が、縄で縛られ、竹のむしろの上に置かれるあたりは、イサクが縄でしばられて、たきぎの上に置かれた光景と同じです。また、アブラハムがイサクを小刀で葬ろうとしたように、御頭祭の儀式では、「神使(おこう)」のもとにも小刀が出てきて、神官がこの御子を小刀で刺そうとするのです。
さらに、最後の段階で、旧約聖書では「主の使い」が現われた後、イサクは生け贄になることから免れたと同様に、童子(「神使(おこう)」)が刺されようとした瞬間、馬に乗った諏訪の国司の使者が現れて、御子は解放されて祭りは終わります。
加えて、御頭祭(おんとうさい)が、今も普通の神道行事とは異なる「奇祭」と言われる所以(ゆえん)は、現在では剥製が使用されているとは言え、かつては、神事の際、生きた鹿がその場で殺され、生贄として、鹿(の頭)が75頭も供えられていたというのです。
中世の時代には鹿が丸ごと捧げられていた時代もあったそうです。「御頭祭」の名前もここから来ています。動物のいけにえの風習のなかった日本においては、この諏訪の鹿のいけにえの風習は、たいへん奇異に見られていたというのは当然です。しかし、御頭祭が、旧約聖書の「イサクの伝承」からきていると言われれば、納得されるかもしれません。
- 耳裂鹿の伝承
ただし、旧約聖書の伝承では、少年イサクの代わりに生贄にされたのは鹿ではなく羊です。日本にはもともと羊がいなかったからとの見方もありますが、羊でなく鹿であった理由は、諏訪の土着神の一柱、千鹿頭神(チカトノカミ)に関係がありそうです。チカトノカミの父神が鹿狩りの際、1000頭の鹿を捕獲したという逸話から、その子が千鹿頭神と名付けられ、狩猟神として諏訪の人々に親しまれてきました。この諏訪の古来からの伝承の影響で、御頭祭に鹿の頭が供えられるようになったとも解されます。
また、御頭祭で生贄にされた75頭の中に必ず一頭は耳の裂けた鹿がいたとされています。その鹿は、”神さまの矛にかかったもの”と信じられ、特別視されました。この鹿は、「高野の耳裂鹿(みみさけしか)」と呼ばれ、諏訪大社の七不思議の一つに数えられています。
しかし、これも旧約聖書のイサク伝承にあったように、息子のイサクが解放されると、アブラハムは、「角をやぶにひっかけている一頭の雄羊」を発見し、その羊を生贄に捧げるという記述があります。その羊は「神が獲ったもの」とみなされており、イサク伝承の「角をやぶにひっかけている雄羊」と御頭祭の「(やぶにひっかけて)耳の裂けた鹿」とのつながりも見いだせます。
◆「モリヤ」という名称
このように、かつての諏訪大社の御頭祭は、旧約聖書の「イサクの伝承」そのものであったと言うことができます。また、アブラハムがイサクを生贄に捧げようとした場所も、「モリヤの地」と呼ばれた小高い山であったように、御頭祭が行なわれている諏訪大社は、守屋山(モリヤ山)のふもとに位置しています。
実際、諏訪大社の神事は、モリヤの地(守屋山)で行なわれ、モリヤ家が主宰しています。「守矢(モリヤ)家」は、諏訪大社の御頭祭を司る「神長」(のちに神長官(じんちょうかん))という筆頭神官の位を古来より、代々世襲し、この地の祭祀と政治の実権を握ってきました(現在、守矢家の御当主は、78代目でご健在です)。
守矢家の祖先神は、伝承では「洩矢神(守矢神)(モリヤの神)」で、守屋山(モリヤ山)に祀られています(「洩矢神」は”もれやのかみ”と読まれることもある)。「モリヤ」という名は、このように、守屋山、洩矢神(守矢神)、守矢家というように、継承されています。ちなみに、イサクの物語の舞台となった「モリヤ」は、現在のエルサレムに当たるそうです。
◆元はミシャグチ神の祭りか?
一方、現在の諏訪大社の祭神は、出雲神話で有名な大国主命の子である建御名方神(タケミナカタノカミ)と、その妃・八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)で、それぞれ上社本宮と前宮の主祭神です。
しかし、タケミナカタの神が、諏訪に侵攻してくる以前(出雲神話では、タケミカヅチの神との力競べに負けて逃げてくる以前)、長きにわたり、この地方で民衆が古くから信仰している諏訪大社の神は、諏訪の土着神である「ミシャグジ(ミシャグチ)(ミサクチ)神」と言われています。地元の資料にも、「諏訪大社の祭政は、ミサクチ神を中心に営まれている」と記載されています。
なお、前述した守矢氏が受け継いできた神長官(じんちょうかん)という役職は、神事全般を掌握するだけでなく、土着の「ミシャグチ(ミサクチ)」の神霊を呼び降ろするという祭事も担ったとされています(ここでもモリヤ氏が関わっている)。
そうすると、諏訪大社の祭りの歴史を、建御名方神(タケミナカタノカミ)の登場よりも、古い時代から遡れば、諏訪大社の「御頭祭」も、この「ミシャグジ(ミシャグチ)(ミサクチ)神」の祭りであるということもできるかもしれません。
「ミサクチ神」は、漢字では「御佐口神」と書いたり、「三社口神」「御社宮司神」「佐久神」「射軍神」「尺神」などと書いたりしますが、定説ではありません。いずれも当て字で、元来は外来語と解されています。そもそも、ミシャクチ(ミサクチ)という名前そのものが、日本語離れしています。
◆ミシャグチ(ミサクチ)はイサクか?
では、外来語に由来するとなると、神名のミシャグチ(ミサクチ)はどこから来たかというと、イスラエルからと想定されています。ミシャグチ(ミサクチ)は、ヘブライ語系の言語で、ミ・イツァク・ティン=ミ・イサク・チ=イサクになるとの指摘があります(「ミ」は接頭語子音で日本語の「御」に相当、「チ」は接尾語)。
もしこの説が正しければ、ミシャグチ(ミサクチ)神は、イサク神となります。ただ聖書(ユダヤ教)では、人間を決して「神」とは呼びません。しかし、日本(諏訪)では、イサクをイサク神として神格化し、ミシャグチ(ミサクチ)神となった可能性があります。
また、その頃の諏訪の地では、蛇神に対する信仰の色が濃い文化があったと言われています。そうすると、マタノオロチの「チ」が「蛇」を意味すると言われているように、ミシャグチ(ミサクチ)の「チ」は蛇の意であるとの見方もできます。
実際、ミサクチ(ミシャグチ)神そのものも、諏訪の蛇神であるソソウ神やモレヤ(洩矢)神、さらにはチカト(千鹿頭)神など、その土地の他の神々と習合して、龍蛇神や木石の神、狩猟の神という性質を持つようになったと説明されています。
もしそうであれば、ミサクチは、ミサク(イサク)・チで、旧約聖書のイサクを神格化し、蛇神のソソウ神と習合して、ミサクチ(ミシャグチ)神と呼ばれるようになったとも解することができるかもしれません。
いずれにしても、諏訪大社の諏訪大社の「御頭祭」は、ヤハウェ信仰の人たちがイサク伝承を諏訪に伝えたことに始まり、その時点から時を経て、イサクは神格化され、諏訪の神々と習合しながら、現在のミサクチ(ミシャグチ)神の姿に変貌していった可能性が高いと言えます。
では、なぜ、諏訪の地と、イスラエル(エルサレム)が、つながっているのか、また、日本とイスラエルの関係、さらにはユダヤ教と神道の関係は?など、諏訪という信州の地に対する関心がさらに高まっていきます。
<参考記事>
諏訪大社:はじまりは建御名方神?
諏訪 御柱祭:感じる記紀以前の土着性
ミシャグジ信仰:洩矢神と守矢氏とともに
<参照>
諏訪大社の主な年中行事
(諏訪市観光サイト)
天下の大祭…信濃国一之宮「諏訪大社」・御柱祭のご案内
(ちのステーションホテルHP)
諏訪大社に伝わるイサク奉献伝承
(久保有政著/レムナント1997年7月号より)
幻想に彩られた元祖諏訪明神「ミシャグチ」。その意外な正体とは?
(tenki.jp)
諏訪信仰の古き歴史を知る。
(神長官守矢史料館)
(2021年3月16日、最終更新日2022年6月5日)