日本と世界(地図上をクリック)

  • マップ
  • マップ
北アメリカ 南アメリカ 国連 ヨーロッパ アフリカ 中東 アジア 日本 オセアニア
2025年04月23日

ローマ教皇フランシスコの死:その足跡をたどる

ローマ・カトリック教会の第266代教皇フランシスコが、2025年4月21日、亡くなりました。88歳でした。

 

フランシスコ教皇は、アルゼンチン出身で、2013年3月、中南米出身者として(南北アメリカ大陸および南半球から)初めて教皇に選ばれました。欧州以外で生まれて教皇になったのは、シリアで生まれて741年に亡くなったグレゴリウス3世以来、約1300年ぶりのことでした。また、イエズス会の神父としても、初の教皇であったことも話題となりました。

 

さらに、前教皇のベネディクト16世が、2013年2月、高齢を理由に生前退位を表明したことを受けての即位となりました。教皇が自主的に退位するのは、約600年ぶりのことでした。ベネディクト16世は、名誉教皇として、バチカンにいたため、2022年12月に亡くなるまでの10年近く、「2人の教皇」が存在していたことになります。

 

 

◆ フランシスコ教皇の誕生まで

 

フランシスコ教皇は、1936年12月、ムッソリーニのファシスト政権から逃れるため、1929年にイタリアからアルゼンチンに移住した両親の長男として、首都ブエノスアイレスで生まれました。名前はホルヘ・マリオ・ベルゴリオ。

 

神学校・イエズス会

ベルゴリオは工業高校で化学を学び、卒業前にはナイトクラブの用心棒や清掃係として働いたそうです。そんなベルゴリオは、20歳の頃に聖職者の道を志し、1955年から神学校に入りました。その後、1958年に、宣教師フランシスコ・ザビエルらが創設した修道会、イエズス会に入り、哲学を学び、やがて文学と心理学を教えていました。

 

ブエノスアイレスでの宣教

その10年後に司祭として叙階されると、速やかに昇進し、1973年にアルゼンチン管区長に就任しました。聖職者としてほとんどの期間を故郷のアルゼンチンで過ごしたベルゴリオ管区長は、貧しい地区での活動に力を入れ、ブエノスアイレスのスラム街で人身売買の被害者や低賃金の労働者を支援していたと言われています。、

 

一方、第二次世界大戦後アルゼンチンでは、1983年まで軍政が断続的に続きました。とりわけ、1976年から1983年にかけて、何千人もの人が拷問を受けたり、殺害されたりした、いわゆるアルゼンチンの「汚い戦争」状態にありました。その際、ベルゴリオ司祭(フランシスコ教皇)は、軍事政権に対抗することに十分努力しなかったこと、たとえば、軍によって二人の神父が誘拐された事件では、救済に尽力しなかったと一部から批判されたこともありました。

 

それでも、信者や地域社会を支える活動を続け、1992年、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世から、ブエノスアイレス補佐司教に、また、1998年にブエノスアイレス大司教に任命されました。さらに、2001年には枢機卿となり、カトリック教会の行政を担う教皇庁でさまざまな役職に就きました。

 

教皇に選出

ベルゴリオ枢機卿は、2005年に教皇就任を初めて志し、2013年3月に、ローマ教皇に選出されました。その際、教皇として、貧しい人のために尽くした中世のイタリアの聖人「フランシスコ」の名前を選び、貧しい人たちのための教会を目指す考えを示しました。

 

また、これまでの前任者が住んだ使徒宮殿内の華美な住居を利用せず、「精神的な健康」のために共同生活を送る方が良いと述べていたと伝えられています。

 

◆ 教会改革

 

教皇としては異例なその経歴が、ヴァチカンを刷新できるのではないかとも期待されたフランシスコ教皇は、マフィアの資金洗浄疑惑が指摘されたバチカン銀行に調査のメスを入れ、聖職者による児童への性的虐待問題でも外部有識者を含めた委員会を作るなど、カトリック教会の改革を進め、教会の秩序回復に努めました。

 

その一方で、教会がタブーとする同性婚や人工妊娠中絶、離婚などの社会問題では、比較的寛容な姿勢を見せ、「開かれた教会」を目指しましたが、保守派から伝統を破壊したと非難にされ、さらなる改革を求める進歩派からも不十分との批判を受けたときもありました。

 

◆ 地球規模の問題解決に向けて

 

そうした中でも、在任中、世界的に貧富の差が拡大しているとして格差の解消を訴えたほか、難民や移民の保護や気候変動への対応を呼びかけるなど、地球規模の課題解決に向けて積極的に発信してきました。

 

このうち核兵器をめぐっては2017年、バチカンは国家としていち早く核兵器禁止条約を批准しました。フラシスコ教皇は、核兵器の使用に加えて、開発も保有も一切禁止すべきだという歴代の教皇よりも踏み込んだ姿勢を打ち出しました。

 

長崎・広島訪問

2019年にはローマ教皇として38年ぶりに来日し、被爆地・長崎と広島を訪問、広島から発信したメッセージでは、「核兵器は使うことも持つことも倫理に反する」と述べ、核兵器は使用にとどまらず、保有についても「倫理に反する」と踏み込み、核兵器の廃絶を強く訴えました。

 

 

◆ 紛争の平和的解決と宗教間対話

 

さらに、在位12年間に約60か国・地域を訪れたフラシスコ教皇は、各地で続く紛争の平和的な解決を求めただけでなく、宗教間の対話にも力を尽くしました。

 

アメリカ・キューバ

地域紛争の平和的解決のために、フラシスコ教皇は、スペイン語を話すラテンアメリカ出身者として、2014年、アメリカ政府がキューバとの歴史的な和解に歩み寄った際に、国交正常化交渉の開始に向けた動きを仲介し、翌年の国交回復に貢献しました。

 

パレスチナ

また、2014年に、イスラエルのシモン・ペレス大統領とパレスチナ自治政府のマフムード・アッバス議長をバチカンに招き、共に平和のために祈る場を設け、3人で祈りを捧げました。

 

東方正教会

2013年3月にバチカン市国のサンピエトロ広場で開かれたフランシスコ新教皇の就任ミサに、1054年の大分裂以来初めて、東方正教会の主座であるコンスタンティノープル総主教庁のバルトロメオ1世総主教が参加しました。

 

また、2016年2月、フランシスコ教皇は、東方正教会の最大勢力であるロシア正教会のキリル総主教と、キューバの首都ハバナで歴史的な会談を行いました。東西のキリスト教会トップが会談するのは約1000年ぶりのことで、会談後、両者は「乗り越えるべき多くの障害が残っていることは認識しているが、今回の会談が、神の望まれる東西教会再統一に寄与することを願う」との合同宣言に署名しました。

 

ロシアによるウクライナ侵略では、フランシスコ教皇は、2022年3月、自らがキリル総主教とオンライン会議システム「Zoom」を通じて、話し合いを行い、仲介を模索しました。しかし、プーチンの戦争を支持したキリル総主教を、フランシスコ教皇が「プーチンの侍者になるな」と諫めたとされ、両者の関係は致命的に悪化しました。同年6月に予定されていたエルサレムでの2回目の対面会談も、その場で延期となりました。

 

プロテスタント

一方、教皇は、プロテスタントのルーテル派やメソジスト派と対話を持ち、分裂したキリスト教諸教派の一致を目指すエキュメニカルな活動を継続しました。

 

2016年10月、訪問先のスウェーデン・ルンドでルター派(ルーテル教会)の関係者と共にエキュメニカルな祈りの集いに参加、共同の祈りを捧げ、ルーテル世界連盟(LWF)の代表者らと会談した。この行事は、マルチン・ルターが1517年、宗教改革のきっかけとなった「95ヶ条の論題」を発表して500年を、また、同時に、カトリック教会とルター派の対話が1967年に開始されて以来、50年を、それぞれ記念するものでした。

ルーテル世界連盟(LWF)の使節は、2021年6月と2024年6月にも、バチカンを訪問しています。

 

また、フランシスコ教皇は、2017年10月、メソジスト教会とカトリック教会との間でエキュメニカルな対話が始まってから、50年を迎えたことを記念して、バチカンを訪問した世界メソジスト協議会(WMC)の指導者らと会談しました。両教会は、1967年に「メソジスト=ローマ・カトリック国際委員会」を設置して以来、対話のための重要な協力関係を維持しています。

 

 

◆ アジア外交と中国

 

フランシスコ教皇は、約12年の在任中、カトリック教会の信者が比較的少ないアジアや中東なども積極的に訪れ、和平外交を推進しました。

 

アジア外交においては、国境を越えた「人道主義」を強く打ち出しました。即位翌年の2014年、韓国を訪れて「平和のためのミサ」を行い、朝鮮半島の和解を促しました2017年には、ミャンマーに続いて、バングラデシュを訪問した際には、同国に逃れたイスラム教徒少数民族ロヒンギャの難民と面会し、ミャンマーによる迫害に警鐘を鳴らしました。

 

また、フランシスコ教皇は、特に、これまで外交関係のなかった中国との関係改善に強い意欲を示しました。2018年には、司教任命権をめぐり、歴史的な暫定合意を締結しました。

 

中国には推計1200万人のカトリック教徒がいるとされるなか、これまで、バチカンは中国の「政府公認教会」を認めず、中国側が独自に、中国国内のカトリック教会の司教を任命すると破門で応じてきました。暫定合意は非公開のままで、司教任命に際して双方の役割を認める内容とされています。

 

バチカン側が暫定合意で妥協を受け入れたとみられ、中国との関係改善の足掛かりをつくることを優先したものと解れています。しかし、カトリック教徒弾圧が続く中での対中接近には、宗教への介入を強める中国政府に譲歩した結果だとして批判の声も強く上がりました。これによって、中国がバチカンの「お墨付き」を盾に、信者に絶対服従を迫るという懸念がでています。

 

 

◆ 教皇とイエズス会

 

前述したように、フランシスコ教皇は、イエズス会出身の初めての教皇です。教皇のアジア外交は、おひざ元の西欧でキリスト教徒人口が減少する中、新たな地平を開こうとするものでしたが、教皇が、アジア布教の歴史を持つイエズス会出身だったことが大きいとみられています。

 

イエズス会は、1540年、元兵士イグナチオ・デ・ロヨラが教皇パウルス三世の承認を得て創設し、16世紀に日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師フランシスコ・ザビエルで知られています。フランシスコ教皇は特に、17世紀に中国・明朝に仕え、東西文化の懸け橋となったイエズス会の宣教師マテオ・リッチに敬意を抱いていたと言われています。

 

解放の神学

1960年代後半、カトリック教会内で、「キリスト教は貧しい人々の解放のための宗教である」とみなす「解放の神学」が中南米を中心にして支持を広げ、共産主義にも接近していきました。

 

解放の神学は、不正打倒を目的に、キリスト教の思想とマルクス主義社会学を統合した政治勢力ともなり、イエズス会はこの運動を積極的に支えたのです。1970年代に入ると、右派独裁のアルゼンチンなど中南米の軍政と対峙し、イエズス会の聖職者たちは、左翼活動家と共闘するなど、体制批判の尖兵になりました。

 

こうした背景で、ヨーロッパ出身の歴代教皇は無神論を掲げる共産主義を「悪魔」と忌避していたことから、イエズス会は長い間、バチカンから批判的な目で見られていました。共産圏のポーランド出身で「反共」のヨハネ・パウロ2世は、イエズス会を毛嫌いしていたことは有名です。

 

イエズス会と共産主義の関係については明らかではありませんが、ロシア正教会のキリル総主教は、元KGBの諜報員で、「マルクス主義的な汚染」を任務としたされ、解放の神学の「浸透」に貢献したと言われています。

 

いずれにしても、フランスコ教皇は、司祭・枢機卿の時代から、解放の神学に与することはなかったと見られています。むしろ、イエズス会の中には、フランスコ教皇が司祭の時代から「解放の神学」にあまり興味を持っていないと批判する人たちもいたそうです。

 

しかし、フランシスコ教皇の改革志向は、イエズス会の伝統の延長線上にあり、教皇が共産主義の中国に拒否感を抱かなかったのは、中南米出身だったことと無縁ではなかったと指摘されています。フランシスコ教皇は、司教任命権をめぐって、ベトナムとも和解を進めていました。

 

中南米出身者として初めての教皇、イエズス会の神父として初の教皇…など初物ずくめのローマ教皇フランスコは、多様性の時代の象徴的な教皇であったと言えるかもしれません。

 

 

<関連投稿>

カトリック教会:ローマ教皇とバチカン

ロシア正教会とウクライナ正教会:もう一つの戦争

キリスト教(カトリック、プロテスタント、正教会)

 

 

<参照>

フランシスコ教皇死去 ローマ教皇庁 2019年訪日 核廃絶訴え

(2025. 4.22  NHK)

教皇フランシスコ死去 南米からヴァチカンへ……カトリック教会を変えた伝統的な教皇 (2025.422 BBC)

ローマ教皇フランシスコ死去…同性婚・人工妊娠中絶に比較的寛容な姿勢、「開かれた教会」目指す

(2025/04/21 読売オンライン)

ローマ教皇フランシスコ死去 88歳 イエズス会出身初の教皇、その改革と逸話、そして“知の騎士団”の実像

(2025.04.21 coki)

評伝・ローマ教皇フランシスコ アジアで人道外交 中国共産党との「和解」で是非論も

(2025/4/21 産経)

ローマ教皇、ロシア正教会トップを叱責 プーチン氏の「侍者になるな」

(2022.05.08 CNN)

ローマ教皇フランシスコ死去、脳卒中と心不全で 初の中南米出身者

(2025・4・22 ロイター)

教皇がスウェーデン訪問、ルーテル教会代表らとエキュメニカルな祈り

(2016. 10. 31 バチカン放送)

 

むらおの歴史情報サイト「レムリア」