ドイツ騎士団:北方十字軍・フス戦争・プロシアまで

 

過去の投稿で、中世の三大宗教騎士修道会と言われた、マルタ騎士団(聖ヨハネ騎士団)とテンプル騎士団について説明してきました。今回は、最後のドイツ騎士団についてです。聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団とは異なる展開をみせたドイツ騎士団の興亡は、あまり知られていない東欧史を教えてくれます。

★☆★☆★☆★☆★☆★☆

 

  • ドイツ騎士団の成立

 

ドイツ騎士団(正式名称「ドイツ人の聖母マリア騎士修道会」)は、1190年、エルサレム陥落後の第3回十字軍中に創設されました。文字通りドイツ人を主体とする組織でした。聖地エルサレムへ赴いたドイツ人戦士を保護するために、リューベックとブレーメンの商人が、聖ヨハネ騎士団の施設をまねて建てた野戦病院が起源で、1192年に、教皇ケレスティヌス3世に承認されました。

 

テンプル騎士団と聖ヨハネ(ホスピタル)騎士団より創設が遅れた理由は、第1回十字軍はフランス・イタリアが中心で、ドイツでは神聖ローマ皇帝が叙任権問題などでローマ教皇と対立していたので、十字軍に参加した諸侯はわずかだったからです。しかし、第3回十字軍(1189~1192)では、フリードリヒ1世(バルバロッサ)が本腰を入れて参加したことが施設建設のきっかけとなりました

 

野戦病院は、ドイツ諸侯の保護を受けながら発展し、1198年に、テンプル騎士団を模した聖地の警護も行う修道騎士団に改組され、ドイツ騎士団となり、翌年にはローマ教皇インノケンティウス3世により公認されました。当初は、エルサレムに代わる聖地の臨時首都だったアッコンを本拠地にし、1220年にアッコンの北東に位置するモンフォール城を購入して本部としました。

 

ただし、ドイツ騎士団は、聖地ではあまり活動せず、ドイツに拠点を置き、バルト海方面の異教徒に対する北方十字軍に参加し、東方のスラヴ系の地域に進出していました。

 

 

  • 北方十字軍とドイツ騎士団領

 

1193年、ローマ教皇クレメンス3は、北欧・東欧およびバルト海沿岸地域をキリスト教化するための遠征を呼びかけました。カトリック教国であるデンマーク、スウェーデン、ポーランドに加えて、ドイツ騎士団や他の修道騎士団も後に参加しました(これを北方十字軍と呼ぶ)。

 

現在、ドイツからバルト海に沿って東は、ポーランド、バルト3国(リトアニア、ラトビア、エストニア)と続いていますが、当時は様相が異なっていました。まず、バルト海に面した現在のポーランド海岸地方一帯は、地名としてプロイセンと言われていました(ポーランドの支配下にはあった)。なお、この時代のプロイセン人は、後にドイツ帝国を建設するプロイセン人と区別して古プロイセン人と呼ぶことがあります。

 

また、中世のリトアニアは、今と違って、現在のベラルーシ、ウクライナ、ロシアの一部にまたがる広大な領土を保持する大国でした。そして、リトアニアからラトビア、エストニア南部にまたがる地域はリヴォニア(リボニア)と呼ばれていました。

 

さて、北方十字軍の展開ですが、1202年に創設されたリヴォニア帯剣騎士団(リヴォニア騎士団)が、ラトビアからエストニア一帯を征服しました。しかし、プロイセン地方に住むバルト諸部族は強い抵抗を示し、しばしばポーランドに反攻して略奪を行うなど、不安定な状態が続いていました。そこで、このプロイセン人の攻勢に耐えかねたポーランド北部を領するマゾフシェ公コンラートは、1225年にドイツ騎士団を呼び寄せ、プロイセン諸部族に対する防衛を担当させようとしました。

 

ところで、ポーランドに入る前のドイツ騎士団ですが、パレスチナでの十字軍の勢力が弱まり、大きな成果を出せない中、存在意義も失いつつありました。そうした中、1211年、ハンガリー王・アンドラーシュ2世は、ドイツ騎士団に対して、現在のルーマニア中部にあたるトランシルヴァニアに所領を与える代わりに、ハンガリーの領土を異教徒から守る防衛の役割を担うという案をもちかけます。

 

これに応じた騎士団は、ハンガリー国王の配下に入り、活動しました。ところが、自分たちは国王ではなく、教皇に対して忠誠心があることを表明し、ハンガリー王国から独立した領邦国家を形成し始めたのです。この騎士団の動きに警戒心を募らせたアンドラーシュ2世は、1225年、騎士団をトランシルヴァニアから追放しました。

 

ハンガリーから国外追放となったドイツ騎士団が次に向かったのがポーランドでした。マゾフシェ公に招かれドイツ騎士団は、1229年、プロイセン地方における非キリスト教徒の改宗と征服活動に従事する事になりました。ドイツ騎士団は、プロイセン人(プルーセン人)の鎮圧を見返りに、その居住地域を共有する権利を認められ、1230年に、彼らを征服した後、バルト海南岸のマリエンブルク(現ポーランドのマルボルク)を本拠地とする宗教的国家、「ドイツ騎士団国ドイツ騎士団領)」の創設に成功しました。

 

その後もプロイセン地域への拡大を続けたドイツ騎士団は、1260年までにプロイセンの過半を支配下に収め、1283年までほぼ平定させました。こうしてドイツ騎士団による13世紀末までにプロイセンの支配を確立させたのでした。

 

さて、ラトビア・エストニアを征服していたリヴォニア(帯剣)騎士団は、現在のリトアニア北西部に位置するサモギティアを巡って、1236年、サモギティア・リトアニア軍との戦い(「ザウレの戦い」)に敗れてしまいました。そこで、ドイツ騎士団は、リヴォニア騎士団を吸収し、勢力を拡大させました(リヴォニア騎士団は以後、ドイツ騎士団内の騎士団として存続)。

 

当時、リトアニアのサモギティアという場所は、プロイセンとリヴォニア(ラトビア・エストニア)の間に位置しました。このため、ドイツ騎士団にとって、この地を征服すれば、ドイツ騎士団国の領土は一つに繋がるので、是が非でも獲得しておきたい場所でした。ですから、ドイツ騎士団は当然、北欧の大国リトアニアと、さらには東欧の大国ポーランドとも継続的に争うことになります。

 

ところで、パレスチナの情勢は厳しく、1291年、十字軍の最後の拠点アッコンが陥落し、十字軍は撤退を強いられると、ドイツ騎士団は、本拠をアッコンからベネチアに移し、他の騎士団らと共に聖地奪回を図ろうとします。ところが、1307年にテンプル騎士団がフランス王フィリップ4世によって壊滅させられたことを知ると、1309年、ドイツに帰国し、プロイセンのマリエンブルク(現ポーランドの北部の都市)を本拠地とすることで、ドイツ騎士団国(ドイツ人国家「騎士団領」)の経営に力を入れることにしました。

 

例えば、1310年頃までに、バルト海に面した港湾都市、ポメレリアとダンツィヒを、ブランデンブルク辺境伯(11世紀にドイツ人が進出して作った領邦)とともに、ポーランドから獲得しました。海への出口を塞がれたポーランドとこの後、対立することになりますが、これで、神聖ローマ帝国と騎士団領を結ぶ事ができました。

 

こうして、ドイツ騎士団領の領域は、現在のポーランド北部から、バルト三国に及ぶ、バルト海南東岸一帯に拡がる領邦国家を形成し、ドイツ騎士団(国)は、バルト海での海上貿易を抑えるなど、14世紀には全盛期を迎えました。

 

 

  • リトアニア=ポーランド王国

 

このようなドイツ騎士団の東方進出に対して、危機感を募らせたのが、当時大国であったリトアニアとポーランドでした。そこで、両国はドイツ騎士団領に対抗するために1386年に合同して、リトアニア=ポーランド王国となりました。

 

きっかけは、リトアニア大公ヨガイラが、ポーランド女王ヤドヴィガと結婚したことでした。しかも、ヨガイラはカトリックに改宗したので、ドイツ騎士団は、リトアニアの異教徒(多神教徒)をキリスト教に改宗させるという戦い(十字軍)という大義名分を失ってしまったのです。そうすると、他のキリスト教国からの人的・物的援助を期待できなくなってしまいます。

 

もっとも、この時期、ドイツ騎士団は、リトアニアにおける内紛に乗じて、念願のサモギティアを得たことで、領土を最大にすることができましたが、ポーランドとリトアニアが同君連合になるということは、ドイツ騎士団国家は両大国に囲まれて、地政学上、極めて不利な状況になりました。

 

1410年7月15日、ポーランド軍とリトアニア軍の連合軍は「ジャルギリス(タンネンベルク)の戦い」でドイツ騎士団に、総長以下、多数の幹部が戦死する壊滅的な打撃を与える大勝利を収めました。

 

その後も、ドイツ騎士団とポーランド=リトアニアとの領土争いは続き、両者は、フス戦争とリトアニア内戦を介しても戦いました。

 

1414年からのコンスタンツ公会議の結果、ボヘミアの宗教改革者フスが焚刑となり、怒ったフス派の信徒が神聖ローマ皇帝ジギスムントに対して起したフス戦争が、1419年から始まると、ジギスムントはドイツ騎士団の協力を求めたのに対して、フス派はポーランド=リトアニアに支援を要請しました。その結果、1433年にフス派軍はポーランドと共にドイツ騎士団領に侵攻して勝利し、バルト海まで攻め込みました(最後は和睦)。

 

また、リトアニア大公国では、1431年から大公ヴィタウタスの死去により、リトアニア継承戦争が起きると、対立する両陣営にそれぞれ、ドイツ騎士団(主力はリヴォニア騎士団)・皇帝ジギスムントと、ポーランド・フス派がつくと、騎士団は再びポーランドに侵攻しましたが、1435年の「パバイスカスの戦い」で、リヴォニア騎士団は大敗してしまいました。

さらに、ドイツ騎士団は、1454から1466年まで続いたポーランド=リトアニア王国との十三年戦争で敗れました。そのため、プロイセンの西側(西プロイセン)はポーランド王国に組み込まれ、バルト海への出口グダニスク(ドイツ名ダンツィヒ)を奪われました。結果として、ドイツ騎士団領はプロイセンの東側(東プロイセン)のみとなり、ドイツ本国と切り離された形となりました。

 

 

  • ドイツ騎士団領からプロイセン公国へ

 

16世紀には、ドイツ騎士団長のホーエンツォレルン家アルブレヒトが、宗教改革を唱えるマルティン・ルターに感化され、カトリックからプロテスタントに改宗しました。その間も続いていたポーランドとの戦いでは相次いで敗れ、1525年4月、ドイツ騎士団はついに、ポーランドに降伏しました。これは、ドイツ騎士団の解体を意味しましたが、ポーランド王ジグムント1世は、実は甥でもあった騎士団長アルブレヒト・ホーエンツォレルンを初代プロイセン公に任命しました。

 

残りのドイツ騎士団領(東プロイセン)もポーランドの宗主下に置かれることになりましたが、結果的にドイツ人国家「ドイツ騎士団領」(西プロイセンと東プロイセン)は、ポーランド王の宗主権の下で、プロイセン公国と生まれ代わりました。(このプロイセン公国が、1701年、ブランデンブルク選帝侯国と合体し、ドイツ帝国の前身となるプロイセン王国に昇格する)。プロイセン公国では、かつてのプロイセンの自治は認められ、その領土の一部は神聖ローマ帝国内に残っていたので、神聖ローマ帝国諸侯の地位を維持しました。

また、ここまで、何とか独立を維持していたリヴォニア騎士団も、バルト海への進出を目指すイワン雷帝のロシアと、リヴォニア戦争(1588~61)を戦い惨敗し、1561年に、ポーランド・リトアニア連合に吸収されました(実際はポーランドの宗主下に入った)。

これで、ドイツ騎士団領は消滅しましたが、ドイツ騎士団は、形式的には存続し、1761年以降はハプスブルク家が、騎士団の総長を務めてきました。しかし、1809年にナポレオンの命令によって軍事的組織としては解散させられ、以後は現代まで、ドイツ騎士団は、慈善団体カトリックのドイツ修道会として、慈善活動を継続しています。

 

<参考>

マルタ騎士団:「地中海の看護婦」から主権実体へ

テンプル騎士団:ソロモン神殿とモレ―の呪文

 

 

<参照>

東方征服 ドイツ騎士団(Zorac歴史サイト)

世界史の窓

世界史の目

中世を旅する

Wikipediaなど

 

(2022年6月14日)