宗教騎士団

 

マルタ騎士団(聖ヨハネ騎士団)

 

  • 騎士団とは?

 

騎士団というと、剣と盾を持って戦う兵というイメージがあるかもしれませんが、騎士団はすべてが戦うために設立されたわけではありません。第1回十字軍(1096年~1099年)の勝利の後、十字軍は、現在のイスラエルからトルコ南部へ至る地中海沿岸に、エルサレム王国エデッサ伯国トリポリ伯国アンティオキア伯国の4つの主要キリスト教国家を設立しました。

 

騎士団は、この十字軍運動の進展に伴って形成され、修道と騎士精神を滋養しつつ(ゆえに、騎士団のことを騎士修道会とも言う)、騎士として、最初は、病気などになった巡礼者の巡礼の保護を担いました。後に聖地エルサレムや他の十字軍国家の防衛にも当たるようになり、イスラム教徒の軍事力に対する劣勢を補う役割を担いました。さらに、実質的な常備軍として、エルサレムや十字軍国家内に駐屯し、キリスト教諸国家を防衛した騎士団もありました。

 

中世に創設された騎士団には、聖ヨハネ騎士団、テンプル騎士団、ドイツ騎士団が三大騎士団として有名です。この他、スペインなどにもいくつもの宗教騎士団があり、これらは十字軍時代以降も存続し、一つの政治的勢力として活動を継続する騎士団もありました。その筆頭とともいえるのが聖ヨハネ騎士団です。

 

 

  • 聖ヨハネ騎士団

 

聖ヨハネ騎士団は、第1回十字軍(1096~1099)後の1100年頃(テンプル騎士団より15年ほど前)、巡礼保護を目的としてエルサレムで設立された慈善団体で、当初は「エルサレム・ホスピタル騎士団」と呼ばれていました。彼らは、正式名称から明らかなように、聖地エルサレムを訪れる巡礼者が、病気になったり怪我をした時に受け入れる病院や宿泊施設などを管理運営していました。

 

聖ヨハネ騎士団は、1113年、当時のローマ法王より、修道騎士団として公認された後も、巡礼者の安全の確保と医療奉仕を中心に活動を続け、「地中海の看護婦」とも称されていたほどです。しかし、ヨーロッパでは十字軍の遠征が再びなされると、十字軍の戦い(1095~1291)にも駆り出されるようになり、16世紀までは敵対するイスラム勢力と戦うことが主な活動となっていきました。

 

聖ヨハネ騎士団は、イスラム領主が創建した最強の要塞であったマルガット城(トリポリ伯国)を居城として、周囲を統治するなど、キリスト教世界における重要な宗教騎士団の一つとして認知されていました。エルサレムへの主要道路の通行料などの徴収で莫大な富を獲得した一方、聖地を巡礼するキリスト教徒にとって重要な経由地の守護者となりました。

 

当時のマルタ騎士団は、主に、カトリックを信仰する裕福な貴族の名家の男子(次男以下)で構成され、ほかにも、才能豊かな芸術家も騎士団員として迎え入れられていました。また、キリスト教国の王族や領主とも繋がり、さまざまな特権を得ていました。

 

しかし、第9回十字軍(1271~72)の失敗後、1291年に騎士団たちの最後の砦となったアッコンがイスラム(マムルーク朝)に陥落されました。このアッコンの陥落で、聖ヨハネ騎士団は、エルサレムから撤退し、キプロス島に逃れます。さらに、1309年、エーゲ海のロードス(ロドス)島を東ローマ帝国より奪取し、そこを拠点としました(ゆえに、彼らは「ロードス騎士団」とも呼ばれた)。

 

なお、この頃、フランスのルイ4世と反目したテンプル騎士団が、1312年に解散させられ、聖ヨハネ騎士団は、テンプル騎士団の利権を有償で譲り受けています。

 

十字軍が失敗に終わり、三大騎士団の一角も消滅する中、聖ヨハネ騎士団は、ムスリム(イスラム教徒)に対する聖戦の貴重な担い手として、以後、奮闘を続けましたが(ドイツ騎士団は聖地ではなく「東方」で活動した)、1522年、オスマン帝国のスレイマン1世との戦いに敗れ、ロドス島は陥落してしまいました。

 

聖ヨハネ騎士団は、7年の間、各地を転々とした後、1530年に、神聖ローマ帝国カール5世からマルタ島を実質的に供与され(正確には年間の賃料「1羽の鷹」という貸借契約であった)、本拠を地中海の要衝マルタ島に移しました。マルタにいる騎士団という事で、聖ヨハネ騎士団は、マルタ騎士団と呼ばれるようになりました。

 

 

  • 聖ヨハネ騎士団からマルタ騎士団へ

 

マルタ島でのイスラム勢力(オスマン帝国)と、一進一退の戦いを繰り広げる中、1565年、オスマン・トルコが総攻撃を仕掛けてきた大包囲戦「グレートシージ」と呼ばれた戦いも、マルタ側は降伏することなく耐え、オスマン軍を撤退させるなど、マルタ騎士団はマルタ島を死守しました。

 

この戦いの勝利で、マルタ騎士団はイスラム勢力からヨーロッパを守り抜いたと称賛され、後世に語り継がれましたが、17世紀以降、オスマン帝国の力の相対的な低下を受けて、イスラムの脅威が弱まってくると、マルタ騎士団も退廃が始まりました。

 

1798年、ナポレオン率いるフランス軍がエジプト遠征の途中で侵攻し、マルタ島は占拠されました。その際、騎士団は抵抗せず、無条件に島を明け渡し、そのままマルタを去っていきました。この頃のマルタ騎士団は、異教徒から、聖地とキリスト教徒を守るために、剣と盾をもって戦いに身を投じしていた頃の騎士団ではなくなっていました。

 

ナポレオンに島を追われたマルタ騎士団は、再び拠点を失い各地の支持者の領地を転々とした後、1834年、ようやく本部をローマに置くことができました。また、1872年にはマルタ騎士団協会が創設されて以降、騎士団は、世界各地への救急活動、医療品の提供などの活動を続けています。

 

 

  • 現在のマルタ騎士団

 

現在、マルタ騎士団は、正式名称「ロードス及びマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会」(通称マルタ騎士団)として、ローマ・カトリック教会の騎士修道会として、存続しています。マルタ騎士団は、中世ヨーロッパ3大騎士団の中でなんと唯一現存する907年の歴史を誇るカトリック修道会の騎士団です。2013年には設立900年を迎えたばかりです。

 

騎士修道会とはローマ・カトリックの下部組織ではなく、「カトリックを信仰する貴族・騎士によって構成された独立国または独立した組織」です。ただ、マルタ騎士団は、ローマ教皇には絶対的に忠誠を誓っているとされ、ある意味、「ローマ教皇の民兵」とも言えるかもしれません。

 

現在のマルタ騎士団は、領土を保持していないので、国際法上、国家として認められていませんが、かつては、ロードス島とマルタ島に拠点となる領土を有していた経緯から「主権実体(sovereign entity)」として位置づけられています。ですから、マルタ騎士団は伝統的に、領土を失った後も、慣例で独立国家と同様の主権を有しているとされているのです。実際、ウィーン体制下の1822年に行われたベローナ会議でも、「領土を失っても国家である」と承認されています。

 

「主権実体」としてマルタ騎士団は、世界の約94か国と外交関係する樹立し、在外公館を保有しているなど、ここでも、伝統的に独立国家と同様の主権を持つ組織として扱われています。もっとも、各国に置かれた外交特権を有する在外公館の規模はNGO(非政府組織)の事務所程度のものであるようです。なお、日本はマルタ騎士団を国として承認しておらず、外交関係も持ちません。

 

一方、国際連合には、1994年に、オブザーバーとして加盟しています。、国際法的に、マルタ騎士団は、「(国連において)オブザーバーとして参加するために招待を受ける実体あるいは国際組織」の一ついう位置づけです。同じようにオブザーバーとして国連に参加している機関には、国際赤十字のようなNGOや、EU(欧州連合)やイギリス連邦のような国家共同体、パレスチナ自治政府などがあげられます。なお、オブザーバーの場合、国連総会の議事に参加できますが、主権国家の加盟国と違って投票権を持ちません。

 

また、「主権実体」としてマルタ騎士団の首都(本部)はローマ市で、1834年に設置されました。現在、騎士団事務局が置かれています(騎士団事務局を一種の大使館と見なすという見方もある)。

 

騎士団には領土はありませんが、本部として所有している建物が、騎士団のすべての主権範囲です。本部ビル内は「マルタ騎士団国」として、イタリアから自治と治外法権が認められた領域です。ただし、その建物もあくまでイタリアの主権範囲で、事務局の敷地はイタリア領です。ローマ教会のバチカン市国と違って独立領土としては認められておらず、マルタ騎士団はどこまでも、実質領土のない「国」なのです。従って、マルタ騎士団への「入境」にはイタリア入国とは別の許可が必要となります。

 

人口(団員数)は約1万1千人ですが、ここでいう人口とは団員数(騎士の数)で、騎士団に所属しています。公用語はイタリア語。首長は、騎士団総長で、伝統的にローマ教会より枢機卿の任命を受けます(これは名誉職的な意味あいが強いとされる)。マルタ騎士団のトップ幹部は全員男性で、すべて聖職者ではありませんが、清貧、貞潔、そして法王への服従という誓願を行っているそうです。また、騎士団では記念コインや切手、パスポートも発行しています。

 

このように、マルタ騎士団は、現在、設立当初の目的であった医療従事活動をはじめ、難民が発生したり、災害があった地域などで様々な奉仕活動を世界各国で行っています。複数の主権国家とも外交関係を結び、国連にもオブザーバーとして加盟しているほど、今も影響力の大きい団体です。

 

なお、現在、かつてマルタ騎士団が領有していたマルタ島には、騎士団が、1798年にナポレオンによってマルタ島を追われてから、マルタ島に住み着いた人々が、マルタ騎士団とは別の主権国家「マルタ共和国」を樹立しました。フランスの後にこの地を治めたイギリスから独立する形でした。現在、マルタ共和国は、EUに加盟し、ユーロも採用しています。

 

 

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テンプル騎士団

 

テンプル騎士団とは?

テンプル騎士団、正式名称「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち」は、中世ヨーロッパの宗教騎士団の一つで、第1回十字軍(1096年~1099年)」の遠征後の1119年に誕生しました。

 

第1回十字軍は、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還し、エルサレム王国を創設しましたが、内部対立などから、「事後処理」をすることなく帰国してしまいました。第1回十字軍の後、聖地エルサレムには、ヨーロッパから多くのキリスト教徒が巡礼に押し寄せました。しかし、エルサレムの周りの地区はイスラム教徒の支配地で、エルサレムに向かうキリスト教徒は攻撃の対象になるなど、パレスチナでは、キリスト教とイスラム教の対立が激しさを増していました。

 

そうした状況下、1118年、十字軍国家であるエルサレム王国のボードワン2世の下に、フランスのシャンパーニュ伯ユーグ1世の臣下であったユーグ・ド・パイヤン(ペイヤン)以下9人の騎士たちが集結し、十字軍に代わり、清貧・貞潔・服従をモットーとして、聖地巡礼に向かうキリスト教徒を保護する誓いを立てました。こうして、翌1119年、パイヤンを初代の騎士団長とするテンプル騎士団が生れたのです。

 

これに対して、エルサレム王ボードワン2世は、騎士達の本拠地として、王宮の東側に位置する、かつてソロモン王が創建し、「ソロモンの栄華」で有名な、古代のソロモン神殿(エルサレム神殿)があった場所(「神殿の丘」)を、騎士達に与えました。

 

このソロモン神殿(テンプル)にちなんで、パイヤンらの騎士団は「テンプル騎士団」と命名され、9名の修道騎士達は「キリストとソロモン神殿の騎士達」と呼ばれる騎士団の正式名称にもつながりました。

 

さらに、創設から10年後の1128年、騎士団は、ローマ教皇ホノリウス2世(在1124~1130)から「キリストの貧しき騎士にしてエルサレムなるテンプル騎士修道会」として、教皇に直属する修道会として、公認されました。この教皇認可は、シトー修道会の聖ベルナールから教皇への強い働きかけがあったとされています(聖ベルナールはテンプル騎士団創設にも深く関わったと言われている)。

 

もともと、騎士団のメンバーは、勇敢であるばかりか高潔であるという評判があった中、騎士団にローマカトリック教会の正式認可が下ると、ヨーロッパ中の富裕層からは豊富な資金援助が集まり始めるとともに、騎士団には名門一族の子弟たちからの入会志望者が続出するようになりました。ただし、入会できるのは、騎士の誇りを守るために男子のみで、その祭服は、白い長衣の上に赤い十字架のマークをつけているのが特徴です。

 

 

  • 十字軍とテンプル騎士団

 

ローマ教会は、1147年、イスラム勢力が再び攻勢に出てきたことを受けて、第2回十字軍(1147~1148)を興しました。この時、テンプル騎士団は十字軍に初参加し、フランス王を救援する活躍をみせました(この時の十字軍そのものは目的を達することができずに退却した)。

 

その後も、約150年近く続いた十字軍の遠征に参加したテンプル騎士団は、常に士気も高く、十字軍の当初目的に忠実に活動した結果、失敗が続く十字軍側で随一の成果を上げたと評価されています。

 

聖地での活躍と幾多の功績に対して、騎士団には数多くの寄進が集まるとともに、様々な特権も与えられました。例えば、修道士や騎士団は貴族らから支援を受けた場合、捧げ物の十分の一を教会に納めなければならないという「十分の一税」をテンプル騎士団は免除されていたと言われています。

 

こうした富の蓄積によって、テンプル騎士団は、「軍事力」に加えて、「経済力」も兼ね備えるようになっていきました。十字軍から護衛料、入会者から入会金をとり、さらに免税特権などもあって、騎士団は財政を自由に運営することができました。また、テンプル騎士団に限らず、修道会は原則、会員は私有財産をすべて喜捨して入会したそうです。そのため会員数が多く、しかも貴族会員の割合が大きいテンプル騎士団には、それだけ入ってくるお金は膨大でした。

 

このように、テンプル修道会は富裕化し、やがて金融業を営むようになりました。現代の「トラベラーズ・チェック TC」も騎士団から始まりました。巡礼者達は、現金を持ち歩かなくてもいいように、ヨーロッパ本国で騎士団にお金を預け、その金銭に相応しい手形書類を受け取り、聖地で現地貨に換金することで、安心して巡礼に旅立つようになったのです。

 

こうした確かな安全と精度の高い金融システムを多くの国にまたがって構築し、テンプル騎士団は巨大な組織に成長していきました。

 

 

  • テンプル「金融帝国」

 

しかし、「第8回十字軍」の遠征後の1291年、十字軍最後の拠点であったアッコンが陥落し、十字軍は失敗のうちに終焉しました。このため、テンプル騎士団の聖地防衛と巡礼者の保護という「聖なる大義」は消滅してしまい、騎士団は、本部をエルサレムからキプロスに移し、本国フランスをはじめヨーロッパへ撤退していきました。

 

十字軍終了後、聖地エルサレムをイスラムに再び奪われたことにより、テンプル騎士団は多くの領地と名誉を失いましたが、それでもそれまで蓄積された莫大な富を生かして、財務管理を含めた今日の「銀行」業務を行うことで、その活動の幅を広げていきました。

 

騎士団は、欧州の王侯貴族への資金の貸し出しを増やしていき、欧州の君主国にとってメインバンク(主力銀行)の機能を果たすまでになっていきました。これは、テンプル騎士団が国際取引を行うことができる銀行シスいテムが歴史上初めて構築していたことを意味しています。このヨーロッパ内の国際金融システムの運営によって、テンプル騎士団は、後に財宝伝説も語り続けられるぐらい財政で巨万の富を築いていきました。

 

テンプル騎士団はまた、ヨーロッパから中東にいたる広い地域で多くの土地を買い占め、農園や果樹園などを運営し、さらに莫大な収益を上げました。アッコン陥落後、本部機能をエルサレムから移したキプロス島もテンプル騎士団が所有していた土地でした。

 

 

  • フィリップ4世の謀略

 

これに対して、一修道士の団体にすぎない彼らが、貪欲なまでに富を追求し、ヨーロッパ諸国の財政を牛耳っていることに対して、「恐怖の騎士団」と批判する王侯貴族や商人が現れてきました。その急先鋒でテンプル騎士団にとって致命的な存在となったのが、フランス国王で端麗王とも呼ばれたフィリップ4(在1285~1314)でした。

 

フィリップ4世と言えば、ローマ教皇・ボニファティウス8世を捕らえたアナーニ事件(1303年)や、教皇庁をローマからプロヴァンス地方アビニョンへ移した「教皇のバビロン捕囚」(1309~1377)を実行した人物です。

 

この当時のフランスは、北方イングランドやフランドルとの戦争が続き、「テンプル騎士団への莫大な借金に喘ぎ、国の財政が危機に瀕していました。この時、フィリップ4世が目をつけたのが、騎士団の膨大な資産でした。

 

巨大な資金力と支配力を誇示していたテンプル騎士団の存在を嫌ったフィリップ4世は、騎士団に対して、負債免除(借金を帳消し)をさせ、その財産を手に入れようと報復を企てます。さらに、テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団を一つにして、宗教騎士団を自身の管理下に置こうと考えていたと言われています。

 

フィリップ4世は、テンプル騎士団のジャック・ド・モレー総長(団長)にその要求を突きつけますが、当然拒否されます。すると、1307年10月、国王の意を受けたとされる教皇クレメンス5の命令により、モレーを含む数百人の騎士(団員)が逮捕され、異端の罪で起訴されました。

 

テンプル騎士たちは、黒魔術や悪魔信仰、男色行為、児童虐待、キリスト冒涜(反キリストの誓い)などさまざまな罪状で異端審問にかけられました。尋問は凄惨を究め、自白強要のため鞭打ち、足砕き、睾丸責めなどの拷問が行われたと言われています。拷問に耐えた者は衰弱して死亡し、判決は自白した者は終身刑、自白を拒否または撤回した者は偽証罪で火刑となったと言います。彼らの罪状はでっち上げであったとされ、濡れ衣を着せられた多くの騎士たちは火あぶりで処刑されてしまったのです。

 

1311年、ヴィエンヌ公会議開催され、教皇クレメンス5世は、テンプ騎士団の活動停止命令を出し、翌年、テンプル騎士団は、強制的に解散(廃止)させられました。その巨万の資産も大半も政府によって没収されました。また、残されたテンプル騎士団の利権は、聖ヨハネ騎士団に有償で譲渡されています。

 

このように、中世の時代に名をはせたテンプル騎士団は、突然の王権の介入によって、滅亡してしまいました。もっとも、ポルトガル王国の支部のように「キリスト騎士団」と名を変えて存続しているところもあります。

 

5年を超える拷問を耐え抜いた騎士団長ジャック・ド・モレーやメンバーの一部は、解散命令から2年後の宗教裁判を経て火あぶりの刑に処されました。団長モレーは、処刑の日、公衆の面前で「我々は今ここに真実を告げる、騎士団員は全員無実で、自白は偽りで、全て拷問による強要であった」と高らかに演説しました。火中でも最期まで祈り、騎士団の正義とフィリップ4世の非道を主張し続けたと言われています。なお、余談ですが、モレ―は、火中、呪いの呪文をかけたと噂され、実際、フィリップ4世もクレメンス5世も1年以内に死亡しています。

 

 

  • 回復された名誉といま

 

テンプル騎士たちの逮捕と処刑から騎士団の強制解散は、負債免除と彼らの資産没収を行おうとしたフィリップ4世による策略であったことが明白だったのですが、その後、何年も、テンプル騎士団の異端という汚名は、無批判に受け入れられていました。

 

ようやく、19世紀以降、歴史学者らからこれに疑義が呈されるようになり、現代のローマ・カトリック教会は、「テンプル騎士団に対する異端の疑いは完全な冤罪であり、裁判はフランス王の意図を含んだ不公正なものであったこと、また、テンプル騎士団の解散の決定も、当時の社会からの批判に流されたものであった」と結論づけたことから、テンプル騎士団は、名誉を回復しています。

 

なお、テンプル騎士団は、その栄華と没落が極端でかつ唐突であったことから、様々な伝説が語りづかれています。中には、数々の財宝伝説やフリーメーソン発祥伝説など陰謀論(都市伝説)もあります。映画「ダ・ヴィンチ・コード」でもテンプル騎士団が登場しました。

 

また、テンプル騎士団の入会は、秘密儀式が行われていたとか、テンプル騎士団の人たちは、錬金術、数秘学、ユダヤ教のカバラ思想の研究が行われいたとか言われ、謎めいた宗団であったとの指摘もあるなど、現代でも話題を提供してくれています。

 

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ドイツ騎士団

 

  • ドイツ騎士団の成立

 

ドイツ騎士団(正式名称「ドイツ人の聖母マリア騎士修道会」)は、1190年、エルサレム陥落後の第3回十字軍中に創設されました。文字通りドイツ人を主体とする組織でした。聖地エルサレムへ赴いたドイツ人戦士を保護するために、リューベックとブレーメンの商人が、聖ヨハネ騎士団の施設をまねて建てた野戦病院が起源で、1192年に、教皇ケレスティヌス3世に承認されました。

 

テンプル騎士団と聖ヨハネ(ホスピタル)騎士団より創設が遅れた理由は、第1回十字軍はフランス・イタリアが中心で、ドイツでは神聖ローマ皇帝が叙任権問題などでローマ教皇と対立していたので、十字軍に参加した諸侯はわずかだったからです。しかし、第3回十字軍(1189~1192)では、フリードリヒ1世(バルバロッサ)が本腰を入れて参加したことが施設建設のきっかけとなりました

 

野戦病院は、ドイツ諸侯の保護を受けながら発展し、1198年に、テンプル騎士団を模した聖地の警護も行う修道騎士団に改組され、ドイツ騎士団となり、翌年にはローマ教皇インノケンティウス3世により公認されました。当初は、エルサレムに代わる聖地の臨時首都だったアッコンを本拠地にし、1220年にアッコンの北東に位置するモンフォール城を購入して本部としました。

 

ただし、ドイツ騎士団は、聖地ではあまり活動せず、ドイツに拠点を置き、バルト海方面の異教徒に対する北方十字軍に参加し、東方のスラヴ系の地域に進出していました。

 

 

  • 北方十字軍とドイツ騎士団領

 

1193年、ローマ教皇クレメンス3は、北欧・東欧およびバルト海沿岸地域をキリスト教化するための遠征を呼びかけました。カトリック教国であるデンマーク、スウェーデン、ポーランドに加えて、ドイツ騎士団や他の修道騎士団も後に参加しました(これを北方十字軍とよ呼ぶ)。

 

現在、ドイツからバルト海に沿って東は、ポーランド、バルト3国(リトアニア、ラトビア、エストニア)と続いていますが、当時は様相が異なっていました。まず、バルト海に面した現在のポーランド海岸地方一帯は、地名としてプロイセンと言われていました(ポーランドの支配下にはあった)。なお、この時代のプロイセン人は、後にドイツ帝国を建設するプロイセン人と区別して古プロイセン人と呼ぶことがあります。

 

また、中世のリトアニアは、今と違って、現在のベラルーシ、ウクライナ、ロシアの一部にまたがる広大な領土を保持する大国でした。そして、リトアニアからラトビア、エストニア南部にまたがる地域はリヴォニア(リボニア)と呼ばれていました。

 

さて、北方十字軍の展開ですが、1202年に創設されたリヴォニア帯剣騎士団(リヴォニア騎士団)が、ラトビアからエストニア一帯を征服しました。しかし、プロイセン地方に住むバルト諸部族は強い抵抗を示し、しばしばポーランドに反攻して略奪を行うなど、不安定な状態が続いていました。そこで、このプロイセン人の攻勢に耐えかねたポーランド北部を領するマゾフシェ公コンラートは、1225年にドイツ騎士団を呼び寄せ、プロイセン諸部族に対する防衛を担当させようとしました。

 

ところで、ポーランドに入る前のドイツ騎士団ですが、パレスチナでの十字軍の勢力が弱まり、大きな成果を出せない中、存在意義も失いつつありました。そうした中、1211年、ハンガリー王・アンドラーシュ2世は、ドイツ騎士団に対して、現在のルーマニア中部にあたるトランシルヴァニアに所領を与える代わりに、ハンガリーの領土を異教徒から守る防衛の役割を担うという案をもちかけます。

 

これに応じた騎士団は、ハンガリー国王の配下に入り、活動しました。ところが、自分たちは国王ではなく、教皇に対して忠誠心があることを表明し、ハンガリー王国から独立した領邦国家を形成し始めたのです。この騎士団の動きに警戒心を募らせたアンドラーシュ2世は、1225年、騎士団をトランシルヴァニアから追放しました。

 

ハンガリーから国外追放となったドイツ騎士団が次に向かったのがポーランドでした。マゾフシェ公に招かれドイツ騎士団は、1229年、プロイセン地方における非キリスト教徒の改宗と征服活動に従事する事になりました。ドイツ騎士団は、プロイセン人(プルーセン人)の鎮圧を見返りに、その居住地域を共有する権利を認められ、1230年に、彼らを征服した後、バルト海南岸のマリエンブルク(現ポーランドのマルボルク)を本拠地とする宗教的国家、「ドイツ騎士団国ドイツ騎士団領)」の創設に成功しました。

 

その後もプロイセン地域への拡大を続けたドイツ騎士団は、1260年までにプロイセンの過半を支配下に収め、1283年までほぼ平定させました。こうしてドイツ騎士団による13世紀末までにプロイセンの支配を確立させたのでした。

 

さて、ラトビア・エストニアを征服していたリヴォニア(帯剣)騎士団は、現在のリトアニア北西部に位置するサモギティアを巡って、1236年、サモギティア・リトアニア軍との戦い(「ザウレの戦い」)に敗れてしまいました。そこで、ドイツ騎士団は、リヴォニア騎士団を吸収し、勢力を拡大させました(リヴォニア騎士団は以後、ドイツ騎士団内の騎士団として存続)。

 

当時、リトアニアのサモギティアという場所は、プロイセンとリヴォニア(ラトビア・エストニア)の間に位置しました。このため、ドイツ騎士団にとって、この地を征服すれば、ドイツ騎士団国の領土は一つに繋がるので、是が非でも獲得しておきたい場所でした。ですから、ドイツ騎士団は当然、北欧の大国リトアニアと、さらには東欧の大国ポーランドとも継続的に争うことになります。

 

ところで、パレスチナの情勢は厳しく、1291年、十字軍の最後の拠点アッコンが陥落し、十字軍は撤退を強いられると、ドイツ騎士団は、本拠をアッコンからベネチアに移し、他の騎士団らと共に聖地奪回を図ろうとします。ところが、1307年にテンプル騎士団がフランス王フィリップ4世によって壊滅させられたことを知ると、1309年、ドイツに帰国し、プロイセンのマリエンブルク(現ポーランドの北部の都市)を本拠地とすることで、ドイツ騎士団国(ドイツ人国家「騎士団領」)の経営に力を入れることにしました。

 

例えば、1310年頃までに、バルト海に面した港湾都市、ポメレリアとダンツィヒを、ブランデンブルク辺境伯(11世紀にドイツ人が進出して作った領邦)とともに、ポーランドから獲得しました。海への出口を塞がれたポーランドとこの後、対立することになりますが、これで、神聖ローマ帝国と騎士団領を結ぶ事ができました。

 

こうして、ドイツ騎士団領の領域は、現在のポーランド北部から、バルト三国に及ぶ、バルト海南東岸一帯に拡がる領邦国家を形成し、ドイツ騎士団(国)は、バルト海での海上貿易を抑えるなど、14世紀には全盛期を迎えました。

 

 

  • リトアニア=ポーランド王国

このようなドイツ騎士団の東方進出に対して、危機感を募らせたのが、当時大国であったリトアニアとポーランドでした。そこで、両国はドイツ騎士団領に対抗するために1386年に合同して、リトアニア=ポーランド王国となりました。

 

きっかけは、リトアニア大公ヨガイラが、ポーランド女王ヤドヴィガと結婚したことでした。しかも、ヨガイラはカトリックに改宗したので、ドイツ騎士団は、リトアニアの異教徒(多神教徒)をキリスト教に改宗させるという戦い(十字軍)という大義名分を失ってしまったのです。そうすると、他のキリスト教国からの人的・物的援助を期待できなくなってしまいます。

 

もっとも、この時期、ドイツ騎士団は、リトアニアにおける内紛に乗じて、念願のサモギティアを得たことで、領土を最大にすることができましたが、ポーランドとリトアニアが同君連合になるということは、ドイツ騎士団国家は両大国に囲まれて、地政学上、極めて不利な状況になりました。

 

1410年7月15日、ポーランド軍とリトアニア軍の連合軍は「ジャルギリス(タンネンベルク)の戦い」でドイツ騎士団に、総長以下、多数の幹部が戦死する壊滅的な打撃を与える大勝利を収めました。

 

その後も、ドイツ騎士団とポーランド=リトアニアとの領土争いは続き、両者は、フス戦争とリトアニア内戦を介しても戦いました。

 

1414年からのコンスタンツ公会議の結果、ボヘミアの宗教改革者フスが焚刑となり、怒ったフス派の信徒が神聖ローマ皇帝ジギスムントに対して起したフス戦争が、1419年から始まると、ジギスムントはドイツ騎士団の協力を求めたのに対して、フス派はポーランド=リトアニアに支援を要請しました。その結果、1433年にフス派軍はポーランドと共にドイツ騎士団領に侵攻して勝利し、バルト海まで攻め込みました(最後は和睦)。

 

また、リトアニア大公国では、1431年から大公ヴィタウタスの死去により、リトアニア継承戦争が起きると、対立する両陣営にそれぞれ、ドイツ騎士団(主力はリヴォニア騎士団)・皇帝ジギスムントと、ポーランド・フス派がつくと、騎士団は再びポーランドに侵攻しましたが、1435年の「パバイスカスの戦い」で、リヴォニア騎士団は大敗してしまいました。

 

さらに、ドイツ騎士団は、1454から1466年まで続いたポーランド=リトアニア王国との十三年戦争で敗れました。そのため、プロイセンの西側(西プロイセン)はポーランド王国に組み込まれ、バルト海への出口グダニスク(ドイツ名ダンツィヒ)を奪われました。結果として、ドイツ騎士団領はプロイセンの東側(東プロイセン)のみとなり、ドイツ本国と切り離された形となりました。

 

 

  • ドイツ騎士団領からプロイセン公国へ

 

16世紀には、ドイツ騎士団長のホーエンツォレルン家アルブレヒトが、宗教改革を唱えるマルティン・ルターに感化され、カトリックからプロテスタントに改宗しました。その間も続いていたポーランドとの戦いでは相次いで敗れ、1525年4月、ドイツ騎士団はついに、ポーランドに降伏しました。これは、ドイツ騎士団の解体を意味しましたが、ポーランド王ジグムント1世は、実は甥でもあった騎士団長アルブレヒト・ホーエンツォレルンを初代プロイセン公に任命しました。

 

残りのドイツ騎士団領(東プロイセン)もポーランドの宗主下に置かれることになりましたが、結果的にドイツ人国家「ドイツ騎士団領」(西プロイセンと東プロイセン)は、ポーランド王の宗主権の下で、プロイセン公国と生まれ代わりました。(このプロイセン公国が、1701年、ブランデンブルク選帝侯国と合体し、ドイツ帝国の前身となるプロイセン王国に昇格する)。プロイセン公国では、かつてのプロイセンの自治は認められ、その領土の一部は神聖ローマ帝国内に残っていたので、神聖ローマ帝国諸侯の地位を維持しました。

 

また、ここまで、何とか独立を維持していたリヴォニア騎士団も、バルト海への進出を目指すイワン雷帝のロシアと、リヴォニア戦争(1588~61)を戦い惨敗し、1561年に、ポーランド・リトアニア連合に吸収されました(実際はポーランドの宗主下に入った)。

 

これで、ドイツ騎士団領は消滅しましたが、ドイツ騎士団は、形式的には存続し、1761年以降はハプスブルク家が、騎士団の総長を務めてきました。しかし、1809年にナポレオンの命令によって軍事的組織としては解散させられ、以後は現代まで、ドイツ騎士団は、慈善団体カトリックのドイツ修道会として、慈善活動を継続しています。

 

 

 

<参照>

現存する騎士団!?マルタ騎士団って何?

マルタ騎士団の歴史と成り立ちをご紹介 | マルタ留学FUN!

マルタ騎士団とは (マルタキシダンとは) [単語記事] – ニコニコ …大百科

マルタ騎士団という国 | 地中海の真珠、マルタ共和国へ

マルタの歴史、日本マルタ友好協会

 

テンプル騎士団とは(ピクシブ百科事典)

テンプル騎士団について(バラ十字会日本本部公式ブログ)

5分でわかるテンプル騎士団!

 

東方征服 ドイツ騎士団(Zorac歴史サイト)

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Wikipediaなど