十字軍

 

十字軍(Crusades)とは、西ヨーロッパのキリスト教世界による、西アジアのイスラム教世界への軍事活動で、11世紀末から、最終的には十字軍の拠点アッコンが陥落する13世紀末まで、約200年間にわたって展開されました。十字軍の直接の動機は、イスラムのセルジューク朝の侵攻にさらされていたビザンツ帝国の皇帝アレクシオス1世が、1095年にローマ教皇に援助を要請したことによります。

 

セルジューク朝は、1071年のマンジケルトの戦いでビザンツ軍を敗った後に、ビザンツ帝国領小アジアへの進出を本格化させていました。イスラム勢力は、637年に、キリスト教の聖地エルサレムをも占領し、さらにビザンツ帝国に迫っていました。(もっとも、エルサレムはイスラム教徒にとっても聖地)。

 

そこで、助けを求められたローマ教皇ウルバヌス2世は、1095年11月27日に、クレルモン宗教会議を開き、セルジューク朝から聖地エルサレムを回復させるという宗教目的の下に、十字軍の派遣を提唱しました。「十字軍」という名称も、参加した兵士が胸に十字架の印を付けていたからです(「聖戦」と考えられていた)。

 

当時、11世紀から13世紀の西ヨーロッパにおいて、ローマ教皇の権威は、神聖ローマ帝国(いまのドイツ)の皇帝を破門して屈服させるなど、皇帝を上回っていました。この教皇の呼びかけに対して、国王、諸侯、商人など様々な人々が応じました。彼らは、少なくとも当初は、宗教的情熱という共通する動機は共有していましたが、それぞれ違った思惑をもって参加しました。

 

参加を呼びかけたローマ教皇は、これを機会に、聖地奪回に加えて、1054年に互いに破門し合って東西に分離したキリスト教会を再び統一し、ローマ教会の主導権を確保することを目指していました。国王や諸侯は領地や戦利品の獲得が目的でしたし、べネチアなどのイタリア商人は、十字軍にからんで大儲けしようと商業的利益をもくろんでいました。さらに、援助を請うたビザンツ皇帝も、自国領の小アジアに侵入したセルジューク朝の勢力を排除するために、西ヨーロッパの軍隊(十字軍)の力を利用しようと考えていたのです。

 

さて、クレルモン宗教会議で教皇ウルバヌス2世によって提唱された十字軍は、1096年7月の第1回から、一般に1270年の第8回まで展開されました(7回または9回とする計算の仕方もある)。

 

 

  • 第1回十字軍(1096年-1099年)

 

1096年7月、ウルバヌス2世の十字軍運動の呼びかけに応じたフランス・ドイツ・南イタリアの国王や諸侯や一般般の民衆までもが参加して、第1回十字軍が編制されました。各軍団は、それぞれコンスタンチノープルに向かい、そこでビザンツ皇帝アレクシオス1世に臣従の形式をとり、ビザンツ軍と合同して、戦いました。まず、ニケーアを落とし、アンティオキアを占領、シリアに入り、1099年7月にエルサレムを陥落させ、エルサレム王国を建国しました。

 

十字軍による虐殺・迫害

ただし、この時、エルサレムの城内に突入した十字軍兵士は、非戦闘員も含めて大虐殺を行い、略奪をほしいままにしたと記録されています。アラブ側の史料に拠れば「虐殺・略奪は1週間に及び、7万人以上の人が殺され、岩のドームの財宝は空になった」と言われています。

 

虐殺されたのは、アラブ人・トルコ人・エジプト人・エチオピア人などのイスラーム教徒だけでなく、ユダヤ人も含まれていました。「エルサレムを奪回しようとする今、ユダヤ人のために血を流すことになったイエスの復讐をしよう」などと煽動された民衆が襲撃したと解されています。

 

エルサレム以外でも、ドイツのライン地方の都市でユダヤ人居住区のシナゴーグが襲撃され、多くが殺されるなど、ヨーロッパにおけるユダヤ人への本格的な迫害が、十字軍運動が盛り上がったのと同じ時期に始まっています。

 

 

十字軍国家

また、この第1回の十字軍以来、セルジューク朝などのアラブ側から奪った征服地のシリア・パレスチナ沿岸に、エルサレム王国だけでなく、エデッサ伯国、アンティオキア公国、トリポリ伯国といったローマ・カトリックを信仰する「十字軍国家」が建設されました。ヨーロッパの封建制度を導入し、名目的に、エルサレム王国の国王が、他のエデッサ伯、アンティオキア公、トリポリ伯を封建領主として封土を与えるという形をとられました。

 

エデッサ伯国

1098年に建国。ユーフラテス川上流のメソポタミア地方の北辺(ジャジーラ)にあたり、エデッサ伯国は十字軍国家の最も北に位置する国家であった。1144年、イスラーム勢力によって奪回された。

 

アンティオキア公国

1098年に、シリア北部に建国。十字軍の占領した最大の都市であった。170年にわたってキリスト教国として存続したが、1268年にマムルーク朝によって滅ぼされた。

 

トリポリ伯国

1109年、トリポリは地中海に面したレヴァント(現在のレバノン周辺)に建国。その後伯位をその子孫が継承し、アンティオキア公国が滅亡した後も、いくつかの都市を統治して生き延びたが、1289年、マムルーク朝軍によって陥落、破壊された。

 

 

  • 第2回十字軍(1147年~1148年)

 

この十字軍国家のうち、エルサレム王国のエデッサ伯国は、1144年にトルコ系のザンギー朝によって滅ぼされてしまいました。これを受けたシトー派修道士の聖ベルナールの呼びかけに応じ、フランス王ルイ7世とドイツ王コンラート3世らが、1147年に第2回十字軍を編制しました。この時の十字軍の特徴としては、国王が主体となって十字軍が組織されたことや、騎士団が初めて十字軍に参加したことなどがあげられます。

 

騎士団とは

修道と騎士精神を滋養しつつ、病気などになった巡礼者の巡礼保護や、聖地の防衛を目的として形成された団体で、十字軍の進展に伴って発展していった。イスラム教徒の軍事力に対する劣勢を補う役割を担い、実質的な常備軍として、エルサレムや十字軍国家内に駐屯し、キリスト教諸国家の防衛に当たった。騎士修道会ともいわれ、テンプル騎士団(1119年創設)、ヨハネ騎士団(1113年認可)、ドイツ騎士団(1199年公認)が三大騎士団として有名です。第二回十字軍ではテンプル騎士団が初参加した。

 

第2回十字軍は、陸路を取り、コンスタンティノープルを経て、アンティオキアに入りましたが、そこから、エデッサ伯国ではなく、聖地巡礼を望む国王らの意向で、エルサレム王国に向かい、キリストの墓(聖墳墓)のある聖墳墓教会で祈ることができました。その後、イスラーム勢力側の拠点ダマスクス攻略を目指しましたが、1148年、ザンギ―朝軍の反撃を受け、失敗に終わりました。

 

一方、イスラム側では、12世紀後半、エジプトに、サラディン(サラーフ=アッディー)がアイユーブ朝を興すと、自らをスルタンと名乗りました。サラディンは、1187年、エルサレム王国軍との戦い(ヒッティーンの戦い)に勝利し、聖地エルサレムは奪還されました。

 

 

  • 第3回十字軍(1189年~1192年)

 

エルサレムを奪われたことを知ったローマ教皇は、ただちに十字軍の派遣を呼びかけ、前回と同じく民衆の巡礼団と封建領主軍が編成された。今回は、イギリスの獅子心王と異名をとるリチャード1世、ドイツの赤ひげ帝・フリードリヒ1世、フランスの尊厳王・フィリップ2世といった英仏独三国の有能な君主が参加するなど、大規模な編制となり、聖地再奪回への意気込みを見せました。

 

しかし、1189年、遠征が開始されると、赤ひげ帝フリードリヒ1世は小アジアで事故で死去し、ドイツ兵も大半が引き揚げてしまいました。そうした中、イギリス王リチャード1世は、キプロス島を拠点として海上からアッコンを攻撃し、1191年7月、奪回に成功しました。その後、リチャード1世とフィリップ2世は、仲が悪く、フィリップ2世は本国に引き揚げてしまい、単独で戦うこととなったリチャード1世は、聖地エルサレムを回復をすることはできず、1192年9月、サラディンとの間で3年間の休戦協定を結び、遠征を終えました。

 

講和条約では、十字軍はエルサレムがアイユーブ朝の主権下に置かれることを認める一方、キリスト教徒は、通行証を受け、平穏に聖地に巡礼することができるようになりました。なお、今回の遠征で奪回したアッコンが、エルサレム王国の都として存続することになりました。

 

一方、神聖ローマ皇帝(ドイツ王)フリードリヒ1世が、十字軍の途上に事故死したことで、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の力関係に大きな変化が生じ、ローマ教皇インノケンティウス3世の権威は最高のものとなりました。「教皇は太陽、皇帝は月」と豪語したと言われています。

 

 

  • 第4回十字軍(1202年~1204年)

 

東西教会を統一させることをめざすインノケンティウス3世(在1198年~1216年)は、教皇権が全盛となった機会に、教皇権のもとに西ヨーロッパを統合する目的で、十字軍の派遣を提唱しました。

 

しかし、1202年に開始された第4回十字軍は、事もあろうに、聖地エルサレムではなく、コンスタンティノープルに向かいました。それは、今回の十字軍の主力であったフランドルやシャンパーニュの北フランスの諸侯軍の輸送を請け負ったべネチアの商人たちの謀略だったとされています(一説には、北フランス諸侯軍が運賃を払えなかったことを利用したと言われる)。当時、コンスタンチノープルは、100万の人口をほこり、東西貿易の要として繁栄を続けていました。そこで、ベネチア商人たちは、コンスタンチノープル商人の権益を奪い取り、東方貿易独占しようと目論んだのです。

 

1204年、十字軍は、コンスタンティノープル、さらに周辺の都市やエーゲ海の島々を攻撃し占領、掠奪し、ラテン帝国を建設しました。これは、十字軍の本来の目的から大きく逸脱する行為でした。

 

 

東西教会の最終分裂

 

この十字軍の「暴挙」によって、ローマ・カトリック教会と東方正教会の分裂を決定的にしました。両者は、1054年に教義上の対立から互いに破門し合い、東西教会は袂を分かちましたが、それでもまだ交渉は続き、修復の試みがなされていました。

 

しかし、十字軍は、コンスタンティノープルを占領したことで、両者の対立は修復困難な状態となってしまいました。ラテン帝国によってコンスタンティノープル総主教は廃位され、教会や修道院の財産が没収されるなどの東方教会への弾圧が加えられたのです。さらに、コンスタンチノープル攻撃の報を受けたインノケンティウス3世は、当初、激怒し、十字軍を破門にしましたが、成功したことを知ると破門を解いて十字軍を祝福したのでした。

 

(なお、この後、1212年には少年十字軍という運動もあった。)

 

 

  • 第5回十字軍(1217年~1221年)

 

1204年にコンスタンティノープルを攻略した第4回十字軍が、エルサレム攻略に向かわないのに失望したローマ教皇インノケンティウス3世(在1198年~1216年)が、新たな十字軍の招集を呼びかけました。公式には、新たに教皇となったホノリウス3世の提唱で、第5回十字軍が召集された形となり、アイユーブ朝の本拠であるエジプトの攻略を目指しました。当初(1218年)、エジプトの海港、ダミエッタ(ディムヤート)の占領に成功しましたが、カイロ攻略に失敗し占領地を返却して撤退しました。

 

なお、第5回の十字軍は、ローマ教皇主導で行われた最後の十字軍となりました(これ以降の十字軍は各国王の主導による)。

 

 

  • 第6回十字軍(1228年~1229年)

 

この十字軍は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が編制した十字軍です。フリードリヒ2世は、ローマ教皇グレゴリウス9世から十字軍実施を条件に皇位を授けられた皇帝でした。ところが、フリードリヒ2世は、教皇の度重なる催促にもかかわらず応じようとしなかったので、グレゴリウス9世から破門されてしまいました。

 

こうした背景下、1228年になってついに、フリードリヒ2世は、破門されたまま遠征を開始しました。アラビア語も理解する開明的な人物として知られるフリードリヒ2世は、巧みな外交術を駆使し、交渉によって、1229年2月、アイユーブ朝とヤッファ条約を締結し、戦闘を交えることなく聖地エルサレムを回復することに成功しました。

 

具体的には、ウマルのモスクとアル・アクサ寺院などイスラムの聖堂が集まっている地域の管轄権はイスラムが保持するとの条件で、聖墳墓教会の管理権を含むエルサレムと海岸に至る周辺の統治権を奪回したのです。その合意後、フリードリヒ2世はエルサレム王国の国王として入城しました。

 

(フリードリヒ2世の十字軍は、ローマ教皇の主導権によるものではなかったので、「フリードリヒの十字軍」、「破門十字軍」としか呼ばれない場合もある。)

 

しかし、教皇グレゴリウス9世は、フリードリヒ2世が破門を解かれないままエルサレム国王になったことを口実に、フリードリヒ2世に対する十字軍を実施しました。しかし、フリードリヒの皇帝軍に撃退されたため、グレゴリウス9世は、1230年にフリードリヒの破門を解かざるをえませんでした。

 

  • 第7回十字軍(1248年~1249年)

 

フリードリヒ2世と平和条約を結んだアイユーブ朝のスルタン、アル=カーミルが死去すると、1244年にエルサレムは、イスラム勢に攻撃されて陥落し、三度イスラムの支配するところとなりました。

 

これを受け、1248年に、聖王と呼ばれるほど敬虔なキリスト教信者であったフランス国王ルイ9世が主唱して、十字軍を興しました。ルイ9世も、イスラム側の拠点、エジプトへと遠征しましたが、首都カイロを目指す途中の1250年2月にマンスーラの戦いにおいてアイユーブ朝のサーリフ(サラディン2世)に敗北して捕虜になってしまいました。

 

しかし、交渉途中にサーリフは死亡し、アイユーブ朝は、軍人集団のマムルークのクーデターによって打倒され、新たにマムルーク朝が成立しました。結果的に、ルイ9世も莫大な身代金を払って釈放されました。

 

モンゴルと同盟!?

ルイ9世は、1241年のワールシュタットの戦いで、ポーランド・ドイツ連合軍を破ったモンゴル帝国と提携し、イスラム勢力を挟み撃ちにするという遠大な構想を抱いていたと言われていますが、実現しませんでした。

 

第7回十字軍後、マムルーク朝には、サラディンと並ぶ中世イスラムの英雄とされるバイバルス(在位 1260~77)がスルタン(君主の称号)になりました。バイバルスは、シリアにあるキリスト教都市に対して攻勢をかけ、1268年にはアンティオキアを陥落させて、アンティオキア公国は完全に壊滅しました。

 

 

  • 第8回十字軍 (1270年、1271~72年)

 

アンティオキア公国の崩壊を受け、1270年、フランス王ルイ9世が、第8回の十字軍を起こし、再度出兵しました。ただし、目指した先は、マムルーク朝の本拠のカイロではなく、当時ハフス朝(ベルベル人のイスラム王朝)の支配下にあったアフリカ北岸(チュニジア)のチュニスでした。チュニジアのスルタンは、以前からキリスト教に理解を示し、キリスト教への改宗も考えているといわれているほどでした。そこで、ルイ9世はスルタンを支援してチュニジアを十字軍の供給基地にしようと考えたのでした。

 

十字軍はチュニスに上陸し、イスラム軍と交戦しましたが、チェニスにはチフスが蔓延しており、ルイ9世も感染し、現地で死去してしまいました。

 

一方、残された軍勢の多くは帰国しましたが、1271年、ルイ9世の弟シャルル・ダンジューは、新たに到着したイングランド王太子エドワード(エドワード1世)と共に、アッコンへ向かいました。

 

(この遠征を第9回十字軍と呼ぶことがありますが、第8回からの一連の流れにあるため、第8回十字軍の一部として独立した十字軍とは見なさない場合もあります。前者の場合は、ルイ9世の死をもって第8回十字軍は、最後の十字軍として終了となります。本投稿では後者をとります。)

 

しかし、この十字軍も、マムルーク朝の勢力の前に成果を収めず撤退を余儀なくされてしまいました。以後、十字軍国家は縮小の一途をたどり、1289年にはトリポリ伯国が滅亡しました。その後、十字軍の拠点は、テンプル騎士団らが死守するいくつかの城と、アッコンを首都とするエルサレム王国のみとなりました(エルサレムを首都とした全盛期の10%以下の領土に縮小)。

 

マムルーク朝は1291年、最後のエルサレム王国の都、アッコンに対して総攻撃を行い圧勝、「海に掃き落とす」ように陥落させたそうです。残余の都市も掃討され、騎士団の一部はキプロス島に逃れましたが、住民のほとんどは殺害されたとされています。

 

これによって、11世紀末からはじまった十字軍運動は約200年で終わりを迎え、十字軍国家は全滅しました。ヨーロッパ側がエルサレムを確保した期間は、第1回十字軍の1099年から1187年と、第6回十字軍の1229年から1244年のみということになり、十字軍による聖地奪回の試みは失敗に終わりました(十字軍時代は完全に終わった)。

 

 

キリスト教との関連でいえば、十字軍の失敗によって、教皇の権威が低下し、以後、教皇権の衰退につながっていきました。

 

 

<参照>

世界史の窓

Zorac歴史サイト

Wikipediaなど