以前の投稿では、ローマ教皇の権威が皇帝(国王)よりも強かった教皇権の隆盛の時代の魁となった「カノッサの屈辱」を解説しましたが、今回は逆に、王権の伸張を受けて、教皇の権威が失墜していく経緯についてみてみたいと思います。主なテーマは、アナーニ事件、教皇のバビロン捕囚、教会大分裂です。
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<アナーニ事件>
十字軍も失敗に終わり(1291年)、教皇は信用を失っていく一方で、国王の権限が強くなっていった13世紀末、ローマ教皇に第193代ボニファティウス8世(在1294~1303)が即位しました。
この時代、フランスのカペー朝フィリップ4世(在1285~1314)は、フランスの国家統一を進め、イギリスとの戦争に備えて軍費を得るためにもフランス領内の聖職者領に課税しようしました。これに対して、ローマ教皇のボニファティウス8世は、聖職者領(教会領)への課税を禁止するとともに、フィリップ4世はローマ教皇庁への献金を停止する対抗策を講じました。
これを受け、ボニファティウス8世は1302年、教皇勅書(ウナム=サンクタム)を発表、教皇の首位権を明らかにし「教皇に従わない者は救済されない」と宣し、フィリップ4世を破門にする準備を始めていました。
こうした背景下、1303年9月、ボニファティウス8世がローマ郊外のアナーニに滞在中、国王側から襲撃を受け捕らえられるという事件が発生しました。教皇は、一室に軟禁された上、退位を迫られたのです。ボニファティウス8世は殺害されそうになりましたが、駆けつけたアナーニ市民に救出され、辛うじてローマに戻ってこれました。
しかし、事件にひどく動揺した教皇は、1ヶ月後に急死してしまいます。死因は持病の結石とされていますが、アナーニの屈辱が真因とみられ、ボニファティウス8世の死は「憤死」と表現されています。この「アナーニ事件」で、フランス王フィリップ4世は、ローマ教皇との抗争に勝利した形となり、教皇権の弱体(王権の伸張)が浮き彫りになりました。
<教皇のバビロン捕囚>
アナーニ事件(1303年)で、ローマ教皇のボニファティウス8世が憤死した後、1305年、フランス王フィリップ4世の後押しで、ボルドーの大司教だったフランス人のクレメンス5世がローマ教皇に選出されました。クレメンス5世は、1309年、フィリップ4世の意向を受け、教皇庁をローマから南フランスのアヴィニヨンに移しました。フィリップス4世の目的は教皇庁をフランス王権の監視下に置くことであったとみられています。
それ以後、1377年まで約70年間(68年間)、ローマ教皇はローマを離れ、アヴィニヨンに居ることとなりました。このことを旧約聖書に出てくる古代ユダヤ人のバビロン捕囚になぞらえて、「教皇のバビロン捕囚(アヴィニョン捕囚)」と呼ばれています。ただし、教皇は監禁されたわけではなく、途中、豪勢な教皇庁も造営されています。
また、この教皇庁がアヴィニヨンに置かれていた間、教皇となった次の6代は、いずれもフランス人でした。
・ヨハネス22世(在位1316~1334年)
・ベネディクトゥス12世(在位1334~1342年)
・クレメンス6世(在位1342~1352年)
・インノケンティウス6世(在位1352~1362年)
・ウルバヌス5世(在位1362~1370年)
・グレゴリウス11世(在位1370~1378年)
この間、1337年に英仏百年戦争が始まり、1348年には、ペストが大流行し、ヨーロッパの人々を震撼させました。こうした出来事は、ローマ教皇のローマ不在が原因だと考える人々もあり、ローマ市民や多くのキリスト教徒から、教皇のローマ帰還を望む声が強まってきました。1355年に即位した神聖ローマ帝国の皇帝カール4世もアヴィニヨンの教皇を支援して、その帰還を促しました。
こうした動きを受け、ローマ教皇グレゴリウス11世は、1377年、フランスの反対にもかかわらず、アヴィニヨンからローマに帰還して、教皇のバビロン捕囚はようやく終わりとなりました。
なお、「教皇のバビロン捕囚」は、「アナーニ事件」同様、フィリップ4世が、教皇権に対する王権の力を示した出来事といえますが、この後、フィリップ4世と自身のカペー家(朝)には悲劇が待っていました。
*フィリップ4世の末路
アナーニ事件で、ボニファティウス8世の死を知ったヨーロッパの人々は、フィリップ4世を「教皇を憤死させた王」というレッテルを貼り、「フィリップ王とその息子たちに災難が降りかかり、王位を失うだろうと」予言する司教もでたそうです。
また、フィリップ4世は、ローマ教会と対立しただけでなく、中世ヨーロッパの主要な騎士修道会であるテンプル騎士団を異端として弾圧しました。1307年10月に、国王は、フランスにおけるテンプル騎士団のメンバーを一斉に逮捕し、教皇クレメンス5世に異端審問を行わせ、1314年、最高幹部らは異端として火刑に処せられました。
さらに、テンプル騎士団は解散を命じられ、フランス国内にもつ騎士団の所領と金融資産も没収されてしました。騎士団の幹部は、処刑に際して、フィリップ4世と教皇クレメンス5世に呪いながら死んでいったとされています。
1314年、フィリップ4世は狩りの最中に脳梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人となり、同じ年、クレメンス5世も死去しました。また、フィリップ4世の3人の息子たちは皆、フランス国王になりましたが、父の死後15年以内に全員死亡、さらにフィリップ4世の孫たち、特に男子が全員夭折したため男系は途絶えてしまいました。カペー朝最後の国王シャルル4世が、34歳の若さで亡くなった1328年で、カペー朝は断絶し、フランスの王位は、カペー家からヴァロア家に移ったのでした。
<教会大分裂(大シスマ)>
アヴィニヨンからローマに帰還を果たした教皇グレゴリウス11世は、ローマ市民の大歓迎で迎えられましたが、翌1378年、膀胱結石を発症し死亡しました。
翌年、次の教皇を選出する枢機卿会議(教皇選出会議=コンクラーベ)が開催されると、フランス人とイタリア人の枢機卿が激しく対立し、次期教皇を決められない状態が続きました。すると、業を煮やしたローマ市民がローマ教皇庁になだれ込むなど大混乱となってしまいました。身の危険を感じた多数派のフランス人枢機卿たちは逃げだし、残ったイタリア人枢機卿たちだけで、ナポリ出身の大司教をウルバヌス6世として選出するという事態になってしまいました。
これに対して、フランス人の枢機卿たちは、ウルバヌス6世の選出は外部の圧力に屈した結果であり、選挙は無効だとして、ウルバヌス6世の廃位と選挙のやり直しを宣言し、ジュネーヴ出身のクレメンス7世を選出します。しかし、ウルバヌス6世は当然これを認めず、教皇としてローマに留まったので、クレメンス7世はフランス人枢機卿と共にフランスのアヴィニヨンに戻ってしまったのです。
こうして、ローマ教会は、ローマとアヴィニヨンに同時に教皇が二人存在するという「教会大分裂」(大シスマ)となってしまいました。しかも、この状態は、1378年から1417年まで約40年間も続きます。
ちょうど百年戦争(1339~1453)の最中、教皇のヨーロッパでの政治的影響力は完全に低下し、教皇の権威失墜は明確になりました。
もともとローマ教皇は、キリストの代理者とされ、中世においては、宗教的権威の頂点に立ち、彼への服従は「至福」のための条件と考えられていたほどでした。ですからローマ教皇は王位継承や領土紛争を調停する役割を担っていたのですが、教会が分裂してしまうと、調停機能を発揮できず、当時のイギリスとフランスの戦争は100年を超える長期的な戦いとなった遠因とされています。
さて、教会が分裂している間、二人の教皇は、何度か修復の試みもなされましたが、いずれも正統性を主張して譲らず、互いに破門しあいました。両教皇の死後も、それぞれの後継者を残し、教権の分立状態は解消されませんでした。ローマでは、ウルバヌス6世の後、ボニファティウス9世(ローマ教皇)が即位し、インノケンティウス7世さらにグレゴリウス12世と続きました。これに対して、アヴィニョンでは、クレメンス7世の後、ベネディクトゥス13世(対立教皇)が跡を継ぎました。
またこの分裂は、教会にとどまらずヨーロッパ各国の対立をもたらし、ヨーロッパは、神聖ローマ皇帝とフランス王を軸に二陣営に分かれて争いました。神聖ローマ帝国とイングランドと北欧の大部分は、ローマにいる教皇を、またフランス、スコットランド、スペイン、ナポリなどは、アヴィニヨンの教皇をそれぞれ支持しました。
こうした教会大分裂(大シスマ)も15世紀に入ってようやく事態収拾へ向けて動きはじめ、1409年にピサ教会会議が開催されました。この会議では、ローマとアヴィニヨンの2人の教皇(グレゴリウス12世とベネディクトゥス13世)の廃位を決め、新たにアレクサンデル5世が選出されました。しかし、2人の教皇は納得せず、結局、3人の教皇が鼎立(ていりつ)する異常事態になり、かえって混迷度が増してしまいました。
そこで、神聖ローマ皇帝ジギスムントの提唱で、1414年、コンスタンスツ公会議が開かれました。ジギスムントは、ピサ会議で新たに選出されたアレクサンデル5世の死後、引き継いだヨハネス23世が、会議を召集する形をとらせて、ドイツのコンスタンツでの公会議(1414~18年)開催にこぎつけることができました。
会議中、自らの正統性が確認されないことを悟ったヨハネス23世はコンスタンツから逃亡し、後に捕らえられ罷免されました。また、グレゴリウス12世は自ら退位を表明し、残ったベネディクトゥス13世は退位を拒否しましたが、公会議で廃位されました。こうして、1417年、新たにマルティヌス5世が教皇に選出され、ようやく教会大分裂は収束したのです。ただし、ローマ教皇の権威はもやは地に落ちてしまいました。
なお、現在の教皇庁では、教会大分裂(大シスマ)の時代、ローマの教皇を正統とし、教皇の代数もローマにいた教皇で数えます。アヴィニヨンの教皇やピサ会議で選出された教皇は「対立教皇」として扱われています。
また、コンスタンツ公会議では、異端問題の審査も行われ、ボヘミアのフスを異端として有罪とし、火刑に処しました。この時既に他界していたイギリスのウィクリフも異端であると断定され、遺体が掘り出され、改めて火刑にして川に流されました。両者は、聖職者の堕落や教会の世俗化を批判し、聖書こそ最高の権威であるとして、ウィクリフは英語、フスはチェコ語の聖書翻訳を行うなど、後の宗教改革の先駆的な役割を果たしました。
<参考>
カノッサの屈辱:叙任権の争い、教皇権の隆盛
十字軍:幻のエルサレム王国
<参照>
「世界史の窓」「世界の歴史マップ」、Wikipediaなどの関連サイト
(2020年9月20日、最終更新日2022年6月14日)