ウクライナの歴史をシリーズでお届けしています。初回は、主に、ウクライナの出発点となったキエフ大公国(キエフ・ルーシ)の発展と、モンゴル支配の経緯を概観しました。ウクライナもロシアも、ルーシ(ノルマン人)が建てた国を起源としていたことは注目に値します。
今回は、「タタールのくびき」を脱したのち、リトアニア、ポーランドの支配を経て、女帝エカチェリーナのロシアによって実質的に併合されるまでのウクライナの悲運の歴史を紐解いていきます。
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<リトアニアによる支配>
現在のウクライナの西部(西ルーシ)では、14世紀以降、衰退をはじめたキプチャクハン国の空白を北方のリトアニア大公国(1251〜1795)が埋めていきました。
◆ リトアニア大公国の発展
当時のリトアニア大公国は、現在のリトアニアからは想像できないほどの大国で、14世紀には、急速に勢力を拡大、ドイツ騎士団と闘いながら武力を強化し、スラヴ人居住地に進出してきました。リトアニア人は、北西から拡張し、ベラルーシやかつてのキエフ公国の領土(現在のベラルーシやウクライナの北部や南西部)を支配下に収め、1362年にはキプチャク=ハン国を破り、この地を「タタールのくびき」から解放しました。
しかし、リトアニア大公国はキプチャク・ハン(ジョチ・ウルス)に代わってキエフを占領し、キエフ公国(キエフ大公国から分裂した小公国の一つ)(1132〜1470)を自国の属公国に加え、領有し始めました(キエフ公位を廃され、キエフ公国が滅亡するのは、先の1470年)。また、このとき、リトアニアは、キプチャクハンの支配が及ばなかった、西のハールィチ・ヴォルィーニ大公国も従えて、領土を拡大しています。
リトアニア大公国は、最終的には、現在のミンスクを中心としたベラルーシ(白ロシア)、現在ロシア領のスモレンスク、ウクライナのキエフを含む広大な領土を支配下に収め、今日のウクライナの黒海のすぐ近くまで拡大しました。
◆ ポーランドの進出
一方、14世紀にはポーランドも西方からウクライナの地に進出してきました。ポーランドは西側からの神聖ローマ帝国とドイツ騎士団の圧力を受けており、出口を東方に求め、カジミェシュ3世の時、ウクライナ西部のハーリチ=ヴォルイニ公国に干渉し、同じくその地に干渉してきたリトアニアとも争い、リヴィウを中心とするガリツィア地方をその支配下に収めました。
ポーランドでは、1386年、カジミェシュ3世が亡くなると継承者がいなかったため、リトアニア大公のヤゲウォをポーランド国王として迎え、ポーランド王国と連合王国を形成、、両国は同君連合のリトアニア=ポーランド王国(1386〜1569)となり、ヤゲヴォ朝が成立しました。このリトアニア=ポーランド王国は、隆盛を極め、最盛期はバルト海から黒海(現在のリトアニア、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ)に至る欧州随一の大国でした。結果的に、ウクライナも、約4世紀にわたり、その中央部と西部を、リトアニア大公国に支配されることになります。
その後、キプチャク=ハン国は1502年に滅亡し、結果的に、かつてのキエフ大公国(キエフ・ルーシ)のモスクワを含む北部はモスクワ公国が、また、キエフを含む南部はリトアニア大公国(リトアニア=ポーランド王国)が支配するようになりました。
モスクワとの戦い
さて、こうしたなか、16世紀になると、拡大するモスクワ大公国と、リトアニア=ポーランド王国(拡大する東西のルーシ)の間に緊張が高まります。モスクワ大公国は、国力を増強するにつれて、ウクライナ全土への領有権を主張するとともに、西欧との通商を求めて、リトアニア=ポーランド王国と抗争するようになりました。
イワン雷帝(4世)は、1558年、バルト海への進出を試み、バルト海東岸の有力拠点リヴォニアをめぐり、リトアニア=ポーランド、スウェーデンなどと、リヴォニア戦争(1558~1583)を起こしました。
この戦いで、リトアニアは、辛うじてロシアに勝利しましたが、戦時中、財政的に破綻してしまい、1569年にポーランドと合同し、ポーランド・リトアニア共和国(通称)(正式名称「ポーランド王国およびリトアニア大公国」)となりました。ただし、合同と言っても対等ではなく、その実はポーランド王国によるリトアニア併合であったため、多くは、「ポーランド王国」と称されました(リトアニアはポーランド王国に統合され一旦消滅した)。
この結果、リトアニアはそれまで支配下に置いていたウクライナをポーランドに差し出し、キエフを含むウクライナのほぼ全域(南部の一部を除く)もポーランドの支配下に入りました。
<ポーランドによる支配>
ここでウクライナのポーランド化が起きました。従来のリトアニア大公国は、リトアニア人とベラルーシ人の連合国家であり、その下ではリトアニア人はカトリック、ベラルーシ人は正教を信仰するというように、正教も保護されており、ベラルーシ人のアイデンティティーは守られていました。
ところが、ウクライナがポーランドの支配下に移されると、ベラルーシ人のラテン化、カトリック化が始まりました。また、ポーランドにおいて、国王は有力な貴族(シュラフタ)によって選ばれる選挙王制が行われるなど、貴族の力が強力でした。ポーランド支配下のウクライナでも、ポーランド人貴族が土地を支配し、ウクライナ人は農奴化されていきました。
◆ コサックの登場
こうしたポーランドによる支配に対して、ウクライナでは、14世紀頃から、ウクライナや南ロシアの各地に現われた、コサックという騎馬武装集団が、反撃の狼煙(のろし)を上げていくことになるのですが、まず、コッサクについて、その成り立ちや展開をみてみましょう。
コサックの起源は明らかではありません(「コサック」はトルコ語で、「自由な人(民)」を意味する)。現在のウクライナ東南部の草原地帯には、歴史的に、イラン系のスキタイ、トルコ系のハザール、モンゴル系のタタールなど多くの遊牧民族が去来していたとされていますが、コサックはもともとトルコ人の馬賊たちで、ドネプル川下流域において半農半牧の生活を送る半独立的な一団でした。
それが15世紀になると(15〜16世紀にかけて)、キプチャクハン国の抑圧や、その後のモスクワ公国やポーランド王国(リトアニア公国・ポーランド王国)で農奴制などによる支配の強化を嫌い(領主への隷属を嫌って)、自由を求めて、辺境のステップ地帯(ウクライナや南ロシアの草原地帯)(リトアニア・モスクワ両公国の南部の辺境)(ドン川やドニエプル川辺り)に流亡した多数の農民や手工業者などの集団をさすようになりました
これらの地域に定住したコサックは、牧畜・狩猟のほか、漁業、養蜂(ようほう)、交易などで自治的な集団生活を送り、遊牧民などとの戦いの必要上,一種の軍事共同体を組織していきました。たとえば、カスピ海北部から侵入してくるトルコ系遊牧民タタール人と戦いながら次第に騎馬技術に長ずるようになり、隊長(アタマン)に指導された武装騎馬隊をつくり、やがて自らも略奪を行う自治的な武装集団となっていったのです。
ウクライナ人のなかにはモンゴル支配を嫌い、自らコサックの一団に参入し、モンゴル人に抵抗したものたちもいます。ウクライナ人の愛国主義者たちは、ポーランド人やロシア人に決して屈することのなかった誇り高いコサックこそが、自分たちの民族の原点であると主張しています。
こうしたコサック集団が、ドン川やドニエプル(ドネプル)川の流域に、地域ごとに組織されるようになり、ドン=コサック、ザポロージェ=コサック、ボルガ=コサック、シベリア=コサックとの戦士集団が形成されていきました。
コサック集団は、当初、周辺国家に依存しない独立した集団でしたが、16世紀頃から、自治権など特権を認められた代わりに、自分たちが属する国に軍務を提供する(国境防備などを担う)ようになりました。ウクライナにおいては、黒海に注ぐドニエプル(ドニプロ)川やドニエストル川流域で、多数のコサック集団ができあがっていきました。コサックははじめ農耕を行わず,狩り,漁業,養蜂を生業とし、時には,小舟を編成して、平原や河川での略奪をこととし,黒海やカスピ海の対岸まで遠征したと言われています。
そうしたコサックの中で、ザポロージェ=コサックが勢力を強め、ウクライナ・コサックの代表的存在となっていきました(ザポロージェは「早瀬の向こう」の意)。
◆ ザポロージェ=コサック
ザポロージェ=コサックは、1552年、ルテニア(ルーシのラテン語の外名)系貴族のドミトロ・ヴィシネヴェツキ(ドムィトロー・ヴィシュネヴェーツィクィイ)が、現在のザポリージャに近いドニエプル川下流のホールツィツャ島の、早瀬( 川の流れの浅くて速いところ)の中州に、最初のシーチ(要塞)を築いたことに始まります。
シーチ(要塞/本営)の首領は、通常、オタマン(アタマン)と呼ばれますが、ウクライナ・コサックでは、彼らの棟梁の伝統的な称号(コッサクの長)として、ヘーチマン(ヘトマン)(棟梁)が多用されることがあります。これは、ラーダ(評議会、総会)によって選出される最高職として、ヘーチマン(ヘトマン)が置かれるようになったからです(すべて重要事項はラーダという全員集会で決められた)。
厳密には、オタマン(アタマン)とヘーチマン(ヘトマン)は、役割と時代によって、使い分けされる場合もあります。たとえば、オタマン(アタマン)は、シーチのキーシュ(陣営)を指揮するコサック軍の長官です。これに対して、ヘーチマン(ヘトマン)は、1572年の登録コサック制度(後述)制定の後に使われるようになり、軍司令官としての地位のほかに、司法権を行使し、行政面において小さからぬ権力を有するなど、文官の長としても全権を有していました。一時期、ウクライナ国家の元首の称号として用いられたこともあります。
しかし、一般的には、両者は、ラーダ(評議会)の選挙で選ばれた組織の長(頭目)という意味で、指導者の称号として同義語とされる場合が多いようです。
ザポロージェ=コサックは、はじめはポーランド王に従属していました。16世紀初頭、ポーランドはドニエプル川周辺にあったコサック集団をまとめ、ザポロージャ・コサックに南部の防衛を任せていたからです。そのため、ポーランド政府の軍事力としてモスクワ公国との戦いに従軍して勇名を馳せるようになったほか、キリスト教の先兵としてタタール人のクリミア=ハン国や、オスマン帝国のイスラーム教徒とも戦い、次第に独立した政治勢力となっていきました。
◆ フメリニツキーの独立運動
前述したように、1569年にポーランドとリトアニアの連合によるポーランド・リトアニア共和国が成立しましたが(実質的なポーランド王国)、ポーランド王は次第にコサックの統制に手を焼くようになり、1572年には登録制度(登録コサックの制度)を導入しました。
これは、コサックが政府に届け出ることによって地位や給与、土地の所有などの権利を保障するもので、コッサク運動の拡大を防ぐために編成されました。登録コッサクは、300人のコサックから編成された小軍団でしたが、登録コサック以外の非登録コサックは、政府によってコサックとして認められず、盗賊と見なされました。
こうしたポーランド支配に対し、ザポロージェ=コサックは自治権を守るため、1648年、ボフダン・フメリニツキーをアタマン(頭領)として大反乱を開始しました。すると、反乱はウクライナ各地に広がり、独立運動となっていきました(この独立運動は、フメリニツキーの乱、コサック・ポーランド戦争などと呼ばれる)。
フメリニツキーは、一時ワルシャワ近くまで進撃したが、引き返してキエフに入城し、1649年、コサックのヘチマン(アタマン)を元首とする事実上の独立国家、へチマン(アタマン)国家を作り上げました。
前述したように、ヘーチマン(ヘチマン)は、もともと、ウクライナ・コサックの棟梁の伝統的な称号でしたが、1648年から元首の称号として用いられるようになりました(〜1764)。この結果、ヘーチマンの行使する全権は軍事面に留まらず、行政、立法、司法の全てにおいて集中的な権力を有することとなりました。
このザポロージャ・コサック国家(へチマン国家)の範囲はキエフを中心とした数州に限られ、現在のウクライナの面積には及びませんが、最初の実質的なウクライナの独立国家と、ウクライナでは位置づけられています。ギリシャ正教会からは、ローマ=カトリックに対する勝利として捉えられ、フメリニツキーはキエフ府主教から「ポーランドへの隷属からルーシを解放した者」、「第二のモーゼ」と讃えられました。
しかし、ザポロージャ・コサック国は、これまで、ポーランドと戦う上で、生活様式などでコサックに近い存在であったクリム=ハン国のタタールと同盟を結んでいましたが、1651年にはタタールが離反したため、ポーランド王党軍との戦いに敗れました。
そこで、フメリニツキーは、ポーランド王国と敵対関係にあったロシアに支援(庇護)を要請すると、モスクワのロマノフ朝(1613~)(ロシア・ツァーリ国/1547~1721)はウクライナのコサックを保護下に置くことを決め、1654年にペレヤースラウ協定(臣従協定)を結びました。フメリニツキーの反乱(コサック・ポーランド戦争)を契機として誕生したへ―チマン国家は、1654年以後、ロシア・ツァーリ国(ロマノフ朝)の保護を受けることになったのです。
なお、ペレヤースラウ条約(1654年)において、フメリニツキーが創立したコサック国家の存在を法律で承認され、「ザポロージャのコサック軍」(へ―チマン国家)(1649~1782)という正式な国号を有しました(へ―チマン国家の由来は、国家の君主であるヘーチマン(アタマン)によって統治されたことによる)。
◆ ウクライナ東部のロシアへの編入
協定から3年後の1657年、フメリニツキーは死去し、「フメリニツキーの乱」は事実上、終わりましたが、ウクライナの「ザポロージャのコサック軍」とポーランド=リトアニア共和国(ポーランド王国)との戦争は、ロシアとポーランドの戦争(ウクライナ争奪戦争/ロシア・ポーランド戦争)(1654〜1667)に変質し、1667年にアンドルソヴォ条約によって講和となりました。
この和約により、ウクライナのコサック国家は、ドニエプル川を軸に分割され、キエフを含むドニエプル川左岸(ウクライナの東半分/東ウクライナ)は、ロシア領となり、ロシアの防衛に貢献するコサック国家として繁栄しました(ロシアにとっては、キエフはロシア国家の発祥の地であったので、その故地を回復したとされた)。一方、ドニエプル川右岸(西ウクライナ)は、ポーランドに割譲され、1699年にコサック隊は廃止されました。
<ロシア帝国による支配>
◆ ピョートル大帝の南下政策
ロマノフ朝のピョートル1世(在1682~1725)は、南方に関しては、不凍港を求めて、オスマン帝国が支配する黒海沿岸に進出する南下政策を始め、1696年には、黒海につながるアゾフ海に面したアゾフを占領しました。
1711年、いったんはオスマン帝国の反撃を受けて放棄しましたが、ピョートル大帝の死後おきた、1735年の露土戦争の攻防の結果、1739年にロシア領であることが認められました。ロシアのアゾフ獲得は、ロシアの黒海方面への進出、いわゆる南下政策の第一歩でした。
一方、ロシアの保護下にあったザポロージェ=コサックの新アタマン(へ―チマン)(棟梁)のマゼッパ(マゼーパ)は、当初、ロシアのピョートル大帝の南下政策に協力して戦っていました。しかし、ロシアの南下政策に多くのコサックが犠牲となっていたことから、マゼッパはその代償として、ザポロージェ=コサックの自治権を求めましたが、ピョートルはそれを認めませんでした。
そのため、北方戦争(1700~1721)(バルト海域の覇権をめぐるスウェーデンとロシアとの戦い)が始まると、マゼッパは途中からスウェーデン側に転じ、ピョートル大帝のロシアと敵対することになりました。1709年、ウクライナの中部のポルタヴァで、スウェーデンとウクライナ・コサック(ザポロージェ=コサック)の連合軍とロシア軍が激突しましたが、コサックの騎馬兵は、ロシア軍が大砲の火力で打ち負かされました(マゼッパはオスマン帝国に亡命、その地で死亡)。
ロシアからの離脱を図るザポロージャ・コサックの試みは失敗に終わり、この結果、コッサクの国家「ザポロージャのコサック軍」(へ―チマン国家)は、コサックの自治権が大きく削減され、1722年に政府が廃止されました。
その後ヘーチマン政府は、一時期に回復されましたが、次のエカチェリーナ2世の時代の1764年に最終的に廃止されることとなり、コッサクの国家は事実上滅びました。(形式的には1782年まで存続)。ピョートル1世は、ウクライナのロシア化の一環として、ウクライナ語を禁止しました。ウクライナを「小ロシア」とする呼び方はこの時に定着します。「小ロシア」にはウクライナをロシアの従属地域とする蔑称としての意味が込められていました。
◆ エカチェリーナ2世の侵攻
女帝エカチェリーナ2世(在位1762~1796)は、南下政策を具体化して、黒海方面へと進出し、2度にわたる露土戦争( 1768年–74年、1787年–92年)などの結果、オスマン帝国から、黒海沿岸とクリミアを奪いました。その経緯をみてみます。
黒海北岸(ノヴォロシア)獲得
ロシアは、1768年にオスマン帝国と戦い(ロシア=トルコ戦争)、勝利すると、1774年、キュチュク=カイナルジ条約を締結、黒海沿岸地帯を獲得(征服)(併合)しました。この地域は、ザポロージャを含む黒海北岸で、「ノヴォロシア」(新しいロシア)と呼ばれました。
エカチェリーナ2世が、新しく征服した「ノヴォロシア」は、その後も広がり、現在のウクライナでいえば、東部のハリコフ、ルガンスク、ドネツクなどの諸都市が位置するドネツク州とルガンスク州(両州は通称ドンバス地域と呼ばれる)や、ヘルソン、ニコラエフ、オデッサを含む南部に該当します。
クリミア領有
また、同じ露土戦争(1768~74年)後の条約で、キプチャク=ハン国の分国としてクリミア半島のタタール人が建国したクリム=ハンで国の独立を認めさせ、オスマン帝国の干渉を排除した上で、1783年に、軍隊を派遣してクリム=ハン国を併合し、黒海の制海権を握る上で重要な戦略拠点であるクリミア半島を領有しました(87年のロシア=トルコ戦争でオスマン帝国にクルミア併合を承認させた)。
加えて、エカチェリーナ2世は、ピョートル1世(在1682~1725)が実施したウクライナ語禁止政策を引き継いだだけでなく、ロシア帝国の行政統治を、1667年に獲得したキエフを含むドニエプル川左岸(東側)のウクライナにも徹底し、ロシア化を推進しました。
ウクライナ(小ロシア)編入
コサックのアタマン国家(ヘーチマン国家)廃止を、1764年に最終的(正式に)決定すると、ウクライナは「小ロシア」と称されるようになり、翌1765年に国土はロシアの小ロシア県に編成されました。ウクライナ内もロシア本土と同じく、キエフなどの三県を置き、ロシア帝国の一部となったのです。さらに、1786年にコサック連隊(ザポロージェ=コサック)は廃止、ロシア軍に編入されました。
ウクライナのロシア化によって、ウクライナ東部(ドニエプル左岸)が、ロシア帝国の内地と同様に取り扱われるようになりました。ロシアの下に入ったドニエプル左岸に対し、ドニエブル右岸(ウクライナ西部/西半分)は、なおも、ポーランド支配下にあり続けました(ポーランド領として残っていた)が、18世紀末のポーランド分割の結果、ドニエブル右岸もロシアに併合されました。
ポーランド分割
ロシア・ポーランド戦争(1654〜1667)に敗れ、その後も国力を衰退させたポーランドは、共通の敵であるロシア、プロイセン、オーストリアによって、1772年、1793年、1795年の三回にわたり分割を受けました。ポーランド王国は国家として消滅し、ポーランド領であったウクライナの領域は、1793年の第2回でドニエプル右岸(ウクライナ西部)の大半が、また1795年の第3回で残りのウクライナがロシア領に編入されました。
ただし、ウクライナの西部のガリツィア地方はオーストリア領となり、ハプスブルク家の支配下に入りました(ただし、第一次世界大戦後、一時ポーランド領になったが、第二次世界大戦後、ソ連領となりウクライナに編入、ソ連崩壊後の現在は独立したウクライナの領土となっている)。
この結果、17世紀半ばのキエフを含むドニエプル川左岸(東側)(ウクライナの東半分)に続き、18世紀末のポーランド分割により、ドニエプル川右岸(西側)(ウクライナの西半分)の地も西部のガリツィア地方を除き、ロシアに割譲されました。
現在のウクライナの地は、東部はロシア帝国領(この地域が小ロシアと呼ばれた)、西部はオーストリア帝国領(全体の2割)という形で分断され、この状態は第一次世界大戦まで120年間続くこととなります。
このように、エカチェリーナ2世の時代、ウクライナはロシアの一部となり、実質的にロシアに併合されました。もっとも、ロシアにとっては、歴史的にはこの地(ドニエプル川右岸)はロシア国家(キエフ・ルーシ)の領土だったと主張し、それを奪回したに過ぎないと考えていました。事実、後にポーランドが復活してもこの地が、ポーランドに戻ることはありませんでした。
ウクライナはピョートル1世とエカチェリーナ2世によって、従属させられました。そのため、ウクライナ人は「われらを拷問したピョートル1世、われらに止めを刺したエカチェリーナ2世」と2人の皇帝を形容しているそうです。
◆ ウクライナ人への差別と弾圧
19世紀後半のウィーン体制を崩壊させたナショナリズムと自由主義の高揚はウクライナにも影響を及ぼし、ウクライナ人の民族運動が活発化し、次第にウクライナ人としての民族的自覚、民族の独立と統一を求める動きが生まれていきました。しかし、ロシア帝国は出版や新聞による言論を厳しく統制し、反抗的な者を容赦なく、シベリアへ流刑にしました。
また、ウクライナは肥沃な穀倉地帯で、小麦を豊富に産出していたこともあり、ロシア人はウクライナ人を農場で強制労働させました。ロシアには、「農奴」と呼ばれる奴隷的な農民階級があり、多くのウクライナ人が農奴に貶められて、搾取され、差別されました。
ウクライナは、コサックの勢力が盛んな時期に、「ヘトマン(へ―チマン)(コサックの頭領)の地」などとも呼ばれましたが、ウクライナの人々は通常、「キエフ・ルーシ」と呼んでいまいた。
しかし、ロシアに組み込まれ、弾圧が激しくなった19世紀頃から、ウクライナ人たちは自分たちをロシア人と区別するため、「ルーシ」の呼称を改め、「ウクライナ」を用いるようになります(ウクライナという呼称がようやく19世紀に確立した)。「ウクライナ」は、通常、「辺境」を意味すると解されています(ロシアもそう主張)が、「ウクライナ」は中世ルーシ語で、「国」という意味があるととらえています。
<関連投稿>
ロシアの歴史
ウクライナの歴史
ロシア・ウクライナ戦争を考える
<参照>
ロシアとウクライナ「民族の起源」巡る主張の対立ウクライナと呼ぶようになったのはなぜなのか
(2023/03/24、東洋経済)
ロシアとウクライナのキリスト教を知らずに“プーチンの戦争”は語れない
(2022年9月2日 Economist online下斗米伸夫)
世界最大の領土を誇った大陸国家ロシア帝国ができるまで/
(図解でわかる 14歳からの地政学、 2022年4月4日)
女は拉致、残りは虐殺のモンゴル騎馬軍…プーチンの猜疑心の裏に「259年に及ぶロシア暗黒史」
(2023.11.3 19:00、Diamond online 池上彰)
手にとるように世界史がわかる本
(かんき出版)
ウクライナ(世界史の窓)
Wikipeidaなど
投稿日:2025年4月5日