ウクライナ史➀:ルーシのキエフ大公国

 

ウクライナの歴史を学ぼうとするとき、どうしても、ロシア史の視点からウクライナ史をみてしまいがちであるように思います。そこで、ウクライナの視点から、ウクライナの歴史をシリーズで概観していきます。

 

第1回目は、ウクライナの民族の成り立ちから、国家の起源となったキエフ大公国の誕生・発展と、キエフ大公国を滅ぼしたモンゴル支配までの歴史をみてみましょう。

 

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<キエフ大公国(キエフ=ルーシ)>

 

◆ 発祥はスラブ族

民族や人種の括りにおいて、ウクライナ人もロシア人(ベラルーシ人)もスラブ族の中の東スラブ人に属します。

 

バルト海の北の地域を発祥とされるスラブ人は、現在のポリーシャ(北ウクライナと南ベラルーシの国境に沿って細長く広がる地域)に移住した後、4世紀以降本格化したゲルマン民族の大移動(4~6世紀)に影響されて、ヨーロッパ各地へと移動(移住)を繰り返しました。その過程で、6、7世紀頃までに、移住した地域にしたがって、東スラブ人・西スラブ人・南スラブ人に分化しました。

 

このうち、東スラヴ人は、ドニエプル流域やボルガ川の上・中流地方の一帯、現在のベラルーシ、ウクライナ北部、モスクワ周辺のロシアに移住してきました。

 

また、ギリシアの歴史家ヘロドトスの「歴史」によれば、現在のウクライナの首都キーウ(キエフ)の地域には、紀元前750年頃、カスピ海北岸からイラン系と思われるスキタイ民族が移り住み、鉄器を使用する遊牧生活を送っていました。スキタイ民族は、この地域にスキタイ王国(紀元前8世紀 – 紀元前3世紀)を築き、キエフはその一部でした。

 

その後、5~6世紀頃、スラブ系の「アント人」が、北東から南下し、キエフを含むドニエプル(ドニプロ)川中流域からローシ川(ドニプロ川の右支流)にかけて定住したとされています。

 

次いで、東スラヴ人の一部は、5世紀末から6世紀頃に、ドニエプル流域、現在のベラルーシ、ウクライナ北部に移住しました。このとき、キーイ、シチェク、ホリフという伝説的な3兄弟(キエフの3兄弟として知られている)が、キエフ(キーウ)を建設したと言われ、長兄であるキーイの名前から「キエフ(キーウ)」という都市名が付けられたとされています。

 

◆ ノルマン人ルーシの南下と建国

 

いずれにしても、その後、東スラブのこの地域を最初に統一・支配したのは、バイキングのノルマン人でした。ノルマン人は、インド=ヨーロッパ語族のゲルマン人に属し(北方系ゲルマン民族の一派)、古代からスカンディナヴィア半島(スウェーデン)やユトランド半島(デンマーク)を原住地として、狩猟や漁労で生活していましたが、8世紀ごろから移動を開始しました。

 

9世紀(862年)には、スウェーデン系ノルマン人(「ルーシ」と言われたルーシ族)が、首長リューリク(830頃~879頃)に率いられてバルト海を渡り、海から川をさかのぼってロシア草原に侵入、ロシア北西のノヴゴロドを占領しノヴゴロド国を建国しました。

 

その後もノルマン人たちは次第に南下し、リューリクの一族であったオレーグは、882年、バルト海と黒海を結ぶドニエプル川中流のキエフを占領、キエフ公国(キエフ=ルーシ)を建国しました。ノルマン人(ルーシ)がキエフに建てた国であるからキエフ公国はキエフ・ルーシとも呼ばれました。このとき、都もノヴゴロドからキエフに本拠を移しています。ノブゴロド国は、キエフ公国に統一されました。このキエフ公国(キエフ・ルーシ)こそが、現在のウクライナだけでなく、ロシア、ベラルーシにとって国家の起源となります。

 

また、この過程で、ノルマン人たちは、その地に住んでいた東スラブ人(スラヴ民族)を征服。同化しながら、後のウクライナ人(ロシア、ベラルーシ人)の祖先となりました。ウクライナ人もロシア人もリューリクが率いたルーシ族(スウェーデン系のノルマン人)とスラブ族(東スラブ人)に共通の起源を持つというわけです。

 

キエフ公国は、ドニエプル川流支配し、ビザンツ帝国との交易によって栄えました。とりわけ、キエフ(キーウ)は、その中心都市として、毛皮などの交易の中継地として発展しました。

 

キエフ公国のオレーグは、さらに南下し、ドニェプルから黒海に進出すると、カスピ海北岸のハザール=カガン国(トルコ系遊牧民族の国)を圧迫し、またバルカン半島ではブルガール人などと競いながら、領土を広げ、ビザンツ帝国を脅かす存在となりました。

 

オレーグの死後、912年、リューリクの子のイーゴリが「大公」として治めることになり、キエフ・ルーシも正式にキエフ大公国となりました。(正式に公国(大公国)となった。)

 

以後、キエフ大公位はリューリクの息子に引き継がれたことから(歴代、リューリクの血筋の者が公位を継承したことから)、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)はリューリク朝とも呼ばれます。リューリク朝は、キエフを中心に、その一族が治める複数の公国による緩やかな連合体でした(キエフ大公国が滅亡しても、リュ―リク朝は一部で存続する)。

 

◆ キエフ大公国の発展

 

キエフ大公国(キエフ・ルーシ)は、ウラジミール1世(ウラジーミル大公)(在:980〜1015)と息子のヤロスラフ1世(在:1016〜1054.2)のときに最盛期を迎えました。

 

ウラジミール1世は、ビザンツ帝国の混乱に乗じてコンスタンティノープルに軍隊を進めて圧力をかけ、988年、ビザンツ皇帝バシレイオス2世の妹を后に迎えると、同時に、キリスト教の正教会(ギリシャ教会)に改宗しました。さらに、正教会を国教に定め、キエフ公国はキリスト教国となりました。

 

また、これによって、キエフ公国(キエフ・ルーシ)には、ビザンツ文化が流入し、スラブ人の文化との統合が始まりました。この時、ギリシア正教のみならず、キリル文字(9世紀、スラヴ人への布教のためにギリシア人宣教師キュリロスが考案したとされている文字)も受容し、これを基礎にウクライナ文字が形成されていきました。

 

ウラジーミル大公の次のヤロスラフ1世(在1016〜1054.2)の治世に、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)の領土は最大となり、北は白海から南は黒海、西はヴィスワ川の源流から東はタマン半島まで広がり、東スラヴ民族の大半を束ねました。ヤロスラフ1世は、賢公とも称され、領土の拡大だけでなく、ビザンツ文化をさらに積極的に摂取するなど、キエフ大公国の絶頂期を体現したと評されています。

 

◆ キエフ大公国の衰退と崩壊

 

しかし、ヤロスラフ賢公の死後、複数の公国が緩やかに連合していたキエフ大公国は、諸公間の対立抗争が激しくなり、分裂していきます。また、諸侯が自立、割拠し、キエフ大公以外に多く公国が分立して争うようになっていきました。実は、死に際してヤロスラフ1世は、子供たちを重要な都市へ配して国家を安定させようと図りましたが、かえって争いが頻発する結果になったのです。

 

もっとも、ウラジーミル2世モノマフ(在1113〜1125)とその子ムスチスラフ1世(在位:1125〜1132)の時代に分断はいったん止められ、キエフ・ルーシ全体の統一を回復しかけました。しかし、ムスチスラフ1世の死後(1132年)は、再び諸公の争いが頻発し、キエフ大公の権威は低下、キエフはリューリク家の血を引く諸公達の争奪戦の場所となりました。

 

その結果、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)の封建体制は崩壊し、北西ルーシのノヴゴロド公国(1136〜1478)、モスクワを含む北東ルーシのウラジーミル・スーズダリ大公国や、南西ルーシ(西部)のハールィチ・ヴォルィーニ(ガーリチ・ボルイニ)大公国(1199〜1349)、南東ルーシ(南部)のキエフ公国(1132〜1470)などが割拠するなど、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)は、10〜15の公国に分かれ国土が完全に分裂していました(キエフ大公国はその実体を失い、キエフを中心とするキエフ公国がその残滓を留めた)。

 

なお、現在のウクライナの領土に限定すれば、キエフ大公国は、東部のキエフ公国と、西部のハールィチ・ヴォルィーニ大公国とで、その領土が二分されたことになります。

 

さらに、経済面においても、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)は、バルト海と黒海を結ぶドニエプル川流域での河川貿易で繁栄しましたが、12世紀以降、十字軍遠征と、イタリアを中心とする地中海交易が活発化し、ドニエプル川流域の交易が相対的に衰退していきました。このキエフ大公国(キエフ)の相対的な経済力の低下が、地方諸公の経済的自立傾向を強めていった要因となります。

 

加えて、たびたび攻撃してくるポロヴェツ族(テュルク系の遊牧民族)との戦争もあいまって、キエフの街とキエフ地方は荒廃し、人々は北東のノヴゴロドやモスクワなどへ移住していきました(ルーシ国家の中心は、モスクワを中心とする森林地帯に移行していった)。

 

 

<キプチャク=ハン国による支配>

 

◆ モンゴル軍の侵攻

 

このような分裂状態であったキエフ大公国(キエフ・ルーシ)に、1237年、東方からチンギス・ハンの孫バトゥが率いるモンゴル帝国の大遠征軍が襲来すると、個々の公国が次々と撃破されました。キエフをはじめとした諸都市は、モンゴル人によって破壊しつくされ(蹂躙され)、人々は虐殺、都市そのものも瓦礫の山になったと言われています。1240年には、キエフも占領されて、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)は、事実上、滅亡しました(南ルーシは制圧されたが、北や西に位置した一部リューリク朝の公国は存続)。

 

しかし、バトゥの率いるモンゴル軍は、モンゴル帝国2代ハンであったオゴタイの死去の知らせを受け、1242年に東ヨーロッパから引き揚げました。しかし、バトゥはモンゴルに戻らず、ボルガ川下流の草原地帯に留まり、南ロシア一帯を支配しました。そこに建てられた国がキプチャク=ハン国で、1243年、ボルガ川下流のサライを都として成立しました。

 

なお、バトゥは、父ジョチから引き継いだジョチ=ウルス(遊牧政権)をこの地に維持し、発展させたことから、キプチャク=ハン国の正しい国名は「ジョチ=ウルス」です(キプチャク=ハン国は俗称)。

 

◆ タタールのくびき

 

広大な南ロシアの草原を領土とするキプチャク=ハン国(ジョチ・ウルス)では、いくつかの地方政権に分けられ、それぞれキプチャク=ハン国に貢納させられる封建的分立状態が続きました。

 

このモンゴル人による支配は、モンゴルに押さえつけられていたという意味で、「タタールのくびき」の時代として呼ばれ、以後13世紀から15世紀にかけての2世紀の間(259年)、抑圧され停滞をもたらしたとされています。現在のウクライナの地域も大部分がキプチャク=ハン国の支配を受けることになりました。

 

タタールとはモンゴル人のこと、「くびき(軛)」とは牛や馬を御する時に首に付ける道具の意で、(ウクライナの大半を含む)ロシアがモンゴルに押さえつけられていた時代を表します。

 

ただし、「タタールのくびき」もモンゴルとの関係の濃淡によって、地域によって異なり、東西のルーシが別々の発展を遂げることとなりました。モンゴルの影響を特に強く受けたのが東ルーシで、今日のロシアに当たり、これに対して、影響が相対的に小さかったのが西ルーシ、今日のウクライナとベラルーシです。

 

ハーリチ=ヴォルイニ公国

キプチャク=ハン国の支配を受けたウクライナの中で、モンゴル(キプチャクハン国)の直接支配を回避できた国もありました。その一つが、西部のガリツィア地方にあったキエフ大公国の一地方政権、ハーリチ=ヴォルイニ公国(1199〜1349)で、よくモンゴル軍に抵抗した結果、キプチャク=ハン国に臣従(朝貢)する形になりましたが、国家としては存続しました。

 

ウクライナの歴史では、この国をキエフ大公国(キエフ・ルーシ)の後継国家として、同時にウクライナ人の最初の国家と位置づけられています。

 

しかし、このハーリチ=ヴォルイニ公国は、長く存続することができず、1349年になって、北をポーランド、南をリトアニアに併合され、消滅してしまいました。(なお、これ以後、現在のウクライナの地に、1917年にウクライナが独立するまで、独立国家が存在することはなかった)。

 

◆ キプチャク=ハン国の衰退

 

14世紀前半に全盛期となったキプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)でしたが、イスラム化にともなう領域内のトルコ系民族の自立や、国内の内紛、さらに東方ではティムール帝国の侵攻を受けるなど、14世紀の末ごろから次第に衰退していきました。

 

モスクワ公国

そうしたなか、東ルーシ(東スラブ東部)においては、いくつかある地方政権の中で、次第に有力となったのが、キエフから北東のモスクワに逃げた人たちによって、1271年に建国(形成)されたモスクワ公国で、徐々に周辺諸公国を併合し強大化していきました。

 

1480年にはついに、イワン(イヴァン)3世(在1462〜 1505)が、キプチャクハン国から独立を達成し、1237年以来続いた250年にわたるモンゴル支配、いわゆる「タタールのくびき」から脱することに成功しました(キプチャク=ハン国は1502年に滅亡する)。

 

クリム=ハン国

現在のクリミアの前身であるクリム=ハン国は、当時ロシアの影響を受けることなく、独自の道を歩みました。

 

クリム=ハン国(クリミア)(1430頃~1783)は、ウクライナの東南部、黒海北岸のクリミア半島につくられたタタール系イスラーム国家で、1426年(1430年)頃、衰退したキプチャク=ハン国の分国(辺境国)のひとつとして成立しました。

 

建国者は、チンギス・ハンの長子ジュチの血を引く(キプチャク−ハン国の建設者バトゥの弟の子孫)ハジ・ギライ(ハージー・ギレイ)です。首都は、クリミア半島の南端に近い黒海北岸のバフチ・サライで、住民はトルコ系でクリミア・タタールとよばれるイスラム文化と商業との中心地でした。

 

クリム=ハン国の遊牧民タタールは、ロシア草原で盛んに略奪を行い、スラヴ系住民を捕らえてコンスタンチノープルに運び、イスラーム商人に売りさばく奴隷貿易で繁栄していました。そのほか、クリミア半島のクッファなどの海港都市を支配していたジェノヴァ商人とも取引を行い、黒海貿易の利益を独占していました。

 

しかし、そのころ、小アジアからバルカン半島にかけて勢力を伸ばしてきた同じイスラーム教国のオスマン帝国は、さらに黒海に進出してきました。1475年にはクリミア半島のクッファを占領し、クリム=ハン国と利害が対立しましたが、クリム=ハン国はオスマン帝国との衝突を避け、その宗主権を認めて保護下に入りました(完全な属国となったのではなく、一定の独立を保った)。

 

その後、クリム=ハン国は、オスマン・トルコ帝国の後援のもとにロシア、ポーランドと争って、領土をクリミア半島からウクライナ南部に拡大しました。

 

1502年には、ロシアとともに、キプチャクハン国の首都サライを攻略、キプチャク=ハン国を滅亡させると、チンギス=ハンの子孫を自称するタタール人(モンゴル方面にいた遊牧騎馬民族)のメングリ=ギレイがハン(君主)として支配し、全盛期を迎えました。このとき、黒海北岸をドニエプル川下流域から北カフカスの一部まで支配し、タタールのみならずノガイ・オルダの一部まで支配する王国に成長しました。

 

リトアニアの台頭

一方、西ルーシ(東スラブ西部)では、14世紀以降、モンゴルが衰退した後、その空白を北方のリトアニア大公国(1251〜1795)が埋めていきました。正確には、リトアニア大公国とポーランド王国が対抗しながらウクライナ北部に勢力を伸ばしてきました。

 

次回は、リトアニアとポーランドによるウクライナ支配の歴史からみていきます。

 

 

<関連投稿>

ロシアの歴史

ロシア史①:キエフ・ルーシとモスクワ大公国

ロシア史②:ツァーリとロシア帝国

ロシア史③:ロシア革命とソ連

ロシア史④:冷戦とソ連崩壊

ロシア史⑤:エリツィンとオリガルヒ

ロシア史⑥:プーチンの独裁国家

 

ウクライナの歴史

ウクライナ史②:リトアニア・ポーランド・ロシア支配

ウクライナ史③:独立の失敗とソ連編入

ウクライナ史④:ソ連からの独立とロシアの侵攻

 

ロシア・ウクライナ戦争を考える

スラブ民族:ロシア人とウクライナ人の起源

ロシア・ウクライナ関係史:ルーシーの歴史的一体性

プーチンの歴史観:ルーシキー・ミール

ウクライナ侵攻:ロシアがNATOこだわるわけ

ロシア正教会とウクライナ正教会:もう一つの戦争

 

 

<参照>

ロシアとウクライナ「民族の起源」巡る主張の対立ウクライナと呼ぶようになったのはなぜなのか

(2023/03/24、東洋経済)

ロシアとウクライナのキリスト教を知らずに“プーチンの戦争”は語れない

(2022年9月2日 Economist online下斗米伸夫)

世界最大の領土を誇った大陸国家ロシア帝国ができるまで/

(図解でわかる 14歳からの地政学、 2022年4月4日)

女は拉致、残りは虐殺のモンゴル騎馬軍…プーチンの猜疑心の裏に「259年に及ぶロシア暗黒史」

(2023.11.3 19:00、Diamond online 池上彰)

手にとるように世界史がわかる本

(かんき出版)

ウクライナ(世界史の窓)

Wikipeidaなど

 

 

投稿日:2025年4月5日

むらおの歴史情報サイト「レムリア」