ロシアとウクライナの歴史をシリーズでお届けしています。ロシア人もウクライナ人も、ともにスラブ民族(Slavs)に属します。そうすると、ロシアとウクライナの戦争は同じ民族同士の戦争ということになります。世界史をみても、第一次世界大戦のきっかけは、ロシアを中心とする汎スラブ主義、ドイツを中心とする汎ゲルマン主義の戦いでした。そこで、今回は、そんな世界の歴史の節目に登場してきたスラブ民族についてまとめてみました。
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<スラブ民族の起源>
スラブ人は、スラヴ語系の言語を話す人々の総称で、ヨーロッパ諸民族中最大の民族集団です(スラブ諸語は、言語系統上インド・ヨーロッパ語族に属する)。6世紀以降、東ヨーロッパからロシアにかけて居住していました。
スラヴ人発祥の地(原スラブ人の故地)は、いまだに定説はありませんが、バルト海の北にあったとされています。そこから原スラヴ人たちは、現在のポリーシャ(北ウクライナと南ベラルーシの国境に沿って細長く広がる地域)に移住したと考えられ、カルパチア山脈の北のヴィスワ川から、ドニエプル川にかけての一帯で、狩猟・農耕生活を行っていたとみられています。
この意味では、中部ヨーロッパから東欧にかけて横たわる、カルパチア山脈北麓(ほくろく)を、実質的なスラブ人の原住地(起源地)とする見方もあります。
原スラブ人たちは、4世紀からのゲルマン民族の大移動に影響されて、ゲルマン人が去った後の5~6世紀にかけて、主要河川流域に沿って移動を始め、東ヨーロッパやバルカン半島、さらにはロシア平原の西部に広がりました。
たとえば、5世紀末には、カルパチア山脈から南方へ進出しだし,ドナウ川下流域(黒海北西部沿岸)や、バルカン半島(ビザンティン帝国領)に侵入しました。
6世紀に入ると,スラブ人は、ドニエプル川上流域やその北部領域(ロシアの草原地帯)を占領し,さらにエルベ川下流域やバルト海南東部沿岸(東ヨーロッパ)にまで進出しました。
その後も、ヨーロッパ各地へと移動(移住)を繰り返す過程で、6、7世紀頃までに、地理的位置と言語としてある程度の一体性を持っていたものが、緩やかにまとまっていきました。そして、住む場所によって、次第に、東スラブ(人)・西スラブ(人)・南スラブ(人)の3群に分かれ、9世紀以降、多様なスラブ民族の国家を形成していったのです。
西スラヴ
北はバルト海沿岸、南はドナウ川中流まで、東はヴィスワ川流域から西はエルベ川流域まで。
南スラヴ バルカン半島
東スラヴ ドニエプル川上・中流を中心としたロシア平原西部
スラブの語源
スラヴ人は英語で Slavs 、奴隷を意味する英語は Slaves と類似しています。これは、10世紀にドイツのオットー大帝が、現在のハンガリーにいたマジャール人を討った際、その地にいたスラヴ人を捕らえ、多数を奴隷として売ったことから、ヨーロッパでは「スラヴ」が「奴隷」と同じ意味に使われるようになったと言われています。
<スラブ民族>
では、9世紀、東スラブ・西スラブ・南スラブから、最初の民族国家を形成する時代までの経緯についてみてみましょう。
◆ 東スラブ
東スラブ(人)(族)は、ロシア平原西部に住む、現在のロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ(白ロシア)人をさします。彼らは、バルト海北方から、ドニエプル(ドニェプル)川とボルガ川のそれぞれ上・中流域に移住し、そこに先住していたアジア系のフィン人と混血しました。
9世紀に、スウェーデン系のノルマン人(「ルーシ」と言われた)がロシア草原に移住してきて、ロシア北西のノヴゴロドを占領し、最初のノヴゴロド国を建設しました(一部のロシア人はノブゴロド国を最初のロシア人国家という)。その過程で、ノルマン人(バイキング)は、もともと居住していた東スラブ人と混血・同化して、現在のロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人の祖先となりました。やがて、ルーシからロシアという名が起こりました(ルーシはロシアの古称)。
その後、ノルマン人たちは、南下し、ビザンツ帝国との交易の拠点となっていた、ドニエプル川中流のキエフを占領し、キエフ公国(キエフ・ルーシ)を建て、都をノヴゴロドからキエフに移しました。このキエフ公国が、ロシア国家(ロシア・ウクライナ・ベラルーシ)の起源とされています。キエフ(大)公国は、ルーシ族がキエフに建てた国という意味で、キエフ・ルーシと広く呼ばれました。実際、キエフ公国の 正式な国号が、「ルーシ」(「キエフ・ルーシ」)でした。
また、東スラヴ人の多くは、正教会(ギリシア正教/東方正教会)を受容し、10世紀末、キエフ公国のウラジミール1世自らも改宗し、正教会を国教に定め、キエフ大公国は最盛期を迎えました。
しかし、諸公国の自立や農民の農奴化が進むなかでキエフ大公国(キエフ・ルーシ)は分裂し衰退し、1240年、東方から、チンギス・ハンの孫バトゥが率いるモンゴル人が侵入し、キエフ公国は滅亡、東スラブ(ロシア)はモンゴルの長い支配(13世紀半ばから15世紀)に服することになりました(「タタールのくびき」の時代)。
このキエフ公国の発展とモンゴルの支配による分裂のなかで、東スラヴ人は、ロシア人(大ロシア人)、ウクライナ人(小ロシア人)、ベラルーシ人(白ロシア人)に分化したとされています。
ベラルーシ人(白ロシア人)はドニプル上流地方に、ウクライナ人(小ロシア人)は、キエフを中心とするドニエプル中流地方に、またロシア人はドニエプル以東やボルガ川流域に居住し、それぞれが住む地方は、後に文字通り、ベロルシア(白ロシア/ベラルーシ)、ウクライナ、ロシアと呼ばれていきます。
その後、弱体してきたモンゴル(キプチャクハン国)の中から、イワン3世がモスクワを中心とした統一国家建設をすすめ、1480年に、モスクワ公国を興し、かつてのキエフ・ルーシの北部を中心に東スラブを統一しました。モスクワ公国は、イワン4世(在1533〜1547)の時代、ボルガ川中流域のカザン・ハン国を併合した後、東方の広大な領域を支配下におくなど、拡張していきました。
さらに、ロマノフ朝のピョートル1世は、西方のスウェーデンと戦いバルト海への進出を果たし、列強の地位を獲得すると、1712年、バルト海沿岸の要地ペテルブルグに遷都して、ロシア帝国を国号としました。
一方、キエフを含むかつてのキエフ大公国(キエフ・ルーシ)の南部は、リトアニア大公国やポーランド王国(後にポーランド・リトアニア共和国)に占有されました。
◆ 西スラブ
西スラブ(人)(族)は、ドイツ東方に定住した、ポーランド人・チェコ人・スロバキア人・ソルブ人(ドイツ東部の少数民族)・カシューブ人(ポーランドのグダンスク西方に住む少数民族)をさし、北はバルト海沿岸、南はドナウ川中流、東はヴィスワ川流域から西はエルベ川流域までの地域が含まれます。
7世紀前半に西スラブ人の国家が生まれるようになり、9世紀前半、フランク王国の東方進出に対抗して、現在のチェコ東部・スロバキア辺りの地域に、チェック人のモラビア国(モラヴィア王国)が誕生しました。
西スラブは、その後、神聖ローマ帝国の支配を受けた王国が林立し、ベーメン王国、リトアニア・ポーランド王国などが生まれました。この中から、10世紀にはポーランド王国は東ヨーロッパの強国となり、15世紀に入ると、ヤギェウォ朝ポーランド(1386〜1572)が繁栄をみました(北の強国スウェーデンと争う)。
しかし、西スラヴ人の居住地には、12世紀ごろから西方のドイツ人による東方植民が行われ、ドイツ(神聖ローマ帝国)は、ポーランドやチェコに対して、領土的野心を持つようになりました。
このため、16世紀から18世紀にかけて、西スラブの諸国は、北隣のスウェーデン人に加えて、西隣のドイツ人とも抗争を繰り返したことから弱体化していきました。とりわけ、ポーランドは、18世紀後半、ロシア、プロイセン、オーストリアの3国によって、国が分割され、その領土を失ってしまいました(ポーランド分割)。
こうした背景下、西スラヴ人は西ヨーロッパのローマ=カトリック教会圏と接していたので、その影響を受け、多くの人々がカトリック信者となりました。
ハンガリー
なお、西スラブに位置するハンガリーは、もともとアジア系のマシャル(マジャール)人の国で、11世紀にハンガリー王国が建国された際、国王イシュトヴァーン1世が、キリスト教に改宗し、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員となりました。
◆ 南スラブ
南スラブ(人)(族)は、バルカン半島に進出したセルビア人・クロアティア人・スロべニア人・マケドニア人・モンテネグロ人・ブルガール(ブルガリア)人をさします。なお、この中で、ブルガール人(ブルガリア人)は、本来はトルコ系で(テュルク系遊牧民)非スラヴ人ですが、中世に中央アジア西部から移動して東ヨーロッパに定着し、言語的・文化的に南スラヴ人に同化しました。
7~9世紀には、このブルガリア人も含めて、南スラブの人々は、ビザンツ領内に国家(王国)を形成しました。また、ビザンツ帝国に服属したことで、ギリシャ正教を受け入れています(たとえば、864年にブルガリア国王ボリス1世はギリシア正教に改宗)。その一方で、12世紀後半には独立を果たす国もあらわれ、たとえば、7世紀に建国したセルビア王国などは14世紀に最盛期を誇りました。
しかし、16〜18世紀には、オスマン帝国(オスマン・トルコ)の侵出をうけて、南スラブの諸国はその支配下に入りました。
ユーゴスラビア
その後、第一次世界大戦末期の1918年、民族自決の原則が認められて、独立を果たすなかで、ユーゴスラヴィア王国(正式名称「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」)が建国されました(ユーゴスラヴィアは「南スラヴ人の国」の意味)。(現在は分裂して個別の国家を作っている)。
ユーゴスラヴィアを構成した南スラヴ人の中で、クロアティアやスロべニアはフランク王国に接していたので、ローマ=カトリック教会を受け入れ、カトリック信者が多くいます。これに対して、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの人々は、ギリシア正教を継承しています。たたし、オスマン帝国の支配がバルカン半島に及んだことによって、イスラーム教徒(ムスリム)となった人々もいます。
ルーマニア
なお、南スラブ地域に住むルーマニア人は、中欧では唯一のラテン系で、紀元前からこの地方に住んでいたトラキア系(古代の東欧のバルカン半島周辺に住んでいた民族)のダキア人を起源とします。
現在のルーマニアの地にダキア国が建国されましたが、106年、ローマ帝国のトラヤヌス帝の時に征服され、ローマの属州となりまた。それ以来、ダキア人とローマ人が混血し、ダコ・ロマン人が生まれ、その後も、7世紀から8世紀ごろに侵入したスラブ人、9世紀から10世紀に侵入したマジャール人、その他にトルコ人、ゲルマン人などの混血や同化によって、現在のルーマニア民族が形成されました。宗教は主にギリシャ正教を信仰しています。
<スラブ民族の複雑多岐性>
このように、一口にスラブ民族といっても、キリスト教を受け入れたことで、近親関係にありますが、実に複雑・多岐で、文化・宗教面で、スラヴ民族ごとに異なる主体性を持っています。
たとえば、宗教面において、ビザンツ帝国領内に建国したスラヴ系諸民族は、その影響を強く受け、ギリシア正教を受容した一方、ビザンツの影響の薄かった地域のスラヴ民族はフランク王国を通じてローマ=カトリック教会を受け入れました。
ロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人(東スラブ)⇒ギリシャ正教
セルビア人・モンテネグロ人(南スラブ)⇒ギリシャ正教
クロアチア人・スロべニア人・ブルガリア人(南スラブ)⇒カトリック
ポーランド人・チェコ人・スロバキア人(西スラブ)⇒カトリック
この結果、同じキリスト教ながら、正教のロシア対カトリックのポーランドというような対立が顕著となっています(両国は、過去何度も戦争を繰り返した)。
加えて、政治的立場ではさらに複雑になり、ロシアを中心とする汎スラブ(パン=スラブ)主義は、第一次世界大戦の原因の一つとなりました。また、1990年代のユーゴスラビア紛争や、2015年以降のロシアによるウクライナへの侵攻など、スラブ民族同士の争いは世界の不安定要因となっています。
<パン・スラブ主義(汎スラブ主義)>
パン・スラブ主義とは、スラブ民族(スラブ語を話す民族)の統一と連帯をめざす思想・運動で、オスマン帝国とオーストリア・ハンガリー帝国の支配から脱しようとする、西スラブ・南スラブにおける民族独立運動と、ロシアの支配下に周辺スラブ民族を吸収・統合しようとする、東スラブにおける帝国主義的な二つの潮流があります。
パン・スラブ主義がおきるきっかけは、18世紀末に始まったスラブ民俗学の復興運動が先駆とされます。このとき、西スラブと南スラブ諸民族が民族的に覚醒し、自分たちの共通の言語的・人種的つながりが強調されました。
19世紀半ばから政治運動に発展し、西スラブでは、オーストリア・ハンガリー帝国(1867~1918)治下のスラブ語民族の地位の向上がめざされ、また、南スラブのバルカン半島に居住するスラヴ人の諸民族は、オスマン帝国支配下から脱しようとする動きを強めていきました。1848年にプラハで最初のパン・スラブ会議も開かれています。
これに対して、スラブ民族意識の高揚は、東スラブのロシアにもみられるようになりました。クリミア戦争(1853~56)におけるロシアの敗北,ドイツにおけるパン・ゲルマン主義の登場などを背景に、ロシアを盟主として、周辺スラブ民族を統合しようとするパン・スラブ主義も生まれました。
ロシアはパン・スラブ主義を、東方進出,南下政策を正当化するイデオロギーとしました。南下政策とは、17世紀以来、当時のロシア帝国が、黒海方面、バルカン半島および中央アジア、東アジアで勢力を南下させ拡大しようとする動きを言います。
ロシアはとくにバルカン半島への進出をめざしました。たとえば、1875年、バルカン半島のボスニアとヘルツェゴヴィナで、スラヴ系のセルビア人がオスマン帝国に対する蜂起を起こし、翌年は、ブルガリアでも正教徒の反乱が始まると、ロシアは、バルカンにおけるスラヴ系民族の独立運動を支援しました。1877年には、オスマン帝国との全面的な露土戦争(ロシア=トルコ戦争)に踏み切りました(~78年)。
戦争の名目は、トルコに隷属するスラブ同胞の解放戦争で、パン・スラブ主義の理念を体現する戦争と位置づけられましたが、バルカン半島への南下政策の足掛かりとしたのです。
ロシアは、この戦争に勝利しましたが、ロシアの南下を西アジアからインドへの権益に対する脅威とみなしたイギリスやフランス、パン=ゲルマン主義を掲げて同じくバルカン方面に進出しようとするオーストリア=ハンガリー帝国の干渉をうけ、ドイツのビスマルク主導のベルリン会議で、バルカン半島への進出を阻止されました。
ロシア・トルコ戦争は、バルカン半島をめぐり諸列強の勢力抗争(「バルカン問題」と呼ばれた)が、汎スラブ主義vs汎ゲルマン主義という対立構図をうみ、第一次世界大戦の一因となりました。
<第一次世界大戦後の独立とその後>
第一次世界大戦の結果、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国といった東ヨーロッパの「帝国」に従属していた諸民族が、アメリカ大統領ウィルソンが十四カ条で提唱した「民族自決」の理念に沿って、独立を達成しました。
スラブ民族の中では、東スラブのポーランドはロシア帝国から、また、西スラブのチェコ人とスロバキア人のチェコスロヴァキアは、オーストリア=ハンガリー帝国からそれぞれ独立をしました。南スラブのセルビア、クロアチア、スロベニアは統合によってスラブ人国家「ユーゴスラビア王国(南スラヴ人の国の意)を新たに形成しました。
一方、東スラブのロシア、ウクライナ、ベラルーシは、ロシア革命後、社会主義国家、ソ連邦の根幹的な構成共和国を形成しました(旧ロシア帝国の領土をほぼ継承した)。さらに、第二次世界大戦後は、西スラブ、南スラブのスラブ民族諸国家を含めた東欧諸国も、ソ連邦を事実上の盟主とする社会主義圏を形成していきました。ソ連はまさに、スラブ民族の連邦国家ともいえます。
スラブ民族の人口分布
現在、スラブ人の総人口は約3億人とされ、その内訳は概算で以下の通りです。
東スラブ:ロシア人1億4700万、ウクライナ人4600万、ベラルーシ人1000万、
西スラブ:ポーランド人4900万、チェコ人1040万、スロバキア人450万、
南スラブ:ブルガリア人850万、セルビア人1020万、クロアチア人570万、スロベニア人230万、モンテネグロ人65万、マケドニア人180万
人種と民族の違い
人種は,肌の色,髪質などの生物学的・遺伝 学的差異によって人間を分けることであり,民族は言語,宗教など文化的・ 歴史学的差異によって人間を分けること。
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(図解でわかる 14歳からの地政学、 2022年4月4日)
手にとるように世界史がわかる本
(かんき出版)
なぜプーチン氏は破滅的な決断を下したのかウクライナ侵攻の背景にある「帝国」の歴史観
(2022年2月25日、東京新聞)
「コーカサスってどんな地域?」2分で学ぶ国際社会
(ダイヤモンド・オンライン)
語られないロシアの歴史とアメリカとの深い関係
(2020.06.02、キャノングローバル戦略研究所/小手川 大助)
“プーチンの戦争”は歴史家への挑戦 「帝国の敗北で終わる」
(2023年8月10日、国際NHK)
「ウクライナ戦争の解明」
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投稿日:2025年4月5日