ロシアの歴史をシリーズでお届けしています。折からの冷戦終結・ソ連邦崩壊後、実質的にソ連を継承したロシアは、エリツィンの指導の下、欧米の援助で市場経済を導入しながら、西側の一員として歩み始めましたが、結果は思わぬ方向へ進んでいきました。今回は、ポスト冷戦期のロシア、エリツィンの時代(1991~1999)について解説します。
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<エリツィン大統領>
1990年6月、当時のロシア共和国の大統領選挙で、ボリス・エリツィンが選出され、ロシア初の民選の大統領(国家元首)となりました。翌91年12月,ソ連邦の崩壊をうけて、ロシア共和国(ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国)は、92年憲法改正にもとづいて、新しい国名を「ロシア連邦」に変更しました(「ロシア」も同等の国名とされた)。
◆ 市場経済移行プログラム
エリツィンは、初代のロシア連邦大統領として、欧米の力を借りながら、ロシアを国家万能の社会主義経済から、アメリカの新自由主義による市場経済へ移行させる大仕事に取りくむことになりました。
具体的には、アメリカのウォール街が主導する市場経済への移行プログラムを実行し、92年1月から価格自由化という「ショック療法」に踏み切ると同時に、金融財政改革をすすめ、国営産業の民営化を急速に実施しました。このロシア経済の急激な資本主義化(あらゆる規制を排除した自由主義モデル)を主導したのは、経済学者のエゴール・ガイダル首相代行と、アナトリー・チュバイス第一副首相、ならびに、彼らに助言した経済学者ジェフリー・サックスらアメリカ人顧問団でした。
中央銀行引き受けによる国債乱発と急激な価格自由化はハイパーインフレ(その年だけで2600%のインフレ)を招き、労働者の蓄えが消失、年金生活者を中心に民衆が大打撃を受けました。また、自由化にともない欧米から流入する製品によって、ロシアの産業は破壊されただけでなく、連邦政府による地方政府への補助も打ち切られたことで、地方経済も疲弊しました。
結果として、エリツィンが実施した、政治の民主化と経済の市場主義システムへの変更は、ロシアをソ連時代の末期よりはるかにひどい状態に突き落とし、それまで資本主義経済を一度も経験したことがなかったロシア国民(大衆)は、貧困と飢餓に陥いりました
◆ オリガルヒ(新興財閥)
逆に、エリツィン改革は、新興財閥「オリガルヒ」を誕生させ、ロシア社会では経済格差が急拡大しました。急速な民営化により、ソ連の重要な事業が次々に、エリツィンと個人的に関係のある者たちの手に渡りました。オリガルヒとは、こうしたロシアの国富を吸い上げて急速に巨大化した新興企業家(新興財閥)のことをいいます。
財閥といっても、企業というよりは個人で、旧ソ連時代のノーメンクラトゥーラ(党のエリート・支配人・高級幹部)層が、国営企業とその膨大な国家資産(国有財産であった企業)を、資本主義化の過程において、そのまま受け継ぎ、寡頭資本家に転身しました。民営化が実施されるにあたり、たとえば、国営企業の経営者がそのまま民営化した企業をタダ同然で私物化して経営者=所有者になったのです。
こうして成立したオリガルヒは、私兵すら抱えるぐらい富を蓄積し、連邦レベルから地方レベルに至る政治家及び官僚機構との癒着によってその存在をさらに拡大させていきました。やがて、テレビや新聞を中心とするメディアをも支配しながら、ロシアの政財界を牛耳るようになっていきました。
1993年12月には、大統領令によって、これらのオリガルヒは、「金融産業グループ」と認定され、ソ連崩壊後のロシア経済を再建する主体として政府から肯定されました。
この時代のオリガルヒは、旧ソ連時代からの豊富な地下資源(石油、天然ガス)に関連した大規模企業や軍産複合体、銀行を中心とする金融資本が中核となっている形態などに類型されます。以下、当時の代表的なオリガルヒ企業です。
ガスプロム・グループ
93年2月に、旧ソ連ガス工業省が中心となって形成された国家コンツェルン・ガスプロムが民営化されて生まれた企業で、天然ガスの生産・供給において世界最大の企業です。民営化に尽力したのが、当時、ガス工業相であったヴィクトル・チェルノムイルジンで、そのまま初代社長に就任しました。(後の初代首相、93年12月から98年5月)
ルクオイル・グループ
旧ソ連時代の三つの石油採掘企業から構成された、ロシア連邦最大の石油会社で、創業者は、アゼルバイジャン出身のヴァギト・アレクペロフ。
ノリリスク・ニッケル
ニッケル・パラジウムの生産において世界最大手で、統一エネルギーシステム、ソ連冶金工業省が名称を変更して誕生しました。
ユコス・グループ
新興企業家(オリガルヒ)の一人、ミハイル・ホドルコフスキーによって設立された、世界最大級の非国営石油会社の1つ(のちの破産)。
ロスネフチ
ソビエト連邦時代のソ連石油工業省を母体に設立されたロシア最大級の石油会社、株式を公開しているものの国営企業です。社長のイーゴリ・セーチンは、プーチンに近い人物(後に副首相)で、会長 ゲアハルト・シュレーダーはドイツ元首相。
◆ 国内の騒乱と回帰
議会襲撃事件
しかし、こうしたエリツィン政権に対する不満から、1993年10月に、最高会議の保守派勢力が最高会議ビルに立てこもる事件が発生しました。しかし、このときは、エリツィン大統領が軍を出動させ、戦車で議会ビルを砲撃し、反対者たちを排除しました(この事件では数百人の死傷者を出した)。
その議会において、エリツィン改革に嫌気がさしたロシア国民から圧倒的支持を獲得したのだが、ウラジーミル・ジリノフスキーを創設者とする極右政党の自由民主党で、1993年12月の下院選挙で第1党に躍進しました。(ジリノフスキーは後にエリツィンに懐柔された)。また、1995年の下院選挙では、ロシア自由民主党に代わり、極左のロシア連邦共産党が第一党となり、ソ連崩壊で過去のものとなったはずの共産主義が復権した形となりました。
第一次チェチェン紛争
加えて、ロシア国内では、政治の混乱の虚をついて、1994年に、(第一次)チェチェン民族紛争がおこりました。ロシア連邦内の一つの共和国であるカフカス地方のチェチェン共和国は、91年末のソ連邦の解体に伴い一方的に、独立を宣言しましたが、ロシア連邦のエリツィン大統領はそれを認めませんでした。
1994年12月、ロシアからの分離独立を目指す、チェチェン人グループが武装闘争を開始し、ロシアはそれに対して、軍事制圧を図りました。激しい戦闘の末、山岳地帯に拠った武装勢力のゲリラ戦に悩まされながらも、ロシア軍が95年にチェチェン共和国の首都を制圧し、翌年96年に停戦が成立しました。
◆ 大国外交
一方、外交・安保において、ソ連崩壊後も、核保有国・資源大国の地位を維持したロシアは、大国としての「特別の地位」を要求し、実際、大国といて振る舞いました。
平和のためのパートナーシップ協定(PFP)
ロシアは、外交では西側との協調をとりつつも,NATO(北大西洋条約機構)の東欧への拡大に懸念を表明しました。冷戦の終結によってワルシャワ条約機構(WTO)が解体され,安全保障体制を失った東欧諸国は NATOへの加盟を相次いで表明したことに対して、ロシアは(NATOの東欧への拡大を)強硬に反対しました。
そこで、妥協案としてアメリカが、PFP(平和のための協力協定)を提案し、ロシアにも参加を求めたのです。PFPは、NATO(北大西洋条約機)が、旧東側諸国との間で、安全保障面での協力を、個別にはかる協定で、1994年1月の NATO首脳会議で採択されました。
調印国が安全保障上の脅威にさらされた場合,NATOは、防衛義務は負いませんが,緊急協議に応じるほか、平和維持活動(PKO),捜索救援活動の要員訓練・演習などでNATOと協力・情報交換を行うなどの協力項目が規定されました。
ロシアはこれが実質的なNATOの東方拡大であり(NATO側は、東欧諸国の加盟への第一歩と位置づけた),ヨーロッパの安全保障におけるNATOの比重が大きくなりすぎるとして反対していましたが、最終的には、合意し、ロシアも、1994年6月協定に調印しました(ロシアをはじめ,東欧,北欧諸国の 22ヵ国が参加)。
戦略兵器削減交渉(START)
核軍縮交渉に関しては、ソ連時代の1991年7月に署名された第一次戦略兵器削減条約(STARTⅠ)が、その後のソ連崩壊を受け、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンを協定当事国として、1994年に発効しました。
この条約においては、7年間で、ソ連時代、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンに配備された戦略核兵器はすべてロシアに移送され、米露は、戦略核弾頭の総数を6000個以下、運搬手段は1600基以下に削減されることになりました(この時、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンの3か国は、ロシアを含む米英仏中の核保有国からの安全の保証と引き換えに核兵器を放棄した)。
なお、1993年1月に、米露は、STARTⅠに続き、STARTIIに合意し、03年までに戦略核弾頭を3000~3500の間に削減することとなりましたが、その後、アメリカが弾道ミサイル防衛(BMD)構想を打ち上げたため、交渉は中断しました。
<2期目のエリツィン>
1996年7月の大統領選挙では、エリツィンがかろうじて再選されました。当初、経済の混乱やチェチェン紛争の影響で、国民の支持率がほぼゼロ近くにまで下がっていましたが、エリツィンを勝たせるために、民営化によって生まれたオリガルヒ(新興財閥)たち、特に金融エリートと言われる銀行家ら(「7人の銀行家」と称される(後述))が全面的に支援しました。
また、アメリカのクリントン政権は、選挙キャンペーンのプロやスタッフを送り込んで、エリツィンの選挙戦を支えました。エリツィンの再選後には、IMFが400億ドルもの資金を貸し付けるなど、欧米のエリツィン政権への肩入れはさらに続きました。1997年には、主要先進国首脳会議(米デンバー・サミット)に招待され、ロシアは国際社会でも主要先進国の一員と認められました。以後、先進国サミットはG7からG8体制となりました(2014年まで)。
エリツィン大統領の健康に対する懸念も出されるようになったのもこの時期でした。選挙前の1995年7月と10月には虚血性心疾患とみられる症状で入院し、また1996年11月に冠動脈バイパス手術を受け、政権の後期(96〜99)(第2次エリツィン政権)、エリツィンは健康不安が取りざたされ続けました。
◆ オリガルヒと「ファミリー(セミヤー)」
第2次エリツィン政権では、大統領選挙において新興財閥の力に大きく頼ったために、新興財閥(オリガルヒ)の政治的な影響力がますます強くなるとともに、政権内でも側近グループ「セミヤー」(「ファミリー」)が形成されました。
7人の銀行家(セミバンキルシチナ)
オリガルヒの中でも、エリツィン再選を支援し「7人の銀行家(セミバンキルシチナ)」と呼ばれた大資本家たちは、国家資産を不正に取得し、エリツィン政権を陰で操っていると批判されました。
アレクサンドル ・スモレンスキー(1954〜2024)
1989年創設の協同組合銀行(スタリチヌイバ ンク)を前身とする「SBSアグロ・グループ」の代表で、巨額な資金を集め、買収などを通じて規模を拡大させ、ロシア全土に支店網を展開する巨大金融機関に発展させました。98年のロシア金融危機で同行は破綻。
ウラジミール ・ポターニン(1961〜)
「インターロス・グループ」総帥で、オネクシム銀行を中核として、鉱業、金属、エネルギー、小売、不動産などの産業部門を傘下に置く金融コングロマリットを構築しました。95年には、ニッケル・パラジウム生産において世界最大手ノリリスク・ニッケルを買収しました。現在亡命中。
ミハイル・ホドルコフスキー (1963〜)
ホドルコフスキーは、石油最大手ユーコスの社長(当時)で、かつて「ロシアの石油王」と呼ばれました。もともとは、コムソモール(旧ソ連の青年組織)の金融部門出身で、メナテップ(メナテプ)銀行を中心にメナテップ・グループを形成しました。メナテップ銀行は、ソ連共産党の隠れ資産の運用・資金移転を実行していたとも言われています。92年の国営企業民営化の際には、多数の企業を取得し、巨大な持株会社を形成しました
93年4月には、石油会社ユーコス(ユコス)を創設し、世界最大級の非国営石油会社に成長させました、また95年9月には、グループ管理会社(投資会社)として「ロスプロム」を設立、「ロスプロム・グループ」として一大財閥を形成しました。
ウラジミール・グシンスキー(1952〜)
1988年、西側企業のソ連進出を支援するための協同組合、「インフェクス」を創設したのち、翌89年、モスト銀行を設立し、モスト・グループを形成しました。93年10月からメディアに進出し、持株会社「メディア・モスト」を立ち上げ、傘下に、独立テレビ、ラジオ局、衛星放送事業を展開、一時「ロシアのメディア王」と称せられるに至りました。
ミハイル ・フリードマン(1964〜)
ピョートル・アーヴェン(アベン)(1955〜)
企業家フリードマンは、1991年に、アルファ銀行を創設した後、ピョートル・アーヴェンとともに、金融産業持株会社「アルファ・グループ」を立ち上げ、運営しました。アルファ・グループは、ロシア最大の民間銀行であるアルファ・バンクに代表される金融・投資業に加えて、石油ガス、保険業、小売、建築資材(セメント、木材、ガラス)、通信分野などグループ企業は広範です。
これらの中で、チュメニ石油(TNK)は、イギリスのBP(ブリティッシュ・ペトロリアム)と折半出資の民間石油会社、TNK-BP(社長はフリードマン)として、国内3位の規模を誇りました。
ピョートル・アーヴェンは、94年にアルファ銀行の頭取に就任し、フリードマンとともに、アリファ銀行を共同で所有しました(フリードマンのアルファ・グループの最高幹部となる)。
ボリス・ベレゾフスキー(1946〜2013)
政商として、エリツィン政権を取り込んだ「7人の銀行家」の筆頭が、ボリス・ベレゾフスキーです。そもそも、主要なオリガルヒを「7人の銀行家」(セミバンキルシチナ)と命名した(呼んだ)のが、ベレゾフスキーでした。
ベレゾフスキーは、1989年に、ソ連初の自動車販売会社「ロゴヴァズ」を設立して社長に就任し、国産車のみならず外国車の販売も手がけ巨利をえると、その後も事業を拡大し、大手石油会社シブネフチ(シベリア石油会社)を支配下に置きました。
また、エリツィン政権との密接な関係を利用して、国営航空会社アエロフロートや、テレビ放送会社など、ロシア国内の優良企業の株式を大量に取得するなどして一大企業帝国「ロゴヴァズ・グループ」を構築しました。さらに、各企業に融資するために金融部門では、統一銀行やアフトヴァース銀行をグループ傘下に収めました。
ベレゾフスキーが最も力を入れた部門の一つがメディア事業とされ、テレビ(国営放送のロシア公共テレビORT民放のTV6)、新聞(ネザビシマヤ・ガゼータ(独立新聞))・雑誌(ロシア有数の経済誌であるコメルサント紙)など、あらゆる分野のメディアを支配下に置き(買収)、恣意的な世論形成を行うようになりました。
このように、ベレゾフスキーは、エリツィンの次女のタチアナ・ディアチェンコ(ユマシェワ)と強い結びつきを持ち、「政商」や「政界の黒幕」の名をほしいままにしました。「7人の銀行家」で、ロシア経済の半分以上を支配していると豪語するほどでした。これは、決して誇張表現ではなく、実際、、オリガルヒ(新興財閥)は、1996年から2000年までにロシアの富の50パーセントから70パーセントを支配していたと見られています。
エリツィン・ファミリー(セミヤー)
ベレゾフスキーを筆頭とするオリガルヒたちは、さらに、エリツィン大統領の家族・親族、元高官らとともに、側近グループ(側近集団)、「セミヤー」(「ファミリー」)を創りあげていきました(セミヤーとは「家族」の意、俗に「エリツィン・ファミリー」とも呼ばれた)。
セミヤ―の中心人物は、エリツィンの次女、タチアナ・ディアチェンコ(ユマシェワ)で、96年の大統領選挙では、選対本部に入って選挙運動を取り仕切り、再選後は、大統領補佐官(大統領顧問)に就任しました。また、ロシア公共テレビ(ORT、チャンネル1)取締役として、エリツィン時代後期に国政に影響力を及ぼしました。
また、元政府高官で、大統領府長官を務めたワレンチン・ユマシェフやアレクサンドル・ヴォローシン、財務大臣を務めたミハイル・カシヤノフ、元民営化担当副首相のアナトリー・チュバイスらが主要メンバーとされています(ワレンチン・ユマシェフはタチアナと結婚し、文字通り「ファミリー」となった)。
オリガルヒからは、ボリス・ベレゾフスキーは言うまでもなく、インターロス・グループ総帥のウラジーミル・ポターニンや、ロマン・アブラモヴィッチらが加わりました。
ロマン・アブラモヴィッは、「7人の銀行家」(セミバンキルシチナ)に名前があがっていませんでしたが、投資会社ミルハウス・キャピタルのオーナーで、石油事業で巨万の富をえ、ボリス・ベレゾフスキーの経営パートナーでもあます(ベレゾフスキーの石油会社「シブネフチ」取締役など)。
セミヤ―のメンバーは、エリツィン再選の功労により、政府高官の地位につき、エリツィン大統領の下で権力の中枢に位置しました。たとえば、政商ベレゾフスキーは安全保障会議副書記やCIS(独立国家共同体)執行書記、ポターニンは第一副首相を務めました。
またエリツィン選挙対策本部の責任者を務めたアナトリー・チュバイスは、大統領府長官(エリツィン政権の「摂政」の異名をとる)、第一副首相兼蔵相を歴任したのち、当時の独占電力会社「統一エネルギーシステム(UES)会長に就任しました。
セミヤーは、第2次エリツィン政権において、健康の優れないエリツィンに代わって幅広い政治的影響力を行使したことから、「政権の私物化」「政財界の癒着」が蔓延し、エリツィン政権内の政治腐敗が広がったと指摘されています。
◆ ロシア金融危機
エリツィン時代は、エリツィンと側近および支持基盤の新興財閥「オリガルヒ」の時代という一言に集約されます。そうすると、大国ロシアを、社会主義経済から、資本主義の市場経済へ移行させるという壮大な実験は失敗に終わり、ロシア経済も、オリガルヒに金融、産業を牛耳られただけで、壊滅的な打撃を受けて崩壊したと言えるでしょう。
たとえば、1998年までにロシアの農家のおよそ80パーセントが破産し、7万ヵ所の工場の操業が止まりました。テレビ・洗濯機の消費財や、トラクターなど資本財などの生産は急減、ロシアのGDP(国内総生産)は分離独立後の最初の数年間に50%近く低下し、通貨は紙切れ同然になりました。
世界銀行の統計によれば、ロシアでは1989年に200万人だった貧困レベル(1日の生活費が4ドル以下)で暮らす人の数が、1990年代半ばまでに37倍の7400万人に急増しました。1996年にはロシア人の4人に1人が「極貧」レベルの状態に陥りました。
これに対して、一握りのオリガルヒ(新興財閥)が、ロシアの富の半分以上を支配していたと見られるように、ロシア社会の経済格差は深刻な状況でした。さらに、そのオリガルヒのなかには、事業を通じて、ロシアの国富を欧米に流出させた者たちもいたと言われています。また、オリガルヒは、エリツィン政権との癒着を利用して、広範囲な納税回避を実現していました。
こうした国内経済事情により、税収不足は慢性化し、ロシアの国家財政は危機的な状況に陥りました。ロシア政府は、巨額の財政赤字を解消するために,国債を乱発するしかありませんでした。さらに 97年以降、アジア経済危機の影響により、ロシアでも外資の撤退が相次ぎ一層深刻な事態となりました。
そうしたなか、98年8月には株価,債権,通貨ルーブルの3つがそろって下落するトリプル安に陥りました。政府は通貨ルーブルの切下げ (デノミ) と債務繰延べ(事実上のデフォルト(債務不履行))を発表し,世界経済を大混乱に陥れました。この「ロシア金融危機」と呼ばれた混乱によって、当時、急成長した米ヘッジファンド「ロング・ターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)」が破綻し、世界同時株安を引き起こしました。
こうした状況に対して、もともと、ロシア国内において、強引な政治手法から独裁的と批判を浴びることも多かったエリツィン大統領の人気はさらに低迷,議会との対立が続きました。また、民族紛争などの火種も絶えないことから、国内外の不満や反発も高まりました。
◆ プリマコフ・ループ
しかし、1998年9月、諜報機関KGB出身のエフゲニー・プリマコフが首相に任命されると、事態は好転していきました。プリマコフは、エリツィン政権で、対外情報庁(旧KGBの対外諜報を担当していた第一総局の後継機関)長官(91.12〜96.1)や外務大臣(96.1〜98.2)を歴任した実力者で(「ロシアのキッシンジャー」の異名をととった)、首相就任後、議会重視のスタンスを打ち出し、共産党のユーリ・マスリュコフを第一副首相に大抜擢して政府を刷新しました。
また、IMFと交渉しながら金融危機に対処し、ロシア金融危機から経済を安定させ、低迷したロシア経済も立て直していきました。
外交政策では、エリツィンは、プリマコフとともに、NATOに融和的な路線も修正しました。きっかけは、バルカン半島のユーゴスラビアで、1998年2月、ユーゴスラビア軍とセルビア人勢力が、コソボの独立を求めるアルバニア人武装組織コソボ解放軍(KLA)と武力衝突したコソボ紛争でした。1999年3月、北大西洋条約機構 (NATO)が、コソボ紛争に軍事介入したことにロシアは反発し、エリツィンはNATOを「侵略者」と批判しました。
このとき、プリマコフは公式訪問で米国に向かう途中の飛行機の機内でNATOがコソボ空爆を開始したことを知ると、その場で訪問の中止を決定し、パイロットに飛行機を旋回してロシアに戻ることを命じました。この決定は「プリマコフ・ループ」として語り草となり、一部のロシア人の間で、アメリカの一国主義に反対するプリマコフの姿勢は支持されました。
こうして、首相のプリマコフは、大統領より国民の支持を集めるようになり、次第に政権内で重みを増していきました。
一方、エリツィンは、長年の飲酒が原因で健康が衰え、持病の心臓病が悪化し、もはや大統領の職務遂行に疑問を呈する声もでていました。実際、入院を必要とするほど健康に不安を抱えるエリツィンは完全に政治力を失っていました。
◆ エリツィンの後継者
その頃、任期満了が近づいたエリツィンと「ファミリー(エリツィン一家、政商、側近)」は、次の大統領による刑事訴追を恐れていました。ロシアでは権力者は退任して絶対権力を失うと、寝首をかかれるのが常だからです。
実際、検事総長のユーリ・スクラトフが、ボリス・エリツィン大統領の家族を中心とする側近グループやオリガルヒの汚職問題を追及しようとしていました。エリツィン「ファミリー」は、エリツィンの任期が終わり退陣する前に、強力な後継者擁立の必要に迫られていました。
エリツィンの後継者として、エリツィン政権の第一副首相で、改革派のリーダーとして知られたボリス・ネムツォフは最初の候補だった時期もありました(しかし、98年、第一副首相を解任)。他に何人か候補になった人物もでましたが、最終的にKGB(ソ連国家保安委員会)出身のウラジミール・プーチンが残りました。
プーチンは、ロシア連邦保安庁(FSB)長官時代の99 年3月、エリツィン大統領の娘タチアナや夫のユマシェフら「ファミリー」の窮地を救いました。その時、「ファミリー」のマネーロンダリング疑惑を捜査していたスクラトフ検事総長を女性スキャンダルで失脚させたのです。
この一件はエリツィンに報告され、エリツィンはプーチンの発揮した忠誠心を評価し、プーチンは、この「功績」により、「セミヤ」(「ファミリー」)の信頼を得るようになり、同年(99年)3月の安全保障会議書記に就任しました。
1999年5月、エリツィンは、プリマコフを首相の座から解任し、政権から放逐しました。表向き理由はロシア経済の低迷でしたが、人気のあるプリマコフに権力を奪われることを恐れたためと言われいます。しかし、本当の理由は、検事総長のユーリ・スクラトフを動員してボリス・エリツィン大統領の家族を中心とする側近グループやオリガルヒの汚職問題を追及されたのは、首相のプリマコフで、これは、エリツィン失脚を画策したものと見らえていたからです(その真偽は定かではない)。
プリマコフの失脚で、プーチン擁立の道が開かれました。その中心的役割を果たしたのが、オリガルヒ(新興財閥)の筆頭、ボリス・ベレゾフスキーでした。二人は、プーチンが90年、ペテルブルク市長の顧問を務めていた頃からの知己で、ベレゾフスキーは、プーチンを後継候補として「ファミリー」に提案しました。プーチンを擁立することで利権の継承を狙ったものとみられています。
<エリツィン辞任>
1999年8月、エリツィン大統領は、ウラジーミル・プーチンを、首相に任命しました。この時、エリツィンはプーチンを自身の後継者とすることを表明していたとされ、ベレゾフスキーも、所有する第1チャンネルで、若く、エネルギッシュで、決断力があるというイメージ作りの後継擁立キャンペーンを始めました。
1999年12月に行われたロシア下院選挙で、プーチンを支持する与党・「統一」は、プリマコフらが結党した「祖国・全ロシア」を上回る議席を獲得したことから、プリマコフは次期大統領選挙への出馬を断念し、プーチン支持を表明しました。そして、ついに、同年12月31日、エリツィンは、健康上の理由で政界からの引退を宣言、プーチン首相を大統領代行に任命し、任期を半年余残して、突然辞任を表明しました。
このとき、エリツィンは新年を迎える恒例の大統領テレビ演説を涙ながらに行っています。「私は皆さんに、失敗の許しを請いたい。……灰色の停滞した全体主義の過去から、明るく豊かで文明的な未来へ一足飛びに移るという希望は実現しなかった。私は、あまりにもナイーブ(単純)であった。そして、問題はあまりにも複雑であった。」
大統領代行となった(就任した)プーチンが最初に行ったのは、大統領経験者とその一族の生活を保障するという大統領令に署名することでした。これは、エリツィンに不逮捕・不起訴特権を与え、エリツィン一族による汚職やマネーロンダリングの追及をさせず、引退後のエリツィンの安全を確保するものでした。
こうして、プーチン大統領代行は、2000年3月の大統領選で圧勝し、同年5月、大統領に就任しました。
◆ エリツイン政権とは何だったのか?
エリツィンは、ゴルバチョフと同様、米英の傀儡だったとの見方が多くあります。華々しくロシア共和国を分離独立させてソ連を分解させたまではよかったのですが、その後は、オリガルヒにロシアの富を奪われ、国力を落とすだけの哀れな道をたどることになりました
エリツィンは、ただ、派手な政治パフォーマンスを好み、強大だったロシアという国家を破滅に導いただけのすぐキレる過激な自由化論者だったと酷評されて、政治生命を自ら断ちました。
ロシア革命は、帝政ロシアを崩壊させ、民族主義者の独裁者スターリンがソ連のロシア帝国化をはかったのと同様に、ゴルバチョフとエリツィンは共産主義国ソ連崩壊させ、独裁的権力を掌握したプーチンがロシア(帝国)の復活を図っていくことになるのです。
<関連投稿>
ロシアの歴史
ウクライナの歴史
ロシア・ウクライナ戦争を考える
<参照>
世界最大の領土を誇った大陸国家ロシア帝国ができるまで/
(図解でわかる 14歳からの地政学、 2022年4月4日)
手にとるように世界史がわかる本
(かんき出版)
ロシア革命からつながるアメリカ民主党の社会主義化路線に迫る
(2021.6.13 NewsCrunch)
ロシアにおけるオリガルヒについて
(J-Stage 中澤孝之 著 · 2000 )
【東大名誉教授が読み解く!】なぜロシアでは「独裁者」が生まれやすいのか?
(2022.4.10、ダイヤモンドオンライン)
なぜプーチン氏は破滅的な決断を下したのか?ウクライナ侵攻の背景にある「帝国」の歴史観
(2022年2月25日、東京新聞)
語られないロシアの歴史とアメリカとの深い関係
(2020.06.02、キャノングローバル戦略研究所/小手川 大助)
「ルーブル・ショック」、1998年ロシア金融危機の記憶
(2022/02/25、マネクリ)
ロシア人(ジャパンナレッジ)
世界史の窓
コトバンク
Wikipediaなど
投稿日:2025年4月5日