ロシアの歴史をシリーズでお届けしています。プーチンは、「ソ連崩壊は悪夢だった」と語ったそうですが、それは共産主義というイデオロギーが敗れたからではなく、ソ連の超大国としての地位が脅かされたからだと言われています。4回目の今回は、ロシア帝国を継承したソ連が、冷戦において、上りつめた歴史とその崩壊について解説します。
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<戦後のスターリン体制>
◆ 東西冷戦の時代へ
ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)は、ナチス=ドイツの侵攻を受け、泥沼の独ソ戦を戦い、第二次世界大戦の交戦国の中で最大の2060万人の死者を出しました。しかし、多大な犠牲を払いながら勝ち抜き、国家を守った戦争の指導者として、スターリンの権威はゆるぎないものとなりました。スターリン体制と呼ばれる強大な独裁体制は1953年のスターリンの死去まで維持されました。
対外的にも、ソ連は、多大な犠牲を払いながらも、最初に首都ベルリンを落とし、ドイツを降伏させたという「功績」を背景に、戦後世界に大きな発言権を確保し、戦後の国際連合では安全保障理事会の常任理事国の一国として主要国の位置を占めました。
国際連合(国連)の発足で、新しい国際秩序が生まれ,安保理常任理事国の米・英・フランス・ソ・中5ヵ国が中心的な役割を担うことが期待されましたが、実際には米・ソ2大国の支配体制が確立しました。ただし、第2次世界大戦で協力した両国も,戦後いち早く資本主義国・社会主義国の指導者としてブロック化を進め、次第に対立が表明化していくことになりました。
◆ 東側陣営の形成
ソ連は、対独戦で占領した東ヨーロッパ諸国に対して、主導権を発揮し、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、ブルガリア、ルーマニアなどに次々と、自国にとって都合のよい共産主義政権を支援して、人民民主主義国を樹立させました。結果的に、ソ連軍(赤軍)が制圧した地域は、ソ連の衛星国となりました。多大な犠牲を払って東欧諸国を解放したソ連は、戦後、東欧を緩衝地帯として自国を守る盾にすることを考えたのです。
スターリンは、東欧諸国に対して、ソ連の忠実な“弟”たちであることが求め、ソ連式の政治と経済の手法が押し付けるという統制や圧力をかけました。こうして、東欧諸国は、ソ連の勢力圏となった軍事的、経済的結びつきを強め、いわゆる東側ブロックが形成されていきました。
しかし、アメリカとイギリスは、共産主義ソ連の勢力の伸張に対して警戒感を強め、イギリスの前首相チャーチルは、1946年3月、アメリカのミズーリ州フルトンで演説し、「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸に鉄のカーテンが降ろされた」といわゆる「鉄のカーテン」演説を行いました。ソ連が東欧諸国を囲い込み、共産主義政権を統制しながら、西側の資本主義陣営と敵対している批判して、自由主義陣営の結束を呼びかけたのでした。
拡張的なソ連の動きによる共産圏の軍事体制を受けて、西側陣営も結束を強め、いわゆる東西冷戦の時代に向かうこととなります。ただし、「冷戦」という言葉が生まれたのは、西側とソ連との間での占領政策の対立が激しさを増した1947年ごろからでした。
◆ マーシャル=プランvsコミンフォルム
明確な冷戦の始まりは、1947年3月、アメリカのトルーマン大統領がトルーマン=ドクトリンを発表してからだとされています。このとき、トルーマンは、東ヨーロッパ諸国との関係を強化したソ連がギリシア・トルコ方面に勢力を拡大させるとみて、これを阻止する「封じ込め政策」を採用しました。
さらに、その一環として、同年6月に、米国務長官マーシャルが、戦後ヨーロッパ経済の復興と再建を目的とした経済復興計画、マーシャル=プラン(ヨーロッパ経済復興援助計画)を発表しました。これは、東欧を含むヨーロッパ諸国の戦後復興に、アメリカが大規模な援助を提供することで、経済を安定させて共産主義勢力の浸透を防止したものです(なお、ソ連もマーシャル=プランの対象であった)。
これに対して、ソ連は、マーシャル=プランの対抗措置として、またヨーロッパの共産党に対する指導力を強めるために、同年10月、コミンフォルム(共産党情報局)を結成しました。マーシャル=プランによって、東ヨーロッパ諸国が動揺することを防止し、統制を強めることで、東側陣営の引き締めと結束を図ることを狙ったのです。
たとえば、チェコスロヴァキアでは、マーシャル=プラン受け入れを決定したベネシュ大統領に対して、1948年2月、スターリンは、チェコスロヴァキア共産党にクーデターを実行させ、共産党政権を成立させました。また、独自路線を目指したチトー(ティトー)の率いるユーゴスラヴィア共産党を、48年6月、コミンフォルムから除名し、同年9月、マーシャル=プラン受け入れの動きを示したポーランドでは共産党指導者ゴムウカを失脚させています。
コミンフォルムの結成によって、ソ連共産党の指導による革命をめざすという、第二次世界大戦前の色彩が強まり、スターリン体制下のソ連共産党は、東欧諸国に様々な形で圧力をかけて、軍事介入、直接介入を行っていきました。
こうして、マーシャル=プランの発表と、コミンフォルムの創設は、東西陣営の対立を際立たせ、戦後世界の東西冷戦体制を固定化・深刻化させることとなりました。
◆ ベルリン封鎖
第二次世界大戦後、ドイツは、米ソ英仏の4カ国による分割占領の下に置かれていました。また、首都ベルリンは、全体として東側のソ連占領地域内にありましたが、4ヵ国の共同管理とされ、ソ連が管理する東ベルリン(東側管理地区)と、西側の米英仏が管理する西ベルリン(西側三国管理地区)に分かれていました。西ベルリンは、周りをソ連軍に囲まれた、いはゆる「陸の孤島」でした。
そんなベルリンで、第二次世界大戦直後の米ソによる冷戦を決定づける事件が発生しました。ソ連による「ベルリン封鎖」です。1948年6月20日、西側(アメリカ・イギリス・フランス)が、ドイツの三国占領地域(西ベルリン)に、新通貨ドイツマルクを導入する通貨改革を西側だけで実施しました。西ベルリンに資本主義経済体制を復活させようとしたのです。
これに反発したスターリンは、同月23日、ベルリン封鎖を実施、西ドイツからベルリンにつながるすべての道路・鉄道・水路を閉鎖しました。これにより、西ベルリンでは、食糧・石炭・医療用品・生活用品の流入を絶たれ、また交通網だけでなく、水道や電気などのライフラインまで遮断されたため、市民生活に深刻な影響を受けました。
これに対して、アメリカは、西ベルリン市民と駐留軍へ、援助物資を空輸によって、大量に送りました。この「大空輸作戦」は、15ヶ月にわたり延べ27万回実施されました(総輸送量183万トンに達した)、
世界は米ソの全面対決への展開を恐れ、冷戦期の最初の緊張をもたらしましたが、ここはスターリンが譲歩したことで、開戦は回避され、米ソ外相による国連での交渉の結果、1949年5月12日、ベルリン封鎖は10カ月後に解除されました。ただし、ベルリン封鎖によって、ヨーロッパにおける米ソの冷戦は確実なものとなり、冷戦による東西ドイツとベルリンの分裂が決定的となりました。
◆ コメコンとNATO
ベルリン封鎖の最中、スターリンは、1949年1月、マーシャル=プランに対抗して、コメコン(COMECON)(経済相互援助会議)を結成しました。原加盟国は、ソ連邦、アルバニア、ブルガリア、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ポーランド、ルーマニアで、国際分業を通じて、東ヨーロッパの社会主義諸国の経済協力を進め、結束をさらに強めさせることが目的としました。ただし、ソ連の地位はほかの国より圧倒的に高く、加盟国の経済発展段階の差異も著しいかったことから、ソ連中心の外国貿易推進機関性格が強いものでした。
これに対して、ソ連の攻撃を警戒する西側諸国は、1949年4月、NATO(北大西洋条約機構)を結成しました。イギリス、フランス、イタリア、ベネルクス3国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)、ポルトガル、ノルウェー、デンマーク、アイスランドの西欧10か国とアメリカ、カナダの全12か国からなりました。
圧倒的なアメリカの核抑止力の庇護の下で、集団的自衛体制にもとづく軍事同盟が形成され、冷戦中、後に結成される東側のワルシャワ条約機構と対立を深めていくことになります。
◆ 東西ドイツの誕生
ベルリン封鎖から、NATOの結成に至る過程で、冷戦による東西ドイツの分裂(対立)は決定的となり、1949年9月7日、西側にドイツ連邦共和国(西ドイツ)と、同年10月7日、東側にドイツ民主共和国(東ドイツ)がそれぞれ成立し、ドイツは分断国家となりました。
なお、こうした軍事対立が進行する中で、ソ連は、1948年から核兵器の開発に着手し、翌49年9月25日に、核実験成功を公表しました。
◆ 朝鮮戦争
一方、米ソ対立による冷戦は、アジアでも朝鮮半島を舞台に繰り広げられ、冷戦ではなく実際の戦争、「熱戦」となって火を噴きました。1945年8月、第二次世界大戦・太平洋戦争の終結、日本の敗北によって朝鮮は独立を回復しましたが、東西冷戦が進行する中で、直ちにアメリカとソ連の対立が朝鮮に持ち込まれました。
まず、ソ連は満州から北朝鮮の国境を越え、8月24日に平壌に入ると、あわてたアメリカはソ連に北緯38度線で分割占領することを提案、9月8日にマッカーサーが仁川に上陸し、朝鮮(南部)を米軍の軍政下に置きました。
朝鮮では統一政府を作る努力がなされましたが、南のアメリカと李承晩は単独選挙を強行し、李承晩を大統領に選出し、1948年8月15日に「大韓民国」を成立させました(アメリカは軍政を停止)。これに北が対抗し、全朝鮮最高人民会議の議員選挙を実施し、憲法を制定して、1948年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国を樹立し、金日成が首相に就任しました。
このように、朝鮮半島には北と南に別個の国家が成立し、北は金日成の率いる朝鮮労働党のもとで社会主義体制をとり、南は李承晩大統領の親米政権のもとで資本主義体制をとるという二陣営が直接対立する場となったのでした。
一方、中国では、国共内戦が共産党の勝利に終わり、翌1949年10月1日、中華人民共和国が社会主義国として成立すると、朝鮮でも社会主義による統一を実現しようと決意した金日成が、1950年6月25日、南へ侵攻し、朝鮮戦争が勃発しました。
北朝鮮軍は、一気にソウルを占領した後も、進撃を続け、半島南端の釜山に迫りました。そこで、国連安保理は国連軍(実質的には米軍)の派遣をソ連欠席のまま決定し、マッカーサーは北朝鮮軍の背後を突くべく、仁川上陸作戦を展開し、形勢を逆転させ、ソウルを奪回しました。
その後、国連軍は38度線を越えて北上し、平壌を陥落させましたが、ここで毛沢東の中国が、中国人民義勇軍を送り、参戦、これによって国連軍(米軍)は後退し、両軍は38度線を挟んでの攻防となり、そこで戦線は膠着しました。この間、和平に関する長い交渉の結果、1953年7月27日、南北朝鮮代表、米中代表などが板門店で朝鮮休戦協定に調印しました。これによって、朝鮮は北緯38度線を休戦ラインとする線で南北に分断、南北分断国家として固定化されました。
なお、朝鮮戦争において、ソ連は安保理の立場上、全面的な参戦はできなかったので、陸上部隊は派遣せず、北朝鮮への支援は、少数の航空部隊の派遣、武器や物資の提供にとどまりました。
◆ スターリンの死
ソ連の独裁者スターリン(74)が 1953年3月5日、脳卒中で死去しました。スターリンが権力を握っていた約30年間、ソ連邦内の死者は4000万人とも言われていいます。ヒトラーは580万人のユダヤ人を虐殺しましたが、スターリンはその7倍もの同胞(政敵、同志、側近、家族や国民)を犠牲にしたと言われています。
スターリンの死後、共産党指導部は、権力が書記長一人に集中するのを防ぐために、集団指導体制をとり、共産党書記はフルシチョフ、首相(ソ連邦閣僚会議議長)はマレンコフ、副首相兼内相をベリヤ、国防相にブルガーニン、外相はモロトフという布陣となりました。もともとスターリンの後継者にはベリヤが有力視されていましたが、フルシチョフとモロトフらが軍部と結託し、ベリヤを(独裁権力を握ろうとしたとして)逮捕、処刑しました。
また、スターリンの死後、当初、マレンコフが、党筆頭書記と首相を兼任し権力を掌握しましたが、党のトップの座をフルシチョフに譲り権力分散を図ったことが逆に命とりとなり、後に(農業政策の失敗を理由に)失脚しました。
マレンコフの後任に、ブルガーニンが就任し、55年にはフルシチョフ・ブルガーニン体制が確立しました。しかし、そのブルガーニンも、やがてフルシチョフと政策面で対立するようになり、保守派(スターリン派)モロトフら、フルシチョフを批判する反党グループに加わったために、58年、首相を解任され失脚しました(モロトフも56年9月、外相を解任)。こうして、フルシチョフはソ連共産党第一書記兼首相として、スターリン後の最高指導者となったのです。
<フルシチョフの平和共存路線>
フルシチョフ(在1953~64)は、スターリン批判を行い、ジュネーブ4巨頭会談に臨み西側との平和共存を図るなど「雪解けの時代」を演出した一方で、ワルシャワ条約機構の創設、ベルリンの壁の建設、キューバ危機に至り、東西冷戦の緊張を高めました。また、東側陣営内において、ハンガリー動乱や中ソ対立に直面しました。なお、1956年10月、日本との間で日ソ共同宣言を発表し、国交を回復したのもフルシチョフの在任中でした。
内政では、1954年2月、それまでロシアの一部であったクリミア半島を、「ロシアのウクライナの兄弟愛と信頼」に基づき、ウクライナ共和国に移管しました。フルシチョフの頭の中には、将来ウクライナが独立するなど考えも及ばなかったとみられます。
◆ ワルシャワ条約機構(WTO)
1955年5月に、西側が西ドイツ再軍備とその北大西洋条約機構(NATO)への加盟を認めると、これに対抗して、ソ連は、陣営の結束を強めるために、共産圏諸国との間で、同月、ワルシャワ条約機構(正式名「友好協力相互援助条約機構」)を結成しました。
原加盟国はソ連、ポーランド、東ドイツ、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニアの8カ国で、集団的自衛権を保持する軍事同盟です。。これによって、NATOに結集するアメリカを中心とした西側諸国の資本主義陣営と、ソ連を中心とした社会主義国のワルシャワ条約機構という対立構造が出来上がりました。
◆ ジュネーブ4巨頭会談
ワルシャワ条約機構の創設によって、東西冷戦の緊張をさらに高まりましたが、それでもスターリン後のソ連は、西側との全面対決は避けるため、1955年7月のジュネーヴ4巨頭会談に応じ、平和共存への第一歩を踏み出しました。
この会談は、第二次大戦後初の米ソ英仏首脳による話し合いで、ソ連からは、フルシチョフ第一書記とブルガーニン首相が参加し、ドイツ(ベルリン)問題の解決,ヨーロッパ集団安全保障の実現、 軍縮、東西交流などの諸問題について議論されました。具体的な成果はありませんでしたが、「ジュネーブ精神」と呼ばれる平和共存路線が確認され、(「ジュネーブの雪どけ」として)世界から歓迎されました。
当時アメリカでは、1953年、共和党のアイゼンハウアーが大統領となり、ダレス国務長官の主導する「まき返し政策」と呼ばれる対ソ強硬策がとられようとしましたが、スターリンの死去とフルシチョフの登場を受けて、対決ムードは一時後退しました(朝鮮戦争でも休戦協定が成立)。
◆ スターリン批判
さらに、「雪どけ」と平和共存の気運を高めたのが、フルシチョフが行ったスターリン批判です。スターリンの死後、当初、集団指導体制をとったソ連でしたが、スターリン体制の維持は困難となったことから、フルシチョフ第一書記は、1956年2月、ソ連共産党第20回大会において、スターリンの非人間的な独裁政治、個人崇拝、西側を否定する強硬な姿勢など、スターリン個人を批判しました。ただし、共産党一党支配という基本的な体制が否定されることはありませんでした。
◆ ハンガリー動乱
スターリンの死とスターリン批判によって、「これでソ連の厳しい統制が緩むのではないか」と期待した東欧の市民は、自由化を求め出し、さらに、スターリン批判後の56年4月にコミンフォルムが廃止されると、東欧諸国の中で、ソ連の支配に対する反発が表面化しました。
1956年6月にポーランド反ソ暴動(ポズナニ暴動)、8月(10月)にハンガリー暴動(ハンガリー事件)が起きましたが、フルシチョフは、これを厳しく弾圧しました。ポーランドに対しては国境までソ連軍を移動させて圧力を加えることで、反ソ暴動も押さえましたが、ハンガリーにはソ連軍を派遣して直接介入する事態となったのです。
フルシチョフのソ連は、多数の戦車をハンガリーに送り込んで武力弾圧し、ハンガリー共産党の指導者は拘束、やがて処刑され、弾圧に反対して行動に出たハンガリー国民の多くもソ連軍によって殺害されました。
このハンガリー動乱を受け、米ソ間の緊張が再び高まり、ソ連は、核抑止論に立った核兵器の開発と宇宙開発をアメリカと競いました。
宇宙開発競争では、ソ連は早くから主導権を握り、1957年10月、世界で初めて人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げました。また、1961年4月には、ユーリ・ガガーリン少佐が、人類で初めて宇宙に飛びました(ガガーリンが乗った世界最初の有人人工衛星が打ち上げられた)。ガガーリンが宇宙から帰還した後の会見で「地球は青かった」という発言が有名です。
これに対抗して、アメリカも人工衛星を打ち上げるなど宇宙開発に加わり、この年以降米ソの宇宙開発競争は激化していきました(さらに、1970年8月には、金星への初の探査機の着陸を成功させている)。
◆ 中ソ対立
フルシチョフは、西側とは平和共存を模索しましたが、スターリン批判と平和共存路線に反発した中国共産党との対立を招きました。
当初、スターリンのソ連は、1949年10月に誕生した中国共産政権を、同じ社会主義(マルクス=レーニン主義)を掲げた同胞とみなし、1950年2月、中ソ友好同盟相互援助条約(〜1979)を締結、アジアにおいてアメリカに対抗する姿勢を示しました。
また、1957年10月には、中ソ技術協定(国防新技術についての協定)をひそかに結び、同盟国(兄弟国)として中国を支援しました。内容は、ソ連が中国に原爆のサンプルと製造技術を提供することを約束したと見られています(同協定は秘密協定であったので、現在も正確な内容はわかっていない)。
しかし、1956年2月のスターリン批判をきっかけに、中ソ対立が始まります。中国を独裁的に「指導」していた毛沢東からすれば、フルシチョフによるスターリン個人への批判は、自らにも向けられたとの疑念が生じたようです。また、スターリンのアメリカとの対決姿勢を継承する立場の毛沢東の目には、フルシチョフの平和共存路線は、修正主義としか映りませんでした。
1957年11月にモスクワ開催された世界共産党会議(世界共産党・労働者党代表者会議)(コミンフォルム解散後、数回にわたって持たれた国際会議)において、毛沢東が出席し、フルシチョフの平和共存路線への転進を帝国主義への屈服であるとして受け入れないとの姿勢を示しました。
ここまでであれば、中ソの対立は、理論的な面での論争が主でしたが、それだけにはとどまりませんでした。1959年6月、ソ連は、中ソ技術協定の破棄を通告、原爆サンプルなどの提供を拒否するなど、中国の核兵器開発への協力を中止しました。フルシチョフは同年9月、北京を訪ね、毛沢東と会談、意見を調整しようとしたが失敗、中ソ対立が白日の下にさらされました。この後、ソ連首脳の訪中は30年以上途絶えることになります。
さらにソ連は、1960年6月、中国に派遣していた1390人の技術者を引き揚げ、技術提供も停止すると通告しました。これによって、中ソ友好同盟相互援助条約以来の中ソの同盟関係は、事実上崩壊しました。
◆ ベルリンの壁
一方、ベルリン封鎖は、1949年5月に解除されましたが、東ドイツから西ドイツへの亡命者の数は、増加の一途をたどったことから、1961年8月、ソ連の意向を受けた東ドイツ当局は、西ベルリンへの交通路を再び遮断して、ベルリンの壁を建設しました。
壁建設まで、東西ベルリンの境界線には、東西に193本の主要道路及び脇道を横切っており、それまで81カ所の検問所があり、そこから通行可能で、毎日2000人近くの東ドイツ国民が脱出していました。49年10月の東ドイツ建国から計算すれば、全体ではその数は約200万人にものぼったと試算されています。
ベルリンの壁は、東独内にあった西独の飛び地の西ベルリンを取り囲むように設けられ、高さは3メートルで、総延長は155キロ(東西ベルリン間の48キロを含む)に及んでいました。このため、周囲を全て東ドイツに囲まれた西ベルリンは、「自由世界のショーウィンドー」、「赤い海に浮かぶ自由の島」と呼ばれました。
その日(8月13日)、突如として東西ベルリン間の通行をすべて遮断し、西ベルリンの周囲をすべて有刺鉄線で隔離(有刺鉄線がわずか一夜で完成)、のちにコンクリートの壁を建設しました。ベルリンの壁は、この後、1989年秋の東欧革命まで、長く東西冷戦の象徴として、東西ベルリンを遮断していくことになるのです。
◆ キューバ危機
ソ連は、1962年夏、アメリカが打倒を目指すキューバのカストロ政権を支援しようと、キューバと、極秘裏に軍事協定を結び、キューバに密かに、中距離核ミサイル、発射台、ロケット、戦車などの兵器を供与し、アメリカ向けミサイル基地を建設する計画が進められました。
1962年10月14日、アメリカ空軍の偵察機がキューバ上空で撮影した写真で、ソ連によるミサイル基地が建設進行中であることが判明しました。これは、キューバにミサイルなど攻撃的兵器が運び込まれれば、核兵器によるアメリカ本土攻撃を可能にすることを意味します。実際、ソ連はすでに、ミサイルや機材を積んだ艦船をキューバに向かわせていました。
そこで、ケネディ大統領は22日夜、テレビ演説を行い、事態を公表、キューバ周囲を海と空から海上封鎖することを宣言し、ミサイル基地の撤去を求めました。また、西半球に対するキューバからのミサイル攻撃は,ソ連のアメリカ攻撃とみなし,ただちに報復するとの態度を示しました。
このとき、ソ連の艦船が、アメリカの海上封鎖を突破しようとすれば米ソ間の直接衝突となる事態が想定されました。アメリカのキューバ海上封鎖が発動され、ケネディ大統領は空軍に核兵器搭載を命じた一方、ソ連は潜水艦に護衛された艦船を封鎖ラインに接近させ、危機は頂点に達しました。
核戦争の危機が迫る中、国連緊急安保理事会での交渉や非公式の交渉をへた結果、10月26日、フルシチョフは、アメリカがキューバに侵攻しないと約束するなら、ミサイルを引き上げ、ミサイル基地も撤去するとの提案をケネディに伝えました。
翌27日、ケネディはフルシチョフの提案(キューバ不侵攻)を受け入れ、また報復攻撃を行わないことを決し、フルシチョフに伝達しました。28日、ソ連は、キューバからミサイルとその基地を撤去するとラジオ発表を行い、ミサイルを積んだソ連艦船は、海上封鎖を突破することはせずに引き返しました。これによって、海上封鎖は解除され、危機は回避されました。
このキューバ危機は、米ソの核戦争の脅威が現実に近づいた出来事として,冷戦時代の軍事的緊張を象徴する事件となりました。
それでも、危機後,米ソは急速に接近し,1963年8月、米ソ直通電話(ホット・ライン)が設置され、同年8月、部分的核実験停止条約が成立するなど,一時的ながら、米ソ平和共存と「雪解け」の時代となりました。
◆ フルシチョフ失脚
しかし、フルシチョフは、1964年10月、突然解任されました。同月12日、フルシチョフの不在中、ソ連共産党拡大幹部会が開催され、フルシチョフを解任する決議がなされたのです。翌日軍用機でモスクワに呼び出され、退陣を迫られたフルシチョフは、15日、やむなく辞職願に署名し、失脚しました。
突然の解任理由としては、表面的には、農業政策の失敗があげられました。生産第一主義の観点から、土地や気候や伝統的農法を無視した結果、前年(1963年)、大凶作となったことが批判されたのです。
しかし、何より、キューバ危機において、ケネディ大統領の強圧に屈し、ミサイル基地を撤去したことが要因とされています。特に、ソ連の権威を失墜させたと捉えた保守派や軍部からの批判にさらされたことが大きかったようです。キューバ危機の不手際といった外交政策の失敗の責任をとらされた形です。
<ブレジネフ時代の安定と停滞>
ソ連共産党第一書記兼首相であったフルシチョフが去った後、次の第一書記にはブレジネフ(66年から書記長)、首相にはコスイギンが就任し、ソ連はブレジネフ-コスイギン体制に移行していきました。ただし、実権はブレジネフが握り、その権力は18年間(1964~1982)に及び、安定はしましたが、停滞した時代と評価されています。
ソ連は、引き続き、世界の大国として国際社会で重要な位置を占めましたが,ソ連共産党による独裁的な外交手法の弊害が、しだいにいろいろな面で噴出するようになりました。
◆ プラハの春
1968年に入ると、当時のチェコスロバキアで、「人間の顔をした社会主義」を提唱するドゥプチェクの誕生に触発され、「プラハの春」と呼ばれた民主化運動が起きると、ソ連は、同年8月、ブレジネフ=ドクトリンに基づいて、軍事介入(民主化運動を再び戦車で弾圧)しました。
ブレジネフ=ドクトリンとは、「社会主義諸国は、社会主義共同体としての利益を、各国個別の国家的利益に優先しなければならない」とする制限主権論に基づく政策で、ブレジネフは、社会主義圏をソ連が統制する姿勢を強化しました。
また、ブレジネフは、フルシチョフの時代から始まった中ソ対立でも強硬姿勢を崩さず、1969年3月、中ソ国境に位置するウスリー川の珍宝島(ダマンスキー島)で、両国軍は武力衝突を起こしました。この中ソ国境紛争は、9月にコスイギン=周恩来の会談で、核戦争にも発展しえる全面的な武力衝突は回避されましたが、中ソ国境線をめぐるにらみ合いは、70年代も続きました(なお、ソ連と中国の国境は、全長7400kmに及ぶ、世界で最も長い国境となっている)。
こうしたチェコ事件や中ソ国境紛争で、共産圏全体の危機感を覚えるソ連に対して、アメリカも、ベトナム戦争の混迷が続いていたことを背景に、70年代はデタント(緊張緩和)の時代となりました(ベトナム戦争は、アメリカと、北ベトナムや南ベトナム解放戦線を支援したソ連との代理戦争という側面もあった)。
◆ デタント(緊張緩和)
ニクソン大統領は、1972年5月、現職のアメリカ大統領としては戦後はじめてソ連を訪問し(1959年のフルシチョフ訪米以来の画期的な出来事)、ブレジネフと会談、第1次戦略兵器制限交渉(SALTI)に合意しました。
戦略兵器削減交渉(SALT)
SALT1では、たとえば、戦略兵器のなかのICBM(大陸弾道弾ミサイル)の発射基の上限を米1045基、ソ連1618基としたことなど、保有ミサイルの数量の上限が設定されたのみで、核弾頭やミサイルの数が削減されたわけではありませんが(SALTは軍縮ではなく、追加を行わない軍備管理)、デタント(緊張緩和)の流れの中で、その後の核軍縮交渉に向けて一定の前進を見ました。
CSCEとヘルシンキ宣言
1975年には、全欧安全保障協力会議(CSCE)が開催されました。CSCEは、デタント以降の東西対話の場となり、その最終文書であるヘルシンキ宣言では、第二次大戦後の国境線の不可侵と領土保全、内政不干渉に加えて、人権と諸自由の尊重などの原則が盛り込まれました。ソ連は「人権と諸自由の尊重の原則」には、強く抵抗しましたが、「内政不干渉の原則」を条件として、「国境線の不可侵」と「領土保全」の原則と引き換えに合意したと言われています。また、全ヨーロッパの戦争の危機を避けるための信頼醸成のプロセスが取り決められ、その後の国際政治環境の形成に大きな役割を果たしました。
新冷戦
しかし、1979年12月、ソ連がアフガニスタンに侵攻し、社会主義政権の維持を図り、アメリカでは1981年にレーガン政権が登場して、ソ連への対決色を強めたことから、再び冷戦の緊張が高まり、80年代前半は「新冷戦」と呼ばれる時代となりました。
◆ ソ連の停滞と閉塞
一方、ソ連国内では、ブレジネフ体制が長期化する中で、ソ連の体制と経済の硬直化と停滞が進み、社会全体の閉塞感が強まりました。共産党による支配はますます官僚的になり、人事は刷新されることなく「老人支配」と言われるようになりました(ブレジネフ政権末期の1981年、党を指導する政治局員の平均年齢は69歳)。そのような中でも、ノーメンクラツーラと呼ばれた一部の党高級官僚は、別荘を持つなどの経済的に恵まれた地位を縁故的に維持しながら、特権階級化していきました。
経済面での立ち後れも著しく、当時、西側諸国は技術革新時代を迎えていたのとは対照的に、ソ連の立ち後れが目立ち初め、経済も停滞していきました。この官僚制の悪弊と経済の低迷によって、市民生活も閉塞感に覆われるようになりました。
その一方で、反体制的な言論は厳しく弾圧されました。ブレジネフ政権下のソ連において、サハロフ博士や作家のソルジェニーツィンなど、反体制知識人といわれる少数の人々が自由を求める声があげましたが、監禁されるか国外追放され、自由な言論は抑え込まれました。
ポーランドの「連帯」
しかし、こうしたソ連主導の共産圏(東側)全体にただよう停滞、硬直化、閉塞感を揺り動かす動きは、ソ連からではなく、東欧諸国の自由化を求める運動から始まりました。その最初の動きが1980年に始まったポーランドの民主化運動でした。
当時、それまで一人の労働者に過ぎなったワレサが、同年7月にはじまったストライキを指導し、翌81年9月には、ポーランド統一労働者党(ポーランドの共産主義政党)の統制を受けない労働組合である独立自主管理労組「連帯」を結成し、政府と渡り合いました。その後、ポーランドでは、81年12月に戒厳令が布かれ「連帯」は非合法化、ワレサらも逮捕、弾圧されましたが、このポーランドの動きが、のちの東欧民主化の端緒を開くことになります。
ブレジネフの死
これに動揺したソ連でも、1982年にブレジネフが死去したことをきっかけに、改革の必要が意識されるようになりましたが、アンドロポフ(任期82.11~84.2)、チェルネンコ(任期84.2~85.3)という新指導者も相次いで病死したのち、1985年3月に54歳というソ連指導者としては異例の若さのゴルバチョフが書記長に選任されました。
このゴルバチョフによって、一気に国内の改革が実行され、新冷戦を終わらせ劇的な冷戦終結がもたらされることになるのです。
<ゴルバチョフの改革>
◆ ペレストロイカと冷戦終結
1985年3月、ソ連共産党書記長となったゴルバチョフ(1985~91)は、ブレジネフ時代のソ連の経済と社会の停滞を打破するため、「グラスノスチ(情報公開)」と「ペレストロイカ(改革)」を掲げて、社会主義計画経済の一定の修正を図りました。
まず、市場経済の導入を図るとともに、政治面での民主化を進めました。1989年に複数候補者選挙制を導入したのち、90年2月には共産党一党支配を廃止、複数政党制に改め、党と国家の関係は形式的に分離しました。さらに、90年3月に大統領制に移行させ、人民代議員大会はゴルバチョフを大統領に選出しました。
外交では、それまでの硬直した外交方針を改める「新思考外交」をかかげて、制限主権論を放棄、レーガン米大統領と会談するなど、欧米諸国との対話に転じ、緊張緩和を復活させました。
また、1989年5月には、中国を訪問、鄧小平と会談して、50年代後半からの中ソ対立に終止符を打ち、国交を(中ソ関係の)正常化させました(なお、この直後、北京で天安門事件が発生した)。
さらに、1986年10月にアイスランドの首都レイキャビクでレーガン・ゴルバチョフの首脳会談をうけ、翌87年12月、ワシントンDCにおいて、中距離核戦力(INF)全廃条約が調印され、その後、米ソのINF(射程500km~5500km)は実際に破棄されました。
こうした大胆な外交政策の変更によって、東欧諸国の民主化が一挙に進み、1989年11月のベルリンの壁の開放に象徴される東欧革命(東欧社会主義の崩壊)がもたらされ、同年12月には、アメリカのブッシュ(父)大統領との間のマルタ会談で、東西冷戦の終結が宣言されました。
◆ ロシア共和国・エリツィンの台頭
89年の東欧革命は、ソ連邦を構成する民族に分離独立運動を誘発し、1990年3月にリトアニア、ついでラトヴィア、エストニアとバルト三国が相次いで独立を宣言しました。
このバルト三国のソ連邦からの分離独立宣言を機に、連邦を構成する他の共和国の分離も問題となってきました。実際、ペレストロイカをスローガンにソ連の再建を図ったゴルバチョフでしたが、連邦を構成するロシアをはじめ各共和国の全面的な協力を必ずしも得られていなかったのです。1990年5月、ロシア連邦人民代議員会議は、当時ロシア共和国の国家元首であった最高会議議長に、エリツィンを選出しました。
連邦制を維持したいゴルバチョフに対して、肝腎のロシア共和国が、90年6月、ロシア共和国最高会議議長(国家元首に相当)エリツィンの指導のもとで主権宣言(共和国の法律が連邦法を上回ることを規定)を行いました。これは、ロシア共和国が、ソ連邦とは別個な国家であると宣言したことを意味します。
さらに、翌1991年6月、ロシア共和国の直接選挙で、エリツィンが大統領に選出されました。この結果、ソ連大統領とロシア大統領の二人が同時に存在する事態となり、同じモスクワのクレムリンに同居しながら、エリツィンとゴルバチョフが張り合う形となったのです。
◆ ソ連崩壊とCIS創設
こうした、ソ連国内の混乱のなか、、1991年8月19日、共産党保守派が、ゴルバチョフの排除とソ連邦の維持を狙い、クーデターを決行、ゴルバチョフを滞在先のクリミアの別荘に軟禁しました。しかし、モスクワ市民は一斉にクーデタ反対に立ち上がり、ロシア大統領エリツィンが市民の先頭に立ってクーデタ部隊の行動を阻止したことから、クーデタは失敗、保守派は排除され、首謀者も逮捕されました。
ゴルバチョフは解放されましたが、共産党と自身の権威は全く落ち、この混乱の責任をとる形で、同月24日、共産党書記長を辞任し、さらに、ソ連共産党そのものの解散(解党)を決定しました。
それでも、ゴルバチョフはなおもソ連邦の維持を図りましたが、1991年12月8日、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの3共和国首脳が、ベラルーシのミンスク郊外に集まって、ソ連邦を解体し、代わって独立国家共同体(CIS)を結成(創設)することで合意しました(なお、ソ連邦解体は、1922年のソビエト連邦条約の無効を宣言する手続きがとられた)。同月21日,ソ連邦15共和国のうちバルト3国とグルジアを除く11か国が参加してCISが正式に発足しました。
これによって、加盟国を失ったソビエト連邦は12月25日に崩壊し、ゴルバチョフはソ連大統領を辞任しました。26日、ソ連最高会議がソ連の消滅を宣言したことで、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)は、1922年以来、69年の歴史に終わりを告げました。ロシア革命から74年目の出来事でした。
ソ連からCIS(独立国家共同体)への移行においては、ソ連邦大統領のゴルバチョフに代わり、ロシア共和国大統領エリツィンが指導力を発揮し、ソ連邦崩壊後のCISにおいて、ロシア共和国(ロシア連邦)が盟主となりました。
旧ソ連は、結果として、CIS加盟12か国(グルジア(ジョージア)は93年に加盟)とバルト3国に分解されました。ただし、国土と人口の大部分はロシア連邦に属したので、国家としての、かつてのソ連(旧ソ連)はロシア連邦が継承しました(たとえば、国連の代表権はロシア連邦が引き継いだ)。
こうしてみると、ソビエト連邦(ソ連)からロシア連邦を中心とするCIS(独立国家共同体)への移行は、ゴルバチョフとエリツィンの権力闘争で、エリツィンが勝利した結果という見方もできます。ゴルバチョフの改革は、結果的に、ソ連を解体に導きました。ゴルバチョフ本人は開かれた社会主義による新しい連邦国家を作ろうとしていましたが、無謀なまでのスピードで改革を急いだことが命取りとなりました。
ゴルバチョフは今でも欧米で、好意的に語られていますが、ロシアの国民、とくに保守層から見れば、ゴルバチョフは、国(ソ連)を崩壊させたA級戦犯であり、評価されることはありません。
彼らからすれば、欧米がゴルバチョフを評価したのも、欧米が求めたように、ソ連を崩壊させた功労者だからだということになります。また、西欧の文化に憧れいたとされるゴルバチョフは、米英のおだてに乗り、自分の国を西欧のように作り替えようとしたと批判されています。ロシアはユーラシアの多民族国家であり、西欧とは本質的に違うということをゴルバチョフは理解していなかったということなのかもしれません。
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投稿日:2025年4月5日