ロシア史①:キエフ・ルーシとモスクワ大公国

 

ロシアの歴史をシリーズでお届けしています。最初の投稿記事では、ロシアの始まりから、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)の発展と、モンゴル支配後のモスクワ大公国の勃興までを解説します。

 

ロシアとウクライナの対立の根底にあるのは、両国の起源が共通のキエフ・ルーシであることです。本投稿は、ロシアによるウクライナ侵攻の原因を考える上での最初のヒントになるでしょう。

 

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<ロシアの興り>

 

ロシアは、ユーラシア大陸の北部を東西にわたって占める地域の多民族国家です。その歴史は、3世紀から8世紀までの間、中央ヨーロッパ東部のカルパティア山脈から、ドニエプル上流域、さらにボルガ川の上・中流地方に移住した(東)スラヴ人に始まります。その際、もともとヨーロッパ北部に先住していたアジア系のフィン人と混血したと見られています。

 

ロシア(東スラブ)を最初に支配したのは、バイキングのノルマン人でした。ノルマン人は、北方系ゲルマン民族の一派で、古代からスカンディナヴィア半島(スウェーデン)やユトランド半島(デンマーク)を原住地として、狩猟や漁労で生活していましたが、8世紀ごろから、スウェーデン系ノルマン人(「ルーシ」と言われたルーシ族)が、移動を開始しました。

 

862年には、首長リューリク(830頃~879頃)に率いられてバルト海を渡り、海から川をさかのぼってロシア草原に侵入、その地に住んでいたスラヴ民族(東スラブ人)を征服して、ロシア北西のノヴゴロドを占領し、最初の(ロシア人)国家(ノヴゴロド国)を建設しました。その過程で、ノルマン人たちは、東スラブ人と混血し、後のロシア人の祖先となっていきます。

 

 

<キエフ大公国>

 

◆ リューリク朝の始まり

 

ノルマン人は次第に南下し、リューリクの一族であったオレーグは、882年頃、バルト海と黒海を結ぶドニエプル(ドニェプル)川中流のキエフを制圧、キエフ公国(キエフ=ルーシ)を建国しました(ほぼ現在のウクライナにあたる)。その際、ノヴゴロド国と統合し‘統一国家キエフ公国の成立)、都もノヴゴロドからキエフに移されました。

 

キエフ公国は、ルーシと呼ばれたノルマン人が、キエフに建てたことから、キエフ・ルーシとも呼ばれます。このキエフ公国(キエフ・ルーシ)こそが、ロシアとウクライナにとって国家のルーツ(起源)となります。やがて、ルーシからロシアという名が起こってきます。その後、キエフ公国のオレーグは、さらに南下し、ドニェプルから黒海に進出すると、カスピ海北岸のハザール=カガン国(トルコ系遊牧民族の国)を圧迫しただけでなく、バルカン半島ではブルガール人などと競いながら、領土を広げ、ビザンツ帝国を脅かす存在となりました。

 

この時代、この地域に王は存在せず、各地に豪族らが割拠し、分裂状態で、豪族らは「公」を意味する「クニャージ」を名乗っていました。キエフ・ルーシ(キエフ公国)の君主も「クニャージ」の称号を用いていましたが、キエフルーシは他の公国よりも国力が強く、主導的な立場にあったため、君主は「大公」を意味する「ヴェリーキー・クニャージ」を名乗っていました。ちなみに、ノヴゴロド国は「王国」でもなく、「公国」でもないのは、リューリクが王でも公でもなく、ルーシ族の族長という立場に過ぎなかったからです。

 

さて、オレーグの死後、912年、リューリクの子のイーゴリが「大公」として治めることになり、キエフ・ルーシも正式にキエフ大公国となりました。以後、キエフ大公位はリューリクの息子に引き継がれたことから(歴代、リューリクの血筋の者が公位を継承した)、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)はリューリク朝とも呼ばれます。リューリク朝は、キエフを中心に、その一族が治める複数の公国による緩やかな連合体として機能していました。

 

そうしたキエフ大公国(キエフ・ルーシ)は、ウラジミール1世(ウラジーミル大公)(在:980〜1015)と息子のヤロスラフ1世(在:1016〜1054.2)のときに最盛期を迎えました。

 

 

◆ キリスト教の受容

 

ウラジミール1世(キエフ大公)は、一族を各地に封じて土着勢力を抑え、国内を安定させるとともに、ビザンツ帝国の混乱に乗じてコンスタンティノープルに軍隊を進めて圧力をかけました。988年、ビザンツ皇帝バシレイオス2世の妹を后に迎えると同時に、キリスト教の正教会(ギリシャ教会)に改宗し、国教に定めました。

 

キエフ公国はキリスト教国となったことで、後に、ビザンツ帝国に征服されたブルガリアの聖職者が多数亡命してスラヴ語典礼を伝え、キエフ公国のキリスト教の進展に大きな影響を与えました。また、ビザンツ帝国滅亡後は、ロシア教会(ロシアで確立した正教会)が正教会(ギリシア正教)の正統を継承していくことになります。

 

また、キリスト教の受容と国教化よって、キエフ公国(キエフルーシ)には、ビザンツ文化が流入し、スラブ人の文化との統合が始まりました(キエフ公国が文化的にビザンツ化したことを意味する)。統治においても、ビザンツ風専制支配が行われるようになり、国家支配の強化が図られました。

 

さらに、この時、ギリシア正教のみならず、キリル文字(9世紀、スラヴ人への布教のためにギリシア人宣教師キュリロスが考案したとされている文字)も受容し、これを基礎にロシア文字(語)やウクライナ文字(語)が形成されていきました。

 

ウラジーミル大公の次のヤロスラフ1世(在1016〜1054.2)の治世に、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)の領土は最大となり、北は白海から南は黒海、西はヴィスワ川の源流から東はタマン半島まで広がり、東スラヴ民族の大半を束ねました。ヤロスラフ1世は、賢公とも称され、領土の拡大だけでなく、ビザンツ文化をさらに積極的に摂取するなど、キエフ大公国の絶頂期を体現したと評されています。

 

 

◆ キエフ・ルーシの衰退

 

しかし、ヤロスラフ賢公の死後、複数の公国が緩やかに連合していたキエフ大公国は諸公間の対立抗争の結果、分裂していきます。死に際してヤロスラフ1世は、子供たちを重要な都市へ配して国家を安定させようと図りましたが、かえって争いが頻発するようになりました。キエフ大公国では、もともと兄弟分割相続が行われていたため、諸侯が自立、割拠し、キエフ大公以外に多く公国が分立して争うようになったのです。

 

もっとも、ウラジーミル2世モノマフ(在1113〜1125)とその子ムスチスラフ1世(在位:1125年 – 1132年)の時代には、分裂の流れはいったん止められ、キエフ・ルーシ全体の統一を回復し(大公国は再度統一され)かけました。しかし、ムスチスラフ1世の死後(1132年)は、再び諸公の争いが頻発し、キエフ大公の権威は低下、キエフはリューリク家の血を引く諸公達の争奪戦の場所となりました。

 

その結果、1130年代には、キエフ・ルーシ(キエフ大公国)は、10〜15の公国に分かれ、国土が完全に分裂していました。キエフ大公国(キエフ・ルーシ)の封建体制が崩壊したのです。具体的には、すべてリューリク朝の流れはくむものの、北西ルーシのノヴゴロド公国(1136〜1478)、北東ルーシのウラジーミル・スーズダリ大公国(モスクワ大公国の前身)(1157〜1363)や、南西ルーシ(西部)のハールィチ・ヴォルィーニ(ガーリチ・ボルイニ)大公国(1199〜1349)、南東ルーシ(南部)のキエフ公国(1132〜1470)などが割拠しました。

 

こうした(大)公国の成立期には、依然キエフ大公位は存在していましたが、キエフ大公国はその実体を失い(キエフを中心とするキエフ公国がその残滓を留めた)、各公国はキエフ大公に従属しない独立した政権でした。

 

 

さらに、経済面においても、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)は、バルト海と黒海を結ぶドニエプル川流域での河川貿易で繁栄しましたが、12世紀以降、十字軍遠征と、イタリアを中心とする地中海交易が活発化し、ドニエプル川流域の交易が相対的に衰退していきました。このキエフ大公国(キエフ)の相対的な経済力の低下が、地方諸公の経済的自立傾向を強めていった要因となります。

 

加えて、たびたび攻撃してくるポロヴェツ族(テュルク系の遊牧民族)との戦争もあいまって、キエフの街とキエフ地方は荒廃し、人々は北東のノヴゴロドやモスクワなどへ移住していきました(ルーシ国家の中心は、モスクワを中心とする森林地帯に移行していった)。

 

 

<モンゴルの支配>

 

そのような分裂状態であったキエフ大公国(キエフ・ルーシ)に、1237年、東方から、チンギス・ハンの孫バトゥが率いるモンゴル帝国の大遠征軍が襲来すると、個々の公国が次々と撃破され、1240年、キエフも占領、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)は滅亡しました(一部リューリク朝の公国は存続)。これにより、キエフをはじめとした諸都市は、モンゴル人によって破壊しつくされ(蹂躙され)、人々は虐殺、都市そのものも瓦礫の山になりました。

 

 

◆ キプチャク=ハン国の成立

 

その後、バトゥの率いるモンゴル軍は、モンゴル帝国2代ハンであったオゴタイの死去の知らせを受け、1242年に東ヨーロッパから引き揚げましたが、バトゥはモンゴルに戻らず、ボルガ川下流の草原地帯に留まり、南ロシア一帯を支配しました。そこに建てられた国がキプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)で、1243年、ボルガ川下流のサライを都として成立しました。以後13世紀から15世紀にかけての2世紀半(259年),ロシアを支配しました。

 

もともと、この地域は、チンギス=ハンが長子ジョチ(ジュチ)に与えた、カザフ高原南東のアルタイ山脈地帯の領土(ジョチ=ウルス)が始まりで、子のバトゥは、西方への遠征で、キエフ公国を滅ぼした後、南ロシアから中央アジアに及ぶ広大な領土を治めたのです。

 

したがって、正確には、バトゥのモンゴル軍は、キエフを占領して、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)を滅ぼしましたが、その後に建国されたキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)は、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)の東部・南部を統括下に置いたもので、ルーシ国家のうち、北のノブゴロド公国や西のハールィチ・ヴォルィーニ大公国などは、モンゴル支配を免れています。

 

なお、バトゥは、父ジョチから引き継いだジョチ=ウルス(遊牧政権)をこの地に維持し、発展させたことから、キプチャク=ハン国の正しい国名は「ジョチ=ウルス」です(キプチャク=ハン国は俗称)。

 

 

◆ タタールのくびき

 

広大な南ロシアの草原を領土とする、キプチャク=ハン国(ジョチ・ウルス)は、いくつかの地方政権に分けられ(ウラジーミル大公国など、キエフ大公国が分裂してできた公国はそのまま継承された)、それぞれキプチャク=ハン国(ジョチ・ウルス)に貢納させられました。

 

ロシア人は、この先200年近く続く、モンゴル人による支配を、「タタールのくびき」と呼んでいます。タタールとはモンゴル人(モンゴルの遊牧騎馬民族)をさし、「くびき(軛)」とは牛や馬を御する時に首に付ける道具の意で、ロシアがモンゴルに抑圧され、停滞していた時代を意味します。この間、ロシアは、モンゴルの属国となり、モンゴル帝国の一部となったのでした。

 

騎馬民族のモンゴル(キプチャク=ハン国)の統治は、少数支配者のモンゴル人による、多数の東スラブ人(ルーシ人/ロシア人)やトルコ系遊牧民のキプチャク人への支配という構造でしたので、キプチャク=ハン国は納税のみを義務として、ロシア諸侯の自治を認める間接統治体制を敷きました。

 

それでも、キプチャクハン国は、ロシア諸公国の首長を、軍事力を背景に隷従させ、その上で首長を通じ、農民から税をしぼりあげるという苛酷なものであったとされ、このとき、首長が、抵抗すれば、ハン国から(後にロシア諸公国から)軍隊を送り、その町を焼き、破壊し、ときに住民を皆殺しにしたこともあったと言われています。

 

ロシアは世界のどの民族にも稀なほどの領土拡張欲求と征服欲を持っているとされています。これは、外敵からの恐怖や外国への猜疑心からくるもので、13〜15世紀のモンゴル人による侵略と苛酷な支配が、強烈なトラウマになっていると言われています。ユーラシア大陸の大平原は、侵略者を遮るものがなく、フィン人やモンゴル人など、強悍なアジア系遊牧民族が、東から次々にやってきては、ロシアで、収奪と破壊を繰り返したという歴史を持っているのです。

 

 

◆ モスクワ大公国の台頭

 

キプチャク=ハン国に貢納させられていた地方政権の中で、次第に有力となったのが、キエフから北東のモスクワに逃げた人たちによって1263(1271)年に建国(形成)されたモスクワ公国(1263〜1547)でした。なお、モスクワ公国の前身は、1054年、キエフ大公ヤロスラフ1世(賢公)の死に際して大公国領が存命の息子たちに分配された際、第四子のフセヴォロド1世がボルガ上流域の北東ルーシを獲得して生まれたウラジーミル・スーズダリ大公国です。

 

モスクワ公国は、初めは小さな勢力にすぎません(小国であった)でしたが、モスクワがボルガ水運の要所にあったことから経済的に発展していきました。諸公国によるキプチャク=ハン国への徴税は、当初、モンゴル人の徴税官が当たっていましたが、次第にモスクワ公国が代行するようになりました。さらに、農民がモンゴル人への納税負担に反発して反乱を起こした場合も、モスクワ公国によって弾圧されるようになりました。

 

このように、モンゴルの臣下になって徴税を請け負いながら、徐々に力をつけたモスクワ公国は、次第に周辺の諸公国を併合し、版図を拡大していきました。1318年には、モスクワ公(ユーリー3世)が初めて大公(ヴェリーキー・クニャー)位を獲得し(大公(ヴェリーキー・クニャー)を名乗り)、イワン1世(在位1325〜1340)の時から、モスクワ大公国と呼ばれるようになりました。

 

その後、モスクワ大公国は、イワン3世(在1462〜 1505)の統治下、ヤロスラヴリ公国(1471年)やノヴゴロド公国(1478年)、トヴェリ大公国(1485年)などロシア(ルーシ)の諸公国を併合し、領土を拡大させ、北東ロシアの政治的統一を達成しました。

 

 

◆ キプチャク=ハン国の衰退と滅亡

 

14世紀前半に全盛期となったキプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)でしたが、イスラム化にともなう領域内のトルコ系民族の自立や、国内の内紛・分裂、さらに東方ではティムール帝国の侵攻を受けるなど、14世紀の末ごろから次第に衰退していきました。そして、イワン3世は、1480年、ついに、モンゴル(キプチャク・ハーン国)から完全に独立し,ロシアを250年にわたる「タタールのくびき」から、事実上、解放させました。

 

このとき、キプチャク=ハン国への貢納を拒否したイワン3世に対して、モンゴルのジョチ・ウルス(遊牧政権)は軍を差し向け、両軍は、ロシア西部のウグラ河畔で対峙しましたが、ハン軍は戦わずして退却しました。ロシアでは、この事件は、「タタールのくびき」を絶ち、モンゴル人の支配を、ことに成功した象徴的事件とされています。

 

このように、現在のロシアの基礎は、14、15世紀のモンゴル(タタール)への抵抗とモスクワを中心とした統一国家建設のなかで形成されたと言えるでしょう。なお、これ以前にも、キプチャク=ハン国は、1362年に、西方から拡張してきたリトアニア大公国に敗れて、キエフ(ドニエプル右岸/ウクライナ西部)を奪われました(キエフは、リトアニアによって、「モンゴルのくびき」から解放された)。

 

その後、キプチャク=ハン国は1502年に滅亡し、かつてのキエフ大公国(キエフ・ルーシ)のモスクワを含む北部はモスクワ公国が、また、キエフを含む南西部はリトアニア大公国が支配するようになりました。

 

 

◆ キプチャクハン国からの独立

 

一方、クリミアなど南ロシアや、西シベリア平原も、モンゴルの支配下になり、モンゴル・トルコ系(クリミア・タタル人の祖先)の人々が移り住みました。しかし、その後、キプチャク=ハン国内部で争いがあり分裂し、王族が各地で、遊牧民の君主の称号である「ハン」を名乗り、独立しました。

 

キプチャク=ハン国の分国として、カザン・ハン国、クリム・ハン国(後のクリミア)、アストラハン・ハン国、シビル・ハン国(後のシベリア)の4ハン国(ハン)などが成立しました。

 

カザン=ハン国(1437〜1552)

カザン=ハン国は、1437年に成立し、ロシア南部のヴォルガ上~中流地域を支配、首都カザン市は交易の中心として繁栄しました。

 

クリム=ハン国(1426〜1783)

黒海の北岸にあるクリミア半島に住む、トルコ系民族でイスラーム教を奉じたタタール人によって、1426年ころに建国され、黒海を舞台とした奴隷交易で繁栄しました。

 

アストラハン・ハン国(1466~1556)

ボルガ川下流のカスピ海北岸を支配したイスラーム教国(建国は1466年)で、カスピ海を経由したイラン方面や、中央アジア、インド貿易との交易路の中継点として経済が発展しました。

 

シビル・ハン国(1556〜1598)

シベリア西部(西シベリアのイルティシュ川中流域)のシビルを中心に建てたウズベク族の国(テュルク系国家)で、1556年に建国されました。なお、「シベリア」の地域名は、シビル・ハン国の名に由来します。

 

 

◆ コサックの登場

 

14世紀頃から、南ロシアの各地に、コサックという騎馬武装集団が現われました。(「コサック」はトルコ語で、「自由な人(民)」を意味する)。コサックの起源は明らかではありません。現在のウクライナ東南部の草原地帯には、歴史的に、イラン系のスキタイ、トルコ系のハザール、モンゴル系のタタールなど多くの遊牧民族が去来していたとされていますが、コサックはもともとトルコ人の馬賊たちで、ドネプル川下流域において半農半牧の生活を送る半独立的な一団でした。

 

それが15世紀になると、キプチャクハン国の抑圧や、その後のモスクワ公国やポーランド王国(リトアニア・ポーランド王国)で農奴制などによる支配の強化を嫌い、自由を求めて、辺境のステップ地帯(ウクライナや南ロシアの草原地帯)に流亡した多数の農民や手工業者などの集団をさすようになりました

 

これらの地域に定住したコサックは、牧畜・狩猟のほか、漁業、養蜂(ようほう)、交易などで自治的な集団生活を送り、遊牧民などとの戦いの必要上,一種の軍事共同体を組織していきました。たとえば、カスピ海北部から侵入してくるトルコ系遊牧民タタール人と戦いながら次第に騎馬生活(騎馬技術)に長ずるようになり、隊長(アタマン)に指導された武装騎馬隊をつくり、やがて自らも略奪を行う自治的な武装集団となっていったのです。

 

こうしたコサック集団が、ドン川、ドニエプル(ドネプル)川流域など地域ごとに組織されるようになりました。ロシアでは、とりわけ、ドン川流域に生活の拠点を置いたコサックは「ドン・コサック軍」を編成、軍事的共同体をつくり、南ロシアから東ウクライナの一部に勢力圏を敷きました。ドン・コサックは、のちにロシアへの従属を強め、ロシア・コサックの代表格となっていった。また、ドニエプル(ドネプル)川流域では、サポロージェ・コサックも知られています。

 

コサック集団は、当初、周辺国家に依存しない独立した集団でしたが、16世紀頃から、自治権など特権を認められた代わりに、自分たちが属する国に軍務を提供する(国境防備などを担う)ようになりました。

 

次回は、タタール人(モンゴル)が去ったあと、モスクワ大公国を中心としたロシアがいかに発展していったかを見ていきます。

 

 

<関連投稿>

ロシアの歴史

ロシア史②:ツァーリとロシア帝国

ロシア史③:ロシア革命とソ連

ロシア史④:冷戦とソ連崩壊

ロシア史⑤:エリツィンとオリガルヒ

ロシア史⑥:プーチンの独裁国家

 

ウクライナの歴史

ウクライナ史➀:ルーシのキエフ大公国

ウクライナ史②:リトアニア・ポーランド・ロシア支配

ウクライナ史③:独立の失敗とソ連編入

ウクライナ史④:ソ連からの独立とロシアの侵攻

 

ロシア・ウクライナ戦争を考える

スラブ民族:ロシア人とウクライナ人の起源

ロシア・ウクライナ関係史:ルーシーの歴史的一体性

プーチンの歴史観:ルーシキー・ミール

ウクライナ侵攻:ロシアがNATOこだわるわけ

ロシア正教会とウクライナ正教会:もう一つの戦争

 

 

<参照>

世界最大の領土を誇った大陸国家ロシア帝国ができるまで/

(図解でわかる 14歳からの地政学、 2022年4月4日)

手にとるように世界史がわかる本

(かんき出版)

女は拉致、残りは虐殺のモンゴル騎馬軍…プーチンの猜疑心の裏に「259年に及ぶロシア暗黒史」

(2023.11.3 19:00、Diamond online 池上彰)

なぜプーチン氏は破滅的な決断を下したのかウクライナ侵攻の背景にある「帝国」の歴史観

(2022年2月25日、東京新聞)

語られないロシアの歴史とアメリカとの深い関係

(2020.06.02、キャノングローバル戦略研究所/小手川 大助)

ロシア人(ジャパンナレッジ)

世界史の窓

コトバンク

Wikipediaなど

 

 

投稿日:2025年4月5日

むらおの歴史情報サイト「レムリア」