ロシア正教会とウクライナ正教会:もう一つの戦争

 

プーチンが引き起こしたウクライナとの戦争は、宗教的な対立が直接の原因ではありませんが、ロシア正教会とウクライナ正教会との対立も少なからず影響を与えています。今回は、プーチンがウクライナへ侵攻する一つのきっかけを作った可能性のある宗教的動機について考えます。これはプーチンの思想的背景とされる「ルースキー・ミール(ロシアの世界)」の理解に繋がります。

 

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キエフ大公国(キエフ・ルーシ)の時代>

 

◆ ロシア・ウクライナ正教会の起源

 

正教会(ギリシャ正教)は、1000年近く続いた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)(395~1453)の国教として発展し、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの源流となる国家「キエフ・ルーシ」は、この正教会を988年に受容し、国教としました。ロシアとウクライナは、ともに、ビザンツ帝国からキリスト教を導入した正教会の国となります。

 

もっとも、このとき、当時のキリスト教会は、まだ東西に分裂していませんでしたので、一つキリスト教の下で、「五本山」と呼ばれる五つの大きな教会がありました。五本山(原始キリスト教の五大総主教座)とは、ローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムの教会をさします。

 

それが、キエフ・ルーシのウラジミール大公が自ら受洗した後の1054年には、ローマ教皇を頂点とするローマ=カトリック教会と、他の四つの教会が属する正教会(ギリシャ正教会/東方正教会)の二つに分裂しました(キエフ・ルーシは正教会の国となる)。

 

ただし、このとき、アレクサンドリア、エルサレム、アンティオキアの正教会は、7世紀以降、いずれもイスラムの支配下に入り、衰えてしまったため、実質的に残ったのは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都、コンスタンティノーブルの教会だけとなっていました。

 

この結果、コンスタンティノーブルの正教会が、東方正教会の首長として、ローマ=カトリックと、キリスト教の首位の座を争いました。コンスタンティノーブル正教会では、ビザンツ皇帝に任命された総主教が、ビザンツ帝国領だった現在のトルコ・ギリシャからブルガリア・セルビア、さらにはロシアまでを管轄しました。

 

正教会は、1カ国に1つの教会組織を具えることが原則で、カトリックのローマ教皇庁のような全体を統括する組織はありませんが、コンスタンティノープル総主教庁は、このような歴史的経緯から正教会の代表格と認識されています。

 

なお、スラヴ系の正教会における序列(位階)は、一般的に、総主教-府主教-大主教-主教の順となります(総主教制の無い教会では府主教が首座主教となる)。総主教の管轄する教区・教会・事務局などは総主教庁(総主教座)と呼ばれます。また、府主教区は、府主教の聖職上の権限下にある地域を指し、通常、いくつかの教区から構成されます。

 

◆ キエフ府主教区の創設

 

キエフ・ルーシ(キエフ公国)も、988年にウラジミール1世が洗礼を受け、正教会を国教とした際、ウクライナの首都キエフを中心としたキエフ府主教区を創設しました。これが、現在のロシア正教会ならびにウクライナ正教会の起源となります。そして、10~11世紀の間に、キエフ府主教区は、コンスタンディヌーポリ総主教庁に所属しました。(コンスタンティノープルの傘下に入りました)。

 

キエフの府主教座は、13世紀前半までに、キエフ、チェルニーヒウ、ペレヤースラウなどの16の主教区を有するまでに発展しました。これには、ビザンツ帝国に征服されたブルガリアの聖職者が、キエフ公国(キエフ・ルーシ)に多数亡命してスラヴ語典礼を伝えたことなどが一因とみられています。

 

 

<モスクワ大公国とリトアニア大公国の時代>

 

◆モスクワ府主教庁vsキエフ府主教庁

 

しかし、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)が、1240年にモンゴル(タタール)人の侵攻を受けて、キエフを占領され滅びると、この地域の政治と正教会の中心はキエフからモスクワに移りました。

 

具体的には、モンゴル来襲後、1299年、キエフ府主教は、モンゴル人から逃れて、キエフから、後に、キエフ大公国の分国であったウラジーミル・スーズダリ公国のウラジーミルへ移動しました。その後、スーズダリ公国の分領地の一つであったモスクワ公国(1263~1547)が、14世紀に急速な発展を遂げ、モンゴルの支配(「タタールのくびき」)から脱し、全ロシアを統一していくなかで、(スーズダリ公国も、1392年にモスクワ大公国に併合された)、この地域の正教会はモスクワで機能していきました。

 

1326年に、全ルーシ最高の聖職者で当時、ウラジミールにいたキエフ府主教をモスクワに迎え入れ、モスクワは、精神的にもキエフに代わってルーシの中心になっていきました。ただし、教会法上の府主教座は、キエフであり続け、新たに府主教となるためには、まずコンスタンチノープルの総主教の祝福を受けねばなりませんでした。

 

一方、14世紀にリトアニア大公国が、西から東進し、キエフを含むウクライナ南西地域を支配すると、1362年にはキプチャク=ハン国を破り、ウクライナ地方から「タタールのくびき」)を解放しました。

 

こうして、かつてのキエフ大公国(キエフ・ルーシ)は、北部はモスクワ大公国、首都キエフを含む南西部はリトアニア大公国が支配することとなりました。この結果、「キエフと全ルーシの府主教」の座をめぐって、モスクワ府主教庁(座)と、リトアニア大公国の支配地域を含むキエフ府主教庁(座)との間で争われるようになっていきました。

 

 

◆ フィレンツェ公会議

 

その後、ビザンツ帝国には、イスラム教の帝国であるオスマン帝国(1299~1922)が勢力を東から拡大し、この地に進出してきました。そこで、ビザンツ皇帝ヨハネス8世パレオロゴスは、東西融和の一環として、分裂していた東西キリスト教会を合同して、イスラム勢力に対抗することを提案しました。西方教会(カトリック)でもこれを歓迎する機運が高まったことから、1439年から「フィレンツェ公会議」(フェラーラ・フィレンツェ公会議)が開催されました。

 

討議では、東西教会の間での意見の不一致点を扱い、一応の妥協案がつくられ、1439年、同会議はカトリックと正教会との合同を宣言しました。しかし、この宣言は、東方の全教会の総意を得たうえの決議ではなかったため、合同の実現は果たせませんでした(その後、正教会側から撤回された)。とくに、モスクワ大公ヴァシリー2世は、フィレンツェ公会議の正統性を認めず、この決定を否決したどころか、これに賛同した府主教イシドールを廃位しました(なお、ロシア正教会府主教の座を追われたイシドールはモスクワから逃亡し、最終的にローマに入り、教皇より枢機卿に任じられた)。

 

さらに、1448年、モスクワは、コンスタンチノープル主教庁からの独立を宣言、正教会の中心であるコンスタンティノープル総主教庁の同意なしに、独自の府主教としてリャザンのイオナを選出しました。

 

こうして、ロシア正教会は、東西教会の統一と正教会の権威であるコンスタンチノープルに反対する立場を鮮明にしたことで、キエフとモスクワの府主教区が分裂していくのです。もっとも、モスクワ正教会の独立がコンスタンティノープルによって、正式に認められるのは、宣言から140年近く経ってからになります。

 

 

◆ コンスタンティノープル総主教庁の権威

 

むしろ、その間、コンスタンティノープル総主教庁にとって、政治的に大打撃となったのは、1453年、オスマン帝国がついに、コンスタンティノープルを陥落させ、正教会の最大の庇護者、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を滅亡させたことです。

 

これによって、古来より存在した四つの正教の総主教庁の所在した地は、すべてイスラム世界の支配下に入り、以後(当分の間)、東西教会の合同へ向けた協議も行われなくなりました。

 

ただし、ビザンツ帝国が滅んでも、コンスタンティノープル総主教は権威だけは保持し続けました。1カ国に1つの教会組織を具えることが原則である正教会には、カトリックのローマ教皇庁のような全体を統括する組織はありませんが、コンスタンティノープル総主教座は、正教会の総本山であり、正教会の名誉上(名目上)の最高の地位にある主教座です。

 

この時まで、総主教区は、原始キリスト教時代の五本山のコンスタンディヌーポリ総主教区、アレクサンドリア総主教区、アンティオキア総主教区、エルサレム総主教区がありましたが、現在の正教会(ギリシア正教)では、コンスタンチノープル総主教区(庁)は、他の総主教区と区別され、「コンスタンティノポリス全地総主教庁」とも言われています。また、コンスタンディヌーポリ総主教は、その称号の一つとして、エキュメニカル総主教(全地総主教)とも呼ばれています。

 

しかし、それでも、正教会の総本山のコンスタンティノープルが、オスマン帝国の手に落ちた影響は大きく、ビザンツ帝国滅亡後、正教会の中心は、コンスタンティノープルからモスクワとなっていくことになります(ロシア教会が正教会の正統を継承していくことに)。

 

1453年5月のコンスタンティノープルの陥落から数十年のうちに、モスクワは、「第三のローマ」と呼ばれるようになりました。「第三のローマ」とは、歴史のさまざまな時代に栄えたキリスト教の中心地を指す言葉で、第一はローマ、第二はコンスタンティノープルをさします。

 

その象徴的な出来事として、モスクワ大公国のイワン3世(在1462~1505)が1472年にビザンツ帝国最後の皇帝(コンスタンティノス11世パレオロゴス)の姪と結婚し、ビザンツ皇帝の後継者を意味するツァーリの称号を名乗ったことがあげられます。この後、モスクワは、ローマやコンスタンチノープルに次ぐ、正教会の首長の後継者をも自認し、自分たちが「特別な」使命を有するという考えをもつようになりました。

 

 

◆ モスクワ府主教区の独立

 

また、前述したように、1448年にコンスタンチノープル主教庁からの独立を宣言したものの、コンスタンティノープル全地総主教から、正式に認められていなかったモスクワ正教会(モスクワ府主教区)でしたが、1589年にようやく、モスクワ総主教庁として独立が認められました。

 

この年、コンスタンティノープル全地総主教が、寄付を求めるためにモスクワに来訪したことを利用し、ツァーリ政権は、コンスタンティノープル全地総主教に対して、モスクワに新しい総主教庁の設立を宣言させたのです(この時、モスクワ正教会とウクライナ正教会が名実ともに分裂した)。

 

同じ年(1589年)、コンスタンディヌーポリ総主教だけでなく、アレクサンドリア総主教、アンティオキア総主教、エルサレム総主教からも、モスクワ総主教を主座とする独立正教会としての地位を承認されました。ただし、この時も、キーウ府主教区は、モスクワではなく、引き続きコンスタンティノープルの傘下にありました。

 

 

<ポーランド支配のウクライナ➀>

 

◆ フメリニツキーの乱

 

さて、ここでウクライナに目を転じると、ポーランド・リトアニア共和国(1569~1795)の支配下にあった当時のウクライナでは、実質的なポーランドからの解放を目的として、ウクライナ・コサックの指導者ボフダン・フメリニツキーに率いられた民族解放戦争(1648~1657年)が繰り広げられました。

 

フメリニツキーは、1654年のペラヤースラウ会議で、対ポーランド戦のために、ロシア(ロシア・ツァーリ国)から軍事的支援を受けることで、大国ポーランド・リトアニア共和国から独立に成功しました。

 

しかし、それは同時にロシアの保護国となることを意味し、ウクライは徐々に自治権を失い、最終的にはモスクワの全面的な影響下に置かれるようになっていきます。実際、フメリニツキーがロシアに支援を仰いだことから、フメリニツキーの対ポーランド独立戦争は、ロシアとポーランドとの戦争に変貌し、この戦いに勝利したロシアは、1667年、キエフを含むウクライナ東部を、ポーランドから獲得したのです(アンドルソヴォ講和)。

 

 

◆ ロシア正教会によるウクライナ正教会の支配

 

これは、ロシアによるウクライナ支配の始まりであり、この時のロシアの影響力の拡大は、正教会にも及び、1686年、モスクワ(モスクワ総主教庁)は、キーウ府主教(総主教より下位)を任命する権利をコンスタンティノープル総主教庁から獲得し、キーウ府主教区を、モスクワ総主教座の管轄下に置くことに成功したのです。これは、キエフ府主教座がモスクワへ遷座し、ウクライナの正教会はロシア正教会に包摂されることを意味しました。

 

ただし、その条件は、キエフは「コンスタンティノープル総主教を「対等の第一人者」とみなし続けること」でしたが、キエフの府主教は、次第にコンスタンティノープル総主教から離れ、モスクワに完全に依存するようになりました。確かに、コンスタンティノープル総主教は、「対等の第一人者」として、まだ権威はもっていましたが、実際の力では、信者の数や政治的財政的影響力といった面で、モスクワ教会にかなわなくなっていました。

 

モスクワ総主教庁に組み込まれた当時、キーウ府主教区は、主に西欧の教育や宗教文化の影響により、社会生活や教会活動においてより高いレベルの発展を遂げていきました。

 

そのため、キーウ府主教区は、教育と典礼に対する改革を行おうとしていたモスクワ総主教庁の教育人材の供給源になるなど、特異の地位を維持していました。しかし、時が経つにつれ、キーウ府主教区はモスクワ総主教庁の一般的な大司教区となり、その優位性はなくなり、内部の自治権も徐々に破壊されていったと言われています。

 

18〜19世紀にかけて、ロシア国家と教会当局はウクライナの教会のロシア化を強化し、20世紀半ばにはキーウ府主教はすべてロシア人となりました。

 

このように、当初、ともにコンスタンティノープル総主教庁の配下にあった、ロシア正教会とウクライナ正教会でしたが、時が経つにつれ、「弟」のモスクワ教会(モスクワ総主教庁)は、「兄」のキエフ(キーウ府主教庁)よりも力を持つようになっていったのです。

 

政治的にも、モスクワ大公国(1340~1547)は、ロシア・ツァーリ国(1547~1721)となり、18世紀には、ピョートル大帝(在位1682~1725)がロシア帝国(1721~1917)を創設し、エカチェリーナ2世(在位1762~1796)の時代、現ウクライナの領土の大半を支配するようになりました。

 

このため、ロシア帝国は、ロシア人の帝国だけでなく、正教会の帝国となり、ロシア正教会は「大ルーシ(ロシア)、小ルーシ(ウクライナ)、ベラルーシ」というルーシ国家の国教となったのです。

 

 

<ポーランド支配のウクライナ②>

 

さて、ロシアとウクライナには、16世紀から現在も続く、カトリック教会をめぐる対立も存在しています。再び、ウクライナがポーランド(ポーランド・リトアニア共和国)に支配されていた時代に遡ります。

 

◆ 教会合同への道筋

 

ヨーロッパでは宗教改革が進み、プロテスタントにカトリックが攻められていたところ、カトリック側が巻き返そうと反宗教改革が起きました。反宗教改革において大きな役割を果たしたのが、1540年にイグナティウス・デ・ロヨラ(1491-1556)によって結成されたイエズス会などが有名です。

 

こうした反宗教改革の波に乗るカトリック教会では、プロテスタントとの戦いだけでなく、正教会にも目をむけました。しかも、正教徒のカトリックへの改宗に加えて、正教会との教会合同への関心が高まりました。この背景には、前述したように、1437年~1439年のフェラーラ・フィレンツェ公会議で決定されたものの、その後、ロシア正教などの反対で正教会側から撤回された、東西両教会の合同を実現しようとする試みがありました。

 

教会合同を率先したのは、ローマ教皇グレゴリウス13世でした。グレゴリオスは、1573年に教皇庁に「東方聖省」を設置し、合同に向けて宣教師を養成するための神学校をローマに開校しました。1581年には、イエズス会名士ポッセヴィーノを派遣し教会合同に向けての交渉を行いましたが、ロシアの教会は合同を拒否したため、この計画は不発に終わりました。

 

モスクワとの交渉決裂後、今度はコンスタンティノープやモスクワとのエキュメニカル(総体的)な合同から、よりローカルな(地域の)教会合同が模索されるようになります。

 

それにうってつけだった(勢力拡大の恰好の対象となった)のが、多数の正教の信徒たちが暮らし、王権はカトリックである、ウクライナをふくむポーランド・リトアニア共和国でした。また、ポーランドに支配されていた、正教徒の多いルテニア(現在のウクライナ、ベラルーシ)を、末永く留め置くための解決策としても、教会合同が望まれました。ルテニア正教会側も、ポーランド・リトアニアにおいて冷遇されていたことから、地位向上を期待して、合同に賛同する動きも出てきました。

 

1587年に即位したポーランドのジグムント3世は、正教徒に対するカトリック化を進めた一方、ポーランドのイエズス会士たちには、教会合同を推進しましたが、がて、ジグムントも、正教徒の帰一によって王権が強化されると考え、教会合同も支持しました。

 

 

◆ ブレスト合同

 

1596年10月、ベラルーシ西部のブレストで開催された教会会議において、キエフ府主教座のローマ教会への帰順が確認、教会合同が決議されました。キエフ府主教をはじめ府主教区の主教たちのうち多くが、コンスタンディヌーポリ総主教庁から離れ、ローマ教皇の傘下に入ることになったのです。

 

これによって、これまで、正教会に属していたキエフ府主教区は、東方の典礼(儀式)等を保持したまま、ローマ教皇の権威を認めることになりました。この正教会とカトリック教会を合同した折衷宗教は、ギリシャ・カトリック(グレコ・カトリック)教会、または東方帰一教会、ユニエイト教会などと呼ばれました。

 

ポーランド(ポーランド・リトアニア共和国)に支配されたウクライナにおいては、エリート層は次第にポーランド化し、カトリックに改宗していった一方、そう簡単に改宗できない庶民向けには、折衷宗教(ユニエイト教会)に改宗させるという政策がかなり強制的に進められたと言われています。

 

しかし、この決定(教会合同)は、正教徒の総意ではなく、ウクライナの全部の教会が受け入れた訳でもありませんでした。また、モスクワの正教会の反発も厳しく、合意が実現したにもかかわらず、ユニエイト教会を「裏切り者」とみなしていました。

 

もっとも、ブレスト合同によって、正教会が完全に消えたわけではなく、正教会の「キエフ府主教区」は存続しています。合同を進めたジグムント3世ですら、1598年の段階で、正教会の存続を認めています。また、コンスタンディヌーポリ総主教は、1633年に、ポーランド・リトアニア共和国の国王の許可を得て、新たなキエフ府主教区を設置しました。

 

これによって、キエフ府主教が分裂し、ウクライナ(ポーランド・リトアニア共和国)には、グレコ・カトリック教会に属するキエフ首都大司教区と、正教会に属するキエフ府主教区の二つの東方典礼教会が併存するようになりました。

 

大まかに地域ごとにいえば、ウクライナ(ポーランド・リトアニア共和国)西部に広がった教会合同(ユニエイト教会)と、残ったそれ以外の地域で、これまで通り信仰された正教会に分けられます。

 

加えて、後者の、正教会のキエフ府主教区でも、後に争いが起こり、キエフ府主教区には、独立派・親ポーランド派・親モスクワ派があらわれました。1685年、親モスクワ派はコンスタンディヌーポリ総主教庁と手を切って、モスクワ総主教庁と合同を結び、ロシア正教会に所属するようになるなど、やがてモスクワに依存するようになります。これに対しえて、独立派・親ポーランド派は、18世紀にカトリック教会に改宗していきました。

 

カトリックと正教会を合同するという理念は、かえって宗派分裂を深めることになったのです。

 

◆ ユニエイト教会の進展

 

こうした、教会合同(ユニエイト教会)がウクライナに広がりを見せることに対して、正教の守護者を任じる、ウクライナのコサック(群れから離れた「自由の民」)たちは反発を強めました。折から、ポーランドからの解放を目指したウクライナ・コサックの指導者フメリニツキーが対ポーランド民族解放戦争(フメリニツキーの乱)(1648~1657年)を起こし、1649年、一時的に、ポーランドからへ―チマン国家(コサック国家「ザポロージャのコサック軍」)が独立することに成功しました。

 

このとき、1649年にキエフ府主教区の領域では、コサック国家が誕生すると、グレコ・カトリック系の聖職者はキーウを追われたことから、教会合同は、ウクライナ・コサックたちの勢力圏外である、ウクライナ西部とベラルーシで布教を進めていました。

 

しかし、内戦は続き、ポーランド軍に対して、劣勢となったフメリニツキーはモスクワに支援を要請し、ロシアに臣従した結果、1667年のアンドルソヴォ講和で、ウクライナがロシアとポーランドによって分割されました。これにより、ウクライナの東半分とキエフはロシア領、西半分はポーランド領となると、合同教会の教区組織は、ドニエプル川右岸地域にも拡大していきました。なお、この過程で、ウクライナ正教会はロシア正教会の配下に入ったことは、すでに説明した通りです。

 

さらに、1700年前後においては、一部の合同反対派の主教管区までもが合同教会化したことで、教会合同(ユニエイト教会)は、ウクライナの正教会よりは優位となる時代となりました。

 

一方、教会合同(ユニエイト教会/グレコカトリック教会)は、カトリック教会に対しては従属的な立場であり続けました。カトリックは富裕な大貴族を信者にしており、農民と零細貴族からなる合同教会とでは、影響力や財力の差は歴然でした。正教聖職者たちが教会合同に期待した地位向上は失敗し、教会合同は二級の教会という扱いのままとなり、エリート階層に参入したい信者は、結局カトリック化するようになっていったからです。

 

 

<ロシア革命と冷戦の時代>

 

共産主義のソ連といえば、「宗教はアヘン」といった無神論を標榜する世界観に立っていたと考えられています。1917年のロシア革命の指導者で、世界初の社会主義国を設立したレーニンも、宗教を否定し、自らが創設した共産党も無神論と社会主義をイデオロギー的に打ち出しました。

 

実際、ロシア革命後、ソ連邦時代、ソ連の指導者たちは、宗教を認めず、ロシア正教会の粛清を開始し、ロシア正教会は一貫して弾圧を受け続けました(当局の目の届く範囲でのみの活動が認められていた)。大多数の聖堂(教会)を破壊され、聖職者・修道士・修道女・信徒が虐殺されるなどの甚大な被害を被ったのは紛れもない事実です。

 

 

◆ ウクライナ正教会の独立志向

しかし、こうした中、ウクライナの聖職者の間で、宗教活動のウクライナ化とモスクワ総主教庁からの分離を求める運動が生まれました。

 

1918年に、ロシア帝国の崩壊に伴ってウクライナ人民共和国が独立を宣言すると、ロシア正教会に属するウクライナ系聖職者の一部は、1919年に、モスクワ総主教庁から独立したウクライナ独立正教会を組織し、独自のキエフ府主教区を設置、1921年にウクライナ独立正教会を宣言しました(ただし、国際的に当時は認められていなかった)。

 

これに対して、モスクワ総主教庁は極めて否定的な反応を示し、スターリンも、1930年、ウクライナ独立正教会を解体しました。独立運動の指導者たちは弾圧され、殺害されました。それでも、ウクライナでは、ドイツ占領下の1941年から1944年にかけての一時期、ウクライナ独立正教会の理念は再び復活し、ポーランド独立正教会の援助により多くのウクライナ人司教が任命されました。

 

しかし、ソ連軍が進撃を開始すると、ウクライナ独立正教会の「第二世代」の司教たちは西側に移住し、ウクライナ独立正教会はディアスポラでのみ存在し続けました。

 

ただし、スターリンの時代(1922〜1953)、宗教が常に弾圧されていたわけではなく、現実にはソ連時代も宗教活動はある程度許容され、戦略的な目的のために、必要な場合には利用すらされたこともありました。たとえば、第2次世界大戦でのヒトラーのロシア侵攻の後に、社会を団結させるためにロシア正教会を一部復活させ(典礼を一部復活)、ロシア人の反ナチの愛国的信仰に訴えました。また、ソ連の国際的な権威を高め、ソ連国民の好意を得るために、宗教弾圧政策はいくらか緩和された時期はありました。

 

それでも、ウクライナに対しては、容赦はなく、ウクライナ西部がソ連に併合された後、ウクライナ・ギリシャ・カトリック信者(ユニエイト教会)を、モスクワ総主教庁へ編入させ、ロシア正教会への統合が行われました。

 

 

◆ 冷戦と正教会

冷戦期は、共産主義の時代であり、「宗教は麻薬」とみなされ続け、総じて、正教会は弾圧が繰り返されました。

 

次のフルシチョフの時代(1953〜64)も、反宗教キャンペーンが展開され、教会をトラクター保管所に変えるなど、宗教弾圧が続けましたが、ブレジネフ政権(1964〜82)は宗教を黙認しました。70年代頃から、物理学者や数学者など知識層が教会に通う姿がしばしばみかけられるなど、宗教は事実上、認められていたとも言われています。

 

ソ連当局のロシア正教会に対する態度もいくらか軟化しましたが、むしろ、諜報機関によって、その内部活動と国際活動を綿密に監視されていました。ロシア正教会がソ連共産党体制の下部に組み込まれ、上級聖職者の多くはKGB(国家保安委員会)によって諜報員としてリクルートされ、KGBの活動に関与していました。

 

実際、驚くべきことに、現在のロシア正教会・モスクワ総主教庁のキリル総主教(キリル1世)は、ミハイロフというコードネームを持つKGBのエージェントであったとことが、陰謀論ではなく、政府関連文書から確認されています。

 

 

<冷戦終結とソ連崩壊>

 

◆ ゴルバチョフのペレストロイカ

ソ連では、ミハイル・ゴルバチョフ書記長が、ペレストロイカ(立て直し)で、信仰の自由を認める姿勢を打ち出しました。

 

1988年4月には、ロシア正教会の総司教ら6人の指導者と会談し、ソ連が過去に教会と信者に過ちをおかしたことを認めました。ソ連政府の最高指導者が教会指導者と会談したのは1943年以来のことでした。1988年は奇しくも、988年のウラジミール大公の受洗から1000年目の節目の年でした(キエフ受洗1000年の年)。

 

さらに、正教会をはじめとして宗教に大弾圧を加えたソ連が崩壊すると、自由化の流れのなか、ロシア正教会が復活しました。共産党とイデオロギーが衰退したことから、ロシア正教は、ロシア人の精神的なよりどころとして、教勢を増しています。カザンの生神女福音聖堂や、モスクワの救世主ハリストス大聖堂の復興・再建など、各地でソ連時代に破壊された、多くの教会や修道院はすぐに再建され、人々が日曜日に礼拝に行くというような習慣が再びできていきました(国民の精神の支柱がなくなってしまっていたことの反映とみられる)。

 

このように、ゴルバチョフの登場で信仰の自由が認められるようになると、たとえば、ソ連時代、スターリンによって、モスクワ総主教庁に編入させられていたウクライナ・ギリシャ・カトリック(ユニエイト教会)信者は地下に潜ることを余儀なくされ、合法的にディアスポラでのみ存在していましたが、ソ連が崩壊した1989年、ウクライナ・ギリシャ・カトリック教会も潜伏を脱し、活動を再開しました。

 

しかし、何より、ソ連崩壊後のロシアとウクライナの教会史において、影響が大きかったのは、モスクワからのウクライナ正教会の分裂と独立でしょう。

 

 

◆ ウクライナ正教会の分裂

 

歴史の長い間(ロシア帝国の時代から)、ウクライナの正教会は、モスクワ総主教庁の下部組織に置かれていました。ロシア正教会のリーダーは「総主教」で、ウクライナ正教会のリーダーは、位が下の「府主教」でした。そのソ連で、ゴルバチョフがペレストロイカ(改革)(1985~1991年)を始めると、ウクライナのキリスト教徒の間で、モスクワ(モスクワ総主教庁系)中心の「統治」から脱却したいという機運が再燃しました。

 

こうした社会的変化をうけ、モスクワ総主教庁は、1989年に、ロシア正教会に属するキエフ府主教区(ウクライナ教会管区)に対して、「ウクライナ正教会」と呼称する権利と同様に、その内部活動における自治権を認めることを決定しました。ただし、これは表向きで、実際は、ウクライナの教区(「ウクライナ正教会」)に対する権力を維持しようとしたため、実質的には、ロシア正教会の構造的単位の一つとして扱われていました。

 

しかし、1991年、ウクライナが、ソ連から独立すると、「ウクライナ正教会」(ロシア正教会のモスクワ総主教庁に属するキエフ府主教区)はすぐにコンスタンティノープル総主教庁に教会の独立を求め始めました。また、1992年に、「ウクライナ正教会」は、モスクワ総主教庁に独立を申請しましたが、却下されると、そのうち、数人の司祭たちは、モスクワからの独立を求める一部の教会と合併し、ウクライナ正教会・キエフ総主教庁(キエフ聖庁)の設立を発表しました。

 

これによって、ウクライナにおいて初めてキエフ総主教が誕生したことになりますが、ウクライナ正教会キーウ聖庁は、コンスタンティノープル総主教庁をはじめ、正教会世界のどこからも認めらませんでした。

 

一方、ウクライナの独立以降、ロシア正教会のウクライナ社会への影響力が著しく弱まり、典礼をウクライナ語で行うなどウクライナ・ナショナリズムの傾向の強い教会も台頭してきました。ウクライナ西部では、親ウクライナ派の司祭たちがモスクワ総主教庁の管轄から離脱し、ソ連によって弾圧されてきた1920年代創設のウクライナ独立正教会の復活を宣言しました。

 

この時点で、ウクライナの正教会は、大きく以下の3つの教会に分断した形となりました。

 

ウクライナ正教会・モスクワ総主教庁系(モスクワ聖庁)(UOC─MP)

ウクライナ正教会・キーウ総主教庁系(キーウ聖庁)

ウクライナ独立正教会

 

この後も、ウクライナ正教会・キーウ総主教庁系などは、コンスタンチノープル総主教庁に働きかけ、モスクワ総主教庁からの正式な独立を模索し続けましたが、当時、コンスタンチノープル総主教はこれを拒否し続けました。

 

 

<プーチンの時代>

 

◆ ウクライナ正教会の独立

 

転機となったのは、2014年に、プーチンがクリミア半島を強制的に併合したことと、その後、ロシアによるウクライナ東部への軍事介入(ドンバス内戦)でした。これにより、両国の関係が悪化すると、従来どおりモスクワ総主教庁に従おうとする教会と、独立を目指す教会の分裂が激しくなっていきました。

 

ウクライナ正教会側を刺激したことは、ロシア正教会のキリル総主教が、傘下のウクライナの司教に命令し、プーチンを解放者と位置づける説教をさせたり、東部の戦闘で戦死したウクライナ兵のための祈祷や埋葬を拒否させたりしたことでした。

 

コンスタンティノープル総主教の決断

こうした事態を重くみた、東方正教会の最高権威、コンスタンチノープル総主教・バルトロメオ1世は、ウクライナ政府(ポロシェンコ大統領)の要請もあって、2018年10月、招集したシノド(主教会議)において、300年以上ロシア正教会(モスクワ総主教庁)の管轄下に置かれてきた、ウクライナ正教会(ウクライナ正教会・キエフ総主教庁とウクライナ独立正教会の2宗派)の独立を認める決定を下しました。

 

このウクライナ正教会・キエフ総主教庁系と、ウクライナ独立正教会は、、同年12月、統合し、新生「ウクライナ正教会 」を発足させました。2019年コンスタンティノープル総主教は「ウクライナ正教会」の自治独立権を承認し、ウクライナ正教会は、独立教会としての地位を確固たるものとしました(同教会の首座主教には「キエフと全ウクライナの府主教」の称号が与えられた)

 

今回のコンスタンティノープル全地総主教の決定は、ウクライナ正教会をロシア正教会の管轄下に組み込んだ1686年の宣言を取り消し(1686年の決定を無効とした)、自身のウクライナにおける統治を復活させたことを意味します。この結果、ウクライナ正教会は、モスクワではなく再びコンスタンティノープル総主教庁に従属することになりました。

 

コンスタンティノープル総主教は、全地総主教とも呼称され、世界各地にいる正教会信徒の精神的指導者とみなされ、ビザンツ帝国滅亡後も、正教会に大きな影響力を持っています。(正教会(高位聖職者)の位階制において「平等の中の首位者」(対等の第一人者)とされる)。コンスタンチノープル総主教庁は、教会数や信者数では、モスクワなどと比べて力はありませんが、正教会の最高権威を保持しています。

 

コンスタンティノープル総主教によるウクライナ正教会の独立の承認は、300年以上前に確立された教会の基盤を揺るがしただけでなく、1054年にキリスト教がローマ=カトリック教会とギリシア(東方)正教会の二つに分離して以来、「キリスト教世界の千年に一度の大分裂」とも評されています。これは、まさに、モスクワに対する「コンスタンティノープルの逆襲」と言われています。

 

 

ロシアの反発

これに対し、ウクライナ正教会をめぐる問題で、ロシア正教会(モスクワ総主教庁)は、「ウクライナの国家安全保障への直接的な脅威」として、コンスタンチノープル総主教のバルトロメオス1世との関係を打ち切る対抗措置にでて、コンスタンティノープル総主教庁との断交を宣言しました。

 

さらに、ウクライナ正教会 (2018年設立)を承認した各国の正教会とも次々に断交し、ロシア正教会とコンスタンティノープル総主教庁の対立は劇的に悪化しています。

 

2018年当時、ロシアとウクライナの信徒を合計すると、世界のその他の正教会の信徒全員を合わせた数を超え、また、モスクワ総主教庁が抱える1億3600万人の信徒の4分の1はウクライナ人が占め、また1万8000カ所ある教会区の3分の1はウクライナにあります。

 

教区の数でいうと、モスクワ系(ウクライナ正教会・モスクワ総主教庁)も、独立したウクライナ教会(ウクライナ正教会・キエフ総主教庁、ウクライナ独立正教会)のほうも、同じ9000くらいでしたが、後者が急速な成長を遂げていると言われています。また、モスクワ総主教庁(ロシア正教会)が管轄する修道会は3万6000ほどあり、そのうちの3分の1がウクライナにありました。

 

ウクライナ正教会の独立で、これらをすべて失うとなると、モスクワ教会には大痛手となります。ウクライナ正教会の分離は、1000年におよぶ正教会の歴史上「最悪の危機」になったのです。ただし、今回のウクライナ正教会のモスクワからの独立の問題は、両国の教会の問題にとどまらず、ロシアとウクライナの外交関係の悪化にもつながり、2022年のロシアによるウクライナ侵攻の原因の一つとみられています。

 

 

◆ プーチンのルーシキー・ミール

 

21世紀に入り、保守主義を標榜するプーチン(2000.5〜)が登場すると、ロシア正教会は、冷戦後の不安定化するロシア治世の安定を図るために、人々の精神的な拠り所として政治と一体的に活動するようになりました。国家と正教会の関係は緊密化し、愛国と正教会はキーワードとなるなど、プーチン政権は、歴代の指導者の中では宗教色が強い政権となっています。

 

プーチンは、ロシアの人々を自らの支配下に結集させるために、教会の力に利用しました。宗教の多様性を一切否定し、統一されたロシア正教会の下で、ロシア国民をまとめ、ひいては、ウクライナのようなスラブ国家の諸国民をロシアにつなぎ止めようとしたのです。

 

プーチンとキリル総主教

とりわけ、大統領のプーチンは、2009年にロシア正教会総主教となったキリル1世とは、蜜月関係にあります。キリルは大統領選挙で自らプーチンの応援演説を行い、プーチン政権はロシア正教会の主張に沿って、たとえばLGBT宣伝禁止法を成立させるなど保守的な政策を実現させています。

 

何より、二人は、ともにKGB出身という共通項があるだけでなく、「ルースキー・ミール(ロシアの世界)」という価値観で結びつけられています。

 

「ルースキー・ミール」は、「世界でロシア語を話す人やロシア正教を信じる人の連帯」という意味で、クリミアを含むウクライナやベラルーシなど、旧ソ連領の一部だった地域を独自の文明圏とみなし、ロシアの支配圏に取り込む(領土拡張と精神的な連帯を結びつける)構想です。

 

プーチンにとってはロシアの政治的な復権であり、キリル総主教から見れば、ロシア正教会の復権です。ロシア正教会の上層部は、一般的にクレムリンやプーチンとつながっています。ロシア正教会はこれまで、ロシアに関する帝国主義的な教義を広め、「正教会」の観点から「ロシア世界(ルースキー・ミール)」のイデオロギーを宣伝してきました。

 

具体的に、ロシア正教会は、ウクライナに存在する自身の支部ともいえる、ウクライナ正教会・モスクワ総主教庁系を利用して、ウクライナに「影響力」を及ぼすために「教会エージェント」を養成してきたと言われています。「教会エージェント」とは、現在のロシア正教会主席主教キリルのように、クレムリンから派遣された工作員である場合も多くあります。

 

ウクライナだけでなく、ベラルーシ・モルドヴァに対しても、ロシアの影響下に戻る必要性を説くといったプロパガンダを広めていると指摘されています。

 

このように、あらゆる可能な手段を通じて、「ルースキー・ミール」を実現しようとしている二人にとって、ウクライナ正教会の独立は、ロシア正教会だけでなく、その後ろ盾であるプーチン政権への打撃となりました。ルースキー・ミールの立場にたてば、ウクライナには、国家としての根拠も固有性もないと捉えられるため、ロシアの意向が通じない教会勢力の出現に、プーチンは激高したと言われています。

 

キリル総主教やプーチンにとって、ロシア正教会に従属していたウクライナ正教会の多数派が分離独立することは、ロシア正教会、さらにはロシア世界の解体に繋がりかねないことでした。これを阻止しようとしたことが、ロシアのウクライナ侵攻のもう一つの背景と考えられます。

 

 

◆ ウクライナ侵攻の余波

 

ウクライナは、ロシア正教会にとって、ロシア文明の誕生の地、すなわち、10世紀は、ビザンチン東方正教会の布教により異教徒だったウラジミール大公を改宗させた地ですので、極めて重要な存在です。

 

キリル総主教は当初、プーチンのウクライナ侵攻に、躊躇する姿勢を示していましたが、次第にウクライナと西側を非難し、支持を表明、ロシア軍の行動を正当化し、それを「終末戦争」「浄化」と呼び、ウクライナを自らの精神的管轄領域の不可分な一部だと主張しました。2022年3月20日には、ロシアによるウクライナ侵攻に高らかな祝福を与え、その後、キリルは、兵士だけではなく戦車などの兵器にも祝福を与える儀礼を実行しています。ロシア正教会では現在、礼拝中にロシアの勝利を求める祈りをささげることが義務付けられています。

 

一方、プーチンの戦争によって、ロシア正教会に属し、モスクワに融和的な、ウクライナ正教会・モスクワ総主教庁系(UOC─MP)は、ますます困難な立場におかれています。ロシアの侵攻により、ウクライナのために戦死した兵士、犠牲になった市民の遺族は、ウクライナ正教会・モスクワ聖庁による葬式や埋葬を拒否したことなどから、その数はどんどん減少し、ウクライナの400以上の教区がUOC─MPから離脱しています。なかには、いくつかの教区においては,信者がモスクワ聖庁系の司祭を追い出し、キエフ聖庁司祭を招くという事態も起こったと伝えられています。この結果、、当初、最大の信者数・教区数・修道院数を誇る教会でしたが、現在では両者の信者数は逆転しています。

 

なお、現在(ウクライナ侵攻以後)、モスクワ総主教庁系ウクライナ正教(UOC─MP)は、モスクワ総主教庁との関係を断ち、「完全な自治と独立」を宣言しています。

 

 

<関連投稿>

ロシアの歴史

ロシア史①:キエフ・ルーシとモスクワ大公国

ロシア史②:ツァーリとロシア帝国

ロシア史③:ロシア革命とソ連

ロシア史④:冷戦とソ連崩壊

ロシア史⑤:エリツィンとオリガルヒ

ロシア史⑥:プーチンの独裁国家

 

ウクライナの歴史

ウクライナ史➀:ルーシのキエフ大公国

ウクライナ史②:リトアニア・ポーランド・ロシア支配

ウクライナ史③:独立の失敗とソ連編入

ウクライナ史④:ソ連からの独立とロシアの侵攻

 

ロシア・ウクライナ戦争を考える

スラブ民族:ロシア人とウクライナ人の起源

ロシア・ウクライナ関係史:ルーシーの歴史的一体性

プーチンの歴史観:ルーシキー・ミール

ウクライナ侵攻:ロシアがNATOこだわるわけ

 

 

<参照>

「プーチンの戦争」を支えるロシア正教会キリル総主教とは

(2022年4月27日、日テレ、「深層NEWS」より)

ロシアとウクライナのキリスト教を知らずに“プーチンの戦争”は語れない

(2022年9月2日 Economist online下斗米伸夫)

ロシア正教会に急接近したプーチン──戦争勃発の背景にあった、キリスト教宗派の対立

(2023年03月08日、WEBアステイオンNewsweek)

ウクライナがロシア正教を禁止する波紋。ローマ教皇の非難とロシアの西欧悪魔論。

(2024/9/2ヤフーニュース、今井佐緒里)

宗教の境界で三分するウクライナと「千年に一度のキリスト教世界の分裂」:ロシアとの宗教対立

(2022/3/26、ヤフーニュース、今井佐緒里)

ウクライナ正教会、ロシア正教会から独立へ

(2018.10.17、ナショナル ジオグラフィック日本版)

焦点:ウクライナ侵攻による正教会の混乱、孤立するロシア総主教

(2022年3月20日、 ロイター)

ウクライナ正教会の宗派、侵攻支持のロシア正教会総主教と絶縁

(2022.06.02  CNN)

ウクライナ正教会 ロシア正教会と関係断絶を表明

(2022/05/29 テレ朝ニュース)

ウクライナ正教会:モスクワからの独立の過程

(Ukraїner HP)

プーチン政権「カトリックは侵略者だから禁教に」 ウクライナの占領地域で弾圧 宗教対立蒸し返し侵攻正当化

(2023年12月27日、東京新聞)

教皇、ロシア正教会のキリル総主教と歴史的会見

(2016-02-13、バチカン放送局)

ロシア・ウクライナ・ベラルーシの宗教史8 ブレスト教会合同5

(2022年8月20日、Note.com/NikolaiMisonikomii)

ロシア・ウクライナ・ベラルーシの宗教史15 20世紀ウクライナの正教会と合同教会5

(2022年9月19日、Note.com/NikolaiMisonikomii)

ロシアのウクライナ侵攻(第1章):ウクライナ危機の起源歴史、安全保障、地域の特性

(NIRA総合研究開発機構、研究レポート)

ロシア正教会トップ議長の「世界ロシア人民評議会」、ウクライナ戦争を「聖戦」と宣言

(2024年4月12日、Christian Today

ウクライナ正教会:モスクワからの独立の過程

(Ukraїner HP)

ウクライナ正教会の独立とロシア正教会の抵抗、その歴史的背景

(24.09.2018 、ウクルインフォルム通信)

ウクライナ正教会の独立容認決定

(毎日新聞2018/10/12)

「プーチンの戦争」を支えるロシア正教会キリル総主教とは

(2022年4月27日、日テレ、「深層NEWS」より)

ロシア正教会(wikiwand)

ロシア正教会(wikipedia)

 

 

投稿日:2025年4月5日

むらおの歴史情報サイト「レムリア」