イタリア近現代史

 

ミラノやジェノバ、ベネチアなど北イタリア諸都市は、十字軍の経路に当たっていた影響で商業上めざましく発展した。

 

ルネサンスは14世紀のイタリアで始まった。当時のイタリアは、ギリシャ・ローマの古典文化の復興が目ざれ、人間性を重んじる思想が支配的となった。

 

フィレンツェでは、商業や銀行業によって富を築いたメディチ家が市政を独占し、芸術の振興に努めたため、ルネサンス芸術が花開いた。しかし、16世紀前半になるとイタリア戦争の舞台となり混乱期を迎えた。

 

ルネサンス期のイタリアは、国家として統一されておらず、都市共和国や諸侯国、教皇領が分立状態にあり、15世紀末から16世紀半ばにかけて、イタリア支配を巡り神聖ローマ皇帝とスペイン王、フランス王がイタリアを戦場に戦った(イタリア戦争)。

 

ジェノヴァ(ジェノバ)は、ジェノヴァ公による君主制の下に、北イタリアにおける東方貿易の中心として繁栄したが、15世紀後半、フランス王ルイ12世(在1498~1515年)の圧迫を受け衰退した。

 

フィレンツェの外交官であったマキャヴェリは、祖国の再建策として、「君主論」を著し、立憲君主制を主張した。

 

ナポリ王国

12世紀、シチリア島とナポリに、両シチリア王国が建設され、フランスの支配を受けた。

 

13世紀にシチリアの島民が反乱を起こし、シチリア島はイベリア半島のアラゴン王の支配下に入った。一方、ナポリ王国は、15世紀半ばにはアラゴン王によってシチリア王国と併合され、両シチリア王国となった。

 

ローマは、教皇領として繁栄した。歴代教皇はルネサンス芸術の中心地をめざし、多くの芸術家を招いて、システィーナ礼拝堂などの壁画を描かせた。ミケランジェロの「最後の審判」はその代表作である。レオナルド=ダ=ヴィンチが描いた「最後の晩餐」は、ミラノの聖マリア=テッレ=グラツィエ聖堂の壁画。

 

ヴェネチアは終身職の総督の下で共和政をとった。強力な海軍力を有し、16世紀後半のレパントの海戦では、スペイン、ローマ教皇の連合艦隊側に加わり、オスマン=トルコを打ち破った。「アドリア海の女王」と呼ばれた。

 

ナポレオン戦争後のウィーン体制以後、強国オーストリアにその一部を支配されたため、統一運動は難航し、1850年代になってフランスのナポレオン3世の介入により、ようやく進展を見ることになった。

 

青年イタリア党は、1849年にローマ共和国を建てたが?、まもなくオーストリアに敗れた。

 

イタリアは多数の小国に分裂していたが、フランス革命の影響を受けて国内統一の気運が高まり、ガルバルディの率いる青年イタリア党の活躍により、19世紀半ばサルディニア王国を中心とした統一がなされた。

 

イタリアでは、ガリバルディの「青年イタリア」が、両シチリア王国を併合して、サルディニア王国のエマヌエーレ2世に献上したことによって、イタリアの統一をほぼ完成させた。1861年にはイタリア王国が成立した。

 

19世紀のイタリアは、オーストリアの影響が強かったが、国民主義、自由主義の運動の中で、サルディニア王国を中心にオーストリアからの解放と統一が進められた。

 

サルディーニャは、オーストリア領のベネチアとローマ教皇領を除く全イタリアの統一を完成した。

 

イタリアでは、「青年イタリア」による統一運動などを経て、サルディニアが名宰相カヴールの下で徐々に領土を広げ、イタリア王国を成立させ、ほぼ全土の統一を達成した。

 

イタリアでは、青年イタリア党を中心に統一運動が起こり、まずロンバルディアや中部イタリアが統合され、さらにガリバルディの力によってシチリア、ナポリが加わり、イタリア共和国が成立した。

 

イタリアはリビアに進出し、1912年いに植民地とした。

 

イタリアは、帝国主義政策をとるのに十分な資本の蓄積が遅れ、19世紀後半になってアフリカ北東部のエチオピアに侵入したが、敗北し、20世紀に入り、1935年に再度エチオピアに侵攻し、翌年イタリアに併合した。

 

イタリアは、第一次世界大戦の戦勝国であったが、戦後の講和条約で領土要求が満たされず、また経済状況も悪化したため、国民の不満が高まった。こうした中、ファシスト党のムッソリーニが勢力を伸ばし、「ローマ進軍」の大示威行動を行い、政権を獲得した。

 

イタリアでは1919年にファシズム政党、ファシスト党が結成され、1922年に資本家や軍部の支持のもとにローマに進軍して政権を獲得した。

 

イタリアは、第一次世界大戦の戦費から極度の財政危機にあり、世界恐慌により多大な影響を被った。社会情勢の不安定な中で、ムッソリーニのファシスト党が政権を獲得し、1926年には一党独裁制に至り、1935年にはエチオピア侵略を行った。