ドイツ近現代史

 

ルターは、当初、農奴制廃止要求を掲げてミュンツァーが起こしたドイツ農民戦争(1524~25年)を支持していたが、農民の反乱が急進化すると領主側についた。

 

皇帝(カトリック)に対抗するために、1530年に、ルター派のドイツ諸侯・都市(プロテスタント)がシュマルカルデン同盟を結成し、シュマルカルデン戦争(1546~47年)を起こしたが、(同盟内部の分裂で、皇帝側に敗れた)。1555年、アウグスブルグの宗教和議が成立し、ドイツ諸侯・都市に、新教か旧教かの選択を認め、領民はそれに従うことが決定された。

 

アウグスブルグの宗教和議(1555年)は抗争を続けるルター派諸侯と皇帝との間に結ばれた和議で、諸侯は領内の宗教を、旧教とルター派のどちらかに決める選択権が認められた。しかし、この和議では領内に住む人々の信仰の自由までは認められなかった。

 

ドイツでは、17世紀初めに新教徒への対応をめぐり、諸侯がギベリン(皇帝派)とゲルフ(教皇派)に分かれて争う30年戦争が始まった。戦いは、スウェーデンやフランスが干渉し、宗教戦争から国際戦争へと様相を変えて長期化したが、1648年のウェストファリア条約によって終結し、ドイル諸候の独立主権が認められた。

 

三十年戦争:神聖ローマ帝国内の宗教内乱(新教徒の反乱)から、(新教徒保護の名目でヨーロッパ各国が干渉した国際戦争になった)国家利害を争う国際戦争に転化した戦争

 

 

*独三十年戦争16181648):ドイツの新教徒と旧教徒との対立を契機とするヨーロッパを巻き込んだ国際宗教戦争。「最後の宗教戦争」、と形容されるなお、新教とは、ルター派やカルヴァン派のプロテスタントのことであり、旧教とは伝統的なローマ=カトリックのことを示す。(新教=プロテスタント旧教=ローマ・カトリック)。

 

*七年戦争欧州では、イギリスの財政支援を受けたプロイセンと、フランスやロシアなどの支援をうけたオーストリアとの間で行われた戦い。並行して、英仏は北アメリカ、インドでも植民地を巡る戦いが繰り広げられた。

 

 

戦争後、ドイツでは皇帝権が衰えて領邦の対立が激しくなり、ドイツ統一に大きな障害となった。

 

プロイセンでは、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世がユンカーを官僚・軍隊の中心とする軍事色の強い絶対主義の基礎を築き、その子フリードリヒ2世は、啓蒙主義思想の影響を受け、いわゆる啓蒙専制君主として国内産業の育成や司法改革に力を注いだ。

 

 

18世紀プロイセンでは、軍隊制度(常備軍)や官僚制度を整備し、地主貴族「ユンカー」が独占し、中央集権的絶対主義を確立した。ただ、積極的に海外に進出するのは、ドイツ統一後の19世紀末以降である。

プロイセンは、次第に領土を拡大してユンカーと呼ばれる地主貴族に支えられた絶対主義体制を確立し、マリア・テレジアのオーストリアとしばしば対立した。

 

プロイセンでは、フリードリヒ2世が、宗教寛容令を出し、重商主義政策によって産業を育成したほか、ヴォルテールらの啓蒙思想家を宮廷に招き、「君主は国家第一の下僕」と称した。また、オーストリア継承戦争、七年戦争を戦い抜き、プロイセンはヨーロッパの強国となった。

 

プロシアは、オーストリア継承戦争(1740~48)で、オーストリアを破り、シュレジエン地方を併合し、その後の七年戦争(1756~63)で、フランス・ロシアと結んだオーストリアを再度破り、シュレジエンを確保した。

 

プロイセンは、フリードリヒ大王の時代、富国強兵を進め、オーストリア継承戦争でプロイセンに併合されたシュレジエンの奪回をめざすオーストリアとの戦争(七年戦争)に勝利した。

 

 

ヨーロッパの中でも統一が遅れ、小国が分立し連邦体制のもとで政治的分裂が続いていた。しかし、関税同盟(1834年)の発足を契機として統一への機運が高まり、19世紀後半に帝国が成立している。

 

プロイセンでは、ビスマルクが首相に就任すると「鉄と血によってのみ問題は解決される」と主張して軍備拡張を図り、普墺戦争(1866)でオーストリアを破った。さらに、普仏戦争(1870~71年)でフランスのナポレオン3世を破ると、プロイセン王のヴィルヘルム1世はベルサイユ宮殿でドイツ帝国の成立を宣言した。

 

ドイツでは、プロイセンのビスマルクがいわゆる鉄血政策により、ドイツ統一を推進したが、普仏戦争でフランスを破ったことによって、ドイツ統一を完成させた。

 

ドイツでは、ヴィルヘルム1世の下で首相となったビスマルクが、ユンカーや大資本家の支持を得て、軍事力によるドイツの統一を図った。

 

19世紀後半のドイツは、プロイセン国家の武力による統一が進み、普仏戦争の結果ドイツ帝国が成立した。ドイツ帝国は、すでに帝国主義段階にあったイギリス、フランスに対抗するため、経済面においては保護関税政策を推進して急速に資本主義を発展させ、植民地を持つに至った。

 

ドイツは、イギリス、フランスが進出していないアフリカ西部に進出しようとした。カメルーンを植民地とした。

 

ドイツでは、空前のインフレーションが発生したが、首相のシュトレーゼマンが新紙幣のレンテンマルクを発行し、インフレーションを抑えた。また、アメリカ資本導入をはかるドーズ案を受け入れ、経済を復興させ、1926年にドイツは国際連盟に加盟した。

 

ドイツでは、皇帝が退位して共和制が成立した。多額の賠償金に苦しみ、1923年にはフランス、ベルギーがドイツの賠償金の滞納を理由にルール占領した。その後1924年のドーズ案が示した賠償金支払い軽減などにより、ようやく経済復興を果たした。

 

1921年に、賠償金が1320億マルクに正式に決まったが、敗戦後のドイツ経済の生産能力にはほど遠いものであり、国民経済を極度に悪化させた。1923年にはフランス、ベルギーがドイツの賠償金の滞納を理由に、ドイツの工業地帯のルールに侵攻すると、ドイツ政府はサボタージュ(生産放棄)で抵抗したため、ドイツの国民経済はさらに悪化し、ドイツの社会民主党政府への不満は高まり、右翼が政界進出する機会を与えた。

 

ドイツでは、ナチ党が第一次世界大戦後の1919年にミュンヘンでドイツ労働党として結成された。結党時にはベルサイユ条約破棄や、反ユダヤ主義などの過激な主張から国民の支持は得られなかった。1920年、国家社会主義ドイツ労働党と改称、1921年ヒットラーが党首となったが勢力はふるわなかった。しかし、世界恐慌による社会不安を背景にして一挙に勢力を拡大し、1932年7月に230議席を獲得して第1党となった。

 

ドイツでは、ベルサイユ条約の破棄、植民地の再分割などをめざすナチスが、中産階級を中心とした支持層を獲得し(共産党は弾圧)、一党独裁を行った。

 

ドイツでは、戦争による失業と社会不安が増大するなか、ナチスが政権を掌握した(1920年)。ヒトラーは、1933年に国際連盟を脱退し、1935年にベルサイユ条約を破棄して再軍備し、翌年にロカルノ条約を破棄して、ドイツ西部のラインラントに軍隊を進駐し、1939年にポーランドに侵攻した。

 

ドイツは、世界恐慌の影響を受けて経済が混乱した。これに乗じて政権に就いたナチスは、言論出版の自由の抑制やユダヤ人などの迫害を行う一方で、軍備の増強や道路の建設を行い、失業者を減らしていった。