フランス近現代史

 

宗教改革

宗教改革は、従来のローマ=カトリック教会の権威を否定する革新運動で、ルターとともに、フランスのカルヴァン(1509~64)によって進められた。予定説*を唱えたカルヴァンは、勤労を尊びその結果として蓄財を認めた。このため、カルヴァンの説はネーデルランドやイギリス、南フランスなど商工業を中心とする市民階級に支持され、ヨーロッパの北部を中心に普及した*。さらに、後の資本主義社会の勤労倫理として大きな影響を与えた。

 

しかし、宗教改革後(16世紀後半)のフランスでは、ユグノーと呼ばれたカルヴァン派とカトリックとの対立が激化し、ユグノー戦争(1562~98年)と呼ばれる宗教戦争が長期化した。

 

これに対し、ユグノーであったブルボン家のアンリ4世は、王位につくとカトリックに改宗し、ナントの勅令(1598年)を発してユグノーに一定の信仰の自由を認め、内戦はようやく鎮まった。

 

さらに、フランスは、ドイツで始まった三十年戦争*(1618~1648年)にも参戦した。ユグノー戦争の結果、カトリックの国となったフランスであったが、この戦争では、神聖ローマ帝国(ドイツ)のハプスブルク家*の勢力を抑えようとするために、新教徒側について戦った。戦いは、1648年のウェストフェリア条約で和平が成立し、フランスは、(神聖ローマ帝国から)アルザス地方の土地を獲得した。

 

*予定説:その人が救わるかどうかは、予め決められていると説く

*カルヴァン派:フランスではユグノー、イギリスではピューリタン、スコットランドではプレスビテリアン、ネーデルランドではゴイセンと呼ばれた。

 

*独三十年戦争16181648):ドイツの新教徒と旧教徒との対立を契機とするヨーロッパを巻き込んだ国際宗教戦争。「最後の宗教戦争」、と形容されるなお、新教とは、ルター派やカルヴァン派のプロテスタントのことであり、旧教とは伝統的なローマ=カトリックのことを示す。(新教=プロテスタント旧教=ローマ・カトリック)。

 

*ハプスブルク家13世紀以降、神聖ローマ皇帝を輩出してきたオーストリアの王家。

 

 

 

 

フランス思想

ユグノー戦争とモラリスト

悲惨なユグノー戦争などの混乱期のフランスで、人間の生き方を観察し、そこから批判や風刺を込めた随筆が数多く発表された。モラリストと呼ばれる著作家のなかに、モンテーニュ(1533~92)や、「人間は考える葦である」で有名なパスカル(1623~62)がいる。

 

デカルト登場

また、イギリスのベーコンと並び「近代哲学の祖」と呼ばれるデカルト(1526~1650)が世に出たのもこの時期である。デカルトは、大陸合理論を確立し、後の近代科学の基礎を確立したニュートン(1642~1727)らに影響を与えた。

 

 

16世紀に30年以上におよぶ宗教戦争(30年戦争)が起こったが、17世紀末には絶対王政の全盛期を迎えた。その後、18世紀末の革命により、王政が崩壊し共和政が樹立されたが不安定であった。

 

ルイ12世(在1498~1515)は、フランスのルネサンスを開花させた。

ルイ13世(在位1610~43年)は絶対王政を確立したフランス王。

ルイ13世は、三部会を停止してフランス絶対君主の権威をみせつけようとした。

 

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  • 絶対王政期のフランス

 

フランスの絶対王政は、ルイ14(在1643~1715)のときに黄金時代を迎えた。ルイ14世は、5歳で即位し、当初、宰相マザランが補佐した。マザランは、まずドイツの宗教戦争である30年戦争(1618~1648年)に干渉し、アルザス地方を獲得するなどライン川方面に領土を拡大する成果をあげた。対内的にも、増税政策に反発したフロンドの乱(1648~53年)と呼ばれる貴族たちの反乱も起こったが、鎮圧後は絶対王政が強化された。

 

ルイ14世は、宰相マザランの死とともに、1661年に(君主が自ら政治を行う)親政を開始した。内政では、強力な軍隊を背景に、また思想的には(国王の権力は神から授けられたとする)王権神授説に基づいて、王権を強化した。壮大なべルサイユ宮殿が建造されたのもこの時代である。

 

実質的に政策の舵をとったのが、蔵相(財務統監)コルベールで、官僚制を整備し、王政を支える富の源を商業に求め、重商主義政策をとった。国内の商工業、特に大商人を保護・育成するために、主要産業の国家統制や、特権マニュファクチュアの設立を行った。

 

ところが、カトリック教徒であるルイ14世は、カルバン派(フランスではユグノーと呼ばれた)の信仰の自由を認めたナントの勅令を1685年に廃止し、商工業者の多数を占めるユグノー勢力を弾圧した。そのため、ユグノーらは海外へ亡命し、フランスの経済に深刻な打撃を与えた。こうした国内の不満をそらす目的もあって、前述したファルツ継承戦争やスペイン継承戦争など数度の侵略戦争を行った。

 

また、次のルイ15(在1715~74)の時代でも、フランスは、オーストリア継承戦争と七年戦争にからみ、北米やインドでの植民地戦争を継続させた。加えて、ルイ16(在位1774~92)の時代では、アメリカの独立戦争で、スペインなどとともに植民地側を支援し、イギリスに参戦した。

 

しかし、度重なる対外戦争や干渉戦争で、国民は疲弊し、財政も窮乏したことは、フランス革命の遠因となった。もっとも、財政の悪化を受け、ルイ16世は、テュルゴーやネッケルらを蔵相に任命し、財政改革を試みたが、特権身分の抵抗により失敗に終わった。

 

 

  • フランス革命

(1789年7月14日)

 

「旧体制」と「三部会」

革命前のフランスでは、第一身分の聖職者、第二身分の貴族、第三身分の商工業者、都市民衆、農民など平民から構成されたアンシャン=レジーム(旧体制)と呼ばれた政治社会制度が成り立っていた。

 

そのアンシャン・レジーム(旧体制)にあって、絶対的な権力を握っている国王と、免税特権をもっていた第一身分と第二身分の特権階級の下で、重税に苦しんでいた都市の民衆や農村の小農貧困層(平民)が、暴動を起こすなど不安定な状態が続いていた。

 

一方、第一身分から第三身分の代表者が出席する「三部会」という身分制議会も存在していたが、絶対王政が確立した17世紀のルイ14世の時代には、三部会は召集されなかった。ところが、18世紀に財政難となった国王ルイ16世が、免税特権を有していた聖職者や貴族に課税を試みると、彼らは国王に対して、三部会の召集を要求した。これを受け、1789年5月、国王は、三部会を約170年ぶりに開催されたのであった。

 

 

「国民議会の結成」と「球技場の誓い」

 

しかし、特権を持つ第一・第二身分と、第三身分は議決方法をめぐって対立し、会議は分裂してしまった。そこで、憲法を制定して改革を求める第三身分の代表は、三部会を脱退し、三部会から独立した国民議会を結成した。彼らは、国民議会(憲法制定国民会議)こそ国民を代表する機関であると宣言し、1789年6月、「憲法が制定されるまで解散しない」との誓いを、ベルサイユ宮殿内の球技場に集まり、宣言した(テニスコートの誓い球技場の誓い)。この国民議会に、第一身分、第二身分の中から合流する者もでてきた。

 

 

「バスティーユ牢獄の襲撃」と「人権宣言」

 

この時、ルイ16世は、会議場を閉鎖して妨害し、国民議会を武力で弾圧しようとしたことから、これを知ったパリ民衆の絶対王政に対する不満は頂点に達し、1789年7月14日、圧政の象徴とされていたバスティーユ牢獄が襲撃された。フランス革命の勃発である。この事件を契機に、全土で農民蜂起も起きた。

 

1789年の8月4日、国民議会は、国王の封建的特権の廃止を決定し、フランス人権宣言を採択した。宣言では、アンシャン・レジーム(旧制度)の解体と、自由・平等に基づく基本的人権、国民主権、所有権の不可侵などの理念が明らかにされた。

 

 

ヴァレンヌ逃亡事件

1789年9月には、女性を中心とする市民が、ヴェルサイユ行進を行い、ルイ16世一家をヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に連行した。幽閉という状態ではなかったが、革命の進展に不安を抱いた国王夫妻は、1791年6月、王妃マリー=アントワネットの実家のオーストリアへ逃亡しようと密かにパリを脱出したが、途中で発見されて連れ戻されてしまった。ヴァレンヌ逃亡事件と呼ばれるこの出来事で、国王は国民の信頼を失った。

 

 

「1791年憲法」と「立法議会」

 

一方、革命は進展し、人権宣言を踏まえ、1791年9月にフランスにおける最初の憲法(1791年憲法)が制定された。憲法は、(王政下で憲法に準ずる政治体制である)立憲君主政を謳い、(男子)制限選挙制(財産資格選挙)などが規定された。憲法を制定して役割を終えた国民議会は解散し、1791年憲法に基づき、新たに立法議会が召集された。

 

立法議会では、はじめ立憲君主派のフイヤン派が優勢であったが、ヴァレンヌ事件で王政そのものを否定する声が高まり、やがて穏和(王政を認めない)共和派のジロンド派が主導権を握るようになった。

 

フイヤン派:立憲君主政を主張(国王の処刑に反対)

ジロンド派:穏健な共和派(国王の処刑に反対、革命の深化に反対)

ジャコバン派:急進的な共和派(国王の処刑や封建制の無償廃止を主張)

(共和派は王政に反対)

 

 

対外オーストリア戦争

 

外交面では、1792年3月に成立したジロンド派内閣は、1792年4月20日、革命を非難したオーストリアの干渉を排除するために、オーストリアに対して宣戦した。(形式的には、国王が議会でオーストリアに対する宣戦布告を提案、議会は満場一致で可決した)。オーストリアと同盟関係にあったプロイセンがフランスに宣戦して、革命戦争が始まった。

 

しかし、フランス軍は旧体制下の国王軍を主体にし、指揮官には貴族出身者が多く、兵士も戦闘意欲に欠け、各地で敗戦を続けた。このままではオーストリア・プロイセン軍が国境をこえ、パリは占領される情勢であった。フランス国内でも反革命の暴動が起こり、革命は大きな危機に陥った。

 

しかし、同年7月、議会は「祖国は危機にあり」という非常事態宣言を行うと、各地の義勇兵が、続々とパリに集まってきた(この時、マルセイユからやってきた義勇兵たちが歌っていたラ=マルセイエーズは後にフランス国歌になったと言われている)。また、パリではこのころからサンキュロットといわれる革命派の下層市民も、運動を開始した。

 

 

8月10日事件

 

このような情勢の中で、1792年8月10日、ジャコバン派(急進共和派)の指導の下、パリのサンキュロットが義勇兵とともに蜂起し、テュイルリー宮殿に進撃した。市街戦の結果、宮殿は陥落し、この時、議場に逃れようとした国王ルイ16世一家は捕らえられた(「8月10日事件」、あるいは「第二革命」とも評される)。

 

立法議会は、王権の一時停止と、新憲法制定のために立法議会に代わる新しい「国民公会」の開設を決議して解散した。臨時内閣には、蜂起を扇動したジャコバン派(山岳派)のダントンは、「8月10日の男」と呼ばれ脚光を浴び、司法大臣に任命された。また、この時、国王一家はタンプル塔に監禁される事になった。

 

 

ヴァルミーの戦い

 

一方、オーストリアとの対外戦争では、8月11日、プロイセン軍が国境を越えてフランス侵入、9月始めには首都近郊のヴェルダンを陥落させるなど、パリに迫ってきた。しかし、1792年9月20日に、パリ東部のヴァルミーの戦いで、義勇兵中心のフランス革命軍が、反革命を掲げるオーストリア・プロイセン連合軍に勝利し、危機は回避された。(この時、ルイ16世夫妻は投獄された)。

 

<逸話>

ヴァルミーの戦いとゲーテ

 

ヴァルミーの戦い(1792年9月)には、ドイツの文豪ゲーテ(1749~1832)もプロイセン軍中にいた。ゲーテは、フランス勝利を受け、「ここから、そしてこの日から、世界史の新しい時代が始まる」と記したとされる。

 

ゲーテ(1749~1832):シラーと並ぶ独ロマン主義文学の巨匠。作品に「若きウェルテルの悩み」「ファウスト」などがある。

 

 

 

「第一共和政」と「恐怖政治」

 

また、9月20日は、フランスで初めて実施された男子普通選挙後、国民公会が召集された日でもあった。新議会では、外国勢力の干渉に対する「革命の勝利」の勢いのまま、王政の廃止を決議し、フランスは、ロベスピエールらジャコバン派主導で第一共和政(1792~1804)に移行した。

 

 

*共和政:国家の主権が君主(国王)ではなく、貴族やブルジョワジーなど複数の人間に属している政治体制。現在のフランスは第五共和制である。

 

*ルソー(1712~78):フランス革命期の思想家の代表。その著書「社会契約論」で、人民主権に基づく共和制を主張、特にジャコバン派に影響を与えた。

 

 

その翌年1793年の1月には、ルイ16世が革命勢力によって処刑され、以後、ロベスピエールらによる「恐怖政治」(=ジャコバン派の独裁政権)が行われていった。国王の処刑は、革命の波及を恐れる君主国であるオーストリア、プロイセン、スペインや、フランスの大国化を恐れるイギリスなど周辺国の利害が一致し、ヨーロッパ諸国は、第一回対仏大同盟(1793~97)を組んで、フランスの革命政権を打倒することを目指した。

 

一方、1793年6月には、ジャコバン政権は、憲法(1793年憲法ジャコバン憲法)を制定した。古い伝統が否定され、自由・平等、所有の自然権、人民主権、人民の労働または生活を扶助する社会の義務、抵抗権の保障が謳われた。また、男子普通直接選挙制、重要法案に対する一種の人民投票を定めるなど、極めて民主的な内容で、フランス憲法史上初の人民投票で成立した(ただし、当時の非常事態のため、実施が延期され、結局は施行されなかった)。

 

その一方で、革命防衛の理念に基づき、徴兵制が実施され、フランス軍が国民軍に変身した。この結果、対仏大同盟による近隣諸国との戦局をフランス優位に転換させることに成功した。それでも、フランス革命の情勢は、国内でも農民の反乱が頻発するなど、内外ともに危機にあったと言える。

 

そこで、ロベスピエールらジャコバン派は、内政と戦争などの権限を公安委員会に、また反革命運動を取り締まる権限を保安委員会に集中させ、革命の成就を最優先させた。また、革命裁判所に、予審、弁護人、証人無しでの裁判を認めるなどして、反革命勢力の根絶を目指した。王妃のマリ=アントワネットなど旧王族、ジロンド派の幹部など政敵、反乱に加わった多数の農民ら多数が処刑された。

1794年に入ると、ジャコバン派内部でも、革命路線から外れたとして、ダントンら有力者がギロチンに送られた。4月には、独裁体制を強め、ロベスピエールの恐怖政治は頂点に達した。

 

しかし、ロベスピエールの余りの急進的なスタンスに、それまでジャコバン派を支えていたパリ市民のサンキュロットや、国民公会の多数がロベスピエールから離反していった。そして、ロベスピエールも、1794年7月のテルミドールの反動(テルミドールのクーデター)で失脚し、ギロチンで処刑され、恐怖政治は終わりを告げた。

 

 

総裁政府とナポレオン

 

ロベスピエールら急進派の粛清によって、過激な革命運動は沈静化し、穏和共和主義者らによる総裁政府(1795~1799)が、1795年憲法によって成立した。1795年憲法は、私有財産の不可侵を掲げ、ブルジョワ有産者階級の利益を守ることが目指された。政府は5人の総裁からなる集団指導体制がとられ、二院制の議会が立法を担当した。選挙制度は一定の納税者のみによる制限選挙で間接選挙であった。

 

総裁政府は、王党派による王政への復帰や、共和派によるジャコバン独裁の再現を防止する意図も持っていたが、常に、左右両派から脅かされることになった。

 

1795年10月、王党派は、総裁政府の転覆をねらってパリで武装蜂起したが、当時26歳の軍人、ナポレオンが鎮圧した(ナポレオン台頭のきっかけ)。1796年春には、革命家のバブーフが、私有財産制の廃止を唱えて武装蜂起し政府を転覆しようとしたという容疑で逮捕される「バブーフの陰謀」事件が発生した。

 

このように、穏健な総裁政府による治世で、国内での政情不安が強まり、また対仏包囲網が続くなど、対外的にも不安的な状況下、強力な指導力と軍事力を持った指導者が待望されるようになった。これに応えたのが、王党派の反乱を鎮圧した後、国内軍最高司令官に抜擢されていた将軍ナポレオン=ボナパルトである。ナポレオンは、1799年11月、共和暦ブリュメール18日のクーデターで総裁政府を打倒、自らを第一統領とする統領政府を樹立し、革命の終結を宣言した。

 

こうして、バスチーユ牢獄への襲撃から始まったフランス革命は、ナポレオンの台頭によって、ようやく終結に至ったのであった。この後、欧州は、皇帝ナポレオンの時代を迎える。

 

 

フランス革命とは?

 

フランス革命は、アンシャン・レジーム(旧体制)下、社会の矛盾、貧困に対する民衆の蜂起で、長年の封建的社会体制を打破した。結果として、財産権や営業の自由など経済の自由を獲得したブルジョワジー(新興市民層)が、革命の担い手となり、歴史の表舞台に立った。また、この革命は、自由・平等・友愛の理念ともに、民主主義の端緒を開いた近代史上もっとも重要な事件として、歴史的に高く評価され、世界各国国民に大きな影響を与えた。

 

ただ、その一方で、イギリスの思想家バークは、フランス革命を、伝統的な価値感を破壊しただけに過ぎないと批判し、その後の保守主義の潮流が生まれたという側面も記憶に留めておくべきであろう。

 

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ナポレオン戦争

 

第一統領に就任したナポレオンは、1802年、イギリスと戦わずしてアミアンの和約を締結し、社会体制の整備に努めた。1804年3月、民法典であるナポレオン法典*を制定し、同年5月に国民投票により皇帝に就任した(第一帝政)。

ナポレオンが皇帝(ナポレオン1世)に即位すると、イギリスはフランスの勢力拡大を恐れて大陸諸国(ロシア・オーストリア、スウェーデン)と第三回対大仏同盟*を結成した。ナポレオンは、1805年、ネルソン率いるイギリス海軍と戦った(トラファルガーの海戦)が敗れた。

その後、ナポレオンは、戦いの矛先を大陸に向け、アウステルリッツの戦い(三帝海戦)で、オーストリア、ロシアの連合軍を撃破すると、西南ドイツの諸領邦にライン同盟を組織させた。この結果、962年に誕生した神聖ローマ帝国は名実ともに滅亡した。

さらに、ナポレオンは、イエナの戦いなどでプロイセンとロシアの連合軍を破ってティルジット条約を結び、西ヨーロッパの大半を支配下に置いた。

 

ナポレオンは、1806年に、ベルリンで大陸封鎖令を発して、イギリスに対する経済封鎖を試みたが、ロシアはそれを無視して、イギリスと貿易を行った(ロシアがイギリスに小麦を輸出して外貨を獲得していた)。そのためナポレオンは、大軍を率いてロシアに遠征し、いったんはモスクワを占領したものの、退却を余儀なくされ失敗に終わった。

 

こうして唯一の敵となったイギリスに対して、ナポレオンは、大陸封鎖令(1806年)を出した。ヨーロッパ市場からイギリスを締め出し、自国産業の独占をめざしたのである。しかし、ロシアがそれを無視してイギリスの穀物輸出を行ったことから、ナポレオンは1812年、大軍を率いてロシアに遠征(モスクワ遠征)、いったんはモスクワを占領するものの、退却を余儀なくされ、遠征は失敗に終わった。

このモスクワ遠征の失敗をきっかけに、ナポレオンの没落が始まった。1813年の諸国民戦争(ライプチヒの戦い)では、プロイセン、オーストリア、ロシアの連合軍に敗北し、ナポレオンはエルバ島に幽閉された。その後、脱出して皇帝に復位したが、ワーテルローの戦いで再び敗走、アフリカはギニア湾のセントヘレナ島に流され、その地で没した。

 

諸国民戦争:ナポレオンのモスクワ遠征の失敗を機にヨーロッパで起こった、ナポレオンの支配からの解放戦争

 

1811年のヨーロッパ。濃い青はフランス帝国の領土。薄い青はフランスの衛星国

 

ナポレオン法典:フランス革命の成果として、個人の自由、法の下の平等、私有財産の不可侵、契約の自由などを定めた。

対仏大同盟:フランス革命からナポレオン戦争にかけて、イギリスが主導して欧州諸国で組まれた対フランスの軍事同盟。前後5回結ばれた。第1回対仏大同盟は、1793年のルイ16世処刑が契機となって、イギリス首相ピットの提唱で結成された。

 

 

小史

ナポレオンと同時代の人々

ベートーヴェン(1770~1827)の交響曲第3番「英雄」の総譜には、ナポレオン(1769~1821)への献辞がつけられた。また、古典派の画家ダヴィット(1748~1825)は、宮廷画家として、「ナポレオンの戴冠式」などの作品を残した。さらに、ドイツ観念論の大成者ヘーゲル(1770~1831)の「絶対精神」の体現者がナポレオンとされている。

なお、後世にでたロシアの文豪トルストイの「戦争と平和」(1869年)は、ナポレオン戦争の模様を描いている。

 

 

フランスでは、ナポレオン3世による第二帝政が普仏戦争によって倒れた後、臨時政府が成立し、その後、1871年に、社会主義者を中心とした自治政府であるパリ・コミューンが組織された。

 

 

フランスは、サイゴン、次いで安南、トンキンを占領し、カンボジア、ベトナムを保護国とし、仏領インドシナを形成した(インドシナ半島地域を仏領インドシナ連邦として成立させた)。

フランスは1862年ナポレオン3世の時代にベトナム進出して以来、1883年にはベトナムを完全支配し、1884年からの清仏戦争に勝ってベトナムに対するフランスの支配権を確立した。

 

 

フランスは、19世紀前半に、アルジェリアに進出し(1842年に保護国化)、そこを足掛かりに、チュニジアも保護国化(1881年)するなど、北アフリカの大部分を占領した。そこに、ドイツがモロッコ進出を企てたため、モロッコを巡ってフランスとドイツが対立した。その後、ドイツに対抗するため、フランスはモロッコ、イギリスはエジプトでの優越権を持つことをそれぞれ承認しあった(1904年英仏協商)。

 

フランスは横断政策を進めたが、縦断政策を進めるイギリスと、1898年、ファショダで衝突した。ファショダ事件では、フランスが譲歩した。

 

フランスでは、第一次世界大戦後すぐに右派連合のボアンカレ政権が誕生し、ドイツに対して強硬姿勢で臨み、ルール地方の占領(1923~25年)を行ったが、対ドイツ強硬政策は失敗に終わり、1924年に左派連合内閣が誕生することになった。

 

フランスは、ボアンカレ内閣のとき、賠償金を支払わないドイツに対抗するため、1923年にベルギーを誘って、ドイツのルール地方の軍事占領を行った(25年には撤退)。

また、仏ブリアン外相が、1925年にドイツのシュトレーゼマン首相とロカルノ条約を結んだ(ルール地方から撤退?した)。

 

 

世界恐慌時のフランスは、植民地や友好国とフラン通貨圏を築いて経済を安定させようとした。国内の政局は不安定であったが、極右勢力の活動などで危機感をもった中道・左翼が結束して、1936年にはブルムを首相とした反ファシズムを掲げる人民戦線内閣が成立した。