朝鮮史

 

<衛士朝鮮>

 

漢の武帝は、前108年に朝鮮を征服して、朝鮮四郡(楽浪郡、真番郡、玄菟郡、臨屯郡)を設置した。これにより衛士朝鮮は滅亡した。

 

漢の武帝に征服されて以来、およそ400年間朝鮮半島はほぼ中国の藩王朝の直轄地だった。

 

 

<新羅>

新羅(676~918)は、朝鮮半島南東部にあった辰韓からおこり、4世紀半ばに建国した。

 

4世紀初めに半島南東部におこった新羅が、562年任那を併合して半島から日本を追い、7世紀半ばに百済(660年)、高句麗(668年)を滅亡させて初めて朝鮮半島を統一した。

 

新羅は、唐と結んで、百済、高句麗を滅ぼし、676年に朝鮮半島を統一した。

 

7世紀に唐と結んで(660年)新羅の攻撃を受けた百済は、日本に援軍を求め、664年白村江の戦いで、百済・日本の連合軍は敗れた。

7世紀初めに(618年)中国を統一した唐は、668年、新羅と組んで高句麗を攻めて滅ぼした。

新羅は668年に高句麗を滅亡させ、676年に唐との抗争の後、唐を撃退して朝鮮半島を統一した。

 

新羅の都・慶州の東南部には仏国寺という代表的な仏教寺院があり、仏教文化が盛んであった。

 

高麗

 

8世紀後半、半島を統一していた新羅の勢力が衰えると、朝鮮半島は戦国時代に突入した。こうした中で高麗王朝(918~1392年)は10世紀半ばに半島の統一を成し遂げ、中国から科挙制を導入するとともに官僚制として文官と武官の2班からなる両班制を採用し、厳格な身分制度を確立した。

 

両班制は高句麗に始まり李氏朝鮮時代に確立した政治的社会的特権身分制度である。

 

高麗は936年に朝鮮半島を統一したが、1231年にはモンゴルの属国となり、元寇の際にはモンゴル軍とともに鎌倉幕府と戦った。

 

13世紀に入ると、モンゴルの大軍が半島に攻め込んできた。高麗はモンゴル軍の攻撃に耐えられず、1259年に元に服属し、日本進出の拠点となった。

 

14世紀まで朝鮮を支配していたのは高麗。918年に建国した高麗は14世紀には倭寇の略奪に苦しめられたことが原因で衰退した。

 

 

<李氏朝鮮>

 

明が成立した頃、朝鮮沿岸では倭寇の出没が激しく、高麗は、その対策に苦しんでいた。その倭寇を破って名声を高めた李成柱は、1392年に高麗を倒して、李氏朝鮮(1392~1910年)を建てた。

 

李成桂(李氏朝鮮)は、高麗から領土を奪った。李成柱は、李氏朝鮮初代の王(在位1392~98年)。

 

李氏朝鮮は、明との友好を図り、その制度をとり入れて官僚制国家の体制を整え、高麗の仏教に代わって、朱子学を公認の教えとした。

 

15世紀中頃には、固有の朝鮮文学である訓民正音が作られ、文化の普及と発展に役立った。

 

豊臣秀吉は、1592~93年、1597~98年に、李氏朝鮮に侵入した。秀吉の李氏朝鮮侵入は、李舜臣の活躍により撃退された。

 

15世紀に入ると、李氏朝鮮は全盛期を迎えた。しかし、16世紀に2度(1592~93年、1597~98年)にわたる豊臣秀吉の侵略を受け、明の援助もあり、水軍やゲリラ活動で辛うじて攻撃を食い止めることができたものの、この戦いによる李朝の国力後退は著しかった。

 

李氏朝鮮の政治を動かしたのは、両班(やんばん)という特権身分の官僚であったが、15世紀から、両班の内部対立が激化し、党争が相次いで政治は混乱した。そのうえ16世紀末には、豊臣秀吉による2度の侵略を受け、李舜臣の率いる水軍や民衆の抵抗などによって、これを撃退したが、国土の大部分は荒廃した。

 

李氏朝鮮は、海戦で日本軍に大きな打撃を与えた李舜臣の活躍で、豊臣秀吉が派遣した日本軍を撃退したものの、国土が荒廃し、王朝の権威は失墜した。

 

李氏朝鮮は、清に朝貢し、日本に通信使を送って友誼を結ぶ以外は鎖国を国是とし、欧米諸国の開国要求を拒んでいたが、江華島事件をきっかけに、開国を迫る日本との間で、日朝修好条規を結んで開国した。その結果、押し寄せた日本商人による米などの買い占めが行われ、民衆の間に反日の気運が高まった。

 

李氏朝鮮は、17世紀以降、清に従属し、鎖国政策を国策としていた。1876年、日本との日朝修好条規で開国させられた。日本に2港の開港等を認め、鎖国政策を放棄した。

 

日朝修好条規で、釜山、仁川、元山の開港、日本公使館・領事館の設置などを受け入れ、以後、日本の植民地政策が進行していく。

 

19世紀に入って、明治維新を達成した日本は朝鮮に開国を要求したが、朝鮮がこれを拒絶、江華島事件でようやく日本は朝鮮との国交を樹立した。

 

朝鮮は、江華島事件を契機とし、日本と不平等条約を締結した。

大院君は高宗の父で、鎖国攘夷を進めた人物

金玉均は日本と組んで朝鮮改革を目ざした開化派の指導者

 

日本は日露戦争当時から3次にわたって日韓協約を締結し(1904~1907年)、李氏朝鮮の主権を奪った。

 

 

<日韓併合>

 

1894~95年の日清戦争、1904~05年の日露戦争で、朝鮮から清・ロシア両国の影響力を排除した日本は、朝鮮植民地化を進め、1910年に韓国を併合した。

 

日清戦争での清の敗北の結果、清の宗主権から離れ、1910年に日本に併合された朝鮮では、ハーグ密使事件、三・一運動(1919年)など民族自決に基づく民衆による独立運動が頻発した。

 

ハーグ密使事件:韓国皇帝の高宗が1907年の第2回ハーグ平和会議に密使を派遣して日本の侵略を訴えた事件

 

1910年、日本が韓国を併合すると、朝鮮民族の抵抗運動は、1919年の三・一運動(万歳事件)へと発展したが、日本はこれを抑え込んだ。

 

1919年3月1日に朝鮮民衆が、ベルサイユ会議の「民族自決」が適用されると信じ、各地で「朝鮮独立万歳」を叫びながらデモ行進をした。

 

 

<朝鮮半島分断>

 

第二次世界大戦後、暫定的に北緯38度線を境に、北部はソ連軍、南部はアメリカ軍が占領し、それぞれの政権が樹立され、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国が成立した。

 

1950年に始まった朝鮮戦争では、アメリカ合衆国の統率の下に組織された国連軍が大韓民国側に、中国義勇軍が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)側に立って参加した。戦いは、北緯38度線付近で一進一退を繰り返したが、1953年にソ連の提案で休戦が成立した。休戦後、大韓民国と、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は新たに設けられた軍事境界線に対じすることになった。