廣田神社:神功皇后ご因縁の社

 

福男の行事でお馴染みの西宮神社はかつて廣田神社の摂社でした。西宮神社の親ともいえる廣田(広田)神社について、また西宮神社との関係などをまとめました。

―――

 

  • 廣田神社とは?

 

兵庫県西宮市に位置する廣田(広田)神社は、社伝によれば、西暦201年、神功皇后(第14代仲哀天皇のお后)が新羅征伐から帰還の際、ご神託を受け、武庫の地・廣田の国(芦屋・西宮から尼崎西部)に創祀されたと伝えられる兵庫県第一の古社です。

 

主祭神は、天照大御神の荒御魂(あらみたま)で、伊勢神宮の内宮の第一別宮・荒祭宮の御祭神と同じです。御名は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマ・アマサカルムカツヒメノミコト)と言われ、神功皇后御征韓の際、御霊威を示された大神です。

 

また、廣田神社には、主祭神の天照大御神の荒御魂だけでなく、脇殿神として、住吉三前大神、八幡三所大神、諏訪建御名方大神、高皇産霊大神の4柱の神々が、それぞれ第一脇殿~第四脇殿(わきでん)に祀られています。御脇殿奉祀四社は、御主神に縁由深い神々で、古くはあわせて廣田五社と称されていました。

 

【主祭神】
天照大神荒魂 (天照大御神之荒御魂)

=撞賢木厳之御魂 天疎 向津媛命

(ツキサカキ イツノミタマ アマサカル ムカツヒメノミコト)

 

【脇殿神】
住吉大神(スミヨシノオオカミ)
八幡大神(ヤハタノオオカミ)
武御名方大神(タケミナカタノオオカミ)
高皇産霊神(タカミムスビノカミ)

 

なお、主祭神の天照大神荒魂とは、瀬織津姫(セオリツヒメ)のことであったとする説があります。これは、廣田神社の戦前の由緒書きには、主祭神が瀬織津姫であると明記されていたことなどによります。

 

 

  • 創建の由緒(神功皇后の神託)

 

神功(じんぐう)皇后は、西暦201年(神功皇后摂政元年)、新羅征伐(三韓征伐)に出発する際、「和魂が皇后の身を守り、荒魂が先鋒として船を導くだろう」という天照大神の神託を受け取られました。

 

この時、神功皇后は、皇子(後の第15代応神天皇)をご懐妊されていましたが、軍船の先鋒となり軍を導き、神託通り、建国初の海外遠征に大勝利を収められました(新羅を攻め、次いで高麗・百済も降伏させた)。

 

一方、皇后の留守の間に、仲哀天皇の皇子の忍熊王(オシクマノミコ)が、神功皇后とお腹の中にいる皇子(後の応神天皇)を亡きものにしようと明石で待ち伏せていました。忍熊王は、仲哀天皇の死後、神功皇后が後の応神天皇を生んだため、同母兄の香坂王(カゴサカノミコ)とともに皇位継承をめぐって、神功皇后と対立していました。

 

戦いを終え、御凱旋の帰途、それを知った神功皇后は、紀淡海峡に迂回して難波の港を目指しました。しかし、難波の港が目の前という所で、船が海中でぐるぐる回って進めなくなってしまったそうです。そこで、兵庫の港(務古水門)に帰って、神意をうかがう(占う)」と、「(天照大神の)荒魂を皇居の近くに置くのは良くない。広田国に置くのが良いだろう」という神託を得ました。そこで皇后は、摂津の山氏の祖とされる山背根子(ヤマシロノネコ)の娘の葉山媛(ハヤマヒメ)に命じて、神託通りに広田の地に、天照大神の荒魂を祀られたのでした(これが廣田神社の創建とされている逸話となっている)。

 

また、このとき、神功皇后の軍に従っていた*稚日女尊(ワカヒルメノミコト)、事代主尊(コトシロヌシノミコト)、*住吉三神からも、それぞれ次のような神託がありました。

 

「吾(われ)は、活田長峽国(いくたながをのくに)(今の神戸)に居ることを欲す」

「吾(われ)を御心(みこころ)の長田の国に祀れ」

「我が荒魂を穴門(あなと=長門)の山田の邑(やまだのむら)(今の下関)に祀りなさい」

 

そこで、これらの託宣に従い、それぞれの神の奉祀が行われました(これが、現在の生田神社長田神社住吉神社(下関)の創建の由来となっている)。すると、船は軽やかに動き出し、忍熊王(おしくまのみこ)の軍を打ち破ることができました。

 

*住吉三神

底筒男命(ソコツツノオノミコト)

中筒男命(ナカツツノオノミコト)

表筒男命(ウワツツノオノミコト)

 

*稚日女尊(ワカヒルメノミコト)

天照大神の妹神または御子神など諸説がある。稚日女尊は、機織りの神さまで、日本書記では、高天原で神衣を織っているとき、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が投げ入れた逆剥(さかは)ぎの馬に驚き、梭(ひ)で傷ついて死んだとされる。

 

 

  • 西宮と甲山

 

廣田神社は、京の都から西国方向を目指す街道上にある重要な神社ということで、平安中頃より、別称として「西宮」(にしのみや)とも呼ばれるようになりました。後に、「西宮」の語は、廣田神社の荘園である廣田神郷一帯(現在の神戸市東部〜尼崎西部)全体の地名として使われるようになりました。その西宮地方を見守っているとされる御山に甲山があります。

 

甲山(かぶとやま)は、六甲山の東南端に位置し、西宮の象徴とも言われています。甲山の名前の由来は、神功皇后が甲冑を埋めたからという説や、山の形が「兜」の形に似ているからという説、さらには、神の山が、神山になり、甲山と転じたのではないかという諸説があります。

 

廣田(広田)神社は、当初、この甲山(かぶとやま)山麓の高隈原(たかくまはら)に鎮座しました。高隈原は高台にあって、神々が人目に触れず隠れて住まわれる神聖な広地という意味があったそうです。後に御手洗川のほとりに遷座しましたが、水害のため、享保9年(1724年)に現在の西山の地に遷座しました(1945年、空襲による全焼したが、戦後復興した)。

 

 

  • 六甲山神社と六甲比命神社

 

さらに、昔「向津峰(むかつみね)」と呼ばれた六甲山全体も、元は廣田神社の社領であったそうです。実際、山上にある六甲山(むこやま)神社と六甲比命神社(むこひめじんじゃ)は、かつて、広田神社の奥宮であったと考えられています。現在、両社とも廣田神社の域外摂社(その神社の祭神と縁故の深い神を祀った神社)となっています。

 

六甲山神社(むこやまじんじゃ)は、古くから六甲山大権現を祭神の一つとしています。神社の奥に石祠である石の宝殿(いしのほうでん)が置かれていますが、六甲山大権現は、石宝殿で祀られる神とされています。その石は、神功皇后が三韓征伐の際に持ち帰って納めたという伝承もあります。

 

六甲比命神社(むこひめじんじゃ)は、荘厳な磐座をご神体とする神社で、吉祥院多聞寺の奥の院とされています。7世紀中頃、大化改新の頃に渡来したインドの法道仙人が、この地で修行中、毘沙門天を感得し、六甲山北の古寺山に吉祥院多聞寺を開き、付近は修験道の修行の場となったと言い伝えがあります。

 

 

  • 廣田神社と西宮神社

 

全国のえびす神社の総本社で、参拝一番乗りをめざす恒例の神事「福男選び」で有名な西宮神社は、かつて、廣田神社の摂社(末社)でした。西宮神社は、昔、西宮戎神社といい、浜南宮を中心とした地域(旧西宮町)に位置していました。ただ、時代とともにエビス神信仰が盛んになるにつれ西宮戎神社は、廣田神社から独立して西宮神社となったのでした。

 

西宮神社が廣田神社から独立した経緯をより詳細にみると、明治時代の始めに、西宮戎神社は、社名を大国主西神社と改めましたが、当時の教部省は、西宮戎神社と大国主西神社を別の神社と見ていたため混乱が生じました。そこで、社名を西宮戎神社に戻し、境内にあった社(境内社)を大国主西神社としました。明治7年(1874年)には、廣田神社が境内地を分割譲与し、末社の西宮戎神社は、西宮神社として独立しました。第二次世界大戦後も、廣田神社と西宮神社は別々の宗教法人となり、大国主西神社は社格(神社の格式)を持たない神社として、西宮神社の境内神社として存続しています。

 

一方、西宮神社の境内には南宮神社南宮社)があります。「浜の南宮」と呼ばれ、かつて、西宮戎社とともに、廣田神社の摂社として、南の浜に祀られていた社で、平安期には京都の貴族の崇敬を受けていました。西宮戎社が独立して西宮神社となり、南宮(なんぐう)神社(南宮社)はその境内社(西宮神社の境内に位置する神社)になりましたが、廣田神社管轄の域外摂社の位置づけです。そのためか、南宮神社は、廣田神社に向いて鎮座しています。

 

(2021年4月25日更新)

 

 

<参考記事>

住吉大社:海上交通を守る祓戸の「海の神々」

西宮神社:えびす様=蛭子神を祭る神社

記紀⑨(三韓征伐):神功皇后の新羅出兵と神々の降臨

記紀②(天の岩戸):出で来られた天照大神

 

 

<参照>

廣田神社HP

神功皇后の伝承地〜天照大神荒魂を祀る廣田神社〜

(神旅、仏旅、むすび旅)

天照大神荒魂を祀る廣田神社

廣田神社(兵庫県)人文研究見聞録

六甲山神社(兵庫県)人文研究見聞録

Wikipediaなど