道教の歴史:巫術と神仙から始まった…

 

「中国の道教を学ぶ」をシリーズでお届けしています。これまで、道教の源流思想、道教教団と経典、道教の神々などについて紹介してきましたが、今回は、これらの内容をまとめる形で、最終テーマとして「道教の歴史」を取り上げます。太古、殷の時代のシャーマニズムから、道教はどのように形成されていったのでしょうか?

 

これまでの投稿記事

道教1 道教の源流:道教=老荘思想ではない!?

道教2 教団としての道教:五斗米道、上清派、全真教…

道教3 道教:神々の系譜➀ 老子や南極老人も神!

道教4 道教:神々の系譜② 孫悟空や岳飛も神!

最初に本投稿記事の後にこれらの投稿記事を読まれても問題ありません。

 

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<道教史の概説>

 

道教の起源については諸説あり、春秋戦国時代の老子がはじめた諸子百家の「道家」とする見方や、2世紀後半に、道教教団として初めて成立した「太平道」・「五斗米道」であるとする説、さらには「道教」という語が仏教に対して使われ出した南朝時代の5世紀半ばを道教の始まりとする考え方もあります。

 

いずれにしても、現在もなお、道教の教祖が誰であるか、道教がいつ成立したかということは正確にはわかっていません。というのも、一般的に説明される道教の成立過程ですら以下のように、極めて複雑だからです。

 

道教は、老子・荘子が説いた「無為自然」による「道」の思想(道家思想)を中心として、それ以前から信仰されていた、符呪(ふじゅ)(おふだやまじない)による長寿や金銭的な豊かさ、家庭の幸福などの現世利益を求める宗教(原始巫術)や、不老不死を求める仙人の術(神仙思想)、同じ諸子百家の陰陽家による易の宇宙観(陰陽道)などと融合し、さらに後に中国に流入してきた仏教の慈悲と救済の思想などを取り入れて一つの宗教体系となりました。

 

 

<殷 (前1600頃〜前1028頃)

 

  • 巫術(ふじゅつ)

殷の時代、巫術(シャーマニズム)が、盛んに行われていました。当時、鬼神の祟り、祖先の影響などが災いして病気がおこると考えられていた時代です。巫術を業とする巫師(ふし)は、鬼神の力を借りて、神がかりして占いや医術を行っていただけでなく、按摩、鍼灸、漢方薬を使って治療していたことが記録されています(古代、巫と医は不可分であった)。

 

巫師は主に女性で、歌と踊りによって神霊と感応し、歌と踊りは世間にも広がりました。踊りのなかには動物の動作を真似るものもあったそうです。当時、歌と踊りは、健康に有益で奨励され、気功導引術の原形になり、以後道教の多神崇拝とまじない方術に継承されました。

 

 

<西周(前1046頃~前771)>

周の時代には、天神、人鬼、地祇の鬼神の体系化が進み、これを継承した形で道教の多神崇拝が生まれたとみられています。

 

  • 鬼神信仰

中国では亡霊を鬼(き)といい、鬼神(おにがみ、きしん、きじん)は、神になった亡霊(死者の魂)をさし、祖霊などの半人半神の霊的存在です。仏教が伝来すると、怪異な姿の悪鬼に描かれるようになり、そのなかでも、横死して祀られない亡霊(幽鬼)は祟(たたり)があると考えられました。この鬼神に対する信仰も行われ(鬼神崇拝)、古代の巫術(原始巫術)と合わせて、巫鬼道(ふきどう)とも呼ばれます。

 

 

春秋戦国時代 (前770~前221)≒東周(前770~前256)>

(前221~前206)>

前漢(前206〜8)>

 

  • 神仙思想(方仙道)

 

戦国時代(前453~前221)になると、仙人の術(不老不死の仙人になる修行体系)が起こり、不老長寿の薬を作る錬丹術など神秘的な方術が研究され、道教の神仙思想(神仙学)(神仙信仰)に受け継がれていきました。これは、神仙(死を超越した人間、不老不死で神通力を持つ人)を信じ、仙人のような不老長生(不老不死)を希求する思想です。この仙人への道を追求する人は神仙家と呼ばれました。

 

神仙学(神仙道)(不老長寿を追及する仙人への道)は、春秋時代に生まれた陰陽説や五行説に加えて、鍼灸(しんきゅう)、本草(ほんぞう)(漢方)や、按摩(あんま)、黄冶(こうや)(体操、食物、錬金養生)などの神仙術を結合させた方仙道として発展していきます。(ただし、広義には方仙道=神仙学とみなして差しつかえない)。

 

方仙道(神仙思想)においては、巫術に対して方術、巫師に対して方士と呼ばれ、吐納・導引派、房中派、服食派などにわかれて発展していきました。

 

吐納(とのう):呼吸法

導引(どういん):舞踊、動物の動作をまねた体操のような修行法のこと。

房中術(保精術);男女の交合(こうごう)によって不老長生を得ようとする養生術。

服食:草木薬石の利用と食品の栄養を重要視するもので、後に外丹術に発展。

(外丹術:水銀、鉛などを含む鉱石を使って不老不死の薬を作り出す手法のこと)

 

総じて、方仙道(神仙学)とは、呼吸法や体操と、食品、薬草を使って仙人になるための修行を説いたものと言うことができます。このように、神仙思想は、戦国時代の紀元前3世紀頃から、秦から前漢にかけて、中国の山東半島を中心に広がりました。

 

秦の始皇帝が、徐福という方士(神仙の術を身につけた者)に、神仙(仙人)が住むという仙境、蓬莱(ほうらい) へ行って不老長寿の妙薬を手に入れるように命じたという逸話などが残されています(蓬莱は、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)とともに、遙か東方の渤海湾上にあると伝えられ、三神山と呼ばれていた)。

 

神仙思想は、とりわけ、漢の武帝(前156-前87年)のころに大変流行したと言われています。武帝も秦の始皇帝に劣らぬ情熱で不老不死を求めていたと言われています。

 

 

  • 道家思想

一方、春秋戦国時代、とりわけ春秋時代(前770~前453)に、中国では、シャーマニズムの民俗宗教など古い宗教に対抗する形で、諸子百家の新しい思想が次々に生まれ、その中に老子と荘子が始祖とする道家思想(老荘思想)が盛んになりました(「道」の信仰の始まり)。

 

老子(前571頃~前470頃)は、史記によると、春秋時代に生きた人物とされていますが、正確な生没年は不詳で、実在が疑われることさえあります。

 

老子によれば、道(タオ)とは「宇宙の万物を生み出す根源的な原理で、絶えず移り変わる人間の幸不幸を超えた絶対的なもの」であり、それゆえ、人間の本来の理想的なあり方は「道」にのっとって、作為を労しないで一切、自然のなりゆきに任せることであるとされました。この境地が「無為自然」であり、無為自然の道に従って生きることが、人間の本来の生き方であると老子は説きました。また、老子は、道教に取り入れられた「道徳経(老子道徳経)」を説いたと伝えられています。

 

荘子(そうし)(前369年頃~前286年)は、戦国時代の思想家で、老子の思想を発展させました。荘子によれば、この世界に差別はなく、善と悪、是と非、美と醜といった区別は人為的、相対的なもので、人為や対立を超えてすべて同一であるとしました。そうした世界の有様を「万物斉同」と呼び、この等しい絶対的世界こそ真実として存在していると主張しました。

 

(詳しい老荘思想については、「道教の源流:道教=老荘思想ではない!?」参照

 

  • 黄老思想

道家の思想(老荘思想)は、戦国時代から前漢(紀元前206~後8年)の初期に流行した黄老思想(黄老学)として発展していきました。黄老思想とは、道家思想は中国伝説上の黄帝に始まるという考え方で、5000年前、黄河流域に栄えた華夏族の王とされる黄帝の思想と老子の政治哲学をあわせたものです。

 

道家末流によって、黄帝が、老子に先だつ道家の開祖とされ、漢初には「黄老の学」として流行しました。これは、君主は政治に過度に干渉することを避け、最小限の法に統治を委ねるべきとする思想で、秦の時代の法家思想に基づく積極策に対して、「無為の治」の消極策が掲げられました。この黄老清静術とも呼ばれる黄老思想は、その後、ほぼ50年にわたって漢の統治の指導理念となりました。

 

漢の全盛期の皇帝・武帝(在位前141~前87)は、当初、道教(黄老思想)を重んじていましたが、儒教尊重による積極的な政治に切り替えたことから、黄老の学(黄老思想)は、いったん衰微しました。

 

 

後漢(25~220)>

 

しかし、後漢(25~220年)の時代、儒家が孔子を神格化したのに刺激を受けた神仙家らが、黄老学の理論を吸収し、黄帝と老子を神格化していきました(黄帝は神仙の祖とされ、老子は太上老君(道徳天尊)として神格化された)。その結果、黄老学は、神仙学(方仙道)の思想を含んだ黄老道として、宗教化していきました。

 

これは、前漢代(紀元前206年〜8年)が終わった1世紀頃、普遍性の高い仏教という宗教が大きな流れとなって中国に伝来し、道教も、対抗上、宗教(教団)として体裁を整える必要が出てきたためでもあったと解されています。

 

こうして、道教は、太古の原始巫術と鬼神崇拝(巫鬼道)、戦国時代の神仙学、前漢の黄老学などを源流思想として、後漢末の2世紀中頃までに、おそらく、後漢の順帝(126~144)年間に成立したと見られています。

 

当時、後漢(25~220)の時代が終わりに近づき、政治が乱れていたことも、道教が盛んになった要因とされ、215年頃には中国全土に広がっていたと言われています。具体的には、黄老道や呪術を主とする巫鬼道が母胎となって、農民・民衆の宗教結社である太平道、五斗米道が興りました(これが教団としての道教の始まりとされ、今日、原始道教と呼ばれる)。両者は、黄老信仰を行い、その活動は病気治療を目的とした呪術が中心でした。

 

  • 道教教団の成立

 

太平道

後漢末期の2世紀前半、河北省の張角(出生年不詳~184)が「黄老の道(神仙道)」を修め、道教の「太平経」を経典とする太平道教団を興しました。活動の中心は、お札、まじないによる、神仙思想に基づく病気の治療で、太平道では、人々の行為を監視する、天神に依頼された鬼神の存在を説き、病気の原因が当人の罪過にあるとし、はじめにその罪を告白(反省)させた後、霊力のある符(おふだ)を入れた水を飲ませていたそうです。

 

張角の太平道は、当時の政治腐敗、凶作、疫病などの社会不安の増大を背景に、支持を集め、信者の数は十数年間で数十万に昇り、揚子江以北の広大な地域に広がりました。

 

こうした状況を受け、張角は、農民の組織化を行うと同時に、一斉峰起と政権奪取を計画、184年、「漢の時代はすでに終わった」と宣言し「黄巾の乱」と呼ばれる反乱を起こしました。しかし、張角が軍中で病死したため、黄巾の乱は数ヶ月で鎮圧され、太平道も教団として壊滅し、それ以降は民間で、秘密裡に流行していきました。なお、黄巾の乱は、前漢の滅亡を早めたと言われるほどの大反乱であったと評されています。

 

 

五斗米道(ごとべいどう)

五斗米道は、後漢末期の142年、太平道より少し遅れて、張陵(張道陵)(34~156)が、中国南西部の四川省で興した教団で、老子の「道徳経」などを経典としています。名称は、張陵が入信者から五斗(1斗=約18ℓ)の米を納めさせたことによります。また、張陵は自らを天師と称し、以後の教主も天師と呼ばれたことから、後に天師道と呼ばれるようになりま

 

当時の政治腐敗、凶作、疫病などの社会不安が増大の時期に、五斗米道は、民間を中心に国中に広がり、四川を中心に大きな勢力となりました。活動の中心は、主として符(おふだ)や呪水といった呪術的方法を用いた病気の治療で(それゆえ、五斗米道は、神仙道教において「符籙派(ふろくは)とも呼ばれた)、また、人々の行為を監視する天・地・水を司る三官の神々の存在を説き、治病のためには、その神に悪行の反省をしなければならないと教えました(内容的には太平道と同じ)。

 

創始者・張陵の後の五斗米道教団は、184年に太平道と連携しながら、黄巾の乱で挙兵しましたが、鎮定後も存続し、二代教主・張衡、三代・張魯と続く20数年間に(後漢末から三国魏の時代にかけて)、四川,陝西(せいせい)両省にまたがる広大な教区を治め(地方長官を追い出し)、一大宗教王国(教団国家)を築きました。

 

しかし、後漢末の三代教主・張魯(~216)のとき、華北を平定し漢中に進出してきた魏(220〜265)の曹操に敗れた結果、根拠地の四川を追われ、信者数万戸は、黄河やその支流の渭水(いすい)流域に移住させられました(一部の信者は中国の南に散っていった)。

 

五斗米道の宗教独立王国は崩壊しましたが、曹操に降りその諸侯となったことで宗教活動は許され、その地で五斗米道は大きく広がりました。張魯の後の4代教主・張盛以後、天師道(と改名)して、道教の主要な一派を形成していくことになります。(張魯までを五斗米道、張盛以後を天師道として区別することもある)。

 

なお、西晋末(290年~306年)に発生した内乱(八王の乱)などの影響で、戦乱を避けた信者の一部は江南に移り、天師道の活動の中心も、晋代以降、次第に北方から南方へと移っていくなど、天師道は南北に分かれていきました。

 

また、道教の神仙信仰の分野では、魏・晋の時代に、経典派、符籙(ふろく)派、占験(せんげん)派、丹鼎(たんてい)派などが出てきました。

(各派については、「教団としての道教:五斗米道、上清派、全真教…」参照)

 

 

<魏・晋(220~420)>

(三国時代220〜280)(西晋265~317、東晋317〜420)

南北朝(420~589)>

 

中国は、313年に匈奴によって華北を占領されて、五胡十六国の分裂の時代に入り、南北朝時代を経て589年に随によって再統一されるまでの間(このいわゆる魏晋南北朝の時代を六朝時代ともいう)、中国には、仏教が広まりました。華北では仏教を国教とする国も現れ、華南(東晋や南朝)でも支配層が仏教に帰依しました。そこで、仏教だけでなく儒教にも対抗するために、道教の経典や文献の整備が進められました。

 

  • 魏・晋時代の道教

 

抱朴子(ほうぼくし)

東晋の道士・葛洪(かっこう)によって、317年ごろに書かれた、当時の神仙思想を集大成した経典(文献)です。その内容は、仙人になるための修行方法や仙薬の製造法や服用法(煉丹術)、錬金術による神仙方術など、神仙術に関する諸説を整理、集成、詳述したもので、はじめて道教の教学が体系化されることになったと評価されています。また、葛洪以来、金丹(水銀化合物を含む丹薬を服用し、それによって不老長生を得ること)が徐々に研究され、神仙道教における外丹の発展につながりました。

 

葛洪(283~343頃)は、東晋の道士で、30歳代で郷里(現在の江蘇省)に帰り、「抱朴子」を著しました。晩年の葛洪は、広東省(広州の東)に位置し、仙人が住むとされる羅浮山(らふさん)に入って仙道(神仙術の研究・著述)に専念し、当地で没しました。

 

また、葛洪(かっこう)ののち、葛氏一族(葛洪の子孫)の手で、4世紀末から5世紀にかけて、後の「霊宝経」の基本部分がつくられました。この経典は、道教の経典群の一つとなって継承されていきます。

 

霊宝経(れいほうけい)と霊宝派

江南地域には五方(東西南北と中央)の神々に働きかける力を持つとされる「霊宝五符」という「おふだ」を備えることによって災いを避けて不老長寿を得るという信仰がありました。霊宝経では、そうした符呪(まじない)を中心とした「霊宝五符序」などからなる旧書を基に、5世紀(南朝時代)の道士・陸修静(406~477)が整理したものが、現在の「霊宝経」の源流をなし、道教経典の集大成である「道蔵」洞玄部の中核をなしています(後述)。

 

陸修静以後は,大乗仏教教理の強い影響の下、輪廻転生や因果応報、衆生済度(一切衆生の救済)などが説かれた新しい「霊宝経」が多数作られました。儀式・戒律や経典の文体・語彙などさまざまな面で漢訳仏典と類似していると指摘されています。

 

なお、この「霊宝経」を根本とする道教の一派が「霊宝派」で、南宋の時代まで栄えました。

 

 

上清経と上清派

一方、同じ東晋(317〜420)の時代、江蘇省の茅山(ぼうざん)で、五斗米道とは系列の異なる、上清派(茅山派)の原型が誕生しました。その起源は、伝説によれば、東晋の364年頃、茅山で行われた神降ろしの儀式で、修業によって仙女となった魏華存(ぎかそん)ら神仙が、修行中の許謐(きょひつ)・許穆(きょかい)父子の霊媒で、道士の楊羲(ようぎ)のもとに降臨し、経典とお告げの言葉など仙道の秘法を伝えたことに由来します。

 

このとき、道士・楊羲が感得し、許謐・許穆父子が書写したものが、のちに南朝の道士・陶弘景(456~536)によって整理され、「真誥(しんこう)」7篇にまとめられました。「真誥」には、天上および地下の世界のこと,仙道修行の指針など多方面の内容が載せられています。これに、許氏一族の活動によって作られた、真人の誥(おつげ)をまとめた他の経典など、六朝末に至るまで蓄積された経典群として、5世紀末に「上清経」が成立しました。この「上清経」を根本とする道教の一派が「上清派」で、上清経は、上清派の歴史や教義を記述した重要な文献で、上清派(茅山派)道教の根本経典の一つとなっています。

 

 

  • 南北朝期の道教

 

南北朝時代(420~589)に入ると、北朝では、北周の武帝のもとで公開討論が実施されるなど、道教・儒教・仏教の三教の優劣が争われることがありました。そのため、道教は、儒教や仏教との切磋琢磨のなかで、独自色を打ち出したり、逆に、融合を図ったりする動きがでてきました。

 

また、民俗宗教に対して、儒教や仏教と同様に、これを打ち破ろうとしましたが、結局うまくいかず、逆に、民族宗教を取り込むことによって、折り合いをつけるようになりました。道教としての形はこのころに整ったと見られています。実際、5世紀中ごろには、儒教・仏教に対抗するため、民間信仰、神仙思想、陰陽五行説、道家思想などをもとに、道教は形成されていきました。冒頭で紹介したこれらの思想・信仰は、その起源こそ太古で、民間で信仰されていましたが、道教教団の教義に取り込まれたのはこの時期だったのです。

 

北朝(北魏)の道教

ここまでみてきたように、後漢の時代に、最初の道教教団、太平道と五斗米道(天師道)が誕生し、中国の古代王朝は一般に道教を重んじましたが、これらは原始道教教団と呼ばれるように、いまだ本格的な道教教団ではありませんでした。

 

そうした中、北朝に寇謙之(こうけんし)が出て、新天師道を唱え、天師道(五斗米道)の改革を行いました。寇謙之(363~448)は、若くから張魯の天師道を学び、十数年の修行を経た後、呪術宗教的なこれまでの道教を改める必要を痛感し、新天師道を興したと言われています。具体的には、すでに教団としての体裁を整えていた仏教にならい、儀式や祭壇での祈祷法などを制度化し、組織や体裁も整えたのでした。

 

さらに、寇謙之は北朝の魏の王室と結びつきを強めることにも成功し、新天師道は北魏の太武帝(在423〜452)の信仰を獲得し、442年には、北魏(386~534)の国教となるまで発展しました。また、太武帝の時代、「魏武の法難」と呼ばれる仏教弾圧が7年間行われました。

 

こうして、寇謙之が興した新天師道において、道教は仏教教団などにも対抗できる体裁を整えた教団として、大成したと認められています。

 

しかし、不死の修行をしたはずの寇謙之は448年に死去し、また太武帝自身も452年に亡くなった(殺害された)ため、北魏における道教熱は急速に冷め、次の文成帝の時代、北魏は仏教へ復帰しました。その後、新天師道がどうなったのかはよく分かっていません。

 

 

南朝(江南)の道教

道教は北朝では北魏の後に衰えましたが、南朝(江南)では、五胡十六国時代(304〜439)から始まる華北における異民族の侵攻とともに、天師道(従来の五斗米道)の活動が南方に拡散し、貴族層にも信仰が浸透していました。

 

また、江南各地に天師道(五斗米道)系、上清派、霊宝経系の教団が分立した状態となるなか、陸修静や陶弘景などの道士の活躍によって、さまざまな道教の流れを教義の面からまとめられ、仏教に対抗できる道教の形が整えようとしました。

 

陸修静

陸修静(りくしゅうせい)(406~477)は、本来、南朝(宋)の天師道系(五斗米道)の道士ですが、諸国を巡り、後の「上清経」となる文献を手に入れこれを整理しただけでなく、前述したように、初期の「霊宝経」をも整えるなどした結果、道教経典の収集整理を行って体系化し、「三洞(さんどう)」の分類法を確立しました(「三洞」にまとめた)。「三洞」とは,経典の格づけで,洞真・洞玄・洞神の三部を言います(それぞれ「上清経」,「霊宝経」,「三皇経」が中心となっている)。

 

また、仏教徒による経録の作成に影響されて、「三洞」に基づいて、最古の道教経典の目録である「三洞経書目録」を作りました。さらに、仏教を取り入れて、道教儀礼(供養する方法、規則、儀範)を整備するなど、道教教理の確立に努めました。

 

 

陶弘景

陸修静の経典整備の後を受けたのが、南朝(梁)の道士・陶弘景(とうこうけい) (456~536)で、30歳の頃、陸修静の弟子である孫游岳に師事して道術を学んだと伝えられています。492年、36歳の時、職を辞した陶弘景は、仙道の聖地・茅山(ほうざん)(江蘇省の南京付近)に弟子ととも隠遁すると、前述したように、「真誥(しんこう)」を含む上清経を整備し、茅山を拠点として上清派(茅山派)道教を大成させました。(陶弘景が上清派を継承し、茅山派を開いたとする見方もある)

 

陶の思想は、科学的な医経・経方・神仙の学を基礎としたもので、それにはさらに仏教との交流もみられ、陶弘景は初めて理論的な道教教学を打ち立てたと評されています。三洞四輔(さんどうしほ)に基づく道教の経典分類法(『道蔵』内の七分類)も、陶弘景によって、完成されました。

 

また、陶弘景は、道教の神々の位階を表した「洞玄霊宝真霊位業図」も編纂し、道教の基本的な神学が確立されました。この位階表では、道教の神々が七階位に分けられ、ここではじめて道教神格の最高位に元始天尊が置かれました。

 

さらに、陶は、500年頃に、前漢の頃に著された中国最古のバイブル的な薬学書「神農本草経」を整理し、「本草経集注」を著しました。これは、山林に隠棲しフィールドワークを中心に本草学を研究した成果で、陶弘景は、今日の漢方医学の骨子を築いたと評価され、漢方医学における薬学の祖とも呼ばれています。

 

ここまで、魏晋南北朝(六朝)の時代の道教をみてきましたが、それまで「神仙」「黄老」などと呼ばれていた道教が、現在のように「道教」という名で呼ばれるようになったのも、陶弘景(456~536)が活躍した5世紀ころからだとされています。この時代、道教が名実ともに、仏教、儒教に並ぶ地位を確立したと見られています。

 

また、道教は、仏教に対抗して教団組織を発展させ、仏教の僧侶にあたる道士を輩出し、仏教の寺院にあたる道観が建てられました。初唐の7世紀後半には全国的に(諸州に)存在していました。

 

加えて、経典の編纂も進められました。道教初期の経典といえば、太平道や五斗米道の経典である「太平経」や「(老子)道徳経」などでしたが、その後、仏教経典を参考に多くの経典が生み出されました。宋代の11世紀初めには、仏教の大蔵経にならって、「道蔵」として総集(集大成)されることになります。

 

 

(581~618)>

(618~907)>

 

六朝末から隋の時代には、華北に新天師道、華南(江南地域)に天師道と上清派がそれぞれ展開していましたが、隋王朝では、道教より仏教が重んじられていました。中国仏教は、次の唐の時代、玄奘(602-664)や義浄(635~713)の活躍によって、最盛期迎え、社会に浸透し、とりわけ貴族層を中心に受け入れられていました。

 

その一方で、道教もまた唐の時代に飛躍的な発展を遂げました。唐の王室は道教を信仰し、道教を国教として保護していたのです。唐は、中国の歴史上、最も道教を重んじた王朝とさえ言われます。

 

唐代において、皇帝の面前で道・儒・仏の三教が論争を行うこともありましたが、道教を三教の序列の最上位とされていました(上から道教⇒儒教⇒仏教の順)。その理由は、唐を興したのが李氏(李淵・李世民親子)で、道家の老子の名が李耳(りじ)と、唐の王室の姓が、老子の姓と同じ李であったからです。唐の王室は、老子を祖先としてあがめ、道教を支持した(老子の子孫と称した)のです。

 

たとえば、初代皇帝・李淵(在位618〜626)は、もともと仏教寺院よりはるかに少なかった道観の数を増加させ、都市と全国各地に仏教寺院と同数設置するように命じました。この結果、唐代には全国各地に道観が建てられて道士が配置され、国家と皇帝の安寧を祈願する金籙斎などの道教儀礼がしばしば執り行われました。

 

また、玄宗(在位712~756)は、自ら「老子(道徳経)」の註(ちゅう)(注釈)を書き、各家に「(老子)道徳経」を備えさせたと言われ、さらに、中国の五大霊山とされる、五岳(ごがく)(=泰山・華山・衡山・恒山・嵩山)の祭祀を、儒教から道教式に改めさせています。

 

このように、唐の時代、道教が国家をあげて保護されたことから、後代、道教の教祖は老子であると思わせる原因となったと指摘されています。

 

なお、道教の神仙道の分野では、金石草木を調合して不老不死の薬物を錬成する「外丹(金丹)」が、唐代に入って皇帝の支持を得て広く流行していましたが、その最盛期は玄宗の頃でした。

 

道教教団においては、天師道(五斗米道)系、上清派、洞神派、符籙(ふろく)派など多数活動していましたが、上清派(茅山派)の活躍が目立ち、茅山は唐代道教の中心的な存在となるなど、上清派は天師道と並ぶ道教の二大流派となったと言われています(もっとも、唐代の道教は、天師道系が主流であったとする見解もある)。

 

一方、唐の時代、儒教、仏教と対抗した時期もありましたが、唐王朝は当初、他の宗教に対しても総じて寛容でした。また、唐の都で、国際的な文化都市として名高かった長安では、三夷教(さんいきょう)といわれる景教(ネストリウス派キリスト教)、ゾロアスター教(祆教)、摩尼(マニ)教も盛んでした。

 

そうした中、前述したように、玄奘や義淨によって新たな経典がもたらされたこともあって、9世紀以降、仏教が優勢になっていきました。唐王朝も、道教と仏教を同時に信仰することもすすめ、長安には多くの官寺が建立されるようになりました。

 

しかし、仏教寺院の建設に加え、寺院が華美になっていったことから、その保護が国家財政を圧迫し始めると、熱心な道教の信者であった武宗(在位840~846)は、激しい仏教弾圧を加えました(これを「会昌の廃仏」という)。大寺院の荘園は公有地とされ、僧尼は還俗させられて税が課されたことから、仏教の勢いは止まりました。

 

また逸話ですが、このとき道士は、さかんに武宗に不老不死の仙薬を勧め、道教を過信した武宗は、あまりに仙薬を多用したため死に至りました。武宗だけでなく、穆宗(ぼくそう)(在位820〜824)や、宣宗(在位846〜859)も丹薬の服用によって中毒死しました。このためか、薬により不老不死を試みる外丹(金丹)術は、唐代を最後に廃れ始め、宋代になると、外丹(金丹)に代わり、瞑想などを通じて体内の気を練って体の中に金丹を生まれさせる内丹が盛んになっていきました。

 

 

<宋(960〜1279)

(北宋960〜1127 南宋1127~1279)(金1127~1234)

<元(1279〜1368)>

 

  • 北宋の道教

 

北宋(960〜1127)も、唐と同様に、道教を重んじ、道教は、唐・宋時代に最盛期を迎えました。しかし、両時代を通じて国家の保護が続いたために、道教の教えは次第に体制化し、道観は仏教寺院とともに大土地所有を進めたことから、豊かになり、民衆から離反していったと指摘されています。ただし、教義の面では、道教の教義上の解釈も多様化されました

 

たとえば、それまでそれほど地位が高くなかった玉皇上帝(ぎょくこうじょうてい)が、北宋の皇帝・真宗(在位997~1022)や徽宗(同1100〜1126)によって、最高神に引き上げられ、天界やその下の地上・地底に住むあらゆるものの支配者とされました。

 

また、道教の一側面である呪術に、雷を使う法術である「雷法」という新しい概念が導入されました。雷は悪しき者を罰する正義の力と考えられ、雷帝が天の意思を代行すると解され、雷帝として普化天尊が崇敬されました。

 

一方、道教は、民間信仰との繋がりを強めました。たとえば、民間で信仰されていた宋初ころの道士・呂洞賓(りょどうひん)が仙人に列せられ、元代には、李鉄拐(りてっかい)や漢鍾離(かんしょうり)らとともに、八仙と呼ばれて敬われました。

 

また、民間で大人気の英雄達が、高位の神として祭られた存在で、死後に神とされた人物たちを俗神として分類されます。三国志の英傑・関羽がその典型で、宋代に、道教信仰の武神としての地位が高まり、明王朝から関聖帝君(関帝)の神号が与えられ、今も崇敬されている人気の仙人です。民間信仰のなかで人気のあった神々が積極的に道教の中に取り入れられる流れは、明清時代にも続きました。学問の神・文昌帝君や、航海・漁業の守護神・媽祖(まそ)などがその例です。

 

 

  • 金の道教(新道教)

 

そうした中、北宋を滅ぼした金の時代(1127~1234)に入ると、政治はいっそう不安定な状態に陥りました。女真族の金王朝は宗教統制に馴れなかった事もあって、道教も内部から革新の気運が生じ、全真教、真大教、太一教の新興の三教派が新たに誕生しました(新道教とも呼ばれる)。

 

 

全真教(ぜんしんきょう)➀

金の支配下の華北において、王重陽(おうじゅうよう)(1113-70)が、道教の改革を唱えて興した道教教団で、道・儒・仏の三教一致の三教融合思想に立ち,道教に仏教(特に禅宗)・儒教の教義を取り入れました。具体的には、道徳を重んじることにより儒教に接近したことに加えて、仏教の禅宗の要素を取り入れることで、精神性をさらに高めることをめざしました。不老長寿など現世利益の面や呪術を退けたことも大きな特徴です。

 

全真教は、王重陽に仕えた七真人という七人の高弟による布教活動によって、教団として発展しました。中でも、丘処機(きゅうしょき)(1148-1227)は、モンゴル高原まで出向き、チンギス=ハンに認められました。その結果、全真教(道教)は、モンゴル帝国の中で保護され、その後も、元(1271〜1368)ではフビライの庇護の下、さらに盛んになりました。

 

真大道教(しんだいどうきょう)

真大教(真大道教)は、金代に華北地方で、劉徳仁 (1123~80) が興した道教の一派で、全真教同様、儒仏道の三教帰一思想を基盤に、禅宗や儒家思想を自己の体系中に吸収しながら、従来の道教のもつ呪術性を排して、自力で生活し、寡欲であることなどが提唱されました。元代に最も盛んとなりましたが、教団の内紛のため、1326年以後には、次第に全真教の中に吸収され、消滅しました。

 

太一教(たいいつきょう)

金の時代の1140年頃、中国中央部の河南の道士・蕭抱珍(しょうほうちん) が創始した道教教団で、神仙から得たという「太一三元法籙 (ほうろく)」という術をもって民衆を救済した旧道教的な改革派です。具体的には、符ろく(おふだ)や符水(ふすい)(霊水)によって人々の病気と災難を救い、穏和な社会の回復が志向されました。金や次の元王朝から保護を受けましたが、13世紀末には文献のうえからは姿を消しました。

 

 

  • 南宋の道教

 

南宋(1127~1279)の時代、江南地方では、龍虎山、茅山、閣皁山の三山をそれぞれ総本山とする、天師道、上清派(茅山派)、霊宝派の道教が信仰されていました。総本山は、道士に資格と位を授ける拠点で、三山は「経籙三山」と呼ばれました(経籙(きょうろく)とは、経典と語録の意)。

 

陶弘景が大成させた上清派(茅山派)の道教は、唐代の頃は最も盛んな宗派と言われ、唐・宋の皇室と結びつき勢力を維持していたが、徐々に衰えていきました。また、霊宝派も、祭祀や儀礼といった斎醮(さいしょう)の法術に優れていましたが、朝廷からの招聘を賜ることは少なく、主に民間で活動していました。

 

これに対して、天師道(五斗米道)系の道教は、遅くとも唐末から五代十国時代(唐の滅亡から北宋の成立まで)には、張天師という位を持った教主の下、龍虎山(中国南東の江西省)を本拠として、民間で信仰されていました。その後、北宋の真宗(在位997~1022)や徽宗(同1100〜1126)といった歴代の皇帝の庇護下に入ると、徐々に勢力を強め、南宋の頃には江南全域の領袖となり、正一教(正一派)と呼ばれるようになりました。

 

 

  • 元の道教

 

正一教

正一教(しょういつきょう)は、元の時代(1271〜1368)以降定められた天師道の公称です(天師道とは言わずに正一教と言うようになった)。元の初代皇帝、フビライ・ハンは、江南(南宋)を平定すると、天師道を公式に正一教と称させ,江南一帯の道教を統括せたのです。もっとも、正一教の内部や一般民間には、変らず天師道の呼称は残されたと言われています。

 

こうして、元の末期には、道教は、金の時代に興り、華北(河北)を基盤として定着した新道教である全真教と、華南(江南)で優勢となった正一教が、中国の南北を二分する二大宗派となりました。その結果、他の諸派は両者の傘下に入るか消滅するかとなりました。

 

なお、モンゴル人が建てた元王朝の国教はラマ教でしたが、道教と大きな対立をおこすことなく、密接な交流があったとされています。もともと、唐の時代から、マニ教は道教との融合を図り、マニ経典に道教的な色彩を加えていたとされ、その傾向は、宋代以後加速し、12世紀前半には中国のマニ寺はほとんど道観に変貌していたと言われています。

 

 

<明 (1368〜1644)>

<清 (1644〜1912)>

 

明の太祖・洪武帝は元托鉢僧で仏教徒でしたが、道教も厚遇し、明代の初めには、道教は国の制度として、全真教か正一教かの二つに分けられました(以後その形式は今日に至っている)。実際には両派には幾つかの分派が存在していますが、大きな流れにはなりませんでした。

 

全真教

全真教は、北京の白雲観を総本山とした新道教で、三教合一思想に基づいて、儒教や仏教の教義や制度を大量に取り入れて発展しました。仏教のような授戒制度があり、初真戒・中極戒・天仙大戒の三ランクの戒律の伝授によって道士の資格と位階が与えられます。道士(僧侶に相当)は出家が要求され(妻帯は認められていない)、禅宗寺院と同じように、道観(寺院に相当)に住んで座禅を主とする修行を行うなど、厳しい規律に従った生活を送らなければなりません。

 

正一教

正一教は、龍虎山(江西省)を総本山とし、五斗米道(天師道)を前身とした伝統的な道教教団で、従来の道教の神仙説に基づいた呪術的要素が強く残しながら、教勢を保ちました。天師道で伝統的に行われてきた符籙(ふろく)(=割り符)の伝授によって道士の資格と位階を与える「授籙」制度を基本とし、祈祷や方術、護符などで長寿や病気の治癒、平安無事の祈願などを積極的に行いました。正一教の道士は妻帯可能であり、世襲で宗教活動を行う場合もあると言われています。

 

しかし、明・清時代の道教は、国家の統制下にあって伝統を維持するだけとなったという批判は免れません。とりわけ、清王朝(1644〜1912)は、異民族(満州族)でしたので、中国に根付いている漢民族の道教文化には関心は持ちませんでした。初めは道教に好意的でしたが、乾隆帝(在位1735〜1796)以降、道教への管理は厳しくなり、たとえば、巫師や道士が除災祈願をすることさえ固く禁止されるなど、やがて道教は衰退していきました。

 

それでも、教団としての道教(全真教・正一教)は衰えましたが、民間では、民衆の習慣に組み入れられ、様々な神々をまつる民衆道教として生き残りました。実際、民間の道教には時期ごとに流行した、多種多様な神仙術があったと言われています。明清時代を通して、中国には、羅祖教、黄天教、八卦教、青蓮教など、さまざまな民間の秘密宗教が生まれましたが、これと道教の神仙術と密接に関係していたと言われています。

 

また、通常、道観の中でも観音さまが祀られたり、仏教寺院で関羽が祀られたりするのがふつうで、道教なのか、仏教なのか、あるいは儒教なのかは区別が難しいほど、宗教の混交状態となりました。

 

 

<現代の道教>

 

20世紀の近代に入ると、道教は迷信や単なる風習に近いものとみなされ、辛亥革命後の中華民国において、中国の後進性の表れと認識されるようになりました。また、現在の共産主義の中華人民共和国のもとでは、宗教教団の自由な活動が禁止されました。とりわけ、文化大革命(1966~1976)では、道教は特に人民を惑わす危険な悪習と見做されて禁止され、徹底的に弾圧されました(迷信の帽子を被せられた)。

 

道観や神像、文物のほとんどすべてが破壊されただけでなく、道観の所有地の大部分が解放され、ほぼその宗教活動は出来なくなりました。道士たちもまた激しい迫害を受け、還俗させられたため、道士と呼ぶべき存在は一人もいなくなったといいます。

 

しかし、民衆は密かに道教信仰を続け、神々を祀っていたとみられています。文化大革命が終わり、80年代に始まる改革開放政策後、信仰の自由が保障されたことで、道教(道観や道士)の活動も徐々に復活し、民衆もそれまでは家の中で秘かに信仰していましたが、公然と道教の寺院に詣でるようになりました。

 

一方、中国の内戦において、1948年、共産党の勝利が決定的になると、道教二大宗派の一つ・正一教の教祖一家は家族や護衛、代々伝わる法印や法書などとともに台湾に逃れました。正一教は、その後国民党政府から公式な道教として認められ、やがて台湾道教では最高位の道教組織として認められるようになりました。正一教は台湾で今も信仰を集めています。

 

現在、全世界に道教の信徒を自認する人は3000万人ほどいると試算され、とりわけ、台湾、香港、マレーシア、シンガポール、タイといった、東南アジアの華僑・華人の間で信仰されています。中国本国でも、近年徐々に信徒が復興しているようです。こうした事実から、中国本土では道教が衰退しているといっても、道教という宗教が中国の民衆の中にしっかりと根付いていたことがわかります。

 

<関連投稿>

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<参照>

道教と仙道 「仙人入門」(高藤聡一郎)

道教と仙学(仙学研究舎)

道教とは何か?…道教の教えとその歴史(アイスピ)

道教の歴史(横手裕、山川出版)

道教の歴史と思想・神々(中国語スクリプト)

中国史いろいろ 道教の神々 (戸田奈緒子)

中国神話伝説ミニ事典(神仙編)

ピクシブ百科事典

コトバンク

世界史の窓

Wikipediaなど

 

(2024年5月5日)