「中国の道教を学ぶ」をシリーズでお届けしています。道教の発展と言っても、それは、道教の教団に人々が集い、広がっていったものです。これまでの投稿記事で明らかにしたように、道教は、「中国文化の雑貨店」、「神々と百貨店」と言われたように複雑多岐な宗教でしたので、道教教団や経典、道法なども多数存在しました。今回は、意外と知られていない教団組織としての道教についてまとめてみました。
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<道教教団小史>
道教は、春秋・戦国時代の老荘思想を中心に、太古の原始巫術と鬼神崇拝(巫鬼道)、戦国時代の神仙学、前漢の黄老学などを源流思想として形成され、後漢末の2世紀中頃までに、太平道と五斗米道という教団が興り、道教が始まりました。215年頃には中国全土に広がったとみられています。
その後、道教は多くの派に分かれながら、唐、宋時代には最盛期を迎え、国家宗教としての地位を獲得しながら発展しました。しかし、両時代を通じて国家の保護が続いたために、道教の教えは次第に体制化し、民衆から離反していきました。
そうした中、北宋(960〜1127)を滅ぼした金の時代(1127~1234)の混乱期、道教も内部から革新の気運が生じ、全真教など新たな教団が誕生し(新道教とも呼ばれる)、また、南宋においては、五斗米道の流れを汲む天師道と、別系統の上清派の道教が信仰されていました。
元の時代になると、華北(河北)を基盤として定着した新道教である全真教と、華南(江南)で優勢となった、天師道から改称した正一教が、中国の南北を二分する二大宗派となりました。明代の初めには、道教は国の制度として、全真教か正一教かの二つに分けられ、他の諸派は両者の傘下に入るか消滅するかとなりました。
しかし、二大宗派に収斂されたと言っても、明・清時代の道教は、国家の統制下にあって伝統を維持するだけとなりました。特に、異民族(満州族)による支配となった清王朝(1644〜1912)では、乾隆帝(在位1735〜1796)以降道教への管理は厳しくなると、やがて道教は衰退していき、以後、道教は民間で信仰が継承されながら存続しています。
では、次に宗派ごとに道教をみてみましょう。道教の発展の実像は、その実働部隊である教団(宗派)です。
<道教教団の系譜>
- 太平道
後漢末期の2世紀前半、河北省の張角(出生年不詳~184)が「黄老の道(神仙道)」を修め、道教の「太平経」を経典とする太平道教団を興しました。活動の中心は、お札、まじないによる、神仙思想に基づく病気の治療で、太平道では、人々の行為を監視する、天神に依頼された鬼神の存在を説き、病気の原因が当人の罪過にあるとし、はじめにその罪を告白(反省)させた後、霊力のある符(おふだ)を入れた水を飲ませていたそうです。
張角の太平道は、当時の政治腐敗、凶作、疫病などの社会不安の増大を背景に、支持を集め、信者の数は十数年間で数十万に昇り、揚子江以北の広大な地域に広がりました。こうした状況を受け、張角は、農民の組織化を行うと同時に、一斉峰起と政権奪取を計画、184年、「漢の時代はすでに終わった」と宣言し「黄巾の乱」と呼ばれる反乱を起こしました。しかし、張角が軍中で病死したため、黄巾の乱は数ヶ月で鎮圧され、太平道も教団として壊滅し、それ以降は民間で、秘密裡に流行していきました。
- 五斗米道⇒天師道⇒正一教
五斗米道(天師道)
五斗米道(ごとべいどう)は、後漢末期の142年、太平道より少し遅れて、張陵(張道陵)(34~156)が、中国南西部の四川省で興した教団で、老子の「道徳経」や、「老子想爾注(ろうしそうじちゅう)(張魯の天師道教団の幹部教育用の講義録と推定)」などを経典としていました。五斗米道の名称は、張陵が入信者から五斗(1斗=約18ℓ)の米を納めさせたことによります。
太平道同様、当時の政治腐敗、凶作、疫病などの社会不安の増進を背景に、民間を中心に国中に広がり、四川を中心に大きな勢力となりました。五斗米道は、呪文を唱えたり、お札を作ったりして悪霊退散(鬼の排除)、治病息災など現世利益を求める人々に応えました。また、人々の行為を監視する天・地・水を司る三官の神々の存在を説き、治病のためには、その神に悪行の反省をしなければならないと教えました(教義の内容も太平道と同じ)。
創始者・張陵の後の五斗米道教団は、184年に太平道と連携しながら、黄巾の乱で挙兵しましたが、鎮定後も存続し、教団は張陵の子の二代教主・張衡、孫の張魯が引き継いで活動を続けた20数年間に、四川,陝西(せいせい)両省にまたがる広大な教区を治め、地方長官を追い出して一大宗教王国(教団国家)を築きました。
しかし、後漢末の3代・張魯(~216)のとき、華北を平定し漢中に進出してきた魏(155~220)の曹操に、215年に敗れた結果、四川の根拠を追われ、信者は中国の南北に散っていきました。もっとも、五斗米道の宗教独立王国は崩壊しましたが、張魯は、曹操に降りその諸侯となった(張魯は曹操の娘を娶った)ことで布教活動は許され、張魯の後の4代教主・張盛以後、五斗米道は天師道として継承されました。
天師道は、南北に分かれ、その地で大きく広がりながら、道教の主要な一派を形成していくことになりました。天師道という名の由来は、創始者の張陵は自らを天師と称し、以後の教主も天師と呼ばれたこととされています。
北朝の新天師道
南北朝時代(420~589)に入ると、北朝に寇謙之(こうけんし)が出て、新天師道を唱え、天師道(五斗米道)の改革を行いました。寇謙之(363~448)は、若くから張魯の天師道を学び、十数年の修行を経た後、呪術宗教的なこれまでの道教を改める必要を痛感し、新天師道を興したと言われています。具体的には、すでに教団としての体裁を整えていた仏教にならい、儀式や祭壇での祈祷法などを制度化し、組織や体裁も整えたのでした。
さらに、寇謙之は北朝の魏の王室と結びつきを強めることにも成功し、新天師道は北魏の太武帝(在423〜452)の信仰を獲得し、442年には、北魏(386~534)の国教となるまで発展しました。
こうして、寇謙之が興した新天師道において、道教は、これまでの原始道教教団から仏教教団などにも対抗できる体裁を整えた本格的な道教教団として、大成したと認められています。
しかし、不死の修行をしたはずの寇謙之は448年に死去し、また太武帝自身も452年に亡くなった(殺害された)ため、北魏における道教熱は急速に冷め、次の文成帝の時代、北魏は仏教へ復帰しました。その後、新天師道がどうなったのかはよく分かっていません。
南朝の天師道
これに対して、南朝(江南)では、華北における異民族の侵攻とともに、従来の天師道の活動が南方に拡散し、陸修静などの道士が活躍した結果、貴族層にも天師道の信仰が浸透していました。
天師道の陸修静(りくしゅうせい)(406~477)は、道教経典の収集整理を行って体系化し、「三洞(さんどう)」の分類法を確立しました。「三洞」とは,経典の格づけで,洞真・洞玄・洞神の三部を言います(それぞれ「上清経」,「霊宝経」,「三皇経」が中心となっている)。また、仏教徒による経録の作成に影響されて、「三洞」に基づいて、最古の道教経典の目録である「三洞経書目録」を作りました。さらに、仏教を取り入れて、道教儀礼(供養する方法、規則、儀範)を整備するなど、宗派を超えた道教教理の確立に努めました。
南北朝時代、寇謙之の教法を「北天師道」、陸修静の教法を「南天師道」という言い方もあったようです。
その後、天師道は、江南地方を中心に民間で信仰されており、遅くとも唐末から宋が成立する前の五代十国時代には、張天師という位を持った教主の下、龍虎山(中国南東の江西省)を本拠として展開していたとされています。また、北宋の時代に入っても、真宗(在位997~1022)や徽宗(同1100〜1126)といった歴代の皇帝の庇護下に入ると、徐々に勢力を強め、南宋(1127~1279)の頃には江南全域の領袖となり、正一教(正一派)と呼ばれるようになりました。
正一教
正一教(しょういつきょう)は、元の時代以降定められた天師道の公称です。元の初代皇帝、フビライ・ハンは、江南(南宋)を平定すると、天師道を公式に正一教と称させ、江南一帯の道教を統括せたのです(総本山は、変わらず龍虎山に置かれた)。
正一教は、五斗米道(天師道)を前身とした伝統的な道教教団であったので、従来の道教の神仙説に基づいた呪術的要素が強く残していました。天師道で伝統的に行われてきた符籙(ふろく)(=割り符)の伝授によって道士の資格と位階を与える「授籙」制度を基本とし、祈祷や方術、護符などで長寿や病気の治癒、平安無事の祈願などを行っていました。正一教の道士は妻帯可能であり、世襲で宗教活動を行う場合もあったと言われています。
明の時代になっても、正一教は厚遇され、太祖・洪武帝(在位1368〜1398)は、道教を国の制度として、正一教と全真教の二つに定めました。生き残った正一教でしたが、次の清朝は、国に根付いている漢民族の道教文化には関心を持たない異民族(満州族)王朝であったので、乾隆帝(在位1735〜1796)以降道教への管理は厳しくなり、やがて道教は衰退していきました。
ただし、中国の内戦において、1948年、共産党の勝利が決定的になると、正一教の教祖一家は家族や護衛、代々伝わる法印や法書などとともに台湾に逃れました。正一教は、その後国民党政府から公式な道教として認められ、台湾で今も信仰を集めています。
- 上清派(茅山派)
晋代(265~419)には、江蘇省で、五斗米道とは系列の異なる上清派(茅山派)が誕生しました(根本経典は「上清経」)。上清派は、巫術の一派とされ、その起源は、東晋の364年頃、茅山で行われた神降ろしの儀式で、修業によって仙女となった魏華存(ぎかそん)ら神仙が、修行中の許謐(きょひつ)・許穆(きょかい)父子の霊媒で、道士の楊羲(ようぎ)のもとに降臨し、経典とお告げの言葉など仙道の秘法を伝えたという伝説ことに由来します。
それゆえ、茅山(江蘇省句容市)は、上清派の総本山で、魏華存を開山の師とされています。上清派が茅山派(ぼうざんは)とも呼ばれる所以は、茅山という山で誕生したからにほかありません。
上清派の道教は、南朝の道士である陶弘景(456~536)によって、大成されました。陶弘景は、36歳の時、職を辞し、仙道の聖地・茅山(ぼうざん)(江蘇省の南京付近)に弟子ととも隠遁(隠居)し、道教の一派である上清派を継承し、教団の確立に努めました(上清派を継承した陶弘景が茅山派を開いたとする説もある)。
陶弘景は、前述した、茅山で行われた神降ろしの儀式で、道士・楊羲が感得し、許謐・許穆父子が書写したものを整理され、「真誥(しんこう)」7篇にまとめました。「真誥」には、天上および地下の世界のこと,仙道修行の指針など多方面の内容が載せられています。この真誥に、許氏一族によって作られた他の経典をまとめて、5世紀末に、上清派(茅山派)の根本経典の一つである「上清経」が成立しました。精神を研ぎ澄ます瞑想法の存思法などの修練を通して汚れた人間界を脱し、神仙界へ至ることが説かれています。
また、陶弘景は、道教の神々の位階を表した「洞玄霊宝真霊位業図」も編纂し、道教の基本的な神学が確立されました。この位階表では、道教の神々が七階位に分けられ、ここではじめて道教神格の最高位に元始天尊が置かれました。
道教は、5世紀ころに、教団として、仏教、儒教に並ぶ地位を確立し仏教、儒教に並ぶ地位を確立したと言われていますが、陶弘景の上清派(茅山派)が果たした役割は大きいものでした。
このため、上清派(茅山派)は、唐代(618~907)において、最も盛んな道教宗派となり、天師道と並ぶ道教の二大流派に発展したとの見方もあります。実際、唐・宋の皇室と結びつき、江南地方で勢力を維持していました。しかし、北宋中期以後に徐々にその影響力は後退し、元・明の時代に、皇帝によって道教は全真教か正一教かの二分されたことから、上清派は衰え、民間での信仰として継続されました。
- 霊宝派
江南地方では、閣皁山(江西省樟樹市)を総本山とする道教の一派で、南宋(1127~1279)の時代に発展しました。江南地域では、禹(夏王朝の始祖で伝説上の聖王)の時代、「霊宝五符」という「おふだ」を備えることによって災いを避けて不老長寿を得るという信仰がありました。霊宝五符は、五方(東西南北と中央)の神々に働きかけて、邪鬼を排し昇仙を成す力を持つとされました。
霊宝派は、そうした符呪 (ふじゅ)(=まじない)を中心とした布教活動で、主に社会の下層の人々に大きな影響を与えました。また、祭祀や儀礼といった斎醮(さいしょう)の法術に優れていましたが、朝廷からの招聘を賜ることは少なく、主に民間で活動していたようです。
霊宝派は、文字通り、霊宝経(れいほうけい)を根本とする教派です。霊宝経では、主に符呪 (ふじゅ)について書かれた「霊宝五符序」などからなる旧書に加えて、天師道の道士・陸修静(406~477)が整理した文献が霊宝経の源流で、その後は,大乗仏教教理の強い影響の下、輪廻転生や因果応報、衆生済度(一切衆生の救済)などが説かれた新しい「霊宝経」が多数作られました。
- 洞神派
洞神(どうしん)派は、三皇経を奉じる教派で、唐の時代に盛んであったと言われています。三皇経の「三皇」とは、中国神話における伝説上の神々(帝王)である天皇(てんこう)・地皇(ちこう)・人皇(じんこう)のことで、三皇経は、三皇から伝授されたとされる、鬼神を呼び出すなどの使役法や、悪鬼魍魎(あっきもうりょう)(魍魎:山や川に住む化け物)の退散法などが書かれていたとされています。したがって、洞神派は、巫術の伝統を最も忠実に継承した教派と評されていました。
なお、上清派(茅山派)、霊宝派、洞神派は、経典の格づけである三洞(洞真部の「上清経」,洞玄部の「霊宝経」,洞神部の「三皇経」)をそれぞれ奉じる道教教派です(後述)。
- 道教諸派
道教の神仙信仰(方仙道)の分野では、魏・晋の時代に、経典派、符籙(ふろく)派、占験(せんげん)派、丹鼎(たんてい)派などが出てきました。広義には五斗米道の一派と言えます。道教界は道教=仙道ととりますが、仙道界は道教=仙道とは見なさない場合があります。
符籙派
符籙(ふろく)派は、呪文、お符(礼)(おふだ)、呪水といった呪術的方法を用いて、神への祈願、悪霊退散(鬼の排除)、治病息災(病気の治療)などを行う道教の一派です。
呪文やお札中心の民間信仰から出発した符籙(ふろく)派でしたが、老子の道徳教を自派の聖典としただけでなく、丹鼎派から内丹、外丹の修行をとりいれるなど、道教の一派としての体裁が整えられました。唐代には、同派の道士は様々な斎醮(さいしょう=道教の祭り儀礼)・法事などの宗教的な儀礼も行っていたと言われています。
道教の仙道(神仙思想)の分野では丹鼎派と勢力を二分したと評されるほど勢力を持ったとされています。
丹鼎派
丹鼎(たんてい)派は、外丹・丹道の修練と研究に従事する神仙術の流れをくみ、坐・服・食・辟(へき)・穀(座して、五穀の食を避け、霊薬を服すること)によって、仙人の境地に達することを目指す一派で、仙道の肉体訓練など仙道修行法の骨格も確立したとされています。上層社会に流行し、仙道界を符籙(ふろく)派と二分すると評されるまで発展しました。
経典派
経典派は、老子や莊子など無為自然をとく道家の哲学を、経典を解釈することで、「道」を極めようとする学派です。「老子道徳教」に加えて、仏教の経典から内容も取り込んだ道蔵を読み解いていました。
占験派
占験(せんけん)派は、文字通り占いの一派で、運命予知などを行いました。「奇門遁甲」「紫微斗数」「四柱推命」などが有名です。命(推命・星宗)、ト(六任・奇門・太乙)、相(観相・陽宅・風水)、医(漢方・鍼灸)、山(仙道)などの五種を基本として習わせるところから「五術派」と呼ばれていました。
春秋戦国時代の頃から占いにより政治が行われ、三国時代、蜀の軍師・諸葛孔明は仙術をよくしたとされているように、軍師と占いの関係が占験派のルーツとされています。
積善派
積善派は、単なる善行のすすめでなく、善行を積むことで運命を予知し、運命を転換させること、さらには運命転換術を説く一派で、抱朴子の中の「対俗偏」に出てくる運命転換法を取り込んでいます。
積善派のもとになる思想に、庚申信仰があります。これは、人間の体内には三尸(さんし)(人間の体内にいると考えられていた虫)がおり,庚申の日に天に昇って,寿命をつかさどる神に人間の悪行を報告し早死させようとするという伝承です。積善派を完成させた書として、浙江の官吏、袁了凡(袁黄) (1533~1606年)が晩年に書いた「陰隲録(いんしつろく)」があげられます。
- 全真教
全真教(ぜんしんきょう)は、金の支配下の華北において、王重陽(おうじゅうよう)(1113-70)が、宋代において国家に保護され体制化してしまった道教の改革を唱えて興した道教教団(総本山は北京の白雲観)です。道・儒・仏の三教一致の三教融合(三教合一)思想に立ち,道教に仏教(特に禅宗)や儒教の教義を取り入れました。具体的には、道徳を重んじることにより儒教に接近したことに加えて、仏教の禅宗の要素を取り入れることで、精神性をさらに高めることをめざしました。不老長寿など現世利益の面や呪術を退けたことも大きな特徴です。
全真教は、王重陽に仕えた七真人という七人の高弟による布教活動によって、教団として発展しました。中でも、丘処機(きゅうしょき)(1148-1227)は、モンゴル高原まで出向き、チンギス=ハンに認められました。その結果、全真教は、モンゴル帝国の中で保護され、その後も、元(1271〜1368)ではフビライの庇護の下、さらに盛んになりました。
明(1368〜1644)の時代も、皇帝から保護され発展を続け、明初には、道教は国の制度として指定された二つの宗派の一つとなり(もう一つが正一教)、教団としての制度も整えました。仏教のような授戒制度があり、初真戒・中極戒・天仙大戒の三ランクの戒律の伝授によって道士の資格と位階が与えられます。道士(僧侶に相当)は出家が要求され(妻帯は認められていない)、禅宗寺院と同じように、道観(寺院に相当)に住んで座禅を主とする修行を行うなど、厳しい規律に従った生活を送らなければなりませんでした。
なお、道教も内部から革新の気運から生まれ教派は全真教に限らず、真大教や太一教も誕生し、これらを総称して新道教とも呼ばれます。
真大道教(しんだいどうきょう)
真大教(真大道教)は、金代に華北地方で、劉徳仁 (1123~80) が興した道教の一派で、全真教同様、儒仏道の三教帰一思想を基盤に、禅宗や儒家思想を自己の体系中に吸収しながら、従来の道教のもつ呪術性を排して、自力で生活し、寡欲であることなどが提唱されました。元代に最も盛んとなりましたが、教団の内紛のため、1326年以後には、次第に全真教の中に吸収され、消滅しました。
太一教(たいいつきょう)
金の時代の1140年頃、中国中央部の河南の道士・蕭抱珍(しょうほうちん) が創始した道教教団で、神仙から得たという「太一三元法籙 (ほうろく)」という術をもって民衆を救済した旧道教的な改革派です。具体的には、符ろく(おふだ)や符水(ふすい)(霊水)によって人々の病気と災難を救い、穏和な社会の回復が志向されました。金や次の元王朝から保護を受けましたが、13世紀末には文献のうえからは姿を消しました。
なお、道教の各宗派については、別投稿「道教の歴史:巫術と神仙から始まった…」の中でも紹介していますので、歴史的な観点からの切り口とともに理解に努めてみて下さい。
<道教の経典>
道教の教典は、「道徳経」や「抱朴子」をはじめ、おびただしい数に上り、11世紀のはじめに「道蔵」(三洞四輔)として集大成されました。
- 道徳経
春秋時代の思想家、老子の作(老子の語った五千文)と伝えられる道教の聖典、「老子」「老子道徳経」とも呼ばれます。「道徳経」では、「道」と同時に「無為自然」が説かれ、宇宙の法則であり、そのあるべき姿である「道」に従って、あるがままに生きることが勧められています。ただし、「道徳経」は、老子の作ではなく、後の道家学派によって執筆・編纂されたものであろうとの見方も多くあります。
- 抱朴子
抱朴子(ほうぼくし)は、東晉の思想家(道教の士)、葛洪(かっこう)(283―343頃)の著書で、自身の号(号抱朴子)が書名となりました。317年成立し、不老長生の仙術(修行法)と具体的な理論や、戒律・禁忌などを記した内篇20篇と、儒家の立場から政治・社会などを述べた外篇50篇(儒教的政治論)からなります。この書によって老子は完全に神格化され、道教の開祖とされるようになったと言われています。
とくに内篇は、神仙術に関する諸説を集大成し、これによって、はじめて道教の教学が体系化されることになった評価されるほど、「抱朴子」は、道教の重要経典の一つとされています。
たとえば、人間の体内にも体内神が住んでおり、これを存思し定着させることによって不老長寿を達成できるという古くからあった思想は、『抱朴子』では「守一(しゅいつ)」と修養法が唱えられました。人間の体内には三つの丹田(両眉の間の3寸入った所の上丹田,心臓の下にある中丹田,臍下(せいか)2寸4分にある下丹田)があると説かれました。そこに具象的な神「一」が存在し,この神(「一」)を守る(=守一)、すなわち心を専一にして気(氣)を高め神に通じることで、不死を目指す修行が説かれました。この「守一」の思想を体系化したのが上清派(茅山派)で、その後の内丹法につながっていきました。
- 道蔵
道教の教えを記した書籍を、道教経典の集成本という意味で「道蔵」と呼び、主要な教派の教えが集録されています(仏教の経典を集大成した「大蔵経」に相当する)。
道教初期の経典といえば、太平道や五斗米道の経典である「太平経」や「(老子)道徳経」、「老子想爾注(ろうしそうじちゅう)(張魯の天師道教団の幹部教育用の講義録と推定)」でしたが、その後、仏教経典を参考に多くの経典が生み出されました。宋代の11世紀初めには、仏教の大蔵経にならって、「道蔵」として総集(集大成)されました。
この時の「道蔵」は、その後、数回手直しされ、現在用いられているのは明の時代に編集された「道蔵」の複製本と言われ、三洞(さんどう)(洞真・洞玄・洞神の三品)と四輔(しほ)(三洞を補充する太玄・太平、太清正の四部)の七部によって構成されています。
三洞(さんどう)
三洞とは,経典の格づけで,洞真・洞玄・洞神の三部をさし、洞真部は「上清経」,洞玄部は「霊宝経」,洞神部は「三皇経」がそれぞれの経典の中心で、天上の三清に対応するものとされています。
三洞の成立は四輔よりも早く、三洞による分類は、さまざまな経典を収集した天師道系の道士、陸修静(りくしゅうせい)(406~477)によって作成されました。南北朝時代、当時の明帝に献上した、道教経典の目録「三洞経書目録」(現存せず)が最初であったとされています。
洞真部(どうしんぶ)(上清経)
三洞の中で最上位とされ、東晋の許謐(きょひつ)・許翽(きょかい)親子が茅山で霊媒の楊羲を媒介として収集した神仙の言葉が原形となったと言われています。精神を研ぎ澄ます瞑想法の存思法などの修練を通して汚れた人間界を脱し、神仙界へ至ることが説かれています。
洞玄部(霊宝経)
起源は禹(夏王朝の始祖で伝説上の聖王)の時代に遡り、邪鬼を排し昇仙を成すという神人から賜った「霊宝五符」とその呪術(しゅじゅつ)にあるとされています。その内容は仏教、特に大乗仏教の影響を受け、輪廻転生や元始天尊が衆生を救済するという思想を取り入れています。もっとも、古い方術の文献をもとに、東晋末の葛巣甫によって大量に偽造された経典群との指摘もあります。
洞神部(三皇経)
三皇経という名は、中国神話における伝説上の神々(帝王)である三皇の天皇(てんこう)・地皇(ちこう)・人皇(じんこう)から来ていると言われています。三皇経は、三皇から伝授された言われ、鬼神を呼び出すなどの使役法や、悪鬼魍魎(あっきもうりょう)(魍魎:山や川に住む化け物)の退散法などが書かれていたとされています。ただし、既にほとんどが散逸しており、現存しません。
なお、三洞の洞真部の「上清経」,洞玄部の「霊宝経」,洞神部の「三皇経」をそれぞれ奉じる道教教派が、上清派(茅山派)、霊宝派、洞神派です。
四輔(しほ)
四輔は、三洞より遅れて5~6世紀(南朝宋の末ごろ)、三洞の教説を補佐する(三洞に加える)という形で設けられました(もっとも、分類としては三洞に遅れるが、経典そのものの成立時期は、四輔の方が三洞より古い)。
四輔とは、太玄(たいげん)・太平・太清・正一(しょういち)の四部からなります。太玄部・太平部・太清部は、三洞の洞真部・洞玄部・洞神部の教義を補足するもので、正一部は三洞・三輔の内容を全て網羅しています。
太玄部は、仙家錬丹の法を説いた三国時代・呉の周易参同契(しゅうえきさんどうけい)の注書数種などが収められています。太平部は太平道の系統とされる「太平経」の経典、太清部は金丹術に関係した文献、正一部は五斗米道・天師道関係の経典をそれそれ含んでいます。
この三洞四輔(さんどうしほ)に基づく道教の経典分類法(『道蔵』内の七分類)は、中国の南北朝時代の梁(502〜 557)の陶弘景によって、完成されたと言われています。陶弘景(456〜536)は、道教の一派である上清派を継承し茅山派を開いたとされ、陸修静の弟子である孫游岳に師事して道術を学んだと伝えられています。
<道教の教団組織>
道教が誕生して2000年余りの間に、清規・戒律・威儀(いぎ)・斎法といった道団の組織形態、管理制度、宗教活動が形成されていきました。
道教は道・経・師を三宝としており、修道者(道士)は三宝に帰依することが求められます(三宝は経教(きょうぎょう)(経文に説かれている教え)に説かれている)。ですから、道教が仏教の影響を受けて成立したときから、仏教を参考に、三戒・五戒・八戒・十戒・二十七戒など、道士の思想や行為を制約するさまざまな戒律が規定され、それらを厳格に守らなければなりません。
たとえば、その内容は、生き物を殺さないこと、肉や酒を飲み食いしないこと、嘘を言わないこと、盗みをしないこと、淫らな行為の禁止、父母や師に背かないこと、君主に逆らわないこと、道法を中傷しないことなどが「道蔵」の中に書かれています。
道士の行・住・坐・臥は、すべて威儀(いぎ)(=規律にかなった起居動作)の様式が定められています。特に斎醮などの宗教活動では、道法という形で、厳格な規定があります。
- 道法
道教教派の成長とともに、行法、経懺(経法・懺法)、符籙、斎醮などの道法が成立しました。また、「科範威儀(かはんいぎ)」略して「科儀(かぎ)」と呼ばれる道法の規則・儀礼も定められました。各種の道法は、巫術(ふじゅつ)、方技(ほうぎ)(医術・不老不死などの術)、数術(暦法・占卜などの術)などの道術から発展したものです
行法
出家した道士(道術の士)(道教の師)の修行法のことで、道術的行法の代表的なものに次のようなものがあります。
巫術系の道術取得のための行法
符劾(ふがい)(御札(おふだ)によるまじない)、
禁呪(きんじゅ)(まじない)、
役使鬼神(えきしきしん)(鬼神を駆使する)、
禁架療病(邪悪の制御による治病)、
三虫(さんちゅう)(三尸(さんし)。腹中の魑魅(ちみ)的存在)など。
数術系の道術取得のための行法
天文、星占、風角占候(風占)、
隠遁(いんとん)
祥妖(しょうよう)(吉凶)
災異の讖緯(しんい)(予言)など
方技系(医術や不老不死など)の道術取得のための行法
辟穀(へきこく)(穀物を断つ)
服餌(ふくじ)(仙薬の服用)
黄冶(こうや)(錬金術)
按摩(あんま)
導引(どういん)(柔軟体操)、
禹歩(うほ)(歩行法)
服気(ふくき)・調息・胎息(たいそく)(=呼吸法)
坐忘(ざぼう)(無我の境地で道と一体となる)
存思(ぞんし)(精神統一)
守一(しゅいつ)(宇宙の根源と一体となる法)
陰道房中(養生(ようじょう)術としての房中法)(房中とは性技法のこと)
金丹(きんたん)(最上の薬)など。
養生法や、金丹(外丹・内丹)については、「道教の源流 道教=老荘思想ではない!?」参照
経懺(きょうせん)
経懺は、教団の法で、経法(きょうほう)と懺法(せんぽう)からなり、経(経文)や懺(懺文)の読誦(どくじゅ)・誦習(じゅしゅう)(=繰り返し読むこと)の修練をすることです。なお、懺法は、懺悔(ざんげ)の法で、神の前で懺文を跪誦(きじゅ)する法をいいます。
符籙(ふろく)
符と籙は同じ意味で、神の名によって下付される秘密の文書のことです。「符」とは、もともと身分を証明する割り札で、道教では、「護符」「鎮宅符」のように、それに符劾(ふがい)(御札(おふだ)によるまじない)・呪符(じゅふ)(道教の方術のための文字や符号)を記した効験をもつ天・星辰や鬼・神の文字(呪文)・図文を記して、守り札(呪文が記される御札)としました。道教修行者が身につけていました。
斎醮(さいしょう)
斎醮は、道教の主要な宗教活動(道教の祭り)すなわち、祭祀の法です。
斎は、清浄の意味で、仏教と同様、戒律を守り,身を清める意味に用いられ、斎儀は、斎(ものいみ)の儀礼で、神を祭る前に、自己の身・口・心を清める儀式です。
道教で、特に道士は、仏教に倣い、第一に斎を修める(身を清める)ことを学び、斎によって自己の身・口・心の三業を制約するとされます。三業の斎法には、設供斎・節食斎・心斎などがあります。設供斎は徳を積んで罪を消し去り、節食斎は神を和ませ寿命を保ち、心斎は精神を洗い清めることです。
醮(しょう)は、祭と同義で、神を祭って祈願すること、厄よけを目的とする祭りです(天神に対する祭祀や饗食)。醮儀は、災厄を消除する方法の一つで,夜中,星空の下で酒や乾肉などの供物を並べ,天皇太一や五星列宿といった神々を祀り、文書(願いごと)を上奏する儀礼をいいます。中国古代の神は多く星辰をその居所とすると考えられたことから、醮儀は必然的に星辰を祀り、これに酒肴を供えます。
斎(斎儀)と醮(醮儀)は、もともとは別系統の儀礼で(斎醮は斎儀と醮儀に分けられていた)、本来、醮儀の前の潔斎を斎儀といい、通常3~7日前後の期間があてられたと言われています。しかし、のちに、醮儀に斎儀が加えられ、道教の儀礼では、まず斎儀して後に醮儀が、次第に一連の儀式(法事)として一つにまとまり、両者を合して斎醮と呼ばれるようになりました。
斎醮は、国家鎮護・五穀豊穣を目的とし、唐・宋以後,道教の代表的な祭祀として、三元斎(醮)、黄籙斎(醮)、金籙斎(醮)など,斎(醮)と称するさまざまな祭りが行われました。
三元斎(醮)
1月15日の上元,7月15日の中元,10月15日の下元の日に,それぞれ天官,地官,水官という神々に罪を懺悔する祭祀。
黄籙(こうろく)斎(醮)
地獄に落ちて苦しめられている祖先の魂(亡霊)を救済するための祭祀。
金籙(きんろく)斎(醮)
災害を除き、帝王の長寿と天下の安泰を祈る(帝王のための)祭祀。また、生者の救済のために行われる祈安儀礼としても行われました。
羅天大(らてんたい)斎(醮)
あまねくいっさいを救済する祭祀
斎醮儀礼(行事)は、定期的に、それぞれの教派が道観や廟で行う場合と、信者の要請によって、村鎮(集落)や幫会(ぱんかい)(結社集団)が適地を選んで時に応じて行う場合に分かれます。
斎醮の儀式は盛大かつ厳格に行われます。道士は醮壇に入ると、まず自分の身神を想像し、衛霊咒(呪)を念じ、法鼓を鳴らします。それから爐を開く時に、内丹を応用して自分の身神を外に招き出して法事を行い、復爐の時になったら身神を体内に戻します(これは存思の手法の一種)。道士は法事の中で自分の法位などを神に伝え、 音楽を奏で花を散らし、歩虚詞(ほきょし)(讃歌)が読まれます。(「道教の科儀および斎醮」(仙学研究舎)より)
北斗・五星など天の星辰や天地山川などの神を祀るとき、犠牲(いけにえ)を供え、儒教の祭礼や道教の祭醮の儀礼の中で定められ、かつ道蔵経典のなかに収められている上章・祝文・(懺文)が奏されます・・・・・・。
<関連投稿>
<参照>
道教と仙道 「仙人入門」(高藤聡一郎)
道教と仙学(仙学研究舎)
道教とは何か?…道教の教えとその歴史(アイスピ)
気功からみた身心医学の可能性(濱野清志J-Stage)
道教の歴史と思想・神々(中国語スクリプト)
3分でわかる!『老子』『荘子』(2023.4.7、Diamond Online)
玄天上帝 Xuandi(関西大学)
中国神話伝説ミニ事典(神仙編)
ピクシブ百科事典
コトバンク
世界史の窓
Wikipedia
(2024年5月5日)